一つの体としての教会

1月4日、小田原教会に与えられたみ言葉は、コリントの信徒への手紙Ⅰ12章12-26節。表記のタイトルの説教を島耕一牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)
島牧師の説教概要はこちらに記載されます。


体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。



60万人もの人口を抱える大都市コリントには、多種多様の民族、宗教が混在しており、カオスはきっとファジーさを生み出したはずです。前々からのユダヤ教徒、そしてキリスト教徒でも逆に仲間に他宗教者がいたりすれば、それは時に自分の宗教よりも「お付き合い」を優先せざるを得ない時もあったかもしれません。
故に堅い哲学や人生論を持っている人は、ユダヤ教の唯一神の堅い考え方に共鳴を持った人が改宗して入ってきた感は否めないと思います。
インターネットなどを見ても「自分はクリスチャンですが、他宗教のお葬式に参列した際に手を合わせていいですか?」という旨の質問箱への投稿を見たりします。正解がない中、自分と神様のかかわりをどのラインに持っていくかは、意外にセンシティブな問題だったりします。
島牧師は今日の最初のトピックスとして、この問題のパウロの回答を次の聖書を紹介することでお教え下さいました。

偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。
知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。



つまり自分が神と信じていない「神」なら、それは神でないから、それを特段神のように考える必要なないだろうけれど、「神」を敬うように見ることで他の人が神以外の「神」を信じているように思って、あなたの信仰でつまずかせるとすればそれは罪である、ということでしょう。

僕は基本的には神以外の「神」の存在を信仰の対象として信じないので、例えば葬式の時に手を合わせるというのは単なる儀礼の一つにすぎないと、そして式を恙なく、ご遺族の方の悲しみを共有するために手を合わせます。その先には全く申し訳ありませんが、信仰の対象としての神は存在しないのです。

でも、そうではない人もいます。先ほどのインターネット上の質問箱にも手を合わせるのはもってのほか、という回答も時折混じったりしますから、僕とは信仰のベクトル・宗教の方向性は違うクリスチャンも存在は致します。

そうしたいろいろな人が集まるところが教会なのでしょう。
大きな信仰の違いは牧師の説教や信徒の祈りの中で解るので、合わない教会に行ったら僕はその教会には通わず新たな教会を探すかと思います。
しかし、そこまで大きな違いでない些細な違いが鼻につくこともあります。

例えば、『なぜこの世に生を受けたか?』『クリスチャンとしてどう生きるのか?』という質問の回答はどうも少し違うだろうな、と思うことも自分の教会生活の振り返りの中でなくはないです。
上記(今日の聖書の箇所)でパウロは、見劣りのする部分を神は重要視されている、と言いながらも、やはり教会運営は教会政治であるな、と思えるような理論武装で論破するきらいはありますし、自分はその際たるものであったりもします。
「どなたのお越しもお待ちしています」と言いながら、慣れてくると自分たちの教会の暗黙のルールとカラーに染めようとするスタンスがあります。「慣例的に」こうしているのよ、という嫌と言わせない威圧が存在します。型にはまらない人は生きにくい世界なのかもしれません。
そんな時強引に(僕の思う)改革をしようとして反発されることもありますし、逆に物事をなおざりにして当事者を失望させたりします。そうした失敗をしながらも教会政治と自己の信仰のはざまを揺らぎながら生きています。

宗教団体としての教会とはなんなのかな? 信仰生活として教会に集うことは是なのか否なのか?
自分が教会の中で活動することは何なのか?
コリントの教会にもさまざまな考え方の信徒がいたはずです、ですからパウロはその狭間で教会運営という教会政治と、ここの信徒の信仰とのギャップを埋めようと悪戦苦闘したのでしょう。しかし、それは時代が変わり場所が変わっても、団体生活という中では同じような問題点が生じることなのでしょう。
しかし、自分を押し殺して…つまり自分の聖書の読み方を無視して、自分の隣人を見ないふりをして、教会生活を続けるとしたらその信仰は不毛なものになるでしょう。聖書を通じて神を知り、イエスの歩みの後を歩むことで、僕らは自分の人生に輝きをもつものとなるのなら、それは捨ててはいけないと思います。
同時にそれが、論争のもとになる可能性をパウロは2000年前にコリントの教会へのアドバイスとして聖書に書き残しました。
2015年最初の礼拝の説教は、大きな問題を提議された説教となりました。

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