一つところ

キリスト教会の礼拝では、牧師や司会者が祈るシーンが多々見られます。
その祈りの中でよく祈られるのは、「今日この礼拝を覚えながら様々な事由で教会に来れない方のために祈ります。どうぞどこの場所においても神様の豊かなお恵みがありますように。」という祈りの言葉。

覚えている、つまりは気にしている、この事を大事にしたい。仲間からのとりなしの祈り。
RFL(リレーフォーライフ)というがんのイヴェント。この場所は特に病床にいる人、会場まで出向けない人も多いので「この日を覚え」ながらも参加できない仲間が多い。
SNSなどで「行けないけれどがんばってね」というエールに、「あなたが見ている同じ空の下で僕らは歩いているよ。空は繋がっているよ。」とエールに応えます。

様々な事由があって1つ場所に行けなくても仲間は仲間。
今日も2か所でRFLが行われ、そして僕は午後から2つの行事に参加します。
同じ行事に参加したくてもできない仲間の分まで真剣に討議しますね。

子どものホームレス

釜ヶ崎で生活している方の生活実態を知りたいとリサーチしたところ、こんなBlogに出会えました。
かなりディープな内容ですから、心してお読みいただきたいと思いますが、真のドヤ街の野宿生活に思えます。

大阪府西成区で過ごした28年

実親に捨てられた子どもたちが周囲の大人の愛情に育まれ、また心ない大人にひどい目に遭いながらも、必死に生きていく姿は心を打ちます。
数は多くないですがこうした事例は他にもあるのは、『歌舞伎町のこころちゃん』という4歳の野宿生活をしている女の子がのルポ写真集が出たり、小田原でも小学校の男の子を連れた家族の野宿者が通過した時に遭遇したことがあります。

あわせて・・・事情をよくわからないものの推測でお門違いな意見かもしれませんが、やはり性風俗店というのは最後の砦、つまりそこに集まる方はとても大きな苦しみや悲しみを抱えている人が多いのかな?と。
だからこそ人には優しい。
以前書いたトピックスを思い出しました

イースターの集合写真

O。ヘンリー氏の「賢者の贈り物」という短編が好きなんです。

貧しい若いご夫婦。クリスマスをまじかに控えた時、相手にプレゼントするだけの資金が無い。
途方にくれながら、夫はおじいさんから受け継いだ金の懐中時計を質入れし、妻のために(・・・・そう妻は美しい長い髪をしていた)櫛を買った。
妻は大事な夫を喜ばそうと決意して髪の毛を売り、金の懐中時計にあうチェーンを買った。
相手の歓ぶ顔を思い浮かべながらプレゼントを大切に抱え自宅に戻った。

時間が過ぎ夕刻を迎えた。そろそろ夫が仕事から帰って来る時間だ。靴音が響き、ドアが開く音がした。
「クリスマスおめでとう」と部屋に入ってきた夫は立ちすくんだ。この櫛に似合う素敵な長い髪の妻ではなくなっていた。
「どうしたんだい?髪の毛は?」絞り出すような声で聴くと、妻はこういった。「あなたの大事な懐中時計に似合うチェーンを買うために切ったのよ。さぁ懐中時計を貸して」
泣きそうな顔をしながら夫は言う。「懐中時計はこの櫛を買うために質に入れてしまったのだ」

O.ヘンリー氏はこの作品のタイトルを賢者の贈り物と付けました。素晴らしいタイトルです。
相手を思いやる気持ちこそが最高のプレゼントであることを知った二人。

20170511-01

さて、小田原教会では毎年イースターに集合写真を撮るのが恒例になっています。
ここ10年ほどはカメラマンの奉仕をさせて頂き、そのお役をさせて頂ける感謝の気持ちで教会に引き伸ばした写真を飾っています。
今年も笑顔の写真が仕上がり、欲しい方には実費で2Lサイズの写真を焼き増し、そしていつものように引き伸ばした写真を、と思い、教会で写真のサイズを測ってくることを忘れたことに気がつきます。
写真の額というのは、金属のフレームがあり、その下に厚紙のマット紙があり、写真はその下に入れ込みます。そのため写真の印画紙のサイズを測定するには分解しなければなりませんので、牧師に写真の額のサイズを教えてください、とメールをしました。
するとしばらくしてメッセージとともに縦横サイズの数字がメールで送られてきました。
しかし額のサイズに照らし合わせるとどうしても類似するものが見つかりません。
しょうがない、やはり自分で測ろう。
日曜日教会に行き、メールを頂いたことの感謝を述べ、でもサイズがよくわからなかった話を牧師としました。
「変だなぁ、写真をきちんと測ったのに…」 僕は牧師に手間をかけらせないようにと額のサイズを教えてください、と頼みましたが、牧師は僕が必要なのは写真の大きさとピンと来たのでしょう。手間をかけて額をばらし写真のサイズを測ってくれました。

