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小田原市 生活保護行政に関する 検証会

小田原市生活保護行政に関する検証会なる集会が30日14時から小田原駅前のUMECO1―3会議室で開催されましたので行ってまいりました。
寿日労のKさんや、パトメンバーのKさん、そして昨秋に「さとにきたらええやん」をご一緒に実行委員としてご尽力くださった方10名ほどと知った顔がずらり。
事の顛末は、小田原市ジャンパー事件を検索してもらえば概要は理解頂けると思いますし、拙Blogでも「生活保護行政乃あり方検討会」には行われた4回の協議とそれを受けてのシンポジウムの様子を書きました。
最後のシンポでは、『「有識者と協議して提案を頂いた」だけでは済まない。1年間その提案を受けてどう変革していくかの検証が大切』と行動こそ反省と言う強い姿勢を自らに課し、この日になった訳です。
会場はマスコミ数社を含む多くの方でほぼ満席。その前には、5名の有識者の皆さん、小田原市関連部署の福祉健康部長、生活支援課長ほかの職員が向かい合って座り、市長と座長の井手氏のあいさつでスタート。
支援課長が、配布された「生活保護行政のあり方検討会からの改善策に対する取り組み状況」とそれに付随した資料を読み上げてから、各有識者の方が意見を発現されました。
膨大な意見交換なので、僕が強く記憶した数点のみ記載します。

ここまで1年間通常の業務をこなしながらの新な施策提言を矢継ぎ早に作成し実行を重ねた行政の尽力に対して、各有識者の方は一様に及第点を評価されましたし、僕自身もそう思っています。
特に3月末に検討会を終えて、わずか1カ月ほどで「新生活保護利用のしおり」を作り上げた熱意にはただただ驚いた覚えがあります。

しかし、満足いくかと問われればそんなことはありません。昨日今日のこの日の案内をUPした際にも記しましたが、NPO無料低額宿泊所は一時避難でありながら、アパートへの転居を申し出ると、申し出た日から無低の管理人さんの意見を踏まえアパートの転居を認めるか協議する、と言った言語道断のガイドラインを持っております。
金づるである入居者が施設から出て大丈夫かどうかをその施設利用者と言う関わりの深い人の意見を聞くと言うのは、まさに癒着以外の何物でもないことをやっているのが実態です。
しかし、それを小田原市だけの問題にしてでは解決しません。これは県行政の下達であり、そもそもセーフティネットである住居を民間に委託していることが問題なのです。
でも、野宿を余儀なくしている方々、それを支援する僕らは、目の前の行政である市町村にその問題点を提議し解決に向けての努力をしていただくしかないのです。

有識者の一人和久井氏は、「(今回の改善策について)いちばん大切なことは利用者がどう評価しているか?」だと言います。
まさにその通りで、野宿を余儀なくしている方、様々な困窮でこの制度を利用しようとしている人に、『小田原市は変わった』ことがわからなければ、絵に描いた餅です。
その点はどうでしょう? 今日このような集会があることを市民のどれくらいの人がご存じなのでしょうか? 小田原市は、どういう手法で市民に広報したのでしょう?
評価の以前に、情報が伝わっていないことを危惧します。

また、和久井氏はこうも言いました。「困った時相談できる、信頼感のある市役所になったか?」
今日の行政の回答は聞いていて難しい部分が多かったです。それだけ高度な施策をしているのでしょうけれど、それが市民に伝わらないと意味を持ちません。
毎日その仕事をしている担当者なら、生活保護法と生活困窮者自立支援制度は違うことは当然のことで、語る言葉に主語がなくても、今語っているのは保護法なのか自立支援制度なのかは常識的に使い分けていますが、僕らは頭の中で咀嚼しないとどちらの話をしているのかわかりません。この点も利用を希望している人に明確に聞き取れるように語ってほしいものです。

