神の忍耐

8月16日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 13章 6-9節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」



このようなたとえ話の場合、得てして「生らないイチジク」は、クリスチャンにならない人たち、のように受け取ってしまいがちです。
僕個人の「宗教」に関する苦手な考え方は、受洗してキリスト教徒になることを教会が目的としてしまうことです。僕の中では、確かに「受洗する」ことは神との契約を表明することですから大切なことだと思いますが、でもそれよりイエスに従って生きる実践の方が大事に思えてなりません。
つまり生らないイチジクがただクリスチャンにならないので切り取ってしまえ、というのならこの聖句に疑問を感じてしまいます。

さて、今日の説教に戻しましょう。このたとえ話が出てきた起因となる部分を中田牧師は語られます。
一つは13章1節。水道工事に反対したガリラヤ人をピラトは殺させ、その遺体(血)を生贄の動物の血と混ぜた、という事件があり、それは当時のユダヤ人の中ではとてもショッキングなことだったようです。ですので、ユダヤ人たちはそんなひどいことをされるのはきっと死んだ人(もしくはその先祖)の因果が報われたものと噂したようです。
4節ではシロアムの塔が老朽化して崩れた時、その時そこにいるのは神が罪を罰するために定めたことと噂をしたのでしょう。その2つのことに対してのイエスの回答のたとえ話です。

イエスは因果応報をここ以外でも否定しています。
イエスが言わんとするのは、人はすべて罪人であり、罪人である僕らが他の罪人をとやかく言うことではなく、つまりは日本で言う「目くそ鼻くそを笑う」のではなく、自分も同じ罪人だと悟り一生懸命生きることではないかと思います。
「罪」という言葉の語源の意味は「的外れ」という意味です。つまりは、お門違いのことで不安になっている僕らに対して「的外れ」を軌道修正するのがイエスの役割のような気がします。
イエスの言う軌道を修正してくれる「的」、つまりは洗礼を受けるのではなくイエスのみあとを歩むのに大切なことは何か?と問われれば、僕は「隣人を愛す」ことだと思います。イエスは繰り返しこれを伝えているのが聖書だと思います。

今の世の中はどうか?と問えば、自らの過去の罪を不問に付し、後世の若者に謝罪をさせないことがと語り、なおかつ武器の使用を緩和させるような法案改定を考えていることを見ると、私たちと言うイチジクは来年も実をなさそうにもありません。切られない間に隣人を愛しきるという実をつけたいものです。

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