封筒は閉じる時にのりしろが必要です。少なすぎれば封が外れて中身が出てしまう可能性があります。
人と人とのお交わりでも大切なものはのりしろではないでしょうか?
賢者の贈り物は、まさに相手を思いやるのりしろを想像させるお話です。そして昨日味わった写真のサイズも、相手の要求を想像して一歩先まで踏み込んでくれた思いやりというのりしろによるものでした。相手の笑顔を思い浮かべながら作業してくれた牧師の行為をうれしく思いました。
・・・家に戻り牧師からのメールのメッセージにはきちんと写真の大きさは、と認められていました^^;

プレゼントとは額面通りではなくちょっとした工夫、のりしろを生み出すことなんでしょう。相手の笑顔の想像を実践することなのでしょう。
写真サイズのやり取りの中で賢者の贈り物を思い出し豊かな気持ちになれました。

Diamond online の釜のレポ記事

標記に「路上生活者の「死」のリアル、無字の位牌に読経なしの無常」と題したフリージャーナリストの秋山謙一郎さんのレポートが載っている。
のっぴきならない「事情」を抱えて路上生活に転落した人も多い、大阪・西成「あいりん地区」。彼らの日々の生活はもちろん、「死」を取り巻く環境もまた、なかなかシビアだ。行政関係者や葬祭業者、そして路上生活者たちに聞いた、「あいりん地区の死」の現状をレポートする。(フリージャーナリスト 秋山謙一郎)

という前書きに次いで生活と死を綿密に取材した記事だ。この夏僕らは釜を題材にした映画を自主上映する。
主題はこの街に住む子どもたちで、大人は関係者以外ほとんど出てこない。
でも、この街で圧倒的に多いのは高齢化した男性だ。
それを無視して子どもの様子だけを釜だと思ってはいけないし、町から取得する教育(子どもたちの生きる知恵)は圧倒的にこのオッチャン達から得る。映画の中でSINGO★西成さんも「近所のおっちゃんに習った…ここではこうして生きなさい…」と歌う。
だから映画の実行委員さん、そして今後この映画を見ようとする人たちに長いけれど読んでもらいたい。知ってもらいたい。

【 路上生活者は死んだらゴミ扱い!? ささやかれる噂の真偽とは 】

 路上生活者が集う大阪・西成「あいりん地区」――ここで暮らす路上生活者たちは頑なに生活保護受給を拒む者も少なくない。なぜ彼らは行政によるセーフティネットを嫌うのか。

「死んで“ゴミ扱い”はないやろが!誰でも死んだら“仏様”とちゃうんかい?」長年、路上生活をしているというカツトシさん(本人によると70歳か71歳)はこう憤る。彼によると、身寄りのない者が生活保護受給中に死亡したら行政によりゴミ扱いされるのだという。だから生活保護を受けることなく70歳を過ぎても路上生活で頑張っているのだと話す。

 たしかに、ここ西成・あいりん地区で暮らす路上生活者たちの間では、「生活保護受給者が死亡した場合、ゴミ扱いされる」というまことしやかな噂を時折耳にする。

 しかしもちろん、これは路上生活者たちの誤解だ。

 大阪市では、身寄りのない生活保護受給者が亡くなった場合、火葬の後、その遺骨は大阪市設「南霊園」で斎場保管される。南霊園の管轄は大阪市環境局だ。その環境局では実際のゴミも扱っている。これが路上生活者たちに、「死んだらゴミ扱い」という誤った風聞となって伝わっていったようだ。

 路上で行き倒れて死亡した、身元の確認できない「行旅死亡人」も同じ扱いである。ただ、それではきっちり埋葬してほしいのかと言えば、そうでもないところが、路上生活者たちの複雑なところだ。

「手厚く葬ってくれとまでは言わん。ただ、そっと葬ってくれたらそれでええんや…」。カツトシさんが言う「そっと葬ってくれたら」というのは、もし自分が死んでも、行政による家族への連絡を控えてほしいという意味である。

 カツトシさん本人の言によると、10代でヤクザ組織入り、20代後半の頃、「下手を打って(失敗して)」、組織から逃げ出した。以来、この西成、山谷(東京)、寿町(横浜)といったドヤ街でずっと路上生活を続けきたという。彼は、いまだにヤクザ組織から「指名手配」がかかっていると信じている。

「地元には顔向けでけへん身や。死んだゆうたかて、わいの(自分の)存在がわかったら身内が迷惑するわな。せやから、いつ、どこで行き倒れても、わいは身元がわかるようなもんは持たへんのや!」

【 ヤクザ組織からカネを持ち逃げ 多額の現金を持つ路上生活者も 】

 あいりん地区には、カツトシさんのように、何らかの人に知られたくない事情でやって来た人が多い。彼らが自らの出自を頑なに明かさないのは、せめてもの尊厳を守りたいという切ない思いが背景にある。それは死後も同じ。せっかく恥ずかしい思いをしないように歯を食いしばって生きているのに、死後にうっかり尊厳を冒されるようなことは受け入れ難いのだ。

