罪の赦しといやし

12月14日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 2章1-7節。表記のタイトルの説教を島しづ子牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」



中風の人の望みは何か?と問えば、それは病が治る、ということで、罪の赦し云々ではなかったように思います。考えてみれば、目の前に大きな問題があれば、その問題の根本的な解決よりも目先の「痛み」や「困窮」の取り除きを要求すると思います。
しかし、この記載には病の癒しではなく「罪の赦し」が記載されています。
なぜなのでしょうか?

大きな痛みを味わって自殺の願望を感じた方の多くは『自分のようなものがこの世に生きていていいのか?』という疑問をもってしまうと話されます。過去を振り返った時悪い事しか思い浮かばない…、そうすると自分の人生に罪悪感すら覚えてしまい、結果『自分のこの世の生の是非』を余計感じてしまうようです。

全てが不安だ、心に平安がない…こうしたことは決して病を好転させるものではないのは容易に推測できることです。
イエスはそれを罪だといっているのでしょう。

では、罪の赦しとは何なのでしょうか? それは4人の友人との共同で起こった今回の事件です。
友人のために、他人の屋根を壊してでもなんとか治してあげたいという仲間の気持ち。
寄り添っている仲間ゆえに、友人の毎日の苦しみ、悲しみ、痛みを熟知した故の行動でしょう。

この中風の人も『もう生きていてもしょうがない』『死んだ方がましだ』と何度も考えたかもしれません。過去が辛く、未来に希望がないのは、寄り添う仲間の存在すら忘れてしまって一人闘病を続けているからでしょう。しかし、友人は自分以上に自分のことを思い、ここまでのことを「しでかしてしまった」。

イエスのいう「罪は許された」は、実は一人でないことを伝える言葉だったのではないでしょうか?
RFL(リレー・フォー・ライフ)というがん患者のイベントに参加していますと、がん闘病と違う「ただ歩く」という行為の中で皆「元気」を得て帰っていきます。
何に力を得るかと言えば、一人ではないという勇気なのだと思います。
秋田・玉川温泉というがんによく効くという温泉では、確かにがんに効く気がします。それは温泉成分の効能云々ではなく、じっと黙って目をつぶっている同輩の方から、ひしひしと『俺も頑張るからお前もがんばれよ』という声なきメッセージが送られてくるからです。見ず知らずの同胞の力強い勇気をもらえるエネルギーから病をいやす力がもらえるような気がします。

あなたの罪は許された、が、一人じゃないぞ(仲間がいるぞ)、というメッセージならば、僕は罪の赦しの瞬間から前向きの闘病が始まったと思います。
病が治ったかどうかはこの際関係ないのです。死の直前まで前向きに生きたなら、病気に負けた訳ではなく、生き切ったという実感を持てることを、僕は先に神様のみ元に戻ったソウルメートから学びました。
少なくともこの時以降『もう生きていてもしょうがない』『死んだ方がましだ』とは思わない人生を送れたことこそ、大切な人生を謳歌できたものだと思います。

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