主のみに求めることから

5月24日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 11章 5-13節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」



キリスト教の信仰を持たない人、また意外にもクリスチャンの中でも少なからず居ると思われる思想に、祈りが熱心であるほど祈りが聞かれるという考え方。逆を返せば祈りが聞かれなかったのは自分の不信仰によるものという考え方。
この考え方は陥りやすい間違えであるという話を歴代牧師からも聞いていましたし、今日の説教もそうした内容でした。
誤解なされないように言えば、熱心に祈る、信心深く過ごすことを否定するものではなく、それを肯定した上で祈りの聞き取られない時とは何か?を考えたいと思うのです。

「祈ったから神が応えた。」「祈ったのに神は応えてくれなかった。」日本語は主語を省略しやすい言葉ですが、きちんと書けば、「私が祈ったのに、神は応えた(応えてくれなかった。」のです。この発言の立場(スタンス)を考えれば、私の方が神より上で、「私がしてやったのに」という意味合いが含まれているのではないでしょうか?
もしくは、私がここまでしたのにしてくれないのは頼み方が悪い、という要素が含まれているように感じます。
いずれにしろ、神は『私』がしたことに何らかのアクションを起こす必然性(義務)を感じているからの発言でしょう。

しかし『私』は神をも支配するような存在なのでしょうか?創世記を読めば、塵(土)から生み出されたものです。神によって作られて神によって生かされ、神によってこの世の終わりの日を作られるわけで、生まれる日も天に召される日も神と直談判することさえ許されていないのです。それでも神は私たちをわが子として愛してくださっている、というのがキリスト教の基本的な考えで、故に祈れ、求めよ、と神は言ってくれています。そして今日の説教は祈りが聞き取られなかったのは、私たちの祈り方、信仰心が悪いからではない、というのです。

わが子と言えば、自分の子どもがデパートのおもちゃ売り場でほしいものを見つけて「買って」とねだり、だめだよ、の言葉に寝っ転がって地団駄を踏みながら大きな声で泣いたとしたらあなたはどうしますか? と牧師は問います。
分かった分かったといつも買い与えていますか?
たぶん大方の方はNo!と答えるでしょう。
神への祈りもそうではないでしょうか?
たぶん子どもは大声で泣いて要求している時は本当にほしいのでしょう。子どもの頭の中では十分な需要として考えていますが、冷静な大人の目ではその需要は一時しのぎだと分かっています。『今』ほしいだけで飽きてしまうし、我慢が出来ないことは教育上よくないとなだめ教えます。
神も「私の祈りに応えた」「私の祈りに応えなかった」のは、子どもの僕らの目ではなく、全知全能の神の目としての最善を実現させているのではないでしょうか?
中国の故事に「塞翁が馬」というのがあります。
ある日、塞翁が飼っていた馬が逃げてしまったので、人々が慰めに行くと、塞翁は「これは幸いになるだろう」と言うのです。はたして数ヵ月後、逃げた馬は立派な駿馬を連れて帰ってきたので、人々がお祝いに行くと、塞翁は「これは災いになるだろう」と言いました。
その言葉通り、塞翁の息子が駿馬に乗って遊んでいたら、落馬して足の骨を折ってしまったので、人々がお見舞いに行くと、塞翁は「これは幸いになるだろう」と言うのです。一年後、隣国との戦乱が起こり、若者たちはほとんど戦死したが、塞翁の息子は足を骨折しているため兵役を免れて命が助かった、という故事ですが、短絡的に神の祈りが聞き届けられた、と言えば塞翁の子息は戦死する可能性が高かったわけです。
後世の私たちは物語を全部知っているから、塞翁が馬の話も納得しますが、災害や人災で家財を失った時、「神様どうして私だけが」と祈ります。もしかしたら失うことで難を逃れらのかもしれませんが、人生は一度ですし、歴史にIFは存在しません。自身の人生は塞翁が馬のようにあとから客観的に見れば禍福が逆転しているかわかりませんが、祈りが聞き入れられなかった失望感だけが残るのでしょう。
それが災害のような理不尽でなくても、得てして「私の祈りだけは聞いてほしい」と人は思いがちになるのでしょう。「私だけは不幸にしないでほしい」と願うものなのでしょう。

神は僕らを愛してくださっています。「買って買って」と泣いている僕らに買ってくれない神は僕らを嫌いなのか、無視しているのか、と思うかもしれませんが、長い目で『今買わないことがこの子のためになる』という親の愛で買ってくれない場合もあります。
神を自分の支配下におかないで、愛されていることを信じ今週も過ごしたいと思います。

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