 カツトシさんは、「仲間には内緒やけどな…」と言いながら、普段、貸しロッカーに入れているという現金30万円程が入った布製の巾着袋を見せてくれた。もし、どこかで行き倒れたときに、「葬式代として使ってもらうため」だそうだ。

 事実、警察関係者や地元の葬祭業者らによると、あいりん地区を根城とする路上生活者のなかには、「10万円から50万円程度」の現金を常に持っている者が時々いるという。やはり「葬式代」目的である。

 さて、2016年9月には簡易宿泊所で約2000万円の現金を持った遺体が発見されるという事件があった。

 こうした現金は、路上生活者が日雇い労働や空き缶拾いなどで働いて、あるいは相続で得たカネだけではないようだ。地元警察関係者は言う。

「絶縁ヤクザが組織からカネを持ち逃げ、それをそのまま後生大事に持っているケースもある。数年のヤクザ修行の後、やっと一人前になってシノギを任され、多額の現金を目にしてついそのまま持って逃げてしまった…というわけ。急に羽振りがよくなると目立ってしまう。だからカネは使えない。結果的に、持ち逃げしたカネが葬式代となる」

 このようにあいりん地区で暮らす路上生活者がしばしば多額の現金を持っていることは、地元のワルの間では知られている。だから深夜、路上で寝ているとき襲撃対象となるのだ。警察に被害届を出さない理由は、「その出所を探られたくないカネなのでは」(警察関係者)という見方もある。

 たしかにカツトシさんも、「あんまり人には言えんカネやけどな」と言っていた。もしかすると、約30万円の現金も、何か“訳アリ”なのかもしれない。

「どんなカネでもカネには違いない。これだけあったら一心寺さんでも四天王寺さんでもや、わいを“仏さん”にしてくれるやろう?」

 欠けた歯をむき出しにして笑いながら、地元では「無縁仏」の納骨を受けつけているといわれている有名な寺院の名前を挙げた。だが、カツトシさんが亡くなった場合、事は本人が思うように進まないのが現実だ。

【 本人の希望通りに埋葬されない 路上生活者の処遇の難しさ 】

 まず路上生活者であるカツトシさんは、根城としている大阪市西成区に住民登録をしていない。それに「身元を示す」ようなモノは、日頃から持っていない。なので、もし死亡した場合、発見されると「行旅死亡人」として扱われる。

 現金を持っていた場合、これが葬祭費用に充当される。しかし火葬後、どこに埋葬してほしいかという希望は、たとえメモのようなものを残して身に着けていたとしても、「希望は叶えてあげられない」(大阪市関係者)のだという。

「行旅死亡人は火葬後、斎場保管されます。その間、官報で行旅死亡人の所持金や所持品も公告して、家族の引き取りを待ちますが、まず現れません。死亡後、1年の間に引き取り手がなければ、大阪市設『南霊園』にある『無縁堂』に埋葬されることになります」(前出・大阪市関係者)

 では、カツトシさんが希望する「一心寺」や「四天王寺」への納骨を実現するには、どうすればいいのか。あくまでも一私人の立場で前出・大阪市関係者が語ってくれた。

「親しい友人・知人、支援NPO関係者でもかまいません。遺体を引き取ってもらえる人がいれば希望を叶えることができます」

 この場合、本人がメモにして希望を残しておくことが大事だという。「遺言」の形を取るのである。

 あいりん地区にあるカトリック教会「西成 ふるさとの家」にも納骨堂がある。ここへの納骨を希望する場合は、「本人が生前、死後の納骨を願い出なければならない」(西成 ふるさとの家)という。ただし、もし亡くなってから家族が見つかった場合、その家族が「(遺骨を)連れて帰る」といえば家族の希望を優先することになる。

「どんな事情があれ、家族が引き取ってくれるというのは、ここあいりん地区では幸せな人なんですよ。行政や警察、それから病院やお寺に教会、亡くなった人のご家族を探しあてて連絡を取っても、多くの家族は、連絡そのものを嫌がりますから」(地元・葬祭業者)

 確かに、「関わりたくない」とばかりに避ける家族も少なくないなかで、「引き取りたい」と申し出る家族がいる人は幸せなのだろう。しかし当の本人には、家族に知られたくない事情があったりする。なかなか難しいものだ。

 一方、身寄りのない生活保護受給者はどうか。「孤独死」のケースでは、まず、なんらかの形で死亡の連絡が市に届くと、ケースワーカーがあらためて親族を探し出すことになる。

 親族を探し出すのは「死亡届」を出すためだ。これを出せるのは、親族、同居人、家主(地主や土地家屋の管理人を含む)に限られている。意外にも行政の立場であるケースワーカーは死亡届出人にはなれないのだ。多くは家主が善意で引き受けるという。