猪飼氏は、大前提を振り返ってみようとこのあり方検討会の発足に戻って意見を言われます。生活保護はセーフティネットでありながら、その存続は形式的になり下がり、使わせない前提での業務になっていた。この点の反省をどう活かしたかが今日のポイントだと語ります。
それに対して和久井氏が捕捉します。
高齢者、障碍者、その他の方の保護受給率の増加に比べ、母子家庭のそれは変化が異なる、と言うのは昨年から何度もお伝えした、と。
それに対して支援課長は、推測の域を出ないが、
1.小田原市は家族と同居している率が高く、保護の利用をしなくて済む人が多い。
2.例えば幼児の送り迎えや病院通院などで車が必要、かつ、生活保護になると車の所有が出来ないと思っている人が多い。
3.住居確保給付金等の事前の貸し付けをうまく利用している
と語りましたが、和久井氏より、相談に来たとき、車がつかえなくなってしまうことを苦慮しないように、先読みして不安になりそうなことを払しょくしてあげる努力も生活保護を利用してもらう努力ではないか、と語ります。

施策やマニュアルはかなり出来上がりましたが、こうしたPRや思いやりの対応などはまだまだスキルアップは必要だと思います。
そして、有識者からの提言は、市民への啓発についても定義がありました。
例えばこども食堂などは、貧困だけに特化すれば、行っていることがばれれば貧困故のいじめの対象に遭うかもしれないと思えば来なくなる。
また、貧困困窮と言うのは経済的な物だけではない。
つまりは『生き易い小田原』『街づくり(ケアタウン)』として生活保護行政は市民と向き合わなければならないと。
そうなると、主体は生活保護担当部署ではなく、全市を挙げての街づくり計画になるでしょう。
そして行政が向かおうとしているベクトルが市民のそれと一致しているのか? 協力をしている市民グループと充分な情報共有を持っているか? など、市職員のクローズドの研修ではなく、開かれた皆で作り上げる町づくりとして、この問題もうまく利用してくれればと思います。

何度も言いますが、まだまだ細かい点については、僕はもろ手を挙げて合格とは言えません。が、1年間と言う機関の中で行政内部の改革は十分果たせたと思います。
あとは利用者、利用者以外の市民、関連グループと充分な意見交換と情報共有を今以上やっていければ、あり方検討会の意味が出るものだと思っています。

わたしにとどまりなさい

2018年4月29日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 15章1-8節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。


説教の初めに清水牧師はぶどうに関する2か所の聖書を紹介されました。

イザヤ書5:1-7
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に ぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り 良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。さあ、お前たちに告げよう わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ 石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず 耕されることもなく 茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに 見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに 見よ、叫喚(ツェアカ)。

マルコによる福音書12:1-8
イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

こうした聖書の御言葉から
神は正義を重んじる人々(甘いぶどう)を望んだのに、正義を踏みにじる人々(酸いぶどう)が出てしまったと語り、また、預言者(マルコの喩えの僕)を軽視し侮蔑し殺し、そして神の子(マルコの喩えの息子)を十字架に付けて殺したという、当時のイスラエルの農業の中ではわかりやすい農作物を喩えに使っていることがわかります。

そして今日の箇所も十字架の死を待つイエスの喩えなので、それはのんきに読むような箇所ではなく、この世の悪(人の心に入り込む)ものがいることを示し、それとの闘いを命ずるイエスの言葉として聞きたいものです。

