神に出会い、知り、交わりに生きる

5月31日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 10章 17-24節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」
イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」
それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」



この直前の箇所を見てみると、『その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。』(ルカによる福音書10章1-5節)と書かれています。
イエスはこの72人に何も持っていくな、と語ります。今の日本のように町と町の間に境がない場所とは違い、一つの町が終わればそこからは荒野が広がります。人を襲うような獣も居れば、毒をもった蛇やサソリもいるでしょう。そんな場所でもしかしたら寝なければいけないこともあるし、町に入ったからと言っても好意的に迎え入れてくれる人ばかりではないでしょう。そんな中食べ物を買うお金すら持たないで出かけた弟子集団の心細さは想像するに余りあります。

そんな伝道旅行。いろいろな体験もしたでしょう。
帰ってきて初めて発する言葉は何なのでしょう?『ただ今、無事に帰りました。』

・・・ではなかったのです。

弟子たちは興奮冷めやらぬように「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」と語ります。
イエスが自分たちに言わんとした人生哲学・生き方の教え、それが自分の言葉で伝えることができた喜び。

・・・なのでしょうか?

僕には、そうした伝道よりも、治療(癒し)の最中に「イエスの名によって」と悪霊を追い出し、元気になり、その結果自分を見る目が変わる喜びの方が大きかったような気がしてなりません。
「虎の威を借る狐」の言葉ではないですが、狐もひれ伏されていると自分が崇められているような気になるのではないでしょうか?自分の力で治して(癒して)あげれる魅力はある意味、自己満足・自己陶酔の世界でもあります。

だからイエスはあえて苦言を言ったのではないでしょうか?
あなたが行ってやってきたことは何か? と問うのです。
伝道を神の御業としてではなく、自分の努力のたまものだというのならそれは大きな勘違いだといいます。『あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。』つまりは神によって救われることを喜べ、というイエスの言葉。そして神はすでに私を救ってくださっているのです。

イエスは生涯誇ることをしませんでした。行く地行く地で様々な奇跡を起こしても謙虚にその場を離れていきます。それはイエスが望んでいた生き方だったように思います。
自分に与えられた力は神のもの、と自分の手柄にすることなく、粛々と奇跡をおこなったのです。

牧師はキリスト教は学びの宗教ではないと語ります。知識にあふれるとそれに溺れます。知恵を誇り謙虚さを失います。たとえそれが自分の力ではなく、神から預かっているだけの力であっても、いつしか「名誉」や「権力」という欲に負けてしまいがちになるものです。すると傲慢になっていきます。
相手の求めることではなく、それを自分なりの解釈を加えた解決法に変化させ、相手にそれを飲ませるようになります。
相手は神の力を代行してくれると依頼をしても、傲慢なものは自分の方法による解決を相手にアドヴァイスしてしまうのです。自分という神の創造ではないでしょうか?

神の前に、そして人の前に遜ったイエス。それは最後の晩餐直前に弟子たちの足を洗ったことでもわかります。
神がイエスを通じて何をしろと伝えたか?いつも考えていたいものです。

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