【 何も書かれていない位牌  読経が行われない葬式 】

 医師からの死亡診断書を添えて死亡届が市役所に提出されると、火葬、納骨という流れになる。

「ここから後は、市から委託を受けた葬祭業者にも手伝っていただきます。身寄りのない生活保護受給者を死亡地にお迎え、安置、納棺、火葬、骨上げ、骨壺に入れるまでです」(大阪市関係者)

 市から委託を受けた葬祭業者は「葬祭扶助」費を受け取る。その額は、「大阪市の場合だと20万1000円以内」(葬祭業者)だという。

「口さがない人は、葬祭業者はこの葬祭扶助費20万1000円のなかで儲けを出すために、遺体保存のためのドライアイスを使っていないとか、供物の花を造花にしているだとかいいます。しかし、そういうことはできないものです。信用に関わりますから」(前出・葬祭業者)

 大阪市関係者によると、この葬祭扶助費の範囲内で葬祭業者は「霊柩車を手配し、運転し、ご安置し、火葬場にお連れするとなると、葬祭業者の利益はほとんど出ていないのではないか」と話す。

 いわゆる「葬儀」は、葬祭業者により多少の違いがあるものの、概ね、火葬場に着いてから葬祭業者の社員たちの手で行われるという。「ただ、私たちが手を合わせて終わりです。祭壇はテーブルです。何も書かれていない位牌と供物を備えています」(葬祭業者社員)

 読経は行われないという。

 そうした葬儀の実態に大阪市関係者の1人は、「せめて(亡くなった)ご本人と縁のある信仰で送ってあげたいが、現状ではこれが精一杯」と語る。僧侶や神父を呼べば、その分、費用がかさむ。交通費だけを支給するにしても、その財源を捻出するには、さまざまな手続きを経なければならない。

「大阪市では、『行旅死亡人の救護及び埋火葬』費は28年度は1485万8000円、29年度には1340万6000円を。同様に『葬祭扶助』費は28年度は8億9274万円、29年度には8億7026万9000円を計上しています。これでもまだ足りないくらいなのです。予算的には、これ以上の手厚い葬儀の実施は難しいと言わざるを得ません」(大阪市関係者)

【 酒を呑んで寝込んだまま… 「意外にも安らかな死に顔の方が多い」 】

 あいりん地区での葬祭扶助の頻度は、週に1度、ないし2度。多いときで週に3度程度だという。地元葬祭業者が語る。

「西成区の死因で第1位はがん、2位は心疾患という大阪市の統計が出ていますね。でも、それは西成区全体の話ですよね?あいりん地区だけに限れば、がんというのはちょっと違うのではないかなと…。時に、どんな死因にでも用いられる『心疾患』のほうがしっくりくるのです。実際、お酒を呑んで寝込んだまま亡くなった方も、死因は『心疾患』とされることが多いと聞きますから」

 今月初旬、まだ肌寒い時期、西成界隈を朝早い時間に歩いていると、いつものように西成警察署近くの路上、西成の象徴「負けない」の看板の下で寝ていた年配の男性がいた。2時間経ってもまだ寝ている。見回りをしていた地元NPO関係者に声をかけた。

「もう寒くはないし、まだ暑くもないし…。もう少し寝かせてあげましょう。もう1度私が見回りしたときに寝ていたら起こします。消防には今から連絡しますので。きっと起きたときのほうが、お辛いのでしょうから」

 過去、死亡した路上生活者も何度か見たことがあるというこの地元NPO関係者は、あいりん地区で路上死する人は不思議に、死に顔が「とても安らか」なものだという。「路上といえども、人の気配がする中で旅立つのですから…。閉め切った部屋の中で孤独死するよりも、もしかすると幸せなのかもしれません」

 こう記者に話し終えると地元NPO関係者は言葉を繋ぐようにいった。

「でも、辛いですけどね。だから、彼らの居場所を社会がきちんとつくってあげなければならないのです」

【 再開発で変わりつつあるあいりん地区  路上生活者たちはどこへ行くのか 】

 あいりん地区は、再開発によって年々、その景観が変わりつつある。今ではかつてほどの混沌とした様子は薄れ、他の大阪の街並みに近づきつつあるくらいだ。これに伴い、「路上で亡くなる人の数も減ってきた」(警察関係者)という。
 
 4月24日、高級旅館を手掛ける「星野リゾート」(長野県軽井沢町)が、あいりん地区に隣接する南海・新今宮駅の市有地(浪速区)に高級ホテルを建設するという計画を発表した。2022年開業予定だという。

 この計画に対する地元民の声は、二分している。高級ホテルの建設により「あいりん地区住民の行き場所がなくなる」という心配の声、そしてもうひとつが、「住民が変わる」という期待の声だ。地元住民のひとりが言う。

