3・11と3・12

2011年3月11日から4年経ちました。
ご縁があって1か月後に被災地を訪れる機会があり、目の当たりにその大きな被害状況をみました。言葉を失う現状を知りました。
しかし、家族・親族、そして友人との生死のはざまに身を置いていない僕は、鎮魂の祈りをささげつつも天災だからというあきらめの気持ちを持ってしまいます。それは20年前の阪神淡路地震でも同じです。
多くの被災者の方は、自分の近しい人の死を知り、生き残った自分と照らし合わせて『果たして自分が生き残った事は正しいのか?』という自問をなさっています。今もって苦しんでいると聞きますが、それがブラウン管の向こうで起こった事と実体験の違いなのでしょう。それだけ大きなストレスであり、生きる哲学との直面なのかもしれません。
同時にそれは、中東で繰り広げられる戦争やアフリカでの飢餓・病のそれとも通じます。TVで悲惨な現実を見れば悲しさを味わいますが、その悲しさは自分の生とは異次元のものでしかならない薄情さに打ちのめされる時があります。
、「同じ気持ちだ」と言えばそれが嘘になるし失礼だと思います。体験しなかった者はやはり体験した者とはイコールにはなれないと思うのです。そんな軽々しいものではないでしょう。ですから自身を偽って取り繕うようにかっこいいことを書くのはどうしても憚られてしまいます。

それに対して今日3・12は実体験の日でもあります。3・12とは人災である福一の事故、メルトダウンによる放射能汚染の事です。僕はこの2つは区別して覚えておきたいと思っています。
この人災は実体験でもあります。
一つは我が街小田原でも放射性物質の大量検出がありました。仲間のお茶畑が大きな被害を受けました。風評だけではなく実被害が遠く離れた小田原でも起こったこと。
もう一つは、自分が東電の電気を使い続けた本人だから…。

神については故遠藤周作氏の本、イエスについては故三浦綾子さんの本が心に残ります。
三浦綾子さんの「塩狩峠」という小説で主人公が伊木一馬伝道師にであい、そして言われます。「あなたは自分がイエスを殺した張本人だと思っていますか?」 このセリフは、原罪、自分の罪をイエスがになってくれた、という事を言わんとしています。
普段意識をしない「罪」というものを突き付けられた主人公は「とんでもない、私は(イエスが死んでから2000年もたった)明治時代の人間ですよ」と驚きとともに否定します。
そして、「それならばあなたはキリスト教とはかかわりのない人間だ」と伊木伝道師に言われます。
罪の意識、問題意識、というものは、普段はなかなかできないものです。
ずっと前から東電の原発があって、そこに送り込まれた野宿者が数か月放射能を浴びて『ぶらぶら病』になった話は聞き及んでも、原発反対に声を上げることはなかったです。つまりは罪の意識がなかったのです。
伊木伝道師の言葉を借りれば「かかわりのない」人間だったわけです。
もちろん原発反対という文章は3・12以前もよく書いていましたけれど、だからと言って何の行動もしなかったのは、無関心・無行動という消極的な賛成につながってしまうのでしょう。福島を中心に被害が起きたのはそうした僕のような一人一人のせいなのだと思うのです。
3・11の日は、心静かに黙とうをし鎮魂の時を持つしかできません。しかし3・12は消極的だとしても携わった人災に今さらながらのきちんと向き合いNo!を言いたいところです。

PS
しかしこの国はどこを向いているのか…
東京都内は数年先のオリンピックに浮かれて「再開発」「再開発」と言っているが、岩手・宮城・福島は今でも困窮をしている。環状線の工事や施設の再構築を中断してもまず東北復興ではないの?
「仮設」という仮の家は、あくまでの仮なので長い間住むようには出来ていない。すでに壊れかけているところもあると聞く。そうしたところに今もなお住まわせている。町づくりも遅々としている要因の大きさは、計画の青写真が描けないことと言われている。
こうしたことは、民間では手が出ない、国家としての責任の範疇だろう。
浮かれて困窮の国民を無視するのならオリンピックの成功もおぼつかないよ(>_<)

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