RFL ~歩くという事~

RFL(リレーフォーライフ)は、1985年にアメリカ・ワシントン州シアトル郊外で、アメリカ対がん協会のゴルディー・クラット医師が始めたイベントです。マラソンが得意なクラット氏が大学の陸上競技場を24時間回り続けるなか、友人たちは30分間だけ医師と一緒に回るごとに25ドルずつ寄付しました。その結果、1日で2万7千$が集まりました。
そう、自分の得意なランニングを生かして、がんと24時間闘い続けている患者さんと同じように自分も走る行為で共に戦っていることをシンボリックに表現することで、がん患者に元気を与えるために始めたイヴェントです。しかし、今は走ることをしている会場、自分の全力を使って戦いを表現する会場はきわめて少ないです。
それはその行為が非常に難しく限られた一部の人にしかできない行為だからだと思います。

その代わりにみな歩く…。この歩くという行為はなんなのかな?と思います。
たぶん、RFLをPRした時に多くの市民が「24時間歩いてどうなるの?」という疑問符を投げ返してくると思います。
がんの啓発、募金活動、いずれにしても「別に歩かなくてもいいじゃない」という多くの人の意見はおかしくないと思います。
ただその意見は、ただ歩く、という行為をさしているからこそ起こり得る発言です。

RFLの参加者はただ歩いていないのです。
有言(おしゃべり)をしながら、無言(同士にパワーを送り)ながら歩いています。

この無言については、以前、玉川温泉の話をした時にも記しましたが、あの温泉は単なる観光地の温泉ではありません。入っている人の多くががん患者さんであるゆえに、じっと黙っていながらも「俺も頑張るから、お前さんもがんに負けるな」という言うパワーをひしひしと感じさせられます。お互いがお互いを高め合いながら、でも風呂という環境の中、黙ってお湯につかっています。
そんなパワーと同じものを感じます。もちろん、歩いていない方がチームテント内から笑顔で声援をしてくれます。それも大きな力です。

有言(おしゃべり)はもっと大きな力になります。
歩くという行為は、立っているとか座っているとかより少しだけ注意力がいります。が、フラットな道ならば全神経をそこにつぎ込むほどのもではないと思います。
お酒の席に例えれば、しらふではないけれど、乾杯が終わりもう一杯お酒が入ったホロ酔いの感じでしょう。ここが一番口が回る(笑)悪酔いしていないからくどくない(爆)
その状態が一番自分をさらけ出しやすいのではないでしょうか?相手の言葉が胸に響くのではないでしょうか? だから、世の多くのサラリーマン氏は、お互いの胸の内の共振を得るために会社帰りにちょっと一杯、と行くのでしょう?そうでなければ家で一人飲めばいいわけです。

お互いがん患者(もしくは広義のケアギバー)であることは明白です。日ごろ職場や地域で口にできないこともぽろっとおしゃべりできてしまう。すると一緒に歩いていた人も同調してくれる、そんな環境は、実はがん患者という立場ではなかなかないのかもしれません。

宗教と政治の話はするな、と言われます。対立を呼び、堅い話になり、時にはこじれるから、そういわれるのでしょうけれど、病気のカミングアウトも同様に離し辛い、聞き辛いものがあるのかもしれません。それはその病気に対する実感と温度差があるからだと思います。
そんな中、初めて会った人とでも気心知れたように話せるのが、散歩のようなゆっくりした歩行中のおしゃべりではないでしょうか?


ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
 ルカによる福音書24:13-31


僕はクリスチャンなので、聖書を読みます。頭の中に何か思いがある時に開くと、普段思っていないことがその聖書の場面から浮き上がります。RFLで歩くことを考えているときにこの聖書の箇所が思い出されました。

この聖書の箇所は、イエスが十字架にかかり、失意の中故郷の方向へ帰る弟子たちの話です。
そこに復活(死んだはずの)のイエスが現れます。話しているうちに希望がよみがえってきます。同行のイエスからパワーをもらえたのです。
それ(弟子たちが希望を持った)はイエスが救い主だからとかキリスト教だからという事ではないと僕は思います。また、イエスは神の子だから甦ることができた、という逸話を伝えるために書かれたのでもないと思います。それは、失意が希望に変わることは全く持って可能である、という事を伝えたかった文章でしょう。
イエスでなくても、支え歩くことはできるし、希望の言葉で励ますことはできます。
あっ、RFLの歩きってこれなんだな、と思います。
がんという病、おしゃべりできる相手のいない孤独感。そうした一人ぼっちにそっと仲間が寄り添ってくれるウォーク…。そこには闘病への希望が出てくるのです。

だからRFLは歩くイヴェントなんだと思います。

まだまだ今年のRFLは続きます
9月22日は20時ころから ながいずみ に参加します
10月13-14日は、長野 にフル参加する予定です。
 
一緒に歩きましょう!

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ジャンル : 心と身体

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