「バックパッカーの若い外人さんも来るようになって、『あいりん』も変わったよ。緩やかながらでも、変わっていくよ。ずっと同じゆうわけにはいかんやろ」

 22年のホテル完成時、果たしてあいりん地区住民の「死」は、今とどう変わっているのだろうか。行政関係者やNPO、葬祭業者の話を聞くにつれ、路上生活者たちの現状を大きく改善できるような、抜本的な政策があるとは思えない。そんな中であいりん地区が再開発され、きれいになった街並みにそぐわない彼らが姿を消すのだとすれば…。それはそれで空恐ろしい気がする。

 ある路上生活者の男性は、記者が「あいりん地区で暮らす人の『死』について取材させてもろうてます」と告げると、勢い良くこう返してきた。

「死?死んだらやな、生き返るだけや!みんな、そうやって生きてるんや!!」

 カラ元気の裏に絶望が見え隠れするような大声。彼らの生活、そして死が少しでも改善されますように。祈るような気持ちになった。


若干違うと思うのは、野宿者支援をしている寺院教会の教役者に頼めばたぶん葬式に出席して祈りをあげてくださる先生は多いと思う。でも行政がやらない、若しくはやる時間が無い、という点。

そして僭越ながら知っている情報で付け加えると、
一つ目は家族と寄りが戻るのはとてもいいことだ。一番の幸せな事だろう。だからこそ怖い。最後の最後でどんでん返しがあったら頑張ったいままでの強がりの糸が切れてもう気力を失ってしまう。
小田原で野宿をしている人のご家族が長崎にいることが分かり、僕らが仲介して家族と連絡が取れた。そして帰って来るなら面倒を見たいとまで言ってくれた。小田原市に相談をしたら長崎までの特急での運賃を支給してくれた。贅沢か?いやそうじゃない。考える時間があれば、その不安に負けて大阪で降りて釜あたりに逃げ込んでしまうことも考えられることを市職員は知っていたからこその裁量だったのだと思う。安堵直前の不安ほど怖いものはない。

そして野宿生活者がアパートに入居して1年以内に亡くなることも多い。野宿をしている方と野宿を余儀なくしている方は違う。前者はその場所で生きる楽しみや喜び、また権利と義務を知ってそこでの生活に自己評価である程度の満足をしている方。後者はや諦めて生きている方やどうにかしてほしいというSOSを発信している方だ。
小田原でも現存野宿をしている方は前者であったり、無料低額宿泊所ではなく直接アパートへ居宅設定が出来れば望むという方がほとんどだ。
自分の常識に当てはめて居宅を強要するのは間違いでもある。

そしてこの長文のレポートですら、この街の一つの顔を描いたに過ぎないことを忘れてはならないが、それでもこれだけのレポートをまとめ上げてくれた秋山謙一郎さんとこの問題を広く世に広めてくれたDiamond onlineさんに感謝を申し上げたい。

久野の事件と籠池事件

いまさらですが、「籠池VS安倍」の問題について久野の事例に照らし合わせて書かせてもらいたいと思います。

何度も書いていますが、2000年に第1審判決が出た久野の民間産廃施設の行政訴訟。日本で初めて廃棄物処分場の許可に関する行政訴訟で行政(神奈川県)が負けたわけです。行政訴訟においての行政の敗訴は1%に満たないものですから、神奈川県はまさか負けないと思っていたのでしょう。
当然敗訴になれば、要求される訴訟代金は予算化されておらず、そもそも他事例に波及します。
そのような訳で神奈川県は「とある目的のため」に高裁に上告しました。

それは上告の間に些細な(?)別件で許可の申請を取り消すというミッション。なんとしても免許更新をさせないということ。
そのような仕打ちを受けて今後産廃業が出来なくなった業者は泣く泣く廃業してしまいました。

さて、僕らが神奈川県を訴えた理由は、法にそぐわない許可申請なのでこの許可申請を取り消しなさい、というもの。
許可書にはナンバーリングが振られていますが、廃業したことで僕らが取り消しを申請したナンバーが無くなってしまいました。
無くなった後高裁での審議が始まるのですが、裁判所は住民側が言うナンバーの業者がいないので裁判にならないと門前払いします。
そんな訳で1審住民勝訴、2審却下でした。ちなみに棄却ではありません。違いは「棄却_却下_違い」で検索すると分かると思います。
1審で負け、このまま2審をすれば、法的な争いでは負ける可能性が非常に高い。なら争いになる申請書をなくしてしまえ、争えないようにしちゃおう、と言うのが久野の闘いでした。
トカゲのしっぽ切り・・・。

今回外堀を埋められ、内堀まで埋められた中、今においても昭恵夫人のかかわりはない。籠池氏は妄言を言っている。・・・という。

もともとはバブル時の大量生産大量廃棄の世の中、行政としては産廃施設を作れるところはどこでもいいから作ってごみ問題をなくしてほしい、その一点でした。だから神奈川県副知事が業界の役員になっているという癒着をしていました。
それでも自ら火の粉が被りそうになれば、行政に従ってついて行った民間企業を潰してでも自分は残る、それが僕らの裁判の終焉事情でした。

