誰も分け隔てなく

9月27日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヤコブの手紙 2章 1-13節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。
もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。



今日の説教は、道徳的な側面だけではなく、教会の信仰という側面で聞いてみたいと思います。
そして、長井牧師は最後の4フレーズに注視しました。「できない」ということは律法の違犯者という厳しい言葉です。1つの差別で全てが無になるというのは厳しすぎる話です。
が、それは出来ないのではなく気が付かない、気づきが浅いのではないかと語られます。
どこまで動けるかは別にして差別を受けている人を見て心にチクッとでも痛みがない人はいないでしょう。痛みを感じながらも、心の中で『ごめん』と言いながらも見て見ぬふりをせざるを得ない・・・。見た人で気づきが浅いというのはそういう事ではないでしょうか? 自分の都合と相手の痛みの天秤のバランスが狂っているのが偏見だと思うのです。

だから教会のという場所が必要になり、聖書を共に読み、祈り、そこに書かれていることを自分たちの社会に当てはめた時、何が問題なのか?を考えなければならないと語られます。

長井牧師は子どもたちにこちらの絵を見せました。

20150927-01

「どの棒が一番長い?」
その問いかけに子どもたちは、長そうに見えてしまう棒を指さします。それは「偏見」なのです。みんな同じなのに「違う」と言われてしまうのです。
でも長さが同じだと分かった後に

20150927-02

「どっちのボールが大きい?」と問うと子どもたちは学習をして、「同じ」と答えます。違うかもしれないけれど理性で考えるのです。
子どもたちは感覚ではなく答えます。

偏見・蔑視というのは得てして感覚です。当初に記されている見た目であり、社会的な地位であり…。そうしたことは人として生きる中で差をつけられるのはどうしたものか、というのは頭の中で理性で考えなければなかなかできない。それをする場所の一つが教会だというのです。
キリスト教の信仰はイエスの御後を歩むことです。イエスは多くの差別をされた方のところに出向き、友と呼び合いました。それは見た目や社会的な地位による偏見のない生き方でした。
歩んで行きたいです。そして忘れないように教会でイエスの生き方を繰り返し聞いていければと思います。

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