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だから杉田水脈議員は堂々と…(>_<)

2017年9月29日、国連人権理事会が、同性愛行為を死刑の対象にすることを非難する決議を実施しました。日本は反対票を投じました。

ILGAの報告によれば、同性愛行為は現在世界72か国で違法とされており、うち6か国では死刑の対象となっています。9月29日、国連人権理事会は、「背教、冒涜、姦通、合意上の同性関係など、特定の形態の行為に対する制裁」としての「恣意的な、または差別的な」死刑に抗議するための決議をおこないました。この決議で、47の理事国中27か国が賛成票を投じ、13か国が反対、7か国が棄権したとのこと。Independentによれば、抗議に反対した国は以下の通り。
ボツワナ
ブルンジ
エジプト
エチオピア
バングラデシュ
中国
インド
イラク
日本
カタール
サウジアラビア
アラブ首長国連邦
アメリカ合衆国

正解がない分悩ましい

宗教って
ロジカルで、サイエンティフックなもので、運営ってテクニカルなものなのか?
それとも
フィジカルでセンチメンタルなもので、運営って祈りなのか?

「世の光であれ」のみ言葉に従った教会を継続させるためなのか?
み言葉を聞いて涙し祈る場所なのか?

隣人のためなのか?己のためなのか?
周囲から影響を受ける場所なのか?周囲に影響を与える場所なのか?
隣人に与える場所なのか?神から祝福を頂く場所なのか?
重荷を下ろす場所なのか?重荷を背負う場所なのか?

束縛された場所なのか?自由なのか?

ある教会に集まる信徒も隣人、別の教会に集まる信徒も隣人。
そしてどちらも礼拝の民として見あげる先には同じ神がいる。

あまり偏り過ぎるのは危険だけれど、両者の意見ってともに納得できたりする。
つまりは、静かに寄り添ってくれている聖霊、言い換えれば心を無にしたときの己の意思に従えばいいのだろうな。

契約の血

2018年7月29日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書 出エジプト記 24章3-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、今日から聖書は章節のナンバーも記載いたします。

24:3 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
24:4 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
24:5 彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
24:6 モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
24:7 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
24:8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
24:9 モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。
24:10 彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。
24:11 神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。



「契約」は英語でカベナント、松田教会が属している聖契キリスト教団の英名はカベナント。まさにその名前の由来に関するお話だと言っても過言ではないのかもしれません。

神様との契約は3つの条件がある、と清水牧師は語られます。
1つは主の言葉への従順
2つめは神への献身
そして、3つ目は血による贖い。

1,2は日本の風土文化に浸(ひた)っていても、宗教はそういうものであり、仏教や神道であっても大差はないと思います。が、3つ目は、日本の文化と馴染まず、24:8のように血を振りかけられるのはあまり気持ちがいいものではないかもしれません。
しかし、今日の出エジプト記の後ろのレビ記17:11 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。 
とあるように、当時のシナイ半島の周辺の民族の中ではきわめて普通の発想だったのでしょう。

そして、この3つの条件を読んで、僕らクリスチャンはイエス=キリストの十字架の贖いを思い出します。
まさに神との契約をイエスは完成したのです。

さて、長い間クリスチャンをやっていますと、お話の内容が推測できることは少なからずあります(笑) ここまでは、まさに推測の域を、しかしながら深めてくれるお話でした。
しかし、話は24:10-11に入ります。

意味が全く分からない箇所で、どうしても大したことないだろうと読み過ごしそうな2節。
清水牧師は、これは契約が交わされた後の話だと語られます。

旧約聖書(モーセの時代以前)、神様は「私はある」というものだ、と語り、姿を見てはいけない、と警告をします。ですからモーセ以外は神に近づくことすらできずに今日与えられた御言葉の直前にも

24:1 主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。
24:2 しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」


