塵と灰のことで

3月29日、小田原教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書・ヨブ記 42章 1-6節。表記のタイトルの説教を高柳富夫牧師より受けました。高柳牧師は、島しづ子牧師や尾毛牧師らとともに体調不良の島牧師・東牧師に代わって小田原教会の主日のご奉仕を担ってくださいました。多くの先生たちのおかげで2014年度も無事に終わりを告げます。本当にありがとうございました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。「これは何者か。知識もないのに 神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた 驚くべき御業をあげつらっておりました。「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し 自分を退け、悔い改めます。

ヨブ記という「物語」のお話。神とサタンの言い争いに託けた『信仰』について。
人はご利益もないのに信仰を持たない、というサタン言葉通りに有益なものすべてを取り除かれたヨブ。そしてそのヨブの所に友人がやってきます。そして「あなたは知らない間に罪を犯した。罰である今の困窮から救われるのは、罪を懺悔することだ」と忠告します。
一見理に叶った友人とのやり取りですが、高柳牧師は疑問を呈します。

もしこのやり取りが正しければ、神と人との関係はどうなのだろうか?
悪い事をしたから罰を与える。懺悔したから罰をなくす。この2つは人間がしたことに対して神が尻拭い…という言い方はふさわしいかどうかは別として…をする形をとっている。人がまず事を起こして、神がそれに対応する。本末転倒ではないかと思う訳です。
神は人の召使いではないはずで、人の行動に神は支配されるべきではないのではないか?
因果応報の原理は神をも従わざるを得なくなる。と語られます。

人はなぜ神を信じるのか?
サタンの言うとおりに因果応報で神をも自分の行動の配下におくのか?
ヨブ記という物語を書いた作者は、信仰をどう解釈していたのか?

ヨブ記という物語はそんな疑問を抱えて終盤に向かいます。
そしてその回答が38章から描かれています。宇宙の初めからの創造の不思議。創り主と被造物の関係。僕らは何一つ自分ではできない存在であることが脈々と書かれています。
僕の中でもこの部分は信仰を持つに当たり大きなFQA(?)です。
今まで僕らが知り得ている一番の大きな力はビッグバンです。宇宙を創りだすほどの大きな力、これに勝る力は存在しませんが、それを一瞬(約10-~35秒後=0.の後に0が35個付く数)の間に無からこの宇宙がほぼ出来上がったことは今時点の科学の粋では「正」であるでしょう。
科学の面白さに目覚めた思春期の僕は「無」から作り上げることができるのは今の宇宙の中には存在しない力で、それがあるとすれば「創造主」としか考えられないとすとんと落ちたような気になったのを覚えています。
僕らはあまりにも想像もつかない大きな神の力の前には本当にちっぽけな存在です。
それが自分が信じたからと言ってご利益を求め、自分が苦境に陥ったからと言って懺悔する、ほど神の姿は簡単なものではないのではないでしょうか?

高柳牧師は今日の聖書の箇所の翻訳に異論を語ります。この箇所は「それゆえ、わたしは塵と灰においての、私の思いを退け、悔い改めます。」ではないかと。英語のOnは『上』という意味もあるけれど『~において』という意味にも訳せる。そしてこの場合は後者ではないかと語ります。そうすると難解なこの箇所が分かりやすく僕らの前に現れます。

ヨブはいままで神に愛されようとつくしますが、神は尽くしたから愛す、尽くさないから愛さない、といった関係ではない。いわば、私たち人間は神の目には塵や灰のような存在だ、ということが分かった。そして、塵や灰は神が何を考えるかなど到底わかり知りえない存在であることが分かった、というわけです。
私たち人間は、神を理解する必要はないのです。
でも神を理解しなくていいというのと神はいないというのは全く別です。
理解できなくても居るのです。

だから神を理解できないからと自暴自棄になることもなく刹那的になることもなくただ信じること。これが信仰なのでしょう。
キリスト教の神はインマヌエル=共にいます神、です。ヨブが理不尽な仕業とも思えるような状況でもそれをじっと見つめてくださっています。
人間の目には苦しみを救ってくれない神など不要と思えるかもしれませんが、それでも神はいます。そしてその神はいつも一緒に居てくれるのです。苦難にあっても孤独ではないこと、神がいるという希望で笑顔になろうという気持ちが起こること。「苦難の中にあってもなお」が神なのでしょう。

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Re: No title

「鍵コメ」さん
メッセージありがとうございます。

年齢を重ねてきて、人生の先輩たちの体の不調の言葉を言うのが身に染みてきました。実感・体験することで少しでも共生することが出来るようになってきた感があります。
苦しみや悲しみは頭の中で想像するのと実体験はどうしても差がありますから、「鍵コメ」さんの苦悩は想像察するに余りあるのでしょうね。
それは3・11の被害者や昨日のテロの被害者のご家族、飛行機事故の被害者のご家族も同じなのでしょうね。
(実際あった話ではない物語の主人公ではありますが)ヨブの苦しみも同じでしょう。

実は僕はこの日の説教を聞くまで、そうした悲しみに遭遇していないから言える戯言かもしれませんし、非道な発言かもしれませんが、最後のむすびでヨブは今まで以上幸せになったという終わり方に、「なんだ、やっぱり神と和解をすれば幸せになる」という因果応報をにおわせているんだ、と少し斜に構えていましたが、あの結びは神に屈したからでもなく和解したからでもなく、神が「勝手に」幸せにしたわけなんですよね。
僕らは、神はそうしたヨブの悲しみを始終見てくれる神がいて、み心なら「何か神の愛があらわれるかもしれない」希望を持つことなのでしょう。でも神のみ心は分かり知れないし、その内容や時期もわからない、というものなのでしょうね。

宝くじを買う人が、1万円でも当たれば喜びます。購入時は3億円あてようと思っているから思惑が外れたのかもしれませんが、それでも当たればうれしい物なのでしょう。神の愛もどんな幸せなのかはわからないですが、ヨブのように今までのMAXにならなくても、現時点での幸せを幸せと感じられることが、一番の幸せなのかもしれませんね。
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