清水牧師はこの箇所に「とどまる」が何度も使われていることに注視します。ぶどうの枝として幹と繋がって居れるようにとどまれ、と聖書は言うのです。

よくアクション映画で、主人公と敵役が高所で戦うシーンがあります。得てしてそういう時はどちらかが足を滑らして落ちそうになるのですが、仲間か相手が手を伸ばし必死に落ちるのを防ぎます。
いろいろなパターンがあります。落ちそうな人が落ちたくないと相手の腕をしっかりつかむ場合、助ける側が相手を落とすまいと必死に相手の手を握る場合、敵役が今までの自分の行動を恥じて相手の出した手を振りほどいて落ちていく場合。
今日の聖書は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」と書かれています。僕らが何かの理由でキリスト教に希望が持てなくなっても、イエスは「わたしもあなたがたにつながっている。」と言ってくれています。
アクション映画で言えば「いいか、俺が絶対お前を助けるからな」と何とか落ちかけている人を引き上げる手はずを考えてくれているのです。落ちかけている僕らは、その手を振りほどかない限り助かるエンドが待っています。あなたがしっかりつかんでくれている手を振りほどかない限り落ちることはないのです。
「とどまる」とはただ神を信じてぶら下がっているだけでいいのではないでしょうか?
そもそもそんなシチュエーションで落ちかけている人が自ら何か出来る術はありません。ただ信じるだけ、ただ相手にすべてを委ねるだけです。
ぶどうの枝である僕らはそうやって生きることで救われることに希望があります。

小田原市生活保護行政に関する検証会

20180430-01

ジャンパー問題に端を発した福祉政策について、有識者からの意見提案を受け福祉課は取り組んでまいりましたが、2017年8月の時点ではまだまだ無低とのかかわりなどは腰が引けた状態で、市との意見交換の席では改革に向けて発奮を促したところです。
そして9月、私事ながら転居をし、活動になかなか参加できなくなりました。

さて、その後半年どれだけ変革したのか? 有識者の方々は、それをどう評価するのか? 興味あるところです。
数日前になってしまいましたが、ご参加できる方はぜひ参加してみてください。

「水を抜く」ダメージ

昨説教の話に通じるものもあるけれど、「突き詰める」「ピンポイントの真理の追求」は、「(キリスト教の言う)罪人」である人間には不可能なことなのかもしれません。
昨主日に与えられた聖書が語る「ピンポイント」は着ている衣服1枚は財産なのか?でありましたが、その晩見た「池の水全部抜く大作戦」でも、同様なことを感じました。

この番組に関わった方から、水の抜き方が生態系にやさしくない、という疑問を投げられたことがインターネットに載りました。
大勢の人が一斉に池に入り踏みつけながら歩くので逃げ遅れた魚が犠牲になる、等の意見は一理はあります。
沖縄の基地問題で「ジュゴンの生息地だから」という反対運動がありますが、僕は希少生物が居ようが居まいが同じだと思うのです。希少生物が居てもそこでしかできないことでどうしてもやらなければいけないのなら致し方ないし、たとえ何も生物が居なくともやる必然がなければやっちゃあいけないと思うのです。闘いの戦法としては「ジュゴン」を使うのは悪くはないかもしれませんが、僕は「希少生物の生息地だからほかに作れ」ではありません。基地自身の存在にNoなのです。

しかし、誰もが庭の落ち葉を拾い集める時、箒によって昆虫にダメージを与えているかとは考えなく、ましてやアリなどを踏みながら掃除していることに無頓着なはずです。
害虫防除の薬を撒く人もいますし、捕まえて駆除する人もいます。もっと言えば、雑草は大半の人が抜いて駆除するのは当たり前だと思っているでしょう。
極論から言えば、コレラなど危険な病原菌は絶滅させようと人類共通の願いとしてやってきました。

生命の重さに、明らかに違いがあり、池の魚や沖縄のジュゴンは守られるべきものであるけれど、雑草やコレラ菌はあってはいけない命なのです・・・と思われていると思うのです。

でも、僕の人間として生活している中、その考えはおかしい、とは言い切れません。蚊が血を吸ってかゆくなれば恨めしく思うし、草むしりが終わるとすがすがしくなります。
里山が荒れ居所を失った動物が人里に下りたニュースには恐怖を覚え自分の近隣に来なければいいと思いますし、海難事故で油まみれになった海鳥や大量のプラスチックが胃の中から見つかった大型海獣の話を見聞きすれば悲しく思うものの、残念ながら自分の生活から石油製品を皆無にする不自由さは考えられません。
「環境」という言葉は人間が作り出した言葉です。人間がいないところには、自然や植生などはあっても環境はありません。環境は人間が住みやすいように変化させるゆえに環境です。
ですから環境的に考えれば、コレラ菌の管理ですらも公衆衛生的な環境問題ですし、至極当然な管理だと思います。

エゴイストである自覚は持っています。それは、イエスに問うた若者と同じ悲しみを抱えたものです。
が、ストイックに生きたところで、完璧は出来ないでしょう。
一休禅師は、蚊帳から片足だけ外に出して寝たという言い伝えが残っています。それは手足が両方出ていると思わずつぶしてしまうのでたたけないように手は蚊帳の中、とのこと。僕には脅威のストイックな発想ですが、それでも完全ではないわけです。
それを言い続ければ、イエスすら完全ではなかった訳です。イチジクも枯らしたり、アリを踏まないように歩いた話はありませんし…。
聖書の言う罪とは「神の意志」に背くということなので、聖書から得るものは「哲学的や倫理的な側面でありどう生きるか?」の追求のように思えます。
今の科学のように自然界や生物界をもコントロールし始めている中、2000年前には考えることもなかった目に見えない生物の存在やたとえ同じ人間でありながらも性差が色濃く残る時代において動物や昆虫への愛情などは、聖書ですら語られなかった、事も確かだと思います。

そう考えると、宗教は自分の生きる時代時代で自身の持ち得る知識を加味してなるべくBestに近づくことが大切なのかもしれませんし、逆に今の僕らも「せいぜい21世紀の知恵」レベルなので、全治の神に全てを委ね、無理する毎日ではなくただ神により頼むだけが大切なことかもしれません。
ただどちらにしても確かなものは「完全な人はいない」「誰もが罪人」であることの自覚なのでしょうね。

池の水を抜く時にどれだけ十分を尽くしてもダメージを与えることは確かで、水を抜かなくても生きていることだけで地球にダメージを与えています。それでも神は生きることをよしとしてくださったことに感謝をもって生きたいです。
この最後の言葉が先日の説教の大事な部分でした。

神のみに信頼を寄せて

2018年4月22日、日本キリスト教団平塚中原教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 10章23-31節。表記のタイトルの説教を島耕一牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(島牧師の説教はこちらで読めます

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」


小田原教会前任の島牧師が、平塚の小さな無牧の教会で説教のご奉仕をなされると言うので伺って来ました。
小田原、聖契松田、そして旅先での様々な教会に伺い、それぞれの礼拝スタイルを見るとその教会の色と言いますか、大切にしているものが見えて興味深いものです。
特に聖契松田と平塚中原は、礼拝中「立つ」ことが少なく、また式文に従った唱和もない点で類似しています。ともに10人前後の群れだからかもしれませんが、礼拝自体自然体な点も似ていました。

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さて、今日教わったお話をば。
有名な金持ちの青年のお話は、少しずつの違いはあれどどの福音書にも載っている話です。

島牧師は、過去から講解されている2点をまず挙げられました。1つは、財産は悪、と言う発想。そしてもう一つはイエスに従うこと、と言う点。
1点目のことから言えば、イエスの着ている衣類は財産なのか?と言う議論が中世のカトリック教会の中で本気に取り上げられたことがあると語られます。
そして併せて、2本の映画を紹介されました。1つは、ブラザーサン・シスタームーン。もう1本は薔薇の名前と言う作品。
後者は名前すら知らない映画でしたので、このBlogを書く前にぜひ見ておきたいと、Amazonプライムで翌日着を見つけてポチリ、としてただ今観終わって書き始めた訳です。

