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ただ信じていなさい (イイワケ・・・)

下記BlogをUPしてまったく間違いは書いてはいないつもりだし、そもそも僕の雑感なんです。
でも、クリスチャンでない方がお読みになられて誤解されてはいけないと思い、少し追加。

宗教の中には、指導者の発言は絶対でそこに異論や疑問のはさめる余地はないところもありますが、キリスト教の多くの教会は、聖書のみ言葉を牧師は取り次ぐだけですし、聞いている信徒はただの一般人です。
ですから聞いて理解できないこともあるし、疑問に思いながらも(礼拝後の時間を使って牧師にお尋ねすることもなく)帰宅することもあります。
なんとなくしか理解できない時もあります。

でもそれがキリスト教だと思うのです。神は人間を支配しようとしなかったのです。だからロボットではないのです、神の言うことは絶対命令だけではないのです。
自由がある。だから分岐点があり、悩み、そして神に祈るのです。

だからこの世は楽しいのです。

ただ信じていなさい

2018年7月1日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 5章21-24a節と5章35-43節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。


****

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。



この日松田教会に与えられた聖書の箇所は、2カ所です。しかし、この2カ所の間に別の話が入っていただけでストーリーとしてはこれで1つの話です。
とはいえ、サンドイッチにされた話もないと分かりにくいので、簡略に述べると、12年間出血の病に苦しんでいる娘がいました。当時は血は穢れているものですから、出血の患いである人は大声で「私は穢れたものです」と言いながら歩かなければいけないと言う屈辱の人生を送らなければいけないし、そうやって惨めに暮らしていたのでしょう。
その女性が、ヤイロとともに出かけようとしたイエスの着ている衣にそっと触れました。すると病が治ったことを感じ、同時にイエスも力が外に出て行ったことを感じました。イエスは誰が触ったか?と聞くと、娘が恐る恐る自分であることを告白しました。イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と語って、さてヤイロの家に行こうとした時から後半に続きます。

今日のポイントは絶望的な状況でも希望を捨てなかった2人の女性(家族)の中の1つの話です。
希望を持つということは神を信じることでもあります。希望は神からの来るものです。

しかしヤイロ(会堂長ですからユダヤ教の信仰者なのでしょう。ただ任命は祭司長だから古い信仰理解の方だったのかもしれません)の仲間は、死んだヤイロの娘に対し『死んでいない。』と言うイエスに嘲笑を浴びせさせます。
宗教者やその仲間でさえ、無理だと思う話。誰がどう見てもそれが当然の理解。
そこにイエスは「神に希望を持て」「愛して下さる神に委ねよ」というのです。

一方ヤイロの父親になったつもりでこの話を再度考えてみると「娘が重篤なんです、急いでください」と迎えに行きながら、出血の娘に出会い時間をとられた挙句、娘は死んでしまいました、となれば、途中の邪魔な娘とそれに手を貸したイエスに憤りすら感じたのではないでしょうか?
もしここで娘が死んでしまったとすれば、葬儀が終わり、少し落ち着きを迎えれば父親を襲うグリーフは、イエス憎し!となったのではないかと思います。

そうした人たちに身を以て希望を教えたイエス。素晴らしい話と思うのと同時に、でもその場面に出ぐわさない僕らにはなかなか感情移入が難しく、信じろと言ってもと言う思いは湧きます。

3・11の津波に家族が襲われた人は、津波が去った後絶望的な気持ちの最中も消え入りそうな希望を持っていたけれどやはり行方不明のままだったという人もいます。ヤイロの父親のように希望が大逆転した例は稀有かもしれません。
そうだとしたら僕らはこの箇所から何を読み取るのか?

実は、家に帰ってからも今日はモヤモヤは晴れませんでした。冷静に自分なりの分析を繰り返しました。
そして1つだけちょっぴりモヤモヤが、最終の希望は何か?ということ。生きることが最終の救いなのか?ということです。
この話は、残された遺族の話です。
よくこの世は仮住まいとかいいます。死後神の御許に行けるのか?否か?が僕らの最大の関心事であるのなら
家族の死後の平安こそが最大の関心事で、それ故に、葬儀でも神の御許に行けるように、天国に行けるように祈り、遺族に慰めを言います。
生きかえったヤイロの場合ではなくても、僕らには別の希望が与えられているような気がします。

今日の説教はそこまで突っ込むことのないまま終わりましたが、別の機会にお話をお聞きしたいですし、それとともにどんな形の希望であれ絶望することなく希望を持ち続けたいものです。信じることをやってもやらなくても同じならば少しでもいいことがありそうな、少しでも大きな希望をもてそうな信じることをしたいものです。
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