恐れず、ただ信じる

6月14日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 8章 40-56節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。
ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。
しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」
イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。


2人の困窮者がイエスと出会いました。そして癒されました。
ですから、ここに記されている2つの奇跡物語には共通点があります。そして合わせて相違点もあると長井牧師は語られます。

共通点は、2人はイエスを求め出会いました。そしてイエスによって癒されたことです。
相違点は、2つあると語られます。
1つは、2人の地位や権力、性別、その他もろもろ…。
つまりは当時の男尊女卑の社会の中、特に律法によって汚らわしいと言われている「血」に触れる女性と、会堂長という宗教的にも名誉のある地位ある男性。
そしてもう一つが今日の重要なポイントでした。

その話を聞く前に思ったのは、『途中この「トラブル」に遭わなかったらわが子は助かったかもしれない』と思わなかったか?ということでした。地位ある者が「このいやしい女のために」とイラつかなかったのかな?という疑問でした。

この当時は、病気という側面のほかに穢れという精神的な隔てがあります。病気がよくなったとしても祭司長のような宗教的な権力者が治ったことを証明しない限り「私は穢れたものです。」と大声で触れ回りながら歩かなければならない時代でした。そして穢れた人と触れることも当時のタブーでした。
「誰が私に触れたのか?」この言葉は、そうした時代に生きる人にとっては裁きの言葉に聞こえたのでしょう。イエスとて当時の社会人、私が触れたことを強く非難している、と思ったのではないか? と。

そうこうしている間に家から命が消えた知らせが入ります。
「そんなどうでもいい女のために」わが子の命が閉じられてしまった…。
「イエスよ、もう無駄です。」ヤイロはイエスを信じきっていなかったのでしょう。死んだ以上はどうしようもない、彼にも限界がある、と勝手に決めつけたのでしょう。

牧師の説教に戻ります。
イエスは、この上先生を煩わすことはない、というヤイロに「信じろ」と言います。
話は変わりますが、人が受けるストレスの中で一番大きいことは「子どもの死」だそうです。続いて「配偶者」だと依然聞いたことがあります。ヤイロは今自身の人生の中で一番大きなストレスに打ちひしがれているのです。
長井牧師は、イエスの「信じれば大丈夫」は、失意・絶望のどん底で落ち込んでいるヤイロへの励ましの言葉だったのではないかと言います。
「死」の報告を受けた瞬間、イエスは神の定めに従おうと思ったのかもしれません。が、その大きなストレスで打ちひしがれているヤイロを見て助けようと思ったのかもしれません。

「恐れず信じろ」、それは最愛の娘の死を聞いた瞬間、どんなあざけりを受けようが、どんな非難を受けようが、そんなことは関係ない。それで娘が生きかえってくれるなら信じます、といった父親としての発言だったのだと思います。
そしてそれは、途中であった女性とオーバーラップしたのではないでしょうか?
人ごみの中に入れば『おい穢れたやつが来たぞ』といつも誹謗中傷の言葉を浴びせられ、時にはよるなと石を投げられたりもしたので、もう二度と町には行くまい、ひっそりと城門のそばで一人生きようと誓ったけれど、もしかしたらこのイエス様なら…。最後のチャンスかもしれない…。
どんな非難を浴びようが直してもらえるなら甘んじて受けます。そうしたこの人にかける「信じる」ことを見くびっていた女性から教わったのでしょう。
意図はしなかったかもしれませんが、人生をかけて教えてくださった女性。そこには、人の作った差別など存在せずに心から信じた、背中で語る信仰だったような気がします。

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