主の証人として

2017年5月28日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章44-53節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



本田哲郎神父の「釜ヶ崎と福音」を読み終えて、その中に
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10章40-42)
の最初の「あなたがた」は誰を指しているのか!? これを自分のように思い、それ故に等しく隣人との共生を説きますが、ここは十二弟子、つまりは底辺層で生きている人を受け入れる人は幸いな人と言う意味だと記しています。
とかく、聖書を読むとき自分に置き換えたり、イエスのみあとを歩くためにどうすればいいか?を考えます。
でも、そのまま読んではいけない。自分はそこまで困窮していないだろう、もっと大変な人のために隣人を受け入れる立場なことを自覚せよ、という時もあるのだ、と頭に刻まれた中での今日の説教。


エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。と書かれています。文字通りこのあなたがたは私たちの事ではないですが、しかし私たちの事でもあります。上記のマタイによる福音書とは違い、イエスに会ったことのない私たちも証人としてその歩みと栄光を言い表すことができます。

ではイエスの栄光を言い表すとは何か?が問題になります。
いろいろな教会の中で、牧師の説教で、足が悪くて車いすで来た人が、教会で聖霊に触れ、帰る時には歩いて帰れるようになりました。ハレルヤ。と言う内容の説教があります。
体調がよくなる場面は聖書の中にたくさん書かれ、そこに希望を持ちますが、神の愛は肉体の変化がすべてでしょうか?肉体がよくなったからキリスト教は素晴らしいのでしょうか?
そうではないでしょう。

イエスは何をしたか?それは癒しをしました。癒しとは一番近い日本語は「手あて」だと言われます。手をそっと触れる、そのぬくもりは、決して完治する治療は出来なくても、心がほっとできるものだと言います。
そしてもう一つ「憐れんで」と言う言葉。これは沖縄の肝苦しい、向き合う言葉に重なります。
結果を求めるのではない、とっさに隣人と向き合うこと、これがイエスの証人としての生き方でしょう。

この週僕はがんのソウルメイトの病状の悪化を聞きました。わがことのように苦しい話です。そしてでも何もできない自分が不甲斐ないです。
そんな苦しい状態の時、なにもできないけれど、神に委ねること祈ることが一番の僕らのすべきことで出来ることです。イエスが出会った人に寄り添ったように、僕も祈ることで友人に寄り添いたいです。それを促すのが今日の説教だったのかもしれません。

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6月1日のパトビラ(№980 - 生活困窮者は減ってはいない -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

厚生労働省によりますと、今年1月に全国の市区町村で行われた巡回調査で、河川敷や公園などで確認されたホームレスの人は5534人で、去年から701人減りました。調査を始めた2003年からおよそ5分の1に減少し、過去最少でした。男女別では男性が9割を占め、都道府県別では、東京都が最も多い1397人、次いで、大阪府、神奈川県の順でした。
と言うニュースが5月24日TBSより配信されました。
では、生活困窮者が居なくなったのかと言えば、例えば無料低額宿泊所に代表される貧困ビジネスで自由を奪われたり、また24時間店で過ごしたり、アパートに入居しながらも1日1食しか食べられない毎日を過ごしたりしています。ようは場所を変えただけに過ぎません。
決してめでたしめでたしと言うわけではないのです。何の社会問題も見えないところに押し込められ、問題がなかったことにされることが一番の大きな問題です。
同時にオリンピックや万博を言い訳に寄せ場(ドヤ街)の再開発を計画している話もあります。町中から1か所に押し込めらせ、その場所すら奪われる、この国の弱者への風当たりはひどいものだと言わざるを得ません。


北京オリンピック、ブラジルオリンピック・・・オリンピックになると各国のスラムは為政者の手によって破壊されます。
外国から見た母国が「かっこいいように」、人の命を無視してでも体裁を繕う。
そこにいた人はどうするのだろう? 狭い場所にひしめき合ってでも生きている人たちをバラバラにする。それは弱者が支え合う「寄せ場」の解体、つまりは集団による強者化を防ぎ、文句を言わせないようにする手段。物理的な「居住」だけではなく、寄り添い支えあう「人の交流」という精神を破壊する行為。
そこに大手資本が再開発の名で低価格で土地を買う名目が手を貸す。

