黄色い集団海を渡る(「愛で繋がる関係」)

4月26日、旅先のサンノゼのウェスレー合同メソジスト教会で礼拝にあずかりました。
この日、ウェスレー合同メソジスト教会に与えられたみ言葉は、コロサイの信徒への手紙 3章 12-17節、並びにヨハネによる福音書 13章 31-35節。表記のタイトルの説教を山本一牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

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小田原教会と同じ流れをくむメソジスト教会の礼拝ですが、小田原教会は日本キリスト教団というグループに入ってその色合いが薄まっているので、僕らがすでに失った礼拝堂のつくりであり礼拝風景でした。

恵みの座 が確立してあったり…

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ろうそくに点火するところから礼拝がはじまったり

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聖書の箇所は、旧約・新約ではなく、御言葉と福音書の2か所の朗読がありました。
逆に小田原教会でしている、交読詩編や信仰告白、そして牧会祈祷ではなくリタニーでした。

そして、すべてがプロジェクターで壁に投影されているので、聖書や賛美歌を手に取る手間がありません。メソディストの伝統を守りながら改善される部分は先進的でもあります。

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さて、説教の話に戻します。

あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
コロサイの信徒への手紙 3章 12-17節

****

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」びにヨハネによる福音書 13章 31-35節


京都で生まれ育った山本牧師は子どものころから竹林に親しんでいたと語り始めます。
肥大成長(年輪を重ねて太くなる)ことがなく、立てに伸びるしかできない竹は節をつなぎながら上へ上へと延びていきます。細長いので風などに対しては弱そうに見えますが、決して竹は風雨に弱くありません。その理由は地下茎にあります。
竹は地下茎でつながっているのでとても強いのです。
竹は地下茎によってひとつなのですが、しかし途中で地下茎を切っても生きている。つまり1本1本の竹自身も一つの生命体です。
全体として1つの命でありながら、1本1本の竹としても独立して生きているわけです。
ネットワークでつながっている全体の命でありながら、1本1本も生きているゆえにしなやかに生きられる秘訣があるように思えると語ります。
そして、人間も目に見えないつながりによって生かされているのではないでしょうか? と話を続けます。

最初に読んだコロサイの信徒への手紙に書かれている「あなたがた」とは、民族・人種や階級・立場の差を取り除いて「すべて」の人への呼びかけです。違いのゆえに対立があるので、その違いを認め合うのはなかなか難しい事なのは今も昔も変わらないのでしょう。自分の意見が正しい、自分の方が優勢だと思いがちだと思います。
それを一つにする、受け入れあうのはどうするのか、ということに対して聖書は、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けろ、と書いてあります。相手を許せ、と書いてあります。愛を身につけろ、と書いています。そうすることで人と人はつながるのだというのです。

そして身につけろ、という言葉は、原語では「着せてもらう」という意味だと語ります。つまりは、謙遜や寛容は自分でしようと思ってもできないものだというのです。神からもらうものだというのです。

ではどうすれば神から着せてもらえるのか?という疑問にあたるでしょう。
それは自分が不完全で弱い存在であることを受け入れることではないでしょうか。
自分の力で、一人では立っていられないものだということを知ることで、謙遜や寛容を身に着けてもらえるのでしょう。
自らの力で立っていられると思えば不遜になり、周囲の人を蔑み、そこから孤立が生じます。
不完全で弱さを感じ震えている時こそ、神は「他人の痛み」を知る力も与えてくれるのでしょう。

牧師は一昨日から昨日にかけてRFLに参加してきたと語ります。そしてRFLの始まりを簡単に説明なされました。曰く、
この活動は、1985年アメリカのゴルディー・クラットという医師が死の不安を抱えて眠れない夜を過ごす癌患者に「君が苦しんで居るあいだ、僕は君を覚えて夜通し走り続けることにする」と言ってランニングが始まりました。まわりの人たちは、走って何になるのか、自己満足ではないかという非難がありながらも、その事が患者を勇気づけ、最初は一人から始まったこの活動も翌年からは医師、患者やその家族、友人が数人ずつのチームを組んで走ったり、あるいたりするリレー形式になりました。そうして24時間歩き続けるなかで、参加者の間にがんと闘う連帯感が生まれたのです。

がん患者が私のために活動してくれている人がいる、私の苦しみを理解してくれる人がいる、その人たちと繋がっている所に希望を感じるのでしょう。

しかしそれはがんだけではないのです。いろいろな病、それだけではなく人は誰もが苦しみを感じる時があります。そんな弱い私たち一人一人が立っているとはどういうことなのか? 牧師は語ります。
一人一人が自立して立つことは大切なことですが、自分一人では生きられない、支え合って生きていることを自覚する、その関係が希望を生みます。

愛ある関係、それは人と人との間にイエスがいる関係です。イエスに愛を「着させてもらって」互いに愛し合いながら、繋がってきていきたいと思います。

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