復活の喜び

4月19日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章 36-43節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。



復活の顕現。復活の意味は何か? を中田牧師は使徒言行録1:3の御言葉『イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。』と書いてあると語ります。神について話された、つまりは聖書の説き証し。
イエスの復活は、つまりはキリスト教というものは、この聖書についての説き証しをすることだったのではないでしょうか?
復活というのはイエスの側から見た「復活した」ことではなく、弟子の目から見た「復活したイエスを見た」体験という意味なのでしょう。
福音書という書物は、この復活を知ったところで「書こう」「書きたい」「書かなくては」という使命感を感じれるようになったのではないかとさえ思います。

エマオへの道でイエスに出会った弟子たちは隣を歩いているのがイエスだとは気が付かなかった、と書かれています。
それと合わせて考えると、この復活というのは、生前そのままの姿だったのではないのかもしれません。でも、確かに、明確に、甦ったと言います。それでも疑心暗鬼の弟子たちにイエスは魚を食べたと書かれています。

ものを食べる、というのは確かに霊のようなスピリチャルな存在ではないです。少なくとも口がなければ食べれません。手がなければ食べ物を口に運べません。
と、同時に食べ物を食べる必要性があることを意味してはいないでしょうか?
ものを食べる、という行為は、「もの=命」を頂くことです。食べ物は命であった、のですから、その命を頂く行為です。
生きていることは、周囲から大きな恵みを頂きながらいることを再確認することではないでしょうか?
それは、血や肉を生み出すたんぱく質や脂質・糖質、ビタミン。ミネラルという物質的な恵みであるのと同時に、生きる意味、HowToという精神的なものであるのかもしれません。
少なくとも、弟子たちはイエスに会った瞬間、この後者の命を頂いた訳です。「復活したイエスを見た」のは、この命を得た瞬間そう実感したはずです。

中田牧師は、復活とは絶望の淵から引き上げてくれる力だと語ります。
もうだめだ、とあきらめた時、イエスがもう一度立ち上がる力をくれたのです。
復活の顕現とは、イエスに出会ってその力を得た。復活のイエスに出会えたことで、再度昔の燃え盛る希望に向かって歩もうと思い出せたことでしょう。
復活のパワーをもらって今週も歩み続けたいものです。

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