全国から野宿の人数が減ったという報告書。景気が良くなったというのか?と言えばだれもがNo!と答える。そして生活保護受給者は増加の一途。
ここから僕らは現実を推測しなければならない。
数だけでごまかされてはいけない。

みんな違ってみんないい

安倍内閣の支持が落ちないのは僕の中では七不思議の一つです。国体護持のために個人の権利を押さえる、義務を強要する主張は、つまりは中国・北朝鮮のやっている共産主義にほかならないでしょう。
共産主義自身僕は多くの日本人が持っているほど嫌いではありません(支持政党ではありません、主義主張が合わない人の除籍率はたぶん日本の政党の中でもトップだと思います。話し合えない、トップダウンの姿は望ましいとは思えません。)
でも、ひとつの方向性しかもたずに一丸となってというのは危険です。個人の権利を度外視してお国のためにと言う生活は、放映される北朝鮮のそれであり、第二次正解大戦中の日本のそれです。
余剰なものを持っていない人と分かち合うならともかく、上記2例は持っていない人から絞り出させてでも国体護持のために使用したわけです。
そうした悪しき風習を当然とさせるために、自分では考えらせない、「しょうがないよ」とあきらめらせる洗脳・・・。
一つ方向に一丸となって進み、そして日本は敗戦を迎え、北朝鮮も現在は困窮の生活の中にいるように報じられています。

夢枕獏氏が著書の中でアンモナイトとオウムガイの違いを書かれていました。
アンモナイトは律儀に月齢を殻に刻みましたが、オウムガイはいい加減でした。
その結果アンモナイトは条件が外れた時に全滅をし、オウムガイは新たな条件に適合したいくつかの種のみですが生き延びました。

国家とは何か? といえば貝で言えば種。国民は個でしょう。
個がみな同じにされた時、国際ルールから外れたりすれば種自身は亡国となるように思えます。1か0か、というデジタルな思想は危険です。是々非々でみな意見を出し合い、論議し合うからこそ素晴らしい社会が育まれると思います。
本来優柔不断に変化が可能な融通性が求められている中、国体護持という道徳教育で思想を洗脳するがの如く同じ価値観のみにし、共謀罪で違う価値観の人を告発逮捕させる、それではアンモナイトになっちゃいます。

明らかに国体という共産社会の構築を進めているのではないでしょうか? 中国共産党、金一族の独裁国家、それと同じような日本になった時に国民の生きる喜びがかなり束縛されてしまうような気がしてなりません。
しかし、知ってか知らずか、声が上がることは少ないです。口をつぐんでいる人の姿が、北朝鮮の町行く人があれだけ困窮しながらも主席をほめたたえる言葉しか口にしないのとオーバーラップしてなりません。
その姿はマスコミにもあてはまります。表面は批判の報道がなされても、突っ込んだところまで報じる姿は少ないです。のど元過ぎればの喩の如くフェードアウトでニュースが消え去ります。政治が財界に、財界はスポンサーとしての圧力をかけている事が容易に推測されます。

フレキシブルなみんな違ってみんないい、これこそが国力を増進させるものだと思うのです。自分の理想の国家像を語り合いたいものです。

神の望むこと

先週のパトビラには、釜ヶ崎の本田神父の言葉を書かせてもらいましたが、実は自分自身でもしっくりいく文章ではなく、その後のコメントも納得いかないものでした。
そんなこんなで(「こんな」の方は7月に本田神父の教会で礼拝をさせてもらうのに今読み漁っている最中なので)ネットの読み歩いていたら、真宗大谷派円光寺さんのSiteがヒットしました。
ここに言いたかったことに非上に近い言葉があったので、許可を取らずに勝手にで大変失礼ですが抜き出させて頂きます。

助け合うことは大事です。しなきゃならない。だけど、それがすごくいいことをしているかのように勘違いしてしまう。聖書の中に勘違いさせる言葉があるんです。イエスが「人生の最後に、それぞれの生き方に応じて神さまの裁きを受けなきゃならないよ」みたいな話をするんですけど、その中でこんなことを言っています。

「私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」

 つまり、飢えている人に食べ物を与えること、これは神さまにしてさしあげていることなんだと思わせるような言い回しで聖書に書かれています。
 だけど、私が釜ヶ崎に行って労働者から気づかされたことは、「そんなことで得意顔をするな」ということでした。誰が好きこのんで人からものをもらって生活したいと思うか。どうして、にこやかに「ありがとう」と返事ができるか。そういう訴えだったわけですよね。

(中略)

原文でも日本語聖書と同じことを言っているのか、ということで調べ直したわけです。調べてみたら、なんと原文はちゃんと釜ヶ崎の仲間たちの思いにそうようなことが、きちんと書いてあった。
「私が飢えていた時、自分で食べていけるようにしてくれた。私が渇いていた時、自分で飲めるようにしてくれた」

 そうなんです、これが大事なんです。ない人には施してやれ、ということではなかったのです。やはり、痛みを知る人たちこそ、仏さまの心、神さまの心をもっているんですね。


そして前後しますが

「本田さん、ゆうべはありがとうな」と。夜回りのときことばを交わした顔見知りの野宿者でした。「ありがとう」といわれて、なんか報われた気持ちになったんですね。しかし、そのあと、しみじみとこう言うのです。「だけどなあ、ああいう姿、自分の娘にだけは見られたくないわなあ」。ずきんと胸に刺さりました。
 自分は大事なことを勘違いしていたことに気づかされたのです。私は「彼らのためにいいことをしている」としか考えていませんでした。その「いいこと」が、同時に彼らに「つらい思い」をさせてもいることに、考えが及ばなかったわけです。
「ああいう姿、娘にだけは見られたくないわなあ」という思いに、気づきませんでした。災害時の、一時的な緊急避難ならいざしらず、問題解決のめどもないまま人からものや食べ物をもらってしのがなきゃならない自分・・・。何年も前に別れた娘、ひそかに成長を思いえがいている自分の娘に、こんな姿は見せられない。そんな気持ちをあいてに起こさせる夜回りでもあるのだ、決して誇れるようなことではない。

 どんぶりを渡してるのに愛想がないからといって、文句を言えることではなかったんだ。そこそこ足りてる者同士とちがう。食べ物をもらって、「ありがとう」と言葉を返すことで人間が豊かになるという考えは、足りている者たちの発想でしかないんですね。むしろ仕事があれば、誰の世話にもならず、堂々と食堂ののれんをくぐって、自分のふところと相談して食べることができる。そういう状況を造り上げる支援、それだったら胸が張れるんじゃないですか。


僕らは僕らの活動を通して『ごめんな、こんなことしかできへんねん』が返事なのでしょう。
「ありがとう」は辛い気持ちになりながらも、僕らに頭を下げてくれる人に僕らが言う言葉なんですね。

良い言葉に巡り合えました。

5月25日のパトビラ(№979 - 居宅設定それは権利の行使の場でもある -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。


国会議員は広く国民の平等たる権利を守るために代表として政府と対峙してくれる存在です。が、すべてを見切るには無理があります。同時にこの問題だけは絶対に叶えたいという強い意志をお持ちの方も多いでしょう。
山本孝史さんと言う議員がおりました。彼は3期目の任期中に「がん」であることが判明。そこからは日本人の約半数がかかるがんへの国家的な対策がなされていないことに気がつき、最後の任期は、その問題に取り組みます。
国会には酸素マスクを着け、医師の資格を持つ議員が党派を超え体調の急変に備えケアをしながらがん対策基本法を与野党全会一致で可決させました。
命を懸けた闘いは感動を呼びます。そして感動は真摯に考える力を生み出します。一つの政策は一人の議員の命を懸けた闘いによって生まれました。しかしさまざまな問題はそれ以外にも山積しています。いや、逆に国民の望まない法律ばかりいくつも上程しているのが現状かもしれません。国民の権利や生活を守る議員を誕生させ、育み、そして議員提案で法を作り可決させる、それは僕ら国民の責務なのかもしれません。
野宿生活からアパートへの入居、そこにはご自身の生活だけではなく「選挙権」と言う大事な権利もついてきます。


議員は「仕事」と思えば、「仕事」の効率が優先され、つまりは「選挙権」のある人の意見ばかりを聞くわけです。
が、社会正義でいえば、「選挙権」を持たない、または比較的マイナーな人々もいます。その代弁者としての議員は絶対に必要な存在です。
山本さんはご自分ががんになったことで、この国民病に立ち向かおうとしたのですが、残念ながらホームレスから議員になった人はいないようで、またあれだけ多くの大臣経験者の議員が失言を繰り返していることから、弱者の事を推測して何とかしようという方はきわめて少ないのでしょうね。
山本さんがご逝去されて国が対策を考えている最中にも拘らず大西英男衆院議員は『がん患者は働かなければいい』と言うは問題発言をしました。
こうした社会を変えるには支援者だけではなく、野宿生活をしている人が居宅設定をして1票でも可能性のある人に投じる事しかないでしょう。
そんなことでは世の中変わらない、と言われるかもしれませんが、僕らの一番のカードは「ハチドリの一滴」と言うカードです。

信仰によって義とされる

2017年5月21日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章21-31節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。



宗教改革をしたルターは大学で法律を習ったものの、ある日野原で雷にあたり死の恐怖を味わい、この世での生涯は自分の意志ではまかりならないものがあると思い、アウグスティヌス派の修道院にはいり極限をめざし修行の日々を過ごします。がどんなに禁欲しても自分の思う域に達しなかったそうです。

作家の鯨統一郎氏の作品の中で仏陀は悟りをひらけなかったと書いていたのを思い出します。
ルターもそうですが、頑張った要因がもしかしたら死後天国(神の御許)に行けることを求める、つまりは悟りではなく自分のために頑張っているのだという自分の気持ちがほんのわずかでも生まれたら、そこには悟りが開けないことになるでしょう。
己の未来のために頑張るのは、別段誰でもしているのです。週末どこか遊びに行くために働くのと何ら変わりがないと気がつけばその修行の意味を疑問に感じてしまうものでしょう。

先輩友人の笹村さんは曹洞宗の僧侶でもあります。この宗派は死後の存在を認めないそうで、そうであればルターや仏陀の悟りの苦しみはなかったかもしれません。ある意味、未来が無い分悟りを開くには開きやすいかもしれませんが、でも僕はその希望が無いことに飛び込む勇気はありません。僕にとっては死して神のもとに行ける希望こそが自堕落にならない生活の源なのです。
鯨氏は悟りをひらけなかったという仏陀ですが、本当はどうだかわかりません。でもルターは聖書に書かれたことは律法を守ることで救われるのではなく、神の愛でこそ救われるものであることに気が付きます。
どんなに頑張っても完璧にはなれません。それは聖書の中に「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3章10節)とある通り、僕らはいくら頑張っても、妬んだり怒ったり恨んだり、不親切をしたり、見て見ぬふりをしてしまうものです。

そんな人間に対して神は、人を義とすることで神は正しくなる、と言うのです。言い換えれば、神は人を義とすることの望んでいるのです。信仰告白で言う『神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。』なのです。

不完全な人間を義とする神の恵み、だから救われる。これは、一つの考え方です。でもその考え方に「賭ける」ことが信仰ではないでしょうか。

それを僕らは些細なことで他人を見下そうとしています。目くそ鼻くそを笑う、と言う喩えは、今僕が活動している野宿者支援にもかかわります。
慶応大学の井手教授は、この問題は生活が苦しい中級階級の人が、生活保護を利用している人に対して「俺も苦しいのに税金を使ってもらえないのに、あいつらは税金を使ってずるい」と言う妬みが根底にあるのではないか?と分析されましたが、まさに僕もその通りに思い、そうした思いは形は違えども僕の中にもあるでしょう。他人ばかりがいい思いをすればいい気持ちになれないものだと思います。
教会もそうではないのではないでしょうか? 教会に毎週行っているとか、洗礼を受けたとか、様々なご奉仕をしているとか、そんなことで「中流階級」のようなオーラを出してはいないでしょうか?無言のうちに生活保護利用者を見下すように「あいつらはずるい」と来ない人や奉仕をしない人を非難してはいないでしょうか?

