共に与えられる恵み

2月15日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書9章10-17節。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。
群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」
しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。
弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。


聖書には4人の記した福音書が載っています。
書いたのはイエスの死後しばらく経ってからで、当時の紙(パピルス)の供給源を考えれば多くは耳から耳への伝達でそれを福音書記者以外が思い出して書いた部分もあるでしょう。でもそのベースは「見たこと」を、福音書が自分のフィルターをかけて「書いて」います。
今日の箇所も共観福音書、つまり4人の福音書記者が全員書いた思い出深いエピソードだったのでしょう。
今日の聖書の箇所であるルカ以外の記者が記した同じ部分を記してみます。

共観福音書
【マルコによる福音書6:31-】
イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。


【マタイによる福音書14:13-】
イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」
イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


【ヨハネによる福音書6:1-】
その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。



男性だけ(当時の考え方は女子どもは人数に入らない、と言われているのでこういう書き方)5000人というのは、知り合いではない人も多い人たち、それを50人ずつ分けて座らせた。しらっとした空気も流れる無言の関係の上にイエスの祈りの声が聞こえる。
その祈りを聞いているうちに、その関係性が変わっていく。
見ず知らずの人にポケットに突っこんできたパンを取り出し半分に別ける人がいたかもしれない。お腹がすいてぐずる他人の子どもに何かを渡す母親がいたかもしれない。
どんなことが起こったかの記述はないけれどとにかくお腹いっぱいになったのは事実だと思います。が僕は単なる奇跡物語ではなく、みな持っていた食べ物を誰彼かまわず分け合った事実だと思うのです。

弟子は言います『○○しかない』。これは否定です。自分はできない、とイエスに言ったのです。
それは実は現代に生きる僕らにも通じるのではないでしょうか?

日本だけではなく世界的にフラストレーションがたまっているがごとく、他人を攻撃し合い、日本でも「憲法9条」の改定が口出さられています。
世の中がどうも悪い方向に向かっていると思いながらも、「議員がダメだから何もできない」とか「政官財が癒着していると庶民は手出しできないよな」というのは、弟子たちの『○○しかない』に通じるのでしょう。
やる前にギブアップ、他人のせいにして敗北を正当化する。
イエスは何を祈ったのか?神を信じること。神が自分たちを愛してくれている恵みに感謝すること。自分の力を過小評価しないで、100%頂いた力を表現する喜び。自分の小さな力(食事)を差し出すことで神は大きな恵み(みな満足できる食事)に変えてくれること。
そうしたものではないでしょうか?
精一杯生きること、そこに神の恵みを喜ぶ、こうしたことを今日は聞くことが出来ました。

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