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cafe workshop(~(仮称)畑の食卓~)

第1回に引き続き、Tさんをお呼びしての第2回カフェワークショップ。

今日は、E姉が以前小田原教会のあごらで購入してくださった「あかしのおかし」がおいしかったと言われましたので、生田教会に集われているA姉からレシピを頂き、E姉に作って頂いたケーキ

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フェアートレードのネパールコーヒー

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でのティーパーティ。
コーヒー担当の僕としての忘備。
前回のマンデリンは、コーヒー8杯にお湯を8人分の目盛に合わせたら濃いとのお声が上がったので、
今日はコーヒー8杯にお湯12人分で作りました。この濃さでも濃い人、ちょうどいいという人いますが、とりあえずベースはこの濃さで行こうと思います。

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T姉は小田原駅西口にあるカフェえりむの創立にご尽力なさった方。
えりむ創設から今に至るまでの苦労話や心構えをはじめ様々なお話を楽しくお聞きできました。
また、姉妹が集っている酒匂教会でも平日は喫茶ルームとして、時には「歌声喫茶」時には若いお母さんたちの憩いの場としているそうです。
が、松田教会は、改修費用の一部をこの喫茶店から出さなければいけないので、運営上は教会と別の営利団体にしなければならないなど若干の複雑な作業も残されていますし、そもそも工事も自分たちの手で進めなければならないので前途は多難です。
でも、祈れば与えられる、と言うのが聖書の教え。祈りながら頑張りたいです\(^o^)/

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後半はカフェワークショップと言うより、教会学校相談会のような体でしたが、そこはみな教会員関心の深い話にはどうしても熱が入ります(笑)

安息日の主

2018年6月3日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 2章23-28節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」
そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」



【聖書交読】
七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。

牧師の説教もさながら今日与えられた聖書の箇所「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」と併せて今日は交読した聖書の一節申命記5章14節が一番頭に残りました。

以前良い街づくりをするには、「前例主義」「法律主義」「予算主義」をなくさなければならない、と言う話を聞いたことがあります。
市民から提案を聞いて「今までそんなことしたことがないから」=前例主義、「法律ではできない決まりになっています」=法律主義、「いやぁお金がないですから」=予算主義 を崩さないとなかなか革新的な事業は出来ないという話でした。
前例主義の何が問題なのでしょう? それは自ら最善の解決策の知恵を絞ろうとしない事なかれ主義であることでないのはないでしょうか?
ファリサイ派の人々は何を以て麦摘みを非難したのでしょうか? それは、安息日に仕事をしてはいけないと言う十戒の掟を守れ、と言うことだからでしょう。たとえそれが空腹と言う生理的な現象であっても頑なに厳格に守れと言うのです。
神がなぜそうしろと言ったのかを考えることもせずに「前例主義」で、代々そう言い伝えられたからそれを守っているのでしょう。
ミレーの書いた落穂ひろいのように空腹な人が自分の食する程度のものを他人の畑からとることは現在の社会より寛容です。ですから安息日に空腹をいやすために出会っても麦の穂をつまんだことが問題視されたことがわかります。
神の意を問わずに「守れ」と言うのは表向きの自身の誇示です。
政治家の方々も、遠くから駆け寄って「先生どうも」と笑顔でヘコヘコされるのが好きなように、ファリサイ派の人々も「先生どうも」と言われるのがお好きだったようで、そこがこの後のイエスとの溝が深まる理由になります。

安息日は人のために定められた、の意味を考えながら、申命記の「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。」を読めば、階級の低い人が主人に気兼ねなく休みを取るためには、働いてはいけない、と定めることが最短の方策であると読めます。
ブラック企業と言う言葉、過労死と言う言葉が世で使われて幾久しいですが、相変わらずその手の会社は存続し、体調を崩しながら働いている人もいます。
しかし、神の言葉(現在の社会に置き換えれば法律)で破ったら会社をつぶす、と言われれば大半はやめるでしょう。潰されるリスクと適正な労働条件にするリスクを天秤に掛ければそうする人が多いと思います。

