十字架上の導き

11月30日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書23章26-43節。表記のタイトルの説教を島耕一牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)
島牧師の説教概要はこちらに記載されます。


人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、 『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、 丘に向かっては、 『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。



昔共観福音書の中で一番好きだったルカによる福音書。理路整然と整理されて書かれていたので読みやすく、そう思っていたのですが、どうも最近マルコやマタイの福音書を「宗教として」整理したのだろうという点が鼻につくことが多くなってきました。
今日の御言葉も最初の大きな群れって、群衆がこぞって「バラバを許せ」と言った後、そんなに多くのイエス・シンパが残っていたのかな?とか余計なことを考えていました。
閑話休題

名誉男性、男性的価値観を身に着けた女性を意味するスラングらしいですが、この言葉や、キャリアウーマンという言葉、その裏には性差別がまだある、と島牧師は語られます。
女性的価値観のある議員はなかなか大臣職になることはないように見えますし、企業の中でバリバリとスキルアップをして働く男性社員をキャリアマンとは呼ばないくせに女性にはキャリアウーマンと呼ぶのは、ベースにこの社会は男性社会であるという基盤がある故に出てくる言葉なのでしょう。
男性社会であることを容認する、つまりは、「名誉○○」というのはすなわち権力側に立ってものを見るものなのではないでしょうか?
逆に言えば、非権力者=弱者であり、自分は弱者ではない、という負い目がそうさせているのかもしれません。勝者になりたい、成り上がりたい、そのためにはが無謀と言われようがむしゃらに突き進む、そんな姿があるのかもしれません。
上昇志向のある以上、成功者を目標として、そうなろうとする目標・憧れをもつことは吝かではないと思いますが、すべての弱みに目をつぶり、覆いをかけて見えなくさせ、勝ちのみを目標とする人生はどうなのか?という思いはあります。

蓮舫議員が、「2番じゃダメなんですか?」と財政の仕分けの際に発言をして失笑されました。
勝負の世界では当然誰もが1位を狙って日々練習をしています。もちろん科学者も一番いいものを作ろうと努力をしています、その努力は真剣そのものですからそこで、2番じゃダメなのか?という問いかけは真剣に取り組んでいる人に対して失礼だと思います。ただ同時に、2番になってしまったものに、1番ではないからお前のやってきたことは無駄だった、とか、意味のない時間であった、というのであれば、それこそその瞬間に「2番じゃダメなんですか?」という蓮舫氏の言わんとした言葉が生きてきます。

僕らはよく人生の中で好むと好まざるに関わらず負っていくベクトルを「十字架」と称すことがあります。
それは聖書の中に既に書かれていたと島牧師は語られ、具体例としてルカによる福音書9:23やガラテアの信徒への手紙2:20をあげられました。
この「十字架」と言われるものの多くは実は「負債」であり弱さや欠けにつながるものだったりします。
どう頑張っても1番になれないもの、であったりします。が、それでも1番を目指し、そして1番になれずに悔しい思いで落ち込んだり、残念な気持ちになったりします。
そうした運命を受け入れること、謙虚な気持ちで「十字架」を受け入れられること、そんな姿をイエスと片割れの悪人の会話から読み取れます。
肩ひじ張って生きる「名誉○○」のような生き方もあるかもしれません。しかし、最後の最期の時、強がらずに、素直に懺悔をして悔い改めて許しを請う、そんなことが楽園の道のような気がします。

しかし…、そんな最期の最期の時、自分のことではなく、他人を罵倒する余裕。1人目の悪人の最後の時は何を考えていたのでしょう? 最後の最後に他人の批判・罵倒…・何かさみしさを感じます。

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