復活の主イエス

4月5日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章 1-12節。表記のタイトルの説教を本年度より小田原教会に赴任して頂いた中田正道牧師より受けました。小田原教会は本年度以降中田正道牧師と長井美歌牧師のお二人に牧会をお願いいたします。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。



土曜から日曜にかわる。
ユダヤ教との形式上に違って土曜日に働き、日曜に礼拝をすることで、誰の目にも違った宗教として見られるようになりました。同時に、日曜に礼拝をする、ということの意味。それはイエスの復活のシンボルによるものでしょう。
2000年もの間毎週毎週10万週も礼拝が続いているということは、そこに復活の喜びを世界中の多くの人が感じているからでしょう。

墓を見に行った。大きな石が転がっていた、と語ります。
これは人の気持ちでもないでしょうか?
ふさぎ込んだ落ち込んだ気持ちに通じるものを思い浮かべます。
光と闇が区別されているならば、闇に覆われている人には永遠に救いは来ないでしょう。しかし、光の中にも闇があり、闇の中にも光差す時が来る。闇の中に光の存在を見出したら、闇の中の人にも希望が持てる。
石がどけられたからこそ光は差し込みます。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」天使はそう言います。
2000年前の出来事だと思えば、そこで話は終わります。何度もこのBlogで出ている「塩狩峠」の「あなたは自分がイエスを殺した張本人だと思っていますか?」に通じます。
聖書が過去なら、私がイエスを殺してはいません。でも、自分の罪がイエスを殺した、つまりイエスが肩代わりをしてくれたこと、そして、そのイエスの御後をついて行こうと思った瞬間から、イエスは今を生きるもの、すなわち指針になってくれています。

もう一つ今日の聖書の箇所は大きなテーマを抱えています。「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので」という一節です。
弟子たちはたわごとだと思った、と書いています。
では、私たちはこの話を信じていますか? それともたわごとだと思っていますか? たわごとだと思えばたわごとです。信じればそれは救いの御業になります。

イースターの朝、短い聖書の箇所から4つのテーマをお話をお聞きしました。主の復活おめでとうございます。

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