と書かれています。
しかし10節には 彼らがイスラエルの神を見ると、 と書かれているのです。
遠い遠い存在の神は、契約の後、アッバ父よ、と呼べる身近な存在になった、ということでしょう。救いの完成でもあります。僕らは神に愛され、救いが約束されたのです。
そして、それを契機に民は、神の前に共に集まり飲食を共にしたのです。契約共同体として、松田教会でも毎週お昼を共にします。
イエスは言われました、一番大切な教えは何ですか?と言う問いに、あなたの神を愛せよ、と。しかしその言葉はそこで終わることなく、あなたの隣人を自分のように愛せ、と続くのです。
教会にとって大事なことは、神と隣人の両者への愛です。
紀元前16世紀(他説もある)から、脈々と続いている神の教え。見過ごしそうな2つの中から大事な、そして暖かい愛を頂きました。

大友剛氏関西水害被害チャリティコンサート

天気予報が昨日までと打って変わり進路を大きく西に取り、先日大きな被害を受けた関西直撃と言うニュースを聞いて心がざわついています。
そんな最中表記のチャリティコンサートが行われたので出かけてきました。

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司会は毎度おなじみのサニーさん

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今日は趣旨がチャリティコンサートなので大友さんのピアノと鍵盤ハーモニカをたっぷり聞きましょう、と。なのでマジックも絵本の読み聞かせもありません。

ピアノと鍵盤ハーモニカを使って世界旅行から始まります。
日本、韓国、フランス、イギリス、アイルランド、そして南アフリカを経由してブラジルやアルゼンチンの代表的な音楽を奏でてくれます。

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そして最後は定番ルイアームストロング氏の代表的な曲。「この素晴らしき世界」( What a Wonderful World)
今日日、各地で多くの災害があり、家族や友人を亡くされた方、家や家財道具、思い出の品を失った人がたくさんいます。そしてそうした中、国会議員の杉田水脈氏が「生産性」の身勝手で情けない解釈をして失笑を受けています。
いらん軍事費をかけて必要な防災をケチったために多くの人の命や財産が失われているのですから、最大の生産性の無さはそれを知ってか知らずか無策である国会議員と役所である訳です。それを棚に上げよく言ったものです。本当に失望してしまいます。
が、そんな僕らの失望と同じような大いなる失望であるベトナム戦争を見聞きし、ルイアームストロング氏は「この素晴らしき世界」と言うタイトルをつけ歌い上げます。人の営みはあまりにも愚かしい、でもそれでも神の創造したこの世界は素晴らしいんだ、と歌い上げているのです。
僕らも凹みそうになっても、インマヌエル(神ともにいる)ことを忘れずに首(こうべ)をあげ笑顔で闘っていくしかありません。勇気と希望を持ち続けましょう、と言うメッセージに聞こえました。

そして後半はおまちかね(?)の

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リクエストを受け付け、大友さんが聞いたことのある曲は何でも弾いてくれるという驚愕のコーナー。今日もスタンダードから宇多田さんまでなんでもござれ、でした(^_^)/

大友さんはお忙しい合間を縫って、被災地や沖縄を駆け巡っています。たぶん僕が持っているのとおなじ現場主義の方でしょう。
今回も1週間ほど辺野古の座り込みに行ってきたので少しのご報告も

沖縄のニュースは本土では、情報規制ではなくとも強い政府の圧力でなかなか伝わってきません。
今日集まったメンバーの人は比較的社会問題に関心の高い方ですが、それでもどこまで知っていたかはわかりません。ですので、現地で見聞きした話を聞くのは大切なことです。

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5000余日÷365日=14年間あまり・・・。ここまで反対運動が続くことの原動力はなんなのでしょう?
家事や仕事を休んでまで14年もやれる裏には何があるかを考えてみたいものです。
自分なら『何のためなら』ここまで頑張れるか?
僕も辺野古も高江も行きましたが、本当に頭が下がります。久野はわずか2,3年ですが本当に困窮しました。

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そして大友さんは言います。今回のチャリティで集まった寄付で、被災地の幼稚園や障碍者施設で演奏したい、と。
子どもが笑うと大人も笑顔になる、と。

大きな被害があった時、落ち込んだ気持からの復活は笑顔です。誰かが笑顔を運んでくれると、「よし、(気持ちを切り替えて)がんばろう!!」と言う気になります。
物資が届けられても町中の人たちが下を見いていたら復興はままならないと思います。
大友さんはそんなところへのメッセンジャー。子どもを通じて笑顔を届けてくれます。

