ともに生きよう

10月4日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 17章 1-10節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


◆赦し、信仰、奉仕
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


普段は載せない小見出しを今日は載せてみました。小見出しは新共同訳聖書になってつけられた『新しい』解釈の方法ですので、本来の聖書の姿ではないと思っていますが、今日の説教の冒頭で中田牧師は句読点で句切られる小見出しは珍しく、しかも他福音書は別々の所に書かれている記載をルカは一か所に集めた気配がある、と語られたので、そのルカの意図するところを知るには重要なことだと思い載せた次第です。

少し難解な聖書の箇所で説教を聞くまでは理解しえなかった箇所です。
まずそもそも最初の「このような小さなもの」とはだれか、という話から始まります。こういう場合は、この直前の話から継続していると考えるのが普通で、そこを見るとラザロのたとえです。
つまり貧しい者、虐げられている者という意味なのでしょうか?しかし、マタイによる福音書18章6節の「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせるものは、大きな石臼を首に懸けられて・・・」の直前は子どもを受け入れなさい、という話です。マルコによる福音書9章42節の同様な御言葉の前は、逆らわないものは味方という小見出しがついており、イエスの名をかたって悪霊を追い出す人の話が書かれています。さて、三福音書それぞれの「これらの小さな者」が違いながらも、小さな者をつまずかせてはならないと書かれているわけです。それを考えるとどのような人でもつまずかせないようにしろと読めます。
しかし同時にイエスは「避けられない(人生でつまずかせないことなどできない)」と語ります。
だから、誰かがつまずかせるようなことをしたとしても許せ、と語るのです。

聖書の時代「7」という数字はある意味最大数で、何度でもという意味です。何度でも「ごめんなさい」と言われたは、相手を許せ、という言葉は僕らにとっても、そして弟子たちにとっても厳しい言葉でしょう。できないことではないでしょうか?
それ故に弟子たちは「自分の信仰を増してくれなければそんなことはできない」とイエスに懇願するのです。
しかしイエスは、そんなことは心配いらない、ちっぽけな信仰でも神の力が加われば大丈夫だと語ります。

それは信仰の持つ傲慢さを戒める意味ではなかったのかな?と思うのです。
牧師は話を続けます。
「神と人」の関係は「主人と奴隷」の関係と相似しています。
主人は奴隷がどんなに疲れていても自分の前では仕事をさせます。今まで自分の私用で疲れているからと言って「ご苦労さん、先に食事をとりなさい」などとは言わずに、給仕をするようにというでしょう。
それに不満を持ってはいけない、とルカは語るのです。まぁ、当たり前のことだと僕らもそう思いますが、さて自分の信仰に立ち返ると、えてして、敬虔なクリスチャンという枕詞に縛られたり、信仰が厚い方が神の御心に近いとか、自分の信仰の度合いで神との距離を測ることがあるのではないでしょうか?
やっても当然の僕(奴隷)なのです。できなくてもクレームをつけない神の姿が目の前にあります。つまりは自分ができる出来ないという解釈は神には無用です。からし種ほどの信仰で構わないと言っているのです。

ルカは3つのエピソードを一つにまとめた、と当初お話を聞いたところの後ろ二つの信仰と奉仕は一致した話になりました。
その前提で許しを見てみたいです。神はからし種の信仰でも赦しを与えられた訳です。できる出来ないを不問に付したわけです。ですから僕らが他人のできる出来ない、間違い、失敗を、謝罪という過程を通して許さないという選択肢はない、というのがルカがイエスから学んだことなのでしょう。

出来るか?と問えば厳しい話です。弟子たちのように信仰を厚くしてくれと思わず言ってしまいたくなるような厳しい事ですが、出来なくても許してくれる神から提示された『努力目標』として掲げておきたいことです。
とはいえ何かどっちつかずの話のように思えてもやもやが晴れません。どうすればいいの?
しかしそれを感じた時、今日の説教のタイトルが思い浮かびます。タイトルが4つ目のキーワードとなりカチッと組み合わされたような気がします。
この世で一番大切なことは自分が生きる事でも、他人が生きる事でもありません。共に生きることです。
仲良くする、好き嫌い、相性の問題はあっても、まず相手を好きになろうという意欲がなければ絶対に出来ないことです。
国際情勢においてきな臭い話は続きますが隣国も隣人も好きになりたいという意欲と努力は続けていきなさい、と言われているのではないでしょうか。意欲を持ち続けまい進したいものです。

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