しかし神はすでにすべての人を救った、と完了形で語ります。それは信じようが信じなかろうが同じです。どういう人生を送って洋画関係ありません。
一点違うのは、信じていない人は救われていながらも救われるのか不安に思っている人で、信じている人は救われたんだと喜びにあふれている人です。

旧約のアブラハムも小さな一部族の長に過ぎませんでした。イエスの母マリアも一庶民の少女に過ぎませんでした。でも神の言葉に信じますと答え、信じて祝福を受けました。無条件の祝福の訪れを喜び以て待ちながら生きたいものです。

がんばれッ!日本国憲法 -わたしたちの憲法劇ー

久野の産廃処理施設の反対運動の弁護を引き受けてくださった岩橋弁護士がある日チケットを持ってきて「こんなイヴェントがあるから見に来ないか?」と言われたのは多分1993年ころだったと思います。お付き合いのつもりで見に行った憲法劇は思った以上楽しく、そして自分が様々なことを知らなかったことに気が付かされます。
特に思い出深いのは、下田判決。日本は唯一の被爆国、と反戦反核をいいながらも、こんな大きな判決を知らなかったこと、そしてそれをわかりやすく教えてくれたことは、いまでもその時の憲法劇の話を原点として話させて頂いているぐらいです。
しばらくお休みをしていましたが、今日日のおかしな方向に進んでいる政治を憂い昨年から再会。
Facebookで再開を知ったので早速見に行ってまいりました。

今年のテーマ1.海老名マネキンフラッシュモブ裁判

20170520-01

吉田美菜子海老名市議らが、安倍政治のおかしな方向性を憂い、海老名駅前の自由通路で、マネキンのように動くこともしゃべることもなくただ意見パネルを持ってポーズをしている行動が、市の海老名駅自由通路設置条例で禁止されている集会やデモに該当すると判断され今後のパフォーマンスの禁止を請求。これに対し条例自体が表現の自由を過剰に規制するもので、憲法に違反すると主張します。
市行政はマネキンフラッシュモブは、デモンストレーションを語源とするデモに当たると判断し、また多くの市民が迷惑を被ったと語りますが、一般的なデモの規定とは食い違い、何よりも市民の応援はあれども市側にクレームの問い合わせはないなど、言い分はまったくセコンドが無いまま裁判所も表現の自由を損なうと判決。

20170520-02

行政はそうした裏付けがないまま担当の自分の考えや上司の勝手な判断を検証することなく鵜呑みにして押し付けることは多分にあります。
小田原でもなりわい交流館を平和行進の休憩場所として申し込んでいたにも拘らず、当日平和に関するのぼりの存在を持って入居を拒否しようとして諍いがあったことがあります。もちろん、拒否できるよう件ではなく、市側の謝罪とともに入館はできましたが、勉強不足と勉強不足である認識が無いことは多分にあります。
今回小田原市で起こったジャンパー事件も、元をただせば保護課職員が法に乗っ取った正しい解釈をせずにアパートからの退去に手を貸し無低施設に入れようとしたことが問題であると「生活保護行政乃あり方検討会」の中で検討委員の森川弁護士が言われました。
法に乗っ取って粛々と手続きをしなければならない行政が時折おこす間違いは、残念ながら「面倒なことはごめんだ」と言う事なかれ主義の過ぎたるものが多いように見受けられます。面倒くさがらずにきちんと法文を読めばトラブルにならなかったことが多いように思います。

20170520-03

2.資生堂アンフィニ訴訟

20170520-04

アンフィニから資生堂に人材派遣された22名の方は過酷(危険)な仕事も黙々とこなし自分たちの作った製品に誇りと喜びを感じていましたが、契約更新直後に資生堂側からの契約中止を受け、派遣社員の明日を無視して派遣社員の解雇を飲みます。
解雇されたメンバーは団結し、自分たちを守らず解雇に同じたアンフィニだけではなく、直接解雇をした資生堂を訴えます。

20170520-05

バックボーンには人材を命ある人としてではなく、ただ企業の経営のための道具のように使われ経営があったしたら勝手に解雇するという平成になるころからの日本の経済の風土があります。
コンビニより多い人材派遣業。たとえば飲料水の販売やプールを主とした遊園地は夏忙しく冬が暇です。スキー場はその逆です。
そうした波の大きな仕事は人材派遣業で忙しい時バイトを雇い、暇な時に解雇することは分かります。しかし働きが良ければ来年の再雇用は企業としても望まれるものでしょう。派遣業者が自分のところを信頼してきてくれた応募者の人生を受け持つくらいの気迫で携わってくれれば大きな問題はないと思います。
それに対して一時的な増産を人材派遣で補うことはどういうことなのでしょうか?ただ単に、企業の収益率のアップだけで社会的には何のメリットはありません。
しかも資生堂。女性のための企業が女性を無慈悲に解雇をする姿はやはり企業イメージのダウンでしょう。
そんな裁判と勧告。解雇を受けた22名への全面勝訴で終わりました。

20170520-06

3.桜本ヘイト問題

20170520-07

憲法問題を川崎でやった時のことだそうです。
憲法の大切さを訴え、日本国民を守ろう! と言うと悲しそうにオモニが、憲法は私たちは守ってくれないんだね、とつぶやかれたとか。
確かに日本国憲法は、日本国籍を持っていない方の事は対象にしていません。
それ故にさまざまな差別を受けてきました。じっと歯を食いしばりながら、それでも今回の桜本で起こったヘイトスピーチは我慢ならなかった、と言います。

20170520-08

僕らもTVニュースで見るぐらいでしたが、「ヘイト(憎悪の籠った)という言論の自由」をたてに練り歩く手段には、人として哀れとしか思えませんでした。
町の人がまるでイエスのように「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」言わんが如くじっと耐え忍んでいるようにしか見えませんでした。
それは国会議員誰もも同じように感じたのではないでしょうか?ヘイトスピーチ対策法が与野党一致で可決されました。

桜本で生まれ育った人は差別という事を知らないそうです。中学まであらゆる違いに差別することなく育ち、そして高校に行くとき初めて差別を知るのだそうです。その最初は昨日まで韓国名だった友人が日本の苗字になっていること。15歳の心に刻まれるこの差別の話を聞き思わず目頭が熱くなります。

20170520-09

桜本のヘイトスピーチのデモには、住民や支援者が共に生きようというプラカードで抵抗したそうです。この問題の解決はただ共に生きる、隣人を自分のように愛す、と言う簡単なことの実践です。

さて、憲法劇は一つの舞台の中で様々な問題をピックアップします。
今年のメインは、「憲法の森を守ろう」です。

20170520-10

今日日山が荒れています。経済林としてスギ・ヒノキを里山に植えたため、そしてそうした樹木が海外の材木の価格に勝てず手が入らなくなったのでますます荒れてしまったという現実。
実は「憲法の森」も、大人たちがあの森は危険だよ、中には「さよく」と言う妖怪がいる、といったため山が荒れ、大事な各条がツタや下草で生命の危機になっている。そこで下草狩りに行くというシチェーションで始まりました。
憲法27条の木の下には、黒い桔梗が茂っています。それは新種のブラックきぎょうと言う下草です。刈らないと「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。児童は、これを酷使してはならない。」が枯れてしまいます。
そして25条の木の下は

20170520-11

なめんな!HOGO の草が!!
実はフラッシュモブや資生堂アンフィニ問題、ヘイトスピーチの前にこの話。開幕同時に小田原市民としてはイヤイヤイヤ…^^;と言う感じ。

今回も様々な問題が神奈川の中で起こったことを知りました。特に、表現・言論の自由をもって、右寄りの人は「権利ばかり主張し責任を果たさない。」「ヘイトスピーチには制約ばかりかけて自由が無い」と舞台の中で言わしています。
そう考える事こそが憲法の理念に従わない日本人なのでしょう。
憲法は理念です。僕らはこう生きるのだ、と広く世界に発信するものです。
その中で難しいことにぶつかった時、各条例で判断がつかない時は前文に戻ろう!