そう言う意味では沖縄の闘いは笑顔の闘いです。お互い励まし合い、時には三線に合わせて踊る。ここにしたたかな14余年の闘いがあります。
被害の復興も沖縄の闘いも根底にある勝利への道のりは同じではないでしょうか?
We shall overcome!! です\(^o^)/

久野舟原日影地区の石造物調査終了

7月7日に行った表記のフィールドワークの報告書を舟原自治会長にお礼とともにお渡ししてきた。

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これで一区切り。舟原日向地区は、雑草の中に埋もれている石造物も多いので、いったん路傍の石造物の調査を中断し、総世寺さんの敷地内の調査を先にやることにし、ごあいさつ。
大黒さんにお話すればご快諾頂けたので、メンバーと日程を調整し、ご連絡します、と言ってきた。

暑いけれど、趣味のフィールドワークだから案外頑張れる、というわけす。

豪雨お見舞い

西日本広範囲の豪雨は、広島を中心に大変な被害を及ぼし、今も復旧さえなされていない地区がたくさんあると聞きます。
存じなかったとはいえ、僕の友人も「一週間車の中で寝た」と語られ、なんのお見舞いもせずに薄情なことをしてしまいました。
近々ご実家のお酒を購入し、ささやかな支援をするのでちょっと待っててね。
と言うのも先に「ふるさと納税」という形で、井原市にお支払いをしてしまいました。
ちょっと失敗したな、と思ったのは、町が大変な中わざわざお礼の品が送ってこられたこと。もう少し落ち着いてからすればよかったです。

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とはいえ、濃厚なめらかなぷりん(?)・・・いや市販のプリンとは全く違うお味のおいしいデザートに感激。

さて、週末は台風の直撃のニュース。でも不幸中の幸いは、西日本には影響なく首都圏のみのようです。
これ以上大変な状況にならないようにと祈るばかりです。

そして27日は大友剛さんのチャリティーライブ。
支援は顔の見える関係がBestだと思います。でも、直接見えない時は、信頼のおける方に委ねること。

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ささやかなチケット代で申し訳ないけれど、被災者の人の心が癒されるようにきっと使ってくれるはず。

憲法改正問題

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紹介の本は、名前の通りキリスト教に関する雑誌です。つまりキリスト教に関心の無い人に紹介をする必然性は薄い本だと思います。
が、今回はあえてここで紹介するのは、クリスチャンであるけれど、その肩書きよりも憲法改定問題を憂うる一人の若い弁護士の書いた投稿が載っているからです。
名を伊藤朝日太郎氏、東京第二に属する弁護士さん。

僕は氏の講演会で直接お話を伺ったので、憲法と言う日頃市民が関わっていないように思える、つまりは空気のように意識をしない存在のものをここに来てなぜ変えようかとしているのか?

国民投票という法律には存在しても日本人が体験したことのないものをもしかしたら体験しなくてはならない時のための心構え、考え方を説明してあります。

昨今さまざまな天災が起こり、その被害のあとは必ず防災について語られます。
多くの人はTV番組などでその内容を聞き、時には水を買いに行ったり、懐中電灯を用意したりします。
つまりは、その防災知識と同じような「いざ」と言う時のためのことが書かれています。
備えあれば憂いなしの言葉通り、知っているか知らないかは生死を別けたりします。

近々に伊藤弁護士のお話を聞く機会がある方は別として、聞く機会がない方は、クリスチャンでない人にとって場違いな本かもしれませんが、なかなかわかりやすい話が載っています。
よかったらお求めになってください。

学生運動の失敗

「裁いてはいけない」と聖書に書いてあることはどういうことか?を考える。

1+1=? と言う問題は、哲学的に言わなければ2というこの世のルールがあるから、そこには正解と不正解が存在する。ディジタルのルールだからYesかNoしかない。
が、こと正義とかと言う抽象的なものになればそこには正解はないのだろう。色々な考え方が存在する。

