平和こそ私の願い

8月2日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 10章 25-37節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」
イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」



日本キリスト教団では、8月第1主日は「平和聖日」としております。小田原教会においても、第二次世界大戦での戦責告白を信仰告白として唱えました。
自ら、また家族や仲間のことを少しでも否定的に語ると「自虐的」といいますが、それなら「ごめんなさい」ほど自虐的な言葉はありません。しかし、僕ら日本人は「ありがとう」という感謝の言葉と共に「ごめんなさい」という謝罪を潔く認めることを大切にしていたはずです。
そしてもう一つよく言われるのは、アジア諸国のためになったというセリフ。しかしそれは相手が望むのではなく、日本領土の発展のために作られたのが戦後独立して役に立ったという二次的なものなはずです。
そしてそれは多くの方の命や幸せを奪ったものに比べれば軽いものだと言わざるを得ません。
そうしたことを考えた時、この戦争はやはり間違えであったはずだし、それに同意をして協力してしまった日本キリスト教団は神を裏切った行いをしたと猛省をするのは当然でしょう。

さて、聖書を読むとき、自分をその中の登場者に置き換えて考えるということをしたりします。それによって聖書が言わんとした人生の大切なことを自身は出来ているか?を確認できます。
今日の箇所を第二次世界大戦と合わせて考えれば、やはり日本の立ち位置は強盗になってしまいます。
見て見ぬふりをした祭司でもなく、傷つけられた旅人でもありません。ましてや助けたサマリア人ではありません。
得てして僕らはこの聖書の箇所から祭司長にならないようにとか、よきサマリア人になりましょう、的に倒れている旅人がいてその方をどうするか?と読み解きますが、実はここに出てくる人物は強盗もいることを忘れてはいけないのでしょう。そしてそんな強盗になってしまう危険性も大いにあることを忘れずに、そして同時に強盗も悔い改めれば神は赦してくださることも聖書に書かれていることを感謝をもって知らなければならないと思います。
「自虐」ではなく、悔い改めて赦しを得る大切さ、平和聖日のインプレッションでした。

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