それが安息日を守れ、と言う神の教えであり、私たちを愛してくれる神の恵みだと思います。

せたがやがやがやで聞いたグリーフケア―(グリーフを社会全体で支えるために大切なこと)

今回の講演会は写真撮影が禁止されていたので、メモと雑感のみ。
たぶんこの日聞きに来られた方は、主催者のグリーフサポートせたがやさんも講演者の尾角光美さんもみなさんよく御存じの方ばかりだったように思われます。
たぶん両者を知らずに聞きに行ったのは僕ら夫婦だけ(笑)
だから初歩、基礎の基礎も初めて聞く話ばかりでしたが、なかなか興味深かったです。

主催の、グリーフサポートせたがやさんは、オレゴンポートランドのタギーハウスのようなグリーフサポートをしたいと世田谷区内にサポコハウスを設立し、グリーフのケアーに携わっている団体です。
講演者の尾角さんは18歳で父の失踪、19歳で母の死去にぶつかり、母の死により体調の変化や経済的な困窮、孤独感や鬱という精神的なストレスと言ったものに悩まされたところから、このグリーフケア―に関わるきっかけになったと語られます。

グリーフの病状や仲間へのグリーフケア―に関しては専門家の方が多くの著書を書かれていますし、また短い僕の拙い文章では誤解をさせることもあるでしょうから多くは記さないようにします。
がグリーフだけではなく、人はひとりでは生きて行けず仲間との交流と言う社会を形成して生きていく種ですので、他からの影響は大きく又必要とされています。

野宿を余儀なくされているホームレスの方も自分の置かれている生活環境や自分を見ている街行く人たちの蔑視のまなざしを知っており、気軽に声をかけられない人も多いです。が、人間と言う主です、心を開いて良いと分かると堰を切ったように話される人が多いです。

がんサバイバーの方も、近所ではカミングアウトできない人も多く、でも正しい情報や意見交換を欲している人も多いので、リレーフォーライフなどに行くとみな饒舌になります。

尾角さんは、またね=SeeYou(あなたを見る) と言うように、見守ること、人との出会いがケアーにつながると言います。
そしてグリーフのケアーは無理をさせない。100人いれば100通りの対処がある訳で、医者やカウンセラーのような専門家であっても強引に「回復」に向かわせることなく、『喪失と回復の二重過程モデル』といわれる、その人のゆらぎにあわせることが大事だと言いますが、この点もRFLの仲間への対応や野宿を余儀なくしているホームレスの人との会話の中大切なことだと思いました。

尾角さんは、昨年まで2年弱イギリスはヨーク地方の大学院でグリーフの社会政策について学んでおり、今日はその話もたくさんしてくれました。

一番衝撃的だったのは、イギリスにおいても葬式に司祭を呼ばない人が増えているという話でした。
日本においても最近は、家族葬で、と言う方が増えてきています。
最後のお別れのとき、悲しみに浸るよりも、形式化した葬儀への煩わしさ、親族友人、会社関係、近所の人たちをお招きすること、招かれる側も義務化した出席があったりすることへの反発などがあるのではないでしょうか?

グリーフの種類には、悲しみや怒り、無感動、後悔とともに安堵があると尾角さんは言われます。
確かに亡くなった人との別れは悲しいし寂しいですが、それと同時に長いことの看病や介護の疲れからの解放はあり、それを感じる自分自身に冷たい人と言うレッテルを貼り自分を追い込むことは容易に想像できます。
上記の葬儀も、盛大な葬儀をしている間は悲しみよりも恙なく滞りのない「式の執行」に関心がいっていて悲しめない、故に本当に悲しんでいる家族だけでの葬儀を考えるようになっているのかも知れません。