泥棒にも三分の理があるという。
また、線路の真ん中を足の自由が利かなくなった高齢者が渡っている最中に警報機が鳴りだしたら、「警報機が鳴っている間は踏切の中に入らないでください」と言う交通ルールは無視されるのは僕の中では道理だ。
久野で産廃の施設の反対運動があった。原理原則から「街中で工商産業(経済のルーチン)において生産されたものから生じた廃棄物は、山中の農地や里山で処理すべきではない」と言うのが僕の中では、土地の安く多くの人の生活が直接公害に遭いにくい山の中で処理すべきと言う理屈より優先された。
がすべて僕の中の理屈であり、それが絶対の真理かどうか、異論があるうちは、ゴリ押ししてはいけないというのが「裁いてはいけない」ことなんだろう。

しかしだからこそ自分のベクトルが大事になる。自分の生き方が問われる。正解があって〇か×がついた方が本当は楽なのだ。
裁かない裁かれないからこそ、どういう生き方をして何を信じ何を目指しているかが重要視される。
BlogでFBで、さまざまな出来事に対していろいろな人が意見を書く。それに対して賛同したり否定をしたりする。それは己の心情だからいいことだと思う。が、裁いてはいけない、と言う言葉は、重要だ。
納得できない裁きは禍根を残す。できれば裁くことなく、納得してもらうことこそが大切なんだと思う。
結論がどうであれいうべきことを言わないで終わるわけにはいかないはずだ。

説得の限りを尽くすか、もう一つは自らが逃げる(去る)=身を守る。これも大事なことなのかもしれない。
イサクのおじさん 井戸をほる
ようやく水が でてくると
ゆずってにこにこ よそへいく
(子ども讃美歌)

いじめなどで逃げなさいという言葉は正しくもあり正しくないと思う。
相手を説得して平和なクラスに戻したいという熱意があるうちはいじめられていても希望を持っている。だから希望を捨てないさい、は言ってはいけないと思う。だけれど希望が無くなった時ストレスで体や心を壊す事も避けたい。子どものことであれば大人が早めに見極めたい、が、大人だって「がんばる」ことと「エスケープすること」の狭間にいることには変わりない、見極めは肝心だ。
しかし、いずれにしろそこには「裁き」はない。これも僕は大事なことだと思う。

最後にもう一つ大きな大事なこと。
1960年70年の学生運動は、本質の闘いではなく、「がんばること」と「エスケープすること」の考え方の闘いになった。そうまさに「裁き」あった。セクト同士の諍いになった。かわいさ余って憎さ百倍、と言う状態が、総括と言う言葉を暴力化させリンチを巻き起こした。これでピュアーな若者が掲げた民主主義は消えた。残ったものは心身を傷めた若者たちの事なかれ主義を良しとする風潮のみだった。経験していないがきっとそうだったと思っている。

縄文展(追追記)

合掌土偶は座産の様子かもしれない、との注解に成程と見て来た訳ですが、それでも出産のときに祈っていることに感動を覚えたわけでもあるのです。
(スタイルを整えた)祈りとは何か?何時から始まったのか?は、この土偶を見てから興味を持ち少し調べてみました。

チャチャっと見ただけで詳しく調べてはいないのですが、「祈りのポーズ_歴史」で調べるとオーランスのガタコンペの祈りの壁画に出くわします。しかしこれは3世紀。かなり後世になってから。
この両手を高く上げる祈りのポーズは、教会礼拝の祝祷で牧師が祈りをささげる時のそれですね。

別のWebSiteを見るとメソポタミア文明に見られる「祈りのポーズ」をとる「祈る男」(紀元前2900〜2600頃、サウジアラビア国立博物館は手を胸の前で組んでいます。
シュメール初期王朝時代3期 紀元前第3千年紀中頃の男性祈念者像も同様に手を胸の前で組むポーズ
紀元前3500~同2500年ごろのカルヤト・アルカァファ出土の人形石柱も同様。

一方合掌で検索すれば、合掌は仏教発祥の地であるインド古来からの敬礼形式を由来とし、その起源は仏教の歴史より古い、と書かれています。つまりはBC500年より前頃に発生した挨拶の仕方のようです。

例えば危害を加えてくる相手に歯向かう意思はなく命乞いをするときは手を合わせます。オーランスのガタコンペの祈りのポーズは、特に銃社会における抵抗のない意志を示させるホールドアップに通じるものがあります。
かなわない、抵抗しない、のは何も人間だけではなく、もとはと言えば人智を超えた神にこそ敵いません、抵抗しません、御心のままにと言うのが祈りなのでしょう。