籠池氏と昭恵氏も、戦前の世の中に戻す教育と言う意味では二人三脚でここまで来ましたが、安倍氏の延命のためには籠池氏は「泣いて馬謖を斬」ろうとしましたが、馬謖の反撃にあったのでしょう。

東京都の日の出の処分場の闘いで、東京都の職員から「行政の底力を見せてやる」と言われました。行政は自分のためにはどんな手でも使ってきます。勝つためには手段を選びません。
何よりも闘いの資金は潤沢です。それは自分のお金ではなく税金という「他人のふんどし」の利用であるからです。

籠池氏の思想は僕のそれとは全く違い、残念ながら応援しようとは思いませんが、そんな仲間を自分のために見捨てる安倍氏のそれに比べれば可愛いものでしょう。

正しい者はいない

2017年5月7日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章9-20節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、 神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、 彼らは舌で人を欺き、 その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。



先週からの続きになります今日の箇所、ユダヤ人もギリシア人(異邦人)も神の前で罪を犯し神の怒りを買った民族であると言います。民族と言うと僕ら日本人は特に他の日本人に押し付けて自分は関係ないと言いやすい観を感じますので、ここでは人と言うことにします。

先週の説教でもお話がありましたが、ユダヤ人は神に「選ばれた」民族と異邦人を卑下していました。そうしたユダヤ人の一人に、今日のローマの信徒への手紙を記したパウロがいます。
フィリピの信徒への手紙3章5節に、
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
と記しているように、選民の中でなお選ばれたものと言う自負。そんなパウロが神の前で正しくないと言います。
ですから他のユダヤ人たちもグゥの音が出ません。

正しいものは何か?をパウロは実体験を含めて語ります。前述のフィリピの信徒への手紙の直後、
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

神の座にありながら遜(へりくだ)って人となり、その遜った人生を示した生き方にパウロは「義」と言います。
人に仕える生き方、つまり特権と言う利権ではなく義務が生じたというのです。
「特権」と言って見下すのは決して義務ではなく、神の啓示に逆らった生き方だというのです。

3・11の時、世界中が感動をしたのは報道された被害者たちの共生でした。すべてを失った、第三者ではなくても弱者とみなす環境にありながら支え合って生きる姿に素晴らしさを感じたものです。連帯・分かち合いこそが神の啓示でしょう。それをその啓示から僕ら人間は見せてもらい感激をしたのです。

しかし感動は消えやすいものです。
イエスの弟子として最初から御後を歩いたシモンペテロに関する記事がルカによる福音書5:4-にあります。
話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

イエスの奇跡を何度も見ていたはず、つまりはイエスが網を下せ、と言えばそこには魚がいるという意味であることを知りながら、無理ですよ、でもお言葉ですから致し方ありません、と言う投げやりな態度。

さまざまな事象からふりかえっても神の前で僕らは罪を犯しています。
「罪」と言うと、犯罪のように思いますが、神に従わないことが罪です。原語で言うと「的外れ」と言う意味です。
大きな「罪」を見て、ああ自分のやったことは些細な間違いだった、と言うかもしれません。
しかし牧師は語ります。
黒い壁に黒いしみがついても目立ちません。灰色の壁でもそんなに目立たないかもしれません。でも白い壁なら黒いしみは目立ちます。
罪は前提である壁の色、つまりは自分の立ち位置によって逃げることもできるのでしょう。
日本にも目くそ鼻くそを笑う、と言うことわざがあります。
自分の立ち位置を弁(わきま)えず、他人を誹謗、蔑視しても意味がありません。自分も罪人です、と言うことを自覚した上で、そんな自分をも愛して下さる神様。なら、他人を愛す神でもあります。
感謝をもって、神に選ばれた人であればこそ隣人にも仕えたいものです。

おきなわんナイト2017

小田原市隣接の二宮町のらでぃあんという、僕ら学生の時代はうち(東農大)と東大の二宮キャンパス(柑橘研究所)の跡地の一部である丘陵に出来たパブリックスペース。その裏の小高い丘で「海と山と空と」フェスと言うイベントがあるというご案内を受けたので行ってきました。
普段はこういうお祭りのような人の多いところは好きじゃないけれど、足を向かわせた理由は友人からのお誘いと言うのもあったけれどオキナワの4文字・・・。
戦跡のフィールドワーク、リレーフォーライフと観光、そして高江の座り込みと3度それぞれの理由で本島のみ行ったけれど、行くたびに沖縄の見せる魅力と置かれた理不尽さ(憤り)をいつも感じて帰ってきました。
離島ゆえ、琉球時代の小国ゆえに中国や日本に翻弄されそれでもしたたかに生きてきたのは、昨年の大河ドラマ真田丸に通じる感動の歴史を感じるからかもしれません。それゆえの日本有数の観光地なのでしょう。