日本の教会は「外様」の集団です。イギリスのように「譜代」ではありません。
おとりつぶしの危機、仲間外れの恐怖を感じているから仲間の関係性は密接です。
違う教派との関係もエキュメニカルを進める部分と、拠所無い場合以外の籍の移動はとても神経質になったりします。
尾角さんは、グリーフサポートに関して仏教界はエキュメニカルに活動していると話されましたが、お話を聞きながらいろいろと思うところがありました。
もう一つ、仏教とキリスト教の違いは、死後の想像の違いがあるでしょうね。
キリスト教の場合は、「永遠の生」が神のみ元であると言われていますので、僕も仲間や仲間家族の逝去に際しては「お悔やみ」は言いません。亡くなった方の御霊の平安と残された家族親族友人の懇ろな慰めが神様からあるようにと言う祈りです。
また僕は死は天国への凱旋という言い方もします。神様がもう帰ってきていいよ、と言う言葉によって死は訪れるので胸を張って天国へ帰ることが死だと思っているので、死への恐怖はありません。
ただ、「『残される』不安」はあります。喪失感は深いものがあります。それは、もしかしたら先ほどの「天国への凱旋」の裏返しなのかもしれません。
それ故にグリーフケアーは大切だと思うのです。

長くなったのでもう一つのエピソードを書いて終ろうと思います。
社会経済学。
ビックマック論。

ビックマックはバンズの間に何層かのミートと野菜が重なっています。全体をがぶっと食べる、バンズ、ミート、野菜のバランスはいいでしょうか?これをマクロ経済と言います。
バランスがいいためには、バンズに拘らなければなりません、肉質も重要です。レタスも新鮮なシャキシャキ感が欲しいですし、調味料も吟味したいところです。この個々の食材をミクロ経済と言います。
しかし、いざ店舗でビックマックを提供すると、マクロでもミクロでも語れない問題点が出てきます。その中間のことをメゾ経済と言います。
社会の中も地球全体や国家というマクロ、各個人や家庭と言うミクロではなく、メゾと言う市町村や市民グループと言うものの存在が大切だと言われます。イギリスが日本より優れているのはその点だとも。

こう話を聞いてみると、グリーフケア―がしっかりできれば、様々な社会問題が解決できるような気がします。
困窮の中の人に寄り添う大切さとスキルは死別のグリーフケア―でも野宿を余儀なくしているホームレス支援も、沖縄で基地反対を声高にしている人たちにでも、みんなみんな一緒のような気がします。
支える、支えられる、だから社会です。

死別 特に理不尽と思われる突然の別れより大きな悲しみ苦しみはないのかも知れません。ですから逆に他の社会問題の活動をしている人には一度違う系統の話かもしれませんが聞いてもらいたい話でもありました。
有意義な講演会でした。

せたがやがやがやで聞いたグリーフケア―(枕話)

三茶のせたがやがやがやで尾角さんと言う方のグリーフケア―の講演があると聞いたので行ってきました。
司会者もあいさつで言っていましたが、この好天の中休みを利用してここに来てくれるだけで感謝、なんだと。確かに、休みの一日色々な過ごし方があります。三茶に行くだけじゃあもったいないです。

という訳で、世田谷の学校に4年間通いながら乗ったことのなかった世田谷線に乗ってみようと少し大回りをして会場に向かいます。
母校の最寄り駅の隣接豪徳寺駅。山下駅までは徒歩2,3分。
きたぁー!

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この電車にIDカードで乗る時は乗る時だけタッチの150円均一。
市電と言っても線路は電車の専用路、車に邪魔されることなくのんびり走ります。
終点の三軒茶屋で下車し、知人から勧められた割烹店へ。お昼はリーズナブルな価格でおいしいものが食べられるとか(^_^)/

英(はなぶさ)さん

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海鮮丼は1400円。刺身だからでしょうか、箸休めの小鉢が薄味で、主役のお刺身の邪魔をしない。逆に食後頂いた茶碗蒸しは少し濃い味の出汁で作っており仕事の丁寧さを感じさせます。
非常にまじめそうな口数の少ない大将は元高校球児だとか。18m先で待ち構えているバッターの6cmの太さのバットとの勝負。緻密な指先はもしかしたら共通項?  とてもおいしかったです(^_^)/

さて、昭和女子大の横を抜け下馬の市街地を歩きます。
都会の先進さと下町の風景のミックス。

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暑かったけれど楽しい街歩き。
さぁ、いよいよ待ちに待った講演に!
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take1960

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