あなたがたは神の子

3月8日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ガラテヤの信徒への手紙3章21-29節。表記のタイトルの説教を島しづ子牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。


両牧師が体調を崩されてから1年間、小田原教会を支え続けてくださった島しづ子牧師からのメッセージを聞くのも今日が最後になります(もちろん今後もお交わり頂き先生をお呼びしての礼拝があることを望みますが)
先週の東のぞみ牧師の説教もそうでしたが集大成の説教はあまりにも多くの深いメッセージで、すべてを書き表すのは到底できなさそうです。
今日のこのBlogも頂いたメッセージの中から、自分が一番関心の強かった点をピックアップして書いてみます。なお、小田原教会には説教を録音したCDがございますので、もしお聞きになりたい方は、お声掛けください。

人が想定する価値観とか、人の考える損得というものは、どうしてもバーターという概念が生まれてしまいます。実は宗教というのはそうしたものの際たるものなのかもしれませんし、日本における仏教もその神仏とのバーターから逃れようとして修行をした経緯があります。
つまり、神の愛というのは、信じようが信じなかろうが、クリスチャンであろうが仏教徒であろうが、無宗教であろうが、等しく愛されているという点です。
だからクリスチャンであるから選民的に天国に行ける、とは僕らは聖書から学んでいません。
そうなるとなぜクリスチャンなのか?という疑問すら湧いてきます。やってもやらなくても結果が一緒、もっと言い方を変えれば「このくじはすべてはずれです」というくじを引くバカはいないだろう、という批判に近い考え方に、僕はルター師の「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私はリンゴの木を植えるだろう」という言葉が反論として思い浮かびます。
この世に生まれて何もしないでも天国に行けるのなら何もしない生き方を選択するか? 悪い事をしても天国に行けるのなら、人を殺しても構わないのか? という考え方に、僕はそうであってもイエスの後を歩みたいと思うのです。それがクリスチャンなのではないでしょうか?
隣人を愛すことは、自分が天国に行くためのチケットではないと思うのです。
既に天国への切符を持っていても最後までイエスの後を歩むことを潔しと思うことがクリスチャンだと思います。

神はすべての民を救うと宣言してくれたのです。が、教会の歴史は平等の神の赦しを歪曲します。曰く、宗教戦争という他神教への迫害。曰く、未洗礼者への配さん禁止。それはイエスが望んだことか?と言えば、僕は聖書の中からそうしたイエスの考え方が見つかりません。
教会の歴史は、垣根のない神の愛に反して、勝手に垣根を作った。教会の中に垣根があることはその延長上に国家間の諍いがある訳で、それは平和へ背を向けた行為でしょう。

私たちは、新しく教会の門をたたいてきた人を無条件で受け入れているか?うさん臭そうに品定めをしていないでしょうか?教会のルールとして必要以上のマナーを強要してはいないでしょうか?
垣根というのは些細な感性の違いでも生じてしまいます。
一つのグループとしての存在ですから無条件の受け入れは難しいとしても、その段差はバリアフリーかできるものはすることが神の望む教会像かと思います。

初めて教会の敷居をまたいだ人が古くからいる人ほど教会のマナーを知らないのは当たり前のことです。そしてその教会歴の長い人もそれ以前のルールを改正しながら教会は粛々と歴史を刻んできています。100年前の教会と今の教会はすべてにおいて違いがあります。
その事を考えると、今の教会のルールを守ろうというのはいささか独りよがりではないでしょうか?自分たちのルールを変えつつ変動を受け入れつつやってきたのなら、若い人・新たに教会に来た人の改善提案にも真摯に耳を傾けなければならないでしょう。

今の若者が聞く音楽と僕ら荘老年層の聞く音楽が違う。これは歴史は動いていることを証明しています。僕らが子どものころに見たウルトラマンと今のウルトラマンシリーズでは内容が大きく異なっています。勧善懲悪だったウルトラマンは存在しなく、そこには『真の善とは?』と葛藤するウルトラマンの姿が描かれていると聞きます。単純明快な世の中が飽きられどんどん複雑が当然という世の中において、そうした流れをただ単に否定し無視する教会であった時に、その境界は世の人から魅力ある場所なのでしょうか?
新たな教会のニーズをキャッチできなければ、動いている教会のニーズから取り残された教会になってしまうでしょう。
では、教会は何を望まれているか?社会の激しく動く中、流れに乗って生きるしんどさを持った人たちの憩いの場となるとすれば、そこにきてのルール云々、マナー云々を頭ごなしで言われれば、社会の厳しさと教会の厳しさは同じように感じられるでしょう。
単純と複雑という視点で見れば、矛盾するような意見に見えるかもしれませんが、理解して租借したうえでの複雑からの回帰が大事だと思うのです。

神はすべての民を赦した、この大前提を忘れずに、教会もクリスチャンのグループ作りを目的とはせずに、赦された全ての人の集いの中で神につながる喜びを共有できる、そんな場所づくりを目指していきたいものです。

2000年前の社会は、女性の人権は全くない状態でした。それどころか、ユダヤ人でなければ神の救いはないと思われていました。しかし、時代は民族の差はなく、男女の差も無くなりました。あきらかに宗教は時代とともに変化しています。
願わくば、この変貌が「すべての民」といった真の意味に向かって進んでいきますようにと願います。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター