若者よ、起きなさい

7月5日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 7章 11-17節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。


中田牧師は、弟子たちはイエスの語られた未来像に共感して『イエスのために何かをしたい』とついてきている。群衆たちは『自分たちのために何かをしてほしい』とついてきている、とその違いを語りますが、併せてそのどちらもイエスの後を歩むものとしては同じである、と語ります。
現代の教会も『教会に仕えたい』『教会のため(少し言葉は意図を外しているけれど)に何か働きたい』と集う人も、悲しみや苦しみに打ちひしがれて『主よ、助けてください』『この重荷を取り除いてください』と願い来られる人もいます。
そしてそのどちらも、神様によって教会に集められ、主の御前に額ずく者であります。
また、元気で心身とも調子のいい時は『地の塩として働こう』と思っても、体調が悪いと『もう、治らないのではないか、御心なら助けてください』と同じ人であってもその両面を持ち得ていると思います。
教会は、喜んでいる人と悲しんでいる人がともに集える場所でなければならない、というのはイエスの願いでしょう。
拙Blogも恥じらいもなく大風呂敷を広げ、『喜びを分かち合い、悲しみをともにするために』などと言っていますが、楽しい毎日を送っているものは、「こんな楽しいことがあったんだよ」と笑顔で分かち合いながらも、悲しく苦しい毎日を送っている人の悲しみや苦しみを取り除くお手伝いが出来たらいいな、と思います。そうした場所が教会と呼ばれる場所だと思います。

聖書は、ナインというイエスの生まれ故郷のそば(ナザレ南東6km程だとか)で見かけた葬式のシーンです。今より男尊女卑の激しい時代、やもめと呼ばれるご亭主の居ない女性が生活していくのは厳しい時代で、それでもわが子のためと子どもの成長を楽しみに生きてきた女性にとって、その子の死は想像し得ないほどの苦痛だったと思います。
それは創世記の最初「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と神が言われたように、愛する人を見出すことは自分が何者かを見つけることであり、愛する人を失うことは自分自身を失うことでだと語ります。それは夫婦という単位ではなくとも、この母親にとっての子どもを失った悲しみはまさに自信を失ったことに等しいでしょう。
イエスはそんな母親に「憐れ」んだ訳です。この憐みは沖縄言葉で「肝苦しい(ちむぐりさ)」と言いますが、これ以上ぴったりとくる日本語はないのかもしれません。

聖書の奇跡物語の多くは、イエス一行が通ることを知った困窮者、またはその代理人がやってきてイエスに願います。しかし今日の箇所は、願う余裕すらなく打ちひしがれた母親の所にイエスがやってくるのです。
まさにインマヌエル(神共にいます)というのは神のもとに私たちが出向き近づくからではなく、本当に厳しい状態の時は神の方からきてくれるという福音の言葉です。

牧師は言います。奇跡によって生きかえることができた若者はそれでもいつか死を迎えるのです。
じゃあ、「なんだ、生きかえったって意味ないじゃん」なのでしょうか?
生きる本質は何か?が問われます。死すら克服したイエス、甦らせることができるイエス。そこには死を超えた永久の命の存在と、愛する、憐れむという大事な感情を僕らに伝えてくれます。

RFLに参加するチーム「がんでもいいじゃん♪」の多くの仲間と行動を共にする時が多いです。ともすればお亡くなりになるお仲間さんもおり、ご家族の方へメッセージを送ることも多い僕ですが、「天国への凱旋」という言葉を使います。
一生懸命生きぬいた人は天国へ勝利の凱旋をします。そしていつしか僕もその時を迎えます。生きることは、一生懸命生きぬいた先人たちとの再会の場であり、それが嬉しいのは実はそこでお会いする人が「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」という聖書の箇所は何も連れ合いだけに対する言葉ではなく、この世における僕を一人ぼっちにしないでつながっていてくれた多くのお仲間全てが「愛する人」なので、そこであえる喜びなのだからだと思います。
この葬式に参列した人すべて永久の命の喜びに希望を持ち天国へ凱旋して行ったことでしょう。その喜びの後釜として続きたいものです。が、もし、悲しみや苦しみの中最期の時を迎えて、神様のことを忘れても心配をしておりません。それはイエスの方から近づいて行った、という喜びの言葉を聞いたからです。

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