出産の祈りは、人生における最大の瞬間です。その時に自分の力だけではどうにもならない故に祈りながら座産をしているとすればやはり大いなる感動です。 

弟子たちの宣教

2018年7月22日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 6章7-13節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。



先々週の聖書の箇所の続きです。ふるさとの村では、俺たちと同じような生活をしていたやつが何を言っているんだ、と、「イエスのおいたち」知っている故に冷静に話を聞こうとしない姿を目の当たりにした弟子たち。イエスから離れて伝道することに不安を持っていたことでしょうけれど、イエスはそんな弟子たちに自分たちだけで伝道をするように言われた訳です。
しかし、ただ送り出すだけでなく、イエスの配慮する姿が書き残されている訳です。

パンも、金もなく、下着すらも余分に持っていくな、と命ずるイエス。僕らが旅行に行くとですらいろいろなものを持っていきます。
カメラや携帯電話、電気が無くなったら困るから充電気に、メモリー。
雰囲気に合わせて、あの洋服にはこのズボンだな、とか、夏らしいワンピース持っていこうかしら。時には旅行の併せて新しい洋服を買っちゃおう、なんていう方もいるかもしれません。
体調崩した時ように薬も必要だし、寒いといけないから上に羽織るものも、あと雨が降るといけないから傘も入れなくちゃ。
ホテルの歯ブラシが堅くて嫌だからマイ歯ブラシや、自分の髪にあわせたシャンプーを持っていかなきゃ。
タオルついていたかな?ないと困るからタオルも。日差しが強いと肌に悪いから日焼け止め入れとかなきゃあ。サングラスも必要だね。
どんどん荷物が増えます。
何故でしょう?結構心配だからと言う不要な荷物が多いのかもしれません。なかったらとても困るものでない荷物が多いでしょう。旅行から帰ってバックを開けて「これ結局使わなかった」は僕も経験があります。

イエスは必要なものは神が備える、と弟子たちにそう告げたのだと思います。
宣教とは神への絶対的な信頼の上に成り立つものです。
本当にしなければいけないことに集中するようにと言うことなのでしょう。あったら便利かもしれません、でもそちらに気が散り散漫になるきらいはあります。

神に委ね切れるか? 僕には厳しい言葉です。でも、日々の生活は、何とかなるか…、とお気楽です。
そのお気楽を他の人が、「大丈夫ですか?」「もっと老後に備えて貯蓄したほうがいいですよ」と言われるのなら、僕の中ではその貯蓄はまさに『不要な荷物』です。
人生は旅と喩えられます。その旅の最中の居住は仮庵です。それは「立って半畳、寝て一畳」の言葉通り、ささやかな物でもやって行けるのなら、大きな家もたくさんの部屋も『余計な荷物』です。
自分が出来る限り身軽なスタイルで生きれればよいのかもしれません。
なくてもどうにかなる。と言う精神的な余裕。それが神から来てればいいのでしょう。無理をしてストレスになってもいけないと思うのです。
派遣をするにあたって権威も授けられた、と書かれています。がまさに無理のないストレスのない人生は権威だと思います。誰からも拘束をされてはいけないし、人生を楽しまなければならない。

さて、もう一つ大きな提言がありました。それは2人ずつ別けたということ。1人ずつ出かけたのではなく2人ずつ。
そこには当時のルール、証言をする時は1人の証言では信憑がない事や、またトラブルにあった時も2人居れば解消しやすいからでしょう。
しかし何よりも相談する相手、旅すがら雑談をする相手が必要だからだと思います。
人生と言うたび、何も結婚・パートナーと言うだけでなくても、親友や相談に乗ってくれる友でもいい、複数で歩んでいくことが大事ではないでしょうか?
「単独」と相対する言葉の「大勢」と言う言葉。その中の最少人数の2人、これ以上減らせられない人数です。

どこかで人の世話にならなければならない時、相手の提供品の品定めをしてあっちの方がいいとかこっちが豪華だとかいうのが失礼な話でしょう。好意に甘える時はただ感謝してその行為以上のものを求めないのが人としての道義だと僕は思います。

弟子たちの宣教はまさに僕らがこの世の中を、そして人生と言う道を歩むための大切な教えなのでしょう。
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