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中世カトリックは、財をなし巨大化していく訳です。力を持てば、支配欲がまし、魔女狩りや免罪符と言った、祈りの場としての教会は形骸化してしまう訳ですが、同時に清貧を求める考え方も広がった時代でしょう。
修道会などはそうですし、そこから派遣された日本への伝道をした師たちの部屋は誠に質素であることが、今も長崎を始め見ることができます。
嘘か誠かはわかりませんが、千利休も茶道を確立した時の躙り口や詫寂は、その清貧を旨に日本に訪れた宣教師たちからヒントを得たと言われていますが、僕はその意見は興味深く思っています。秀吉の成金主義を諌めるにはこの清貧の精神は使えると思ったのではないでしょうか?
同様に中世ヨーロッパの各修道会もイエスのこうした言葉を実体験しようとし、中央のカトリック教会とのベクトルの差を感じていたのかもしれません。
ベクトルの違いは、カトリック教会自身も持っていて、権力を未来永劫持ち続けるためには、財産的に貧しい庶民の敵意が教会に向かわないように考えていたのかもしれません。
映画「薔薇の名前」の中にも、異端宗派のドルティーノ派は、この修道会の中でも小さくなって過ごしており、財産を持つことに寛容なフランシスコ派の主人公に敵意を持ったりもします。
同じ清貧であればこそ、些細な違いが許せないのは、聖書の世界でもつい先日までの日本の学生運動や、いやもっと最近でも選挙のたびに話題になるのは、野党共闘ができるか否かと言う話と同じなのかもしれません。(まぁ日本の2つは単なる権力争いだけなのかもしれませんが)

しかし歴史を見ればこの後宗教改革が起こる訳です。ルターやカルヴァンが清貧を柱としてカトリック教会にプロテストします。

しかし、この時イエスが言いたかったことは何なのでしょうか?
逆に、青年が教わりたかったこと、問答を聞いた弟子たちが思ったことは何でしょう?
この直前青年は、「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」と書かれています。ペテロはすべてを捨てて従ってきたので大丈夫ですよね?と不安がるのです。
救われる「ために」何をするか? の回答をイエスに求めているのですが、イエスは『自分が何も持たなくなった時に神の従って生きられるか?』を問うていたわけです。
インマヌエル、神共にさえいれば(財産などなくても大丈夫)恐れずに足りない。

見方が逆さま故に、青年側からの見方だけだから、この聖書の箇所はストイックな薄い服1枚も財産なのか?と言う議論を生んでしまうのかもしれません。
イエスの言わんとした側からの神への帰依、すでに救わられている感謝、財産よりももっと確かな神の大きな愛、に安心していきたいものです

子どもたちの意見の方が正論に見える

あるところに、腕は良いが、
あまり売れない手品師がいました。
彼は、いつか大きな劇場で手品をすることを夢見ていましたが、
ものすごい貧乏で、
その日のパンを買うのもやっとのことでした。

そんなある日、お父さんを亡くし、
お母さんは働きに出てずっと帰ってこない
という男の子に出会います。
手品師は、その男の子に手品をしてみせます。
男の子はとても喜び、手品師は、
明日もここに来て、手品を見せることを約束します。

その日の夜、手品師に友人から電話が届きます。
明日、大劇場で手品をやる手品師が急病で倒れたため、
急きょ、大劇場で手品をするチャンスがあるから、
今すぐ出発してきてほしいという言うのです。
手品師は、男の子との約束と出世のチャンスを交互に考え、
結局、友人の誘いを断りました。

次の日、手品師は、
たった一人のお客さんのために、手品をして見せました。


この道徳の教材を使用し、子どもたちに伝えると、子どもたちの意見の多くは、「男の子を劇場に呼んであげればいい」だそうです。
なるほど理に叶っている。流行りの言葉でいえばウィンウィンの関係。
しかし、授業で指導する教師が、「手品師は一人の男の子のためにいいことをした」ように言うと、教室の空気は変わり、先の発想は影をひそめるのだそうです。
まぁ、聖書も道徳的な読み方をする人も多く、一匹の迷える羊の話も同じような形に解釈される場合もあると思います。(「先生」と呼ばれる人は誰もが持つ危険性ですね)

いろいろなアンケートがあります、「あなたは○○について賛成ですか?反対ですか?」ほど回答に窮するものはなく、そこまで行くプロセスがどうであるのか、とか、△□のような例外にはどう対応するのか、などを含めて0-100%の範囲で自分の意見を決める人がほとんどでしょう。単純にYes,Noでは答えられないものでしょう。
この話ならまず子どもたちの言った至極まともな回答に対して、教師はなんて答えるのか? が、最優先ではないでしょうか?