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


そこにある理念には個別の事案は書かれていません。しかし、理念を読めば進むべき方向は示されています。日本国籍のあるなしに関わらず、この国に住む者はこの精神でともに生きることが推奨されているのです。
あまりにも当たり前で手をかけることなく70年過ごした日本国憲法。でもやはり崇高で日本の宝です。
来年もまた5月に開催すると思います、よかったら一緒に見に行きましょう。

5月18日のパトビラ(№978 - 痛みを共感する -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

大阪釜ヶ崎の本田神父の「釜ヶ崎と福音」と言う本で、師が野宿の仲間の床屋をしていた時、仕事が見つからないとぼやかれたそうです。「なぁ、先生どうしたらいい?」と言う言葉に本田神父は返す言葉が見つからなかったそうですが、順番を待っている他の野宿の仲間が「兄ちゃん、みな一緒やで」と答えたことで、その人は納得し「しゃーないな、も少しがんばろか」と答えながら帰ったそうです。
本田神父は2500年前の聖書のイザヤ書という言葉の中に『慰めよ、私の民を慰めよ』と言う一節があるけれど、この慰めと言う言葉は『共有する』と言う言葉が語源だと言います。自分がたくさん持っているものの中の1,2をあげることは共有とは言いません。なけなしの物をあげることが共有でしょう。そしてその最たるものは自分自身です。自分の体験や思いが相手に伝わること、これこそまさに共有です。余裕がある時に余裕がない人にとか、健康で病にかかったことがない人が病人にとか、若者が足腰が弱くなった人に「頑張れ」と言うのは決して共有ではないのでしょうし、そのアドヴァイスは薄っぺらいもので相手に納得していただけるものではないかもしれません。僕らも相談を受けた時に『そうだな言うとおりだ』と納得してもらえるよう尽力したと思います。


たとえば、生活保護についての法律や解釈については、理屈ですから少し学べば答えることができますが、生きざまに関して、人生については答えが難しいです。
そう言う意味では牧会者は心理学や哲学まで学び、生き方を宗教を介して説くスペシャリストですので僕らよりよっぽどの納得して頂けるアドヴァイスができるのでしょうけれど、そんな本田神父がそう言っている訳です。
でももしその場で本田先生が「オッチャン、みんな一緒。頑張りましょ。」と言ったらきっとその野宿者は、神父という職業があるやつに俺の悩みなんてわからねぇだろうよ、と反発したでしょう。それが推測できたからこそ言葉に詰まったのでしょうね。同じ境遇の仲間の言葉故にあの回答は納得できた…。
そして聖書に立ち返ると、イザヤ書の文字が目に飛び込んできたというのです。
日本でも亀の甲より年の功、とか言います。いろいろな人生の経験が少しでも何かの役に立てるように生きたいものです。

4月下旬にとあるルートよりインスタントみそ汁を大量に頂けましたが、今日もまた別ルートから頂けました。
いろいろな方が小田原交流パトロールの存在を記憶して頂き、何かの際に思い起こして支援してくださることは本当に感謝です。

支援の意味するところ

支援、英語で言えばサポート。ごくありふれた言葉で日常茶飯事聞く言葉。
でも日本語の「支援」と言うと何か上から目線に感じるというご意見も聞く。もしかしたらボランティアという言葉も、日本人の脳内でイメージするのと欧米でイメージするものが違うかもしれないし、それはその国が文化をどう築きあげて来たかの差なのかもしれない。
やはり日本は仏教が主たる宗教(基本的な考え)の国だと思う。そこにあるのは「施し」という考え方。
一方キリスト教文化は、サポート(手伝い)であって分かち合うことや思わず手が出てしまうことだから「施し」とは違い横目線なのだろう。

