その先に見えるもの

3月1日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書7章7-12節。表記のタイトルの説教を東のぞみ牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」


既にこのBlogをご覧の方の中には、この3月末を以て島牧師と東牧師が小田原教会を退任することを知っていられる方もいませんが、今日は東牧師の最後の説教でした。
ところで小田原教会の礼拝は、「祝福」という時間があります。本来は子どもたちが賛美をする時間なのですが、なかなか子どもたちが準備をする時間が取れずに子どもたちへの説教のような様相になっています。
その祝福の時間の中で東牧師は「ふしぎなともだち」という絵本を紹介してくれました。

20150301-01

内容は、淡路島の小学校に転校したゆうすけ君。教室には、いつも教室を出て行ってしまう自閉症のやっくんがいます。長年の付きあの友達は、やっくんとうまく付き合えますが、ゆうすけ君は飛び出してブランコで遊ぶやっくんについ攻撃的な態度をとってしまいパニックを起こさせてしまいます。それからはつかず離れずで中学、高校と進み、やっくんは作業所で働くようになり、ゆうすけ君は郵便局で働きます。ある時、お客様の郵便を汚してしまい、局施設を飛び出して落ち込んでいるゆうすけ君。そっと背中に手を置くやっくん、その時本当の友達になれた気がしました。というもの。
よくよく見れば、近しい田島征三さんの双子のご兄弟のたじまゆきひこさんの絵。

この絵本が、なぜ今日の箇所なのかな、と思いながら、そのあとの説教を聞きます。

説教にも絵本が紹介されました。それは誰もがよく知っている「三匹のこぶた」と「三匹のこぶたの本当の話」という本。
僕らは、三匹のこぶたを読むとき、「可愛い」主人公のこぶたに感情移入して、「悪くて怖い」オオカミの悪行に抗議しながら読んでいきます。
が、それって本当なんでしょうか?「本当の話」では、おばあちゃん子のオオカミがケーキを作ろうと思いましたが砂糖が足りなく、隣に住んでいたこぶた兄弟のところに借りに行くのですが、こぶたの家はあまり丈夫ではなくオオカミがドアに手をかければ壊れるしくしゃみをすれば吹き飛んでしまうのです。そう見るとオオカミは悪い存在には見えなくなります。

さて、この2つのお話し、共通点があります。ゆうすけ君はやっくんと友人になったと感じた瞬間、「本当の話」のオオカミの経緯、それはそれを知っている人にしかわかり得ないことでしょう。

三浦綾子氏は「塩狩峠」という作品で、伊木一馬伝道師が『人間という者は、皆さん、いったいどんな者でありますか。まず人間とは、自分をだれよりもかわいいと思う者であります。しかしみなさん、真に自分がかわいいということは、どんなことでありましょうか。
そのことを諸君は知らないのであります。
真に自分がかわいいとは、おのれの醜さを憎むことであります。
しかし、われわれは自分の醜さを認めたくないものであります。たとえば、つまみぐいはいやしいとされておりましても、自分がつまんで食べるぶんには、いやしいとは思わない。
人の陰口を言うことは、男らしくないことだと知りながらも、おのれの言う悪口は正義のしからしむるところのよう思うのであります。俗に、泥棒にも三分の理ということわざがあるではありませんか。
人の物を盗んでおきながら、何の申しひらくところがありましょう。しかし泥棒には泥棒の言い分があるのであります。』
と語らせます。

東牧師は、事実と真実は違うと言います。
三匹のこぶたで言えば、三匹のこぶた側で見た話と、本当の話のオオカミ側で見た話は全く同じだったのでしょう。でも、自分がかわいいと自分に有利なような色付けがなされた話にされてしまいます。
その場に居なければ、最初に聞いた話が真実のように感じてしまったり、感情移入された方の有利な話の方が正しいと思い込んでしまうことがあるのかもしれません。

「塩狩峠」のあの後はこう続きます。
みなさん、しかしわたしは、たった一人、世にもばかな男を知っております。
その男はイエス・キリストであります。イエス・キリストは、何ひとつ悪いことはなさらなかった。
生まれつきの盲人をなおし、生まれつきの足なえをなおし、そして人々に、ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とは、どんなものか、みなさん、おわかりですか。
みなさん、愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。


聖書に「求めなさい。そうすれば、与えられる。」と書いてあります。
ゆうすけ君は、やっくんと親しくなることを求めていたのでしょう。
オオカミももしかしたらこぶたと仲良くなることを求めていたのかもしれません。でもボタンのかけ違いがあった…。

心から隣人を愛す、ことを前提にした成功の願。三匹のこぶたはオオカミを隣人として認めていたでしょうか?「本当の話」のオオカミは、まず最初に謝罪があるのが隣人へのマナーではなかったでしょうか?そこに「隣人」の気持ちの想像はなかったのかもしれません。
そこにゆうすけ君とやっくんの間との差異を感じます。

東牧師は、「求め」は、自分のためではない。のと同時に、「隣人のため」という勝手な思い込みや、相手を自分の思うように変化させる正義の御旗のようなものでも駄目だと語ります。

再度「塩狩峠」の続きを記します。
このイエス・キリストは、自分の命を我々に下さったのであります。
彼は決して罪を犯したまわなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くはないという者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずであります。
しかし彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。
ここにハッキリと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。
しかしみなさん、十字架につけられた時、イエス・キリストは、その十字架の上で、かく祈りたもうたのであります。いいですか皆さん。十字架の上でイエス・キリストはおのれを十字架につけた者のために、かく祈ったのであります。
「父よ、彼らを赦し給え、その為す所を知らざればなり。
 父よ、彼らを赦し給え、その為す所を知らざればなり。」
聞きましたか、みなさん。いま自分を刺し殺す者のためにも赦したまえと祈ることのできるこの人こそ、神の人格を所有する方であると、わたしは思うのです。


関係とは見えないものです。ゆえに感じることは大事だと思います。感じ、そしてその隣人のために祈りその人の「求め」に協力できればいいですね。

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