そして、この手品師は、劇場勤務の友人を困窮に落ち入れらせたことも分析しなければいけないでしょう。友人の依頼を断るという非情さを隠しているのは、『貧乏なのに自分の夢や経済を優先しない』という色眼鏡ではないでしょうか?

桃太郎の話を思い出しました。あの話は2部構成です。桃から産まれたと言う出生に関してと鬼退治に行くという話です。そこには、鬼の非道さは書かれていません。もしかしたら「泣いた赤鬼」のように村人たちと仲良くしたいがためにコツコツと働き貯めた財産かもしれません。
それを鬼=悪者(明治政府以降のヤマト民族選民思想)として征伐するのは至極当然という「常識」を国民に植えるものだったように思います。

福澤諭吉氏は、「ひゞのをしへ」の中でこのように書いています。
「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや。たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり。もしまたそのおにが、いつたいわろきものにて、よのなかのさまたげをなせしことあらば、もゝたろふのゆうきにて、これをこらしむるは、はなはだよきことなれども、たからをとりてうちにかへり、おぢいさんとおばゝさんにあげたとは、たゞよくのためのしごとにて、ひれつせんばんなり。」
簡単に言えば不法侵入で財産を勝手に持ってくるとは犯罪行為だ。しかもその理由に大義名分はなく、得たものは家族にあげて裕福になりましたというのは極悪非道な行為だ。と。
しかし、国民の扇動のためにこの話を使いたい政府はこうした福沢諭吉氏の話を取り上げるはずもなく今日まで来ています。

そもそも童謡唱歌「桃太郎」も、桃太郎さん桃太郎さん、お腰につけたキビ団子、一つ私に下さいな だけはよく聞きますが、明治から昭和初期までは
そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。
おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。
万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。

やっつけることを面白がる…(>_<)。
そして手品師のように自分の夢をあきらめても他人に尽くすこと「のみ」が美徳だ、と教えられた多くの若者が、未来を捨てて戦場へ行って国家に尽くしながら死んでいった事実もあります。
やはり道徳は日々の生活の中から得るもので学校で指導してはいけないですよね。

cafe workshop(~(仮称)畑の食卓~)

第2回目の会合。
今日のコーヒー当番は僕、という事で、スマトラマンデリン中挽きを持っていそいそと(^_^)/

20180415-01

まずは忘備録。コーヒー豆を計量スプーンで入れると、中挽きより少し多めになるみたいです。15スプーン引いたら少し(約05スプーン)余りました。
その量でも、濃い目が好きな僕にはちょうどよかったですが、少し苦いと言われた方もいました。
何よりも、今の世は10人居たらコーヒー3~4人、紅茶6~7人と言う感じで、意外とコーヒーは人気無いようです。

E姉のケーキ。甘さが抑えられて、レーズンの酸味と塩梅ばっちし\(^o^)/

20180415-02

今日は講師として来ていただくはずだったTさんは、ご家庭の事情で叶わず。
そんな訳で集まった人で雑談となりましたが、新しく来られたHさんやNさんやお久しぶりの名前失念氏ともおしゃべりできてそれはそれでよかったかな、と。
次回に合わせて、ネパールコーヒーを購入して次会に備えます。

イエスその御名は

2018年4月15日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉はルカによる福音書 24章36-49節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」