この関係はギフトとプレゼントという類似の言葉のそれに似ている。
厳密な違いは分からないけれど、ギフトは上から目線のような気がするのに対し、プレゼントは横から目線のような気がする。
それはgiftの語源は「毒」という言葉であり、贈り物で油断をさせて攻めるという古き時代の策略から来ていて、それ故に貢物とかあるいは形式的に感じてしまうかもしれないのに対し、presentはやはり聖書の中のクリスマスの出来事「神様からのプレゼント」という側面があるだろう。
靴屋のマルチンという小説。明日お前のところに行くよ、という神の言葉に喜んで外を見続けたマルチンは様々な光景を目にします。そのたびサポート(手助け)をしなければなりませんでした。
しかし夜遅く神の声が聞こえ、その手助けをしたのはすべて神の化身であり、サポートして助かった相手の喜びの顔を思い浮かべ心が充実した事を思い出し、感謝します。
アメリカのRFL(リレーフォーライフ)に参加した時、物品の販売をしてチャリティーにしました。日本から初参加(?)なのでそこそこ売れましたが、それでもみんな大量の物品を持って行ったのでさばききれないほどでした。2日目にはディスカウント価格に変えるとお客さんは定価で買うと言います。「私はチャリティするために支払いをするの。」  「ラッキー!安く手に入った」ではない発想…。
釜ヶ崎で牧会とボランティアをしている本田神父が、自分たちが勝手に始めた炊き出しに多くの人が来てくれ支えてくれている、と言われました。
何かの番組で過酷な活動をしているボランティア団体の方にインタビューされていました。「あなたはなぜこんな大変なことを無償でなされているのですか?」するとそのボランティア氏「無償?僕は報酬をもらっているよ。(自分の活動によって助かった人の)笑顔という報酬をね」
うん、僕もそんなかっこいい言葉を言って見たい(笑) 支援する側がされる側に感謝する、これが支援なんだろう。

神の愛の実現

2017年5月14日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネの手紙Ⅰ 2章1-11節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。



何度も説教で聞いている「罪=的外れ」
「大丈夫」とは、もともとは「立派な男子」を意味する言葉ですが、今になっては「問題ない」と言う意味に変わりました。そのように時代で意味が変わる言葉はたくさんあり、「罪」も的外れから非行・法違反に変わりました。
でも、本来は人の決めたものに対してではなく、そこには神と言う絶対的な存在に従わないことこそが「罪」であります。
絶対的存在と言う部分で言えば、初めて映画に出演する俳優さんが監督を無視して演技をして自分の演技が最高と勝手に演じることのようなもので、それ故に「的外れ」な演技と言われちゃうことと同じなのでしょう。

イエスは弁護者だと言います。弁護とは何とかして助けてあげようとする人です。つまりは「的外れ」な監督の指示に従わない俳優さんのように、神の示した生き方に従わない人間と神の間を取り持つ存在なのです。

これも何度も書いています。聖書をどんどん凝縮していくと「神を愛し、隣人を愛し」なさい。につきつめられるでしょう。
そして僕らはそれに対して「アーメン(その通り)」と言いながらも、すぐにその「アーメン」を忘れ、勝手な人生を送ります。
長井牧師はそういう時に「的外れ」をしやすいと言います。
出来なかったという反省と自己嫌悪。

しかし聖書はそれでも神から導かれ守られているという喜びと感謝を教えてくれる本です。

敬虔なクリスチャンと言う言葉があります。
敬虔とはなんなのでしょう? 僕はその言葉を聞く時に思い出すのは放蕩息子の喩えです。
放蕩の限りをつくし一文無しになった時、あっ神の元に戻ろう、と思う心。
どうしてもそこまで放蕩の限りをしつくしたら恥ずかしい、申し訳ないと神のもとには帰れないでしょうけれど、帰ることこそが敬虔な信仰なのではないでしょうか?

弁護者イエスがいます。
そして神はあなたを愛しています。放蕩の限りを尽くしている頃飢饉が息子の行った地方であると聞き不安に思い、そしてもしかしたら帰るのではないかと毎日小高い山の上から探し求め、その通り帰って来た瞬間に抱きしめてくれる存在です。
愛していると言ってくれることに背を向ける必要はありません。申し訳ないと思うこともありません。
「ほめて伸ばす」と言う言葉に似ています。どんな人生をしていても励ましてくれる神。
励まされて伸びたいです。
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