14時に到着した僕らは、連れ合いのがん闘病を通して知った「ツレがうつになりまして」の著者細川貂貂さんが講演されると聞いてまずはそちらの会場へ。

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たぶんお連れ合いさんとの闘病の中で知り得たのでしょう、沖縄のぬちぐすい(命薬)のトークイベントとのことですが、吉江真理子さんの独演場でした(笑)。

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南城市にあります「花ふう」さんのティーツリーとゲットウのエッシェンシャルオイル。今後大きなブームになるかもしれないなど貴重な情報もあり…。
お話が終わり、ハーブティ。しかし15時40分から舞台ではこのイヴェントを紹介してくれた  I say a little prayer Gospel Choir. のゴスペルライブが始まりますので、涙をのんで移動です。

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盛り上げ上手のリーダー(先生?)と若いお母さんたち。
I say a little prayer Gospel Choir. のprayはplayではありません。つまりこのグループは歌を以て祈るグループです。それを裏付けるようにリーダーの方の「演奏者も拍手をするのですが、それは神への賛美です」と言う言葉、うれしいですね。
ゴスペルが流行っているから、かっこいいから、ではなく、当時のアフロアメリカンの人々のおかれた境遇と、慰めになる音と、神への希望のGot・spell。インマヌエル(神ともにいます)と言う思いを共有すればこそのこのグループ名なのでしょう。

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聖者の行進や天使のラブソングの挿入ゴスペルをうたって、その後沖縄Popsから何曲か…。ノリノリに楽しめたライブでしたが、できれば沖縄との共生・連帯、We shall overcome.も聞きたかったな。

空手演舞を挟んで第2部へ。その間は泡盛を飲みながらまったり。

2部はまず柳平和士さんのライブから。パンフを見ると保育園での演奏をするために三振を始めのたとか。

20170506-05

続いてGift house のおふたり。
中井お住まいのお二人。新婚2年目とのアナウンス。修さんの方は保育所にご勤務だとか。柳さんもそうですが、みな音楽が好きで仕事をしながら頑張っているんでしょうね。
そんな若者が次々と出てきますからベースは沖縄Pop。この手の歌を歌う方は数多くいます。喜納昌吉さんの「ハイサイおじさん」森山良子さんの「さとうきび畑」から始まり、BIGINやTHE BOOM。
でも去年からは『浦ちゃん』の歌う「海の声」が大人気。某携帯電話会社のCMで桐谷健太さんが三線で歌うCMをたぶん皆さん見たことがあるでしょう。浦島伝説は、日本各地にありますが、今日日の浦島伝説は一気に沖縄っぽくなっちゃいました。


そんな浦島繋がりか、このGift houseさんもオリジナル曲で浦島太郎と言う曲があるそうで、なかなか素敵な歌詞にこれも沖縄Pops? と思ってしまうほどでした。

20170506-06

さて夕やみが迫る中、湘南琉球エイサー保存会さんの演奏。

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最後はもちろん全員でのカチャーシー。
ゴールデンウィークを楽しく〆られました。

半日のアウトドアイヴェントを楽しむために、僕らがチョイスしたのは

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が提供してくれたフレッシュジュースのスムージー&フルーツサンド。八百屋コウタさんのFacebookはこちら

20170506-11

沖縄に平和な生活が戻りますように。
高等弁務官就任式で、平良修牧師が「新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が正常な状態に戻ることを強く希望する。…100万市民の人権の尊厳の前に深く頭を垂れさせたまえ」と祈りに心からアーメンと唱えたい。

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蚊取り線香

人間用の蚊取り線香とペット用の蚊取り線香の違いをご存じでしょうか?詳細の違いは若干あれど、大きな違いは二点。所轄するお役所が違うのと大きさの違いです。
ペット用は農林水産省の許認可で、人間用は厚生労働省の許認可。
また、大きさは人間用なのが7時間に対して野外に居る(場合が多い)ペット用は10時間。

僕らが野宿を余儀なくされている方のところに持っていけるのは蚊取り線香においても数に限りがあります。1週間7日×24時間÷7時間=24巻が必要ですが、予算的にも厳しく1週間に5~7巻渡すだけです。
そんなこともあり、野宿を余儀なくされている方に、ペット用の方が持つのだが、と提案したことがあります。

結果は「でもなぁ」と言う難色。

何度か書いていますが関西お笑いの坂田利夫師匠が、自分がアホの坂田と言うのは抵抗がないが、周囲からあほと言われるのはむかつく、という話をされたのを聞いたことがあります。
琴線に触れる箇所は人それぞれですが、考えてみれば、一番大切、一番敏感な場所こそ琴線に触れやすいのかも知れません。

