被爆体験談と平和かみしばい

この日の午後「被爆体験談と平和かみしばい」と題した学習会が開催されました。
お話とかみしばいをしに小田原市被爆被災者の会の皆さんがお越しくださいました。
間もなく被爆70年を迎える日本。そんな日本には20万人の原爆被爆者の方がいます。神奈川県には約4500人、そしてそのうち小田原には29人いらっしゃいます。その平均年齢は78.8歳・・・当然のことながらお腹の中で被爆したとしても69歳以上の方ばかりです。
語り部としてお元気にお越し頂けるのもいつまでもある訳ではありません。
この日その29人の中から、会長のOさん、副会長のKさん、Sさん、そして前会長のKさんが来てくださいました。

副会長のKさんの司会で学習会は開始されます。
まずは会長のOさんの体験から。

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氏は銀山町眼鏡橋そばで被爆をしました。文字通り閃光で、そして理解できないほどの爆撃に頭の中も真っ白になった後いつもの防空壕を超えて皆が登っていく風頭山まで登ったといいます。
原爆の問題は余りにも強力な爆弾である、というだけではなく、放射能の影響(不安)がずっとついて来ることだと言います。

続いて前会長のKさんがお話ししてくださいました。

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理系学生の恩恵、その学力によって軍備を支える代わりに出陣をしなくてすんでいたのも、選曲悪化に伴い徴兵延期の撤廃を受け19歳で学徒出陣となりました。広島の東の向洋から江波の高射砲陣地に移動したところで被爆します。
被爆の瞬間、新型爆弾が落ちたことなど考えもせず、火薬庫に火がついてしまったと感じたそうです。
余りにも爆心に近買ったのでキノコ雲など見えもせずしばらくして黒い雨が降りそれにあたったと語られました。
兵隊という立場で、被爆地での救援活動に入りましたが、持っているものはクレゾール液だけだったので作業はけが人の患部を拭いてあげて、隣接の三菱造船の社宅の空き部屋に寝かせる程度のことしかできなかったと語ります。
そのあとはご遺体をトラックに積む日々だったと言います。
トラックに積んでいるのがご遺体だと考えるとあまりにも辛く無心で作業したが、精神的に参ったと語られます。
また、バラバラになったご遺体はトラックに積むことなく街角で火葬したと言います。そうした作業をしていると、家族を亡くした街の方が一緒に荼毘に付してほしいとやってきて一緒に仮装してあげると翌日骨壺がないので台所から持ってきた壺にお骨を入れて持って帰ったと語られました。

その後副会長のSさんとOさんがかみしばい「城山国民学校の物語」を上演して下しました。

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原発に関しては多くは語りませんでしたが、否定的な発言もありました。
それは70年もの間ずっと被爆による体調不良の不安な人生を通した故、近しい友人が目の前でそれを起因とした死を見つめたからか…、いずれにしても自分が体験した故にその悲惨さを実感し、二度と同じ悲惨な目に仲間を合わせたくないといったからでしょう。
それは第三者である僕らが「武器としての原爆」と「公益電力としての原発」と言っても納得は行かない話だと思います。そこにはどちらも人間の知力技術では手に負えない放射能を発生させるものにすぎません。
省エネ並びに代替えエネルギーが限界ならともかく、のど元過ぎた東京は3・11以前の無駄図解が横行し、それでも電力不足になっていない中原発の恐怖は原爆と同じものです。

残念ながら教会外からはどなたもお越しになりませんでしたが、こうした学習会は教会という宗教団体というスタンスではなく、町の施設の一つとして開催しております。多くの小田原の仲間たちと一緒に聞き、覚え、そして伝え続けていきたいものです

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