このBlogを読まれた方で、キリスト教の考え方っていいですよね、と言ってくださる方はたくさんいても、キリスト教を信じます、と言う方に出会ったことは本当に稀です。と言うよりそういう方は僕のBlogから信仰の道に入った訳ではなく、Blogの文字は単に神様が与えてくれたきっかけの一つだったのにすぎません。
「信じる」と言う事柄は「事実」ではない訳で、「証明」は出来ないものです。逆に「証明」できるものは「信じる」必要性はなく、信じなくてもそうなっちゃうのです。そうなるかどうかわからないから「信じる」必要があるのです。
ですから「信じる」ことは、このBlogの文字のようなもので他の人がどうこうできるものではないのです、人の力によって信じるように見えたとしてもそれはすべて神の力なのです。
神の力、つまり今日の御言葉で言えば、神の力で「心を開いた」ら、信じれるのです。他人が「信じなさい」と言ってどうなるものじゃあありません。
イエスの弟子たちが、復活のイエスに出会ってでさえ、幽霊を見たのだと恐れおののくのです。21世紀を生きる僕たちが、神の力なくして信じることは不可能なことなのでしょう。

そして今日最後の「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」と言う御言葉。これはペンテコステへの預言でしょう。イエスに出会った弟子たちはこの言葉の意味は理解できたかできなかったかはわかりませんが、この後もイエス一派とわからないように隠れ震えながら生活を続けます。
そしてペンテコステを境にキリスト教は変わります。
イエスと言う神の子の誕生と復活。これが記念すべき日だと言うのは重々理解できますが、ペンテコステの大事さは僕はいまいち理解できてなかったと思います。しかし人目を避けていた人たちが、死を恐れず自己主張すると言うのは、神の力のほか何もないのでしょう。
イエスと言うメシアの誕生と復活だけでは、宗教として成立しなかったわけで、それが今日多くの人が神の力を信じ、イエスのみあとを歩むことをよしとしているのは、信徒の宣教の力があると思います。
『あまねく告げ知らせよ』、困難にあってもそれを実行した「人間の力」、これが3つ目のキリスト教の大きな喜びの日、ペンテコステなのでしょう。ただイエスのみを讃える集団ではいけないのでしょう、神から頂いたタラントを生かす生き方をしなさいということを思い起こし奮える日がペンテコステなのでしょう
そういう意味では、「信じる」という行動の奇跡の本質を教わった気がいたします。

さて、途中不可思議な一文が挿入されています。それは復活のイエスが焼き魚を食べた、と言う記載。なぜ魚を食べると信じれなかったものが信じれるようになるのかは不思議な感じがしますが、エマオに行く途中の2人も同行者が誰だかわからなかったもののパンを裂いた瞬間にイエスだと分かったという記述があります。
パンと魚は5000人の給食の奇跡で出てくる食物。そして食事を共にするという、生きるための最大要因を一緒にする中で信仰も共有できるのかもしれません。
教会の仲間(兄弟姉妹)であったり、クリスチャン以外の友人であったり、親交を深めるのは食事の場であったりするとなるほどと思わず納得してしまいます。

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ハナナシ

別名マメナシ。絶滅危惧IB類 (EN)なのだそうです。多度山のみどりヶ池というところに群生しているらしいです。
湿地帯を好むので池や沼地のそばに咲くので、周囲の雑木林を背景に花の時期にアンダーで花を浮き上がらせると妖艶な感じで撮れそうです。

つぼみから開花は

20180414-01

20180414-02

20180414-03

と4枚の花弁がシンクロして開かずに変則的に開きます。

旧約聖書サムエル記でも有名な花ですよね。
えっ?こんな花など出てこない、って?
「おはななしください。しもべは聞いております。」って
失礼いたしました(^-^;

こちらにも写真を投稿いたしました。

自民に変わる野党がいない

表記の意見をよく聞く。
頼りないとか指導力がないとか。

本当にそうなのか?

これだけ不祥事を起こし続けるのは、そういう思い込みの国民が、いついかなる時でも自民(&公明)に入れ続けるからじゃないのかい?
何をしても俺たちは許される、そう思い込ませたのは、いつまでも一票を投じ続けたほかならぬ頑なな保守支持層だろう。

どうみたってこれ以上ひどい政治をすることはない。
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