生かされて在る

11月9日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書18章9-14節。表記のタイトルの説教を高柳富夫牧師より受けました。
今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


先々週の高柳牧師の説教の主題もそうでしたが、今日の説教も「ルカはイエスを理解していたか?」が一つのテーマでした。
それはイエスは弟子たちとともにエルサレムに向かう最中歩きながら、町々との方と接しながら語ったことを後後(50年ほど経ってから)書き記したので、掛かれたものをイエスは推敲をすることもなく、意見をすることもなく、文章として残ったものです。
それでも4つの福音書が残っており、その4つの記述者が同じような内容を書いていることで、その信憑性を保っていますが、今日の箇所は残りの3作者が記していない「ルカの特殊資料」と呼ばれる箇所です。

今日の箇所は、文章の表面(おもてづら)だけを読めば、イエスに言われなくてもわかるような倫理的・道徳的な喩えに過ぎません。10人に聞けば10人とも、ファリサイ派の人の祈りはあまりにも傲慢で鼻持ちならないものであるのに対して、徴税人の控えめで謙遜な祈りは胸を打つような祈りです。

ルカは、だから謙遜なものになれ、とイエスは語った、ように記しています。
が、高柳牧師はそんな表面的なものではないだろうと語られます。
「自分が罪びとである」「取るに足りない私めを憐れんでくれ」と祈ったのなら、それは『私は傲慢なファリサイ派ではありません。罪人であることを自覚しています。』という、つまりは“祈りの裏返し”、つまりはファリサイ派の祈りと何ら変わりのない、他人を見下した祈りになってしまいます。
『高慢な謙遜』は高慢なんです。

そんな高慢な謙遜を伝えるためにイエスは本当に語ったのでしょうか?
ユダヤ教の律法は、大きなことから小さなことまできちんとこなすことが重要となります。律法の守り具合(量)で神と近づけるかどうか?そこによりどころを得た時、量の大小で義人と罪人を作ってしまいます。
人を生かすために作られたはずの律法が人を支配する、そこをイエスは問題視します。

徴税人は「自分の罪を償うことをしない自分を贖って許してくれ」と祈ります。
それはファリサイ人のように律法を守りたいという憧れでもなく、また逆にどうせできっこない自分は卑下される存在だけれど、というものでもないです。
このままの自分を憐れんでくれ、というのは、精一杯生きるから、他人を憧れや卑下することもなく生きるから、そのままの自分を「良し」としてください、という祈りでしょう。
充分神の目には良しとされる、愛されるものへの条件はなく、そのままで神の目に麗しい。ゆえにただ神に慕い祈るのみ。

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター