静かにささやく声

3月15日、小田原教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書 列王記上 19章1-12節。表記のタイトルの説教を島耕一牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)
島牧師の説教概要はこちらに記載されます。

アハブは、エリヤの行ったすべての事、預言者を剣で皆殺しにした次第をすべてイゼベルに告げた。
イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、あなたの命をあの預言者たちの一人の命のようにしていなければ、神々が幾重にもわたしを罰してくださるように。」
それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」
エリヤは答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」
主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を 裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。



イエスの生まれる前、モーセから続く長い歴史の中で、そのモーセと共に預言者の誉れ高き人がエリヤです。
権限としてのバブテスマ、つまりは「従う」ことを強要する「固めの儀式」のバブテスマではなく、民族や身分に左右されることなくただ神に愛されていることを受け入れる、その赦しを生きる糧にすることをベースとした考え方にシフトしたバブテスマのヨハネをエリヤの再臨とも呼びました。
神の愛は権威ではないことをこの二人にオーバーラップしたのかもしれません。そんなバブテスマのヨハネに若きイエスは従い、信仰を固めて行ったものでもあります。

さて、話をエリヤに戻します。
エリヤが活躍した紀元前9世紀のイスラエルはどうだったか?と問えば、エリアの居たイスラエルにフェニキア人のイザベルと言う女王が嫁ぎ、その人の宗教であるバアル信仰が民の心が動いたという時代です。
エリヤはすべての民に近づいて言った。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」民はひと言も答えなかった。(列王記上18:21)
エリアの唯一信仰に対して、動揺しどっちつかずで回答をためらう民たち。
島牧師は、この民たちの行動を、この時代はまだ唯一神信仰ではなかったのではないか、と語ります。1人の神より2人の神が自分たちについてくれればそれはいい事じゃないか、と思っていたのではないかと言われます。

上述バブテスマのヨハネは、権限者の為のバブテスマではなく、真の神と人の関係のバブテスマという新たな発想をしましたが、そのヨハネが再臨と言われたエリヤも唯一神という新たな発想をしたのかもしれません。
新しい発想かもしれませんが、真の神の愛に見えます。


バアル神を信じた預言者との奇跡合戦に勝つものの、エリヤはイザベルらに命を狙われます。そしてそれだけではなく民は相変わらず唯一神を信じていなかったのかもしれません。失意の中、エリヤはその地を後にします。死に場所を探して行った先で神の声を聞きます。

神の声は、僕ら人間が驚愕するような「激しい風」でもなく「地震」でもなく、そして「火の中」にもなかったと聖書は書いています。
僕らが思うのは、神の力とは僕らの知識を超えた大きなもの、それ故にその姿は僕らの力を超越した「風」とか「地震」とか「火」とかといった存在の中に感じるのかもしれません。
とある方が「奇跡とは無くなった手が生えたりすることではないです。それはたとえば江戸時代300年鎖国の中で隠れキシシタンが続いたことの方が本当の奇跡だ」と言われました。
故・遠藤周作氏の名作「沈黙」の舞台になった外海町。この町にある天福寺は、隠れキリシタンであることを知りながら檀家として保護してくれた寺です。
奇跡が僕らを超越する大きさでなければならないというのは僕らの勝手な思い込みで、僕らが見落としてしまうような小さな出来事が奇跡として存在することがどれだけ素晴らしい事か!
何一つ思いやりのやり取りがなければ、そこに神の愛が存在しなければ、成し遂げられないことでしょう。
そういう意味では、神の声が聞こえるのは、「風」でも「地震」でも「猛火」でもない静かにささやく声なのだったのかもしれません。
サウンドオブサイレンス、関根正雄師はこの箇所を「沈黙の声」と訳したと牧師は語ります。沈黙、そこにあるのは、騒がしくもない、ただ当たり前の生き様のなかに聞こえる神の声、というのが何かしっくりと味わえました。
民俗学者の柳田國男氏は、特別な日を「ハレ」と言い普通の日を「ケ」と言い表わしました。その「ケ」の日の中で神の声が聞こえたという事に通じるのではないでしょうか?壮絶なドラマチックな「ハレ」ではない普通の「ケ」の中にいる神、神ともにいますとは、そんないつもすぐそばにいる神の声を聞きたいと思います。

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