人権を意識することなく過ごしている自分にとって3時間の蚊のいない安楽な時間の確保は、意識していない人権と言うプライドより大きなものと思っていましたが、身を持って人権・プライドと闘いながら生きている野宿の方にとっては、それは琴線なのでしょう。これを捨ててしまったら人ではなくなってしまうような大きな大きな尊厳の部分だったのかもしれません。
こうして無知や人の気持ちが推し量れないものは、他人を傷めながら学び、そして懺悔し過ちを繰り返さないようにとしています。

今年も蚊取り線香を配り始める時期を迎えました。ささやかなものですが多少の安眠の支えとなりますように。

5月11日のパトビラ(№977 - 無低運営基準法の整備を -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

生活困窮者向けの「無料低額宿泊所」を巡り、国が2003年にガイドラインを定めて運営基準を示したにもかかわらず、自治体による行政処分が今年1月までに7件にとどまっていることが分かった。ガイドラインに法的拘束力がなく、処分が難しい面があるという。自治体側は10年以上前から毎年、権限強化のための法整備を国に要望しており、国の対応の鈍さが対策の足かせになっている。 (中略) 塩崎恭久厚労相は1月に国会で、狭い部屋に生活保護受給者を住まわせ高額の利用料を取る悪質な貧困ビジネスが存在すると答弁した。 (中略) 担当者らは取材に「訴訟リスクがありためらわざるを得ない」「権限が強ければ処分できたケースはある」などと説明した。(毎日新聞5月5日配信)
共謀罪やカジノを作るIR整備推進法に関しては、もう少し意見を聞いてからの方がいい、と言う多くの国民の意見を無視し、野党の反対を数の力で押しのけているのに、困窮をしている生活弱者の人権を守る法整備には後ろ向きだというのがわかります。何度も言っていますが、憲法25条があればこそこうした人権蹂躙の法を整備せよと言える訳です。僕らは個別法律の整備と併せて憲法を守ることも声を大にしなければなりません。


今の国政を見るとどうしても内閣に多大な協力のできる金持ち(企業)や手足になってくれる同じ思想の人間以外には『人にあらず』のような扱いをしますよね。
残念なことに野宿の仲間は選挙権を持っていない人が多く、そうするとと各選挙区の候補者も野宿の方の要望を聞きに行こうとすらしない。
こうした悪循環をどこかで打開しないと次に進めない…。今日のようなニュースを見るたびやるせない気持ちになります。

ゴールデンウィークの夜更かしの仕方

明日が何もない休み!こんな気が楽なことはない!!
という事で、夜を徹して読書三昧。

まずは井手先生のご本。

20170505-01

発刊されていたのは先生や仲間からも既にお聞きしていましたが、「経済書」と言う不得意なジャンル。ちょっと敬遠していました。
が、昨日のシンポジウムでの先生の基調講演で分かりやすい語り口で興味をそそられてポチッ。
なるほどわかりやすい。なぜこの基礎が○○経済研究会の主任研究員の方が話すような訳の分からない話になってしまうのだろう(笑)
そしてヌエのような恐怖。世界一の企業であるトヨタですら明日を恐れて保身のために会社の利益の確保に躍起になることと国民の格差問題。
タイトル通り18歳からの、つまりは18歳の人が経済に関心もてる本。僕でもよくよく理解できた経済学書でした。
一つの解決の方法が書かれています。ただし、世の経済方針がそうであっても、世の中は学問で出来上がってはいないことも書かれています。世の中は人でできているのだから、人の信頼があってこそこの社会が成り立つことを肝に銘じたいですね。

続いては

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こちらもFacebookで知り得た本。
今日日大きな地震に対して公共施設をどうするのか? は関わっている人間共通の心配事項。
耐震工事、費用の問題、見た目・利用方法いろいろな思いがある中低層にすることで生徒の被害を軽減させること。自らの手で作ったという自信と「万が一の時」の納得。いい方は悪いですが倒れる時は何をどうやっても倒れます。地震に限らずこの世の事象はやはり神様の思惑です。でもそんな辛い事象を前にした時納得できる諦め方と理不尽と嘆く諦められなさがしょうじます。前者の比率が多ければ前を向いてまた頑張ろうと思えるのではないでしょうか? よしんば倒れることを前提にしなくても、そして自分たちは作るだけで中で学べない学生であっても後輩のためにと隣人愛を芽生えさせる絶好の機会だったと思います。

最後は

20170505-03


「さとにきたらええやん」と言う映画の上映会を前にして、釜ヶ崎子どもの里のことを少し学んでおります。この施設がカトリックの有志の施設であることから、やはり本田神父のご本から学ぶことは得ることが多いと購入。
20余年の小田原交流パトロール、反省と計画そして祈りをもつことなく粛々とルーチンワークのようになってきてしまったことは反省です。
行動は精神の上にあるもの。この精神論を無くしての活動は意味を半減させてしまうものでしょう。
映画と言う一つの事象をきっかけに自らの省みる時間を頂けました。感謝です。

3冊の本を一気読みして、今日明日はアウトドアで解放された気持ちのいい時間を過ごしたいものです。
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