痛みを神の招きとして

3月22日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 9章1-5節。表記のタイトルの説教を島耕一牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)
島牧師の説教概要はこちらに記載されます。


さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」



宗教にどっぷりと使っている人ならともかくとして、日本の多くの宗教に対して興味が希薄なの方々にとって、宗教と言うと2つのイメージがあると思います。
1つは、「因果応報」もう少し言い方を変えれば、「悪い事」が起こったならそこには「何か」その原因となる神への背徳が存在するはず。
もう1つは、「祈りが聞かれない」のなら信じる必要はない。こちらも言い方を変えれば信仰の深さの差異があっても「同じだけの救い」が約束されているのなら信じる必要はない、というもの。
信義論という、この世のすべてのことはすでに神様のストーリが決まっていた、そこには人間の入り込む余地はないという神学論。

今日の箇所は「神の業がこの人に現れるため」。つまり神の愛によって目が見えるようになるために盲目で生まれた、というのは、そうした「因果応報」ではないとはいえ、あまりにも理不尽な発想ではないかと思います。
そんなこの箇所の理不尽には否定的な目で見てしまいますが、島牧師はその中で『そう思うのはとても気になる箇所故だからだ』と語ります。いつも考えてしまう「神と自分の関係」だからこそ、人が入り込めない既に決まっている人生の歴史がどうなのか!?と思ってしまうのです。

しかし「神と人との関係」はそういう側面だけではないと語ります。
それはゲッセマネでのイエスの祈り「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」というものは、既に決まっているはずのストーリーを変更してくれ、と祈る訳です。キリスト教の神は決して単純に決まったレールを歩かせる宗教ではないと思います。

ただ、因果応報ではない、神の愛は万人に平等にあることだけは確かなことではないでしょうか。礼拝の説教を聞きながら、4月に仲間とRFL(リレーフォーライフ)というイヴェントに参加のことを思いました。初めて行く地ですので、親しくしてもらっている山本牧師にいろいろと準備のお手伝いもしてもらっております。そして帰国の日がちょうど主日ですので、僕らは礼拝に出席しようかと思ったら、同行のノンクリのメンバーまでもが一緒に参加してくれると言ってくれました。
『信仰していないけれど』と行っていいのか戸惑っていましたが、今日の2つの神義論を思うと、まったくノープロブレムです。
故遠藤周作氏は信仰とは「99パーセントの疑いと1パーセントの信頼である」と言いました。からし種ほどの信仰心があれば山に向かって海に入れと言えば海に入ると聖書にも書かれていますが、一度も僕はそうしたシーンに出くわしていないところを見れば、まぁ人間の信仰心など似たり寄ったりでしょう。

今日の聖書の箇所のように、神の愛をするために困窮を受けることは避けたいと思うのが人情です。でも、そんな困窮があったといえども、そのあとには神の愛は必ずあります。盲目の方が見えるようになったというのはわかりやすい喩のためのことだったのかと思います。そして僕らは僕らに応じた愛を注いで切れると思います。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター