食卓と聖霊によって

1月11日、小田原教会に与えられたみ言葉は、使徒言行録1章3-11節。表記のタイトルの説教を島しづ子牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」



食事は人間の命のために欠かせられない営みです。復活したイエスもたびたび弟子たちと食事をするシーンが聖書に載っています。
それは、ルカによる福音書24章13節- や、ヨハネによる福音書21章6節- のように、食事前までは隣にいる方が復活のイエスだということがわからない、という、ある意味弟子たちにしたら残念なそして悲しい状況を描いている文章も多いです。
食卓に着くことで、そばにいるのがイエスと気づく、という物語は、いったい僕らに何を告げようとしているのでしょうか?
ジャン・バニエ(Jean Vanier)は食事を楽しむことを奨励していると島しづ子牧師は語ります。

食事を楽しむ、とは何か? 考えてみました。
ふっと思ったのは、野宿者の炊き出しです。
冬の寒風の下に集まったメンバーは、メンバー同士多くをしゃべりながら食べる訳ではないのです。無口に黙々と食べているのですが、そこには豊かな時が流れいるような気がします。静かな時ですが、とてもにぎやかなのです(笑)心が喜んでいるようなのです。

でも、時折そうではない時があります。威圧する手配師や酒癖の悪い人が人恋しく来て酔っぱらってからむ場合があります。その時は空気が変わり、来たメンバーは食べ終わるとそそくさと帰っていきます。
この時は、周囲は騒がしいのですが、空気は張りつめ、心が閉ざされ、静かな時です。

食卓はゆっくりと豊かな時が流れます。
でも、マナーのスキルの違いがあると、途端に食事がおいしくなくなります。スキルが違うとそれがうっとおしくなります。
曰く、スープを音を立てて飲む仕草。くちゃくちゃと音を立てて物をかむ仕草。箸の持ち方、食べる順序…。書きながら冷や汗が出るくらい僕も仕草やスキルには自信がありません。が、同時に例えば日本人の風習として蕎麦は音を立てて食べるもんだ、と言われたりします。
でも、違いはストレスになり、一人の食事の方が気ままでいいや、という考えが出てきます。

それはでも仲間との豊かな時間を拒否するものです。スキルの違い、言い方を変えれば力の違いがあった場合、どうすればおいしい食事がとれるかを考えたいものです。
力の弱いものから相談を受ける時、僕らは十分相手の気持ちにならず「強くなりなさい」というアドバイスをします。が、このアドバイスは痛みを抱えている人にもっと痛め、と言っているようなものです。
食事のマナーはこうなのよ、と言われると、それが気になって緊張しておいしく食べれない時があります。
がんのソウルメイトの中で語りあう「頑張って」という言葉が辛い、という言葉に通じるものです。
この間違いを犯して傷つけてしまったことを懺悔します。そして同じ間違いを犯さぬように、「豊かな食卓」をどうすればいいかを考えたいです。

弱さと強さがある食卓で平等に楽しい食事がとれるのは何か?
それは、野宿者の炊き出しでゆっくり食べる場所を作れることであり、そこに手配師が来たときに「手配師に負けないようにしろ」というのではないのです。
弱い人が強くなるのではなく強い人が力の行使を抑える、そこに平等に楽しめる食卓が出てきます。

昔、フィンガーボールの水を飲んでしまった人がいて、その時とっさにその食事に誘った人も水を飲んだ、という逸話を聞いたことがあります。
イエスはその生涯でいつも強者を諌め、そして弱者と共に生きてきました。そして甦った時、弟子たちが豊かな食卓の時ではない、パサパサと乾いた「食べ物」をむさぼる時とした中に、豊かな食卓の時を思い出させました。それが食事を前にした時に横にいるのがイエスと分かった、という事なのでしょう。
緊張を解きほぐし解放してくれた瞬間、食卓は豊かになったのかもしれません。
イエスに従って生きることを誓いクリスチャンになった僕らの生き方の指針になるイエスの生涯でした。

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