オウム真理教幹部の死刑執行

松本智津夫氏らオウム真理教の幹部たちの死刑が執行された。同時に7人の死刑と言うニュースには少し驚いた。

刑とは何か? は、死刑の度に考える。僕はやはり悔い改めることだと思う。
しかし、死を以て償うのだから悔い改める必要はない。と言う意見もあることを知っている。果たしてそれでいいのか?と思うところがある。
人が人を死を以て償わさせる権利の所在を知りたい。果たして何人の人があいつは死ねばいい、と言ったから死刑にしていいものだろうか?1万人か?1千万人か?10億人か? どんだけの人が言いと言っても本人が死を以て償います、と言わない限りダメだろうし、本人が死を以て償う気なら、もがきながら苦しみながら生きて猛省を続けるべきだと思う。
また人数だけでなくどんな権力者であっても、どんな知的な人であっても、どんな金持ちであっても人殺しはいけない。

ある意味死刑制度は楽だ。そこですべてにピリオウドが打てる。
遺族もこれで一区切りだ、仏前で報告が出いるというだろうし、ジャッジングする法律関係者もノーサイドになる。
モヤモヤは晴れないかもしれないけれど、切り替えができる、というものかもしれない。
特に遺族にしてみれば苦しみの毎日からの解放がそこにあるのかもしれない。その重要性は僕も知っているつもりだ。
遺族は言うかもしれない「私たちは被害者だ。あいつが生きているだけで苦しみは続く。痛みを負わない全く赤の他人のお前がなんで私たちの苦しみを否定するのだ」そう言われたら返す言葉はないし、同じ立場に立ったら僕も死刑にしろ、と言うかもしれない。

しかし、自身の反省があるかないか分からないまま、悔い改めのないまま、死んだところでなぁ、と言う気持ちが残る。それが償いなんだろうか?と言う気持ちが残るのだ。
悪いことをした、この気持ちを呼び起こすこと。残りの人生を使ってどう償おうか?と言う苦しみを呼び起こすことこそが大事じゃないかと思う。
罪を罰するとは償いの心を生ませることではないか? それがないままの罰とは何のためにあるのか?

何かの判決時、裁判長がさだまさしさんの「償い」の歌を引用したと聞いた。
「償いきれるはずもないがせめてもと」
と出来る限りのことをして、十二分に尽くして、被害者やそのご家族から
(私たちに償うだけの人生から)「あなたご自身の人生を元に戻してあげてほしい」
と伝わること。
(その連絡を受けて)「償いきれるはずもないあの人から返事が来たのがありがたくてありがたくてありがたくてありがたくてありがたくて」

この関係は死刑では得られない関係のような気がしてならない。
もちろんそんな関係ばかりではない。
しかし死刑囚が何かのきっかけに悔い改めようとするかもしれない。
生きるという事はそういうことだし、神はそれをよしとして生み出したはずだ。

もちろん人が法と言う名において人を殺すというジャッジングが人権的にどうかと言う問題もあるが、「死にたいがゆえに大きな殺戮事件を起こす」と言う事件の続出の中、罪を罰する刑とは何か? 人が人を殺めたことと法の名によってとか戦争だからと言う大義名分によって殺すことの差異は何か?もう一度考えてみたい。

考えがまとまらないままの投稿で申し訳ない。でも何か書かずにはおれなかったことも事実。
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