神の真実

2017年4月30日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章1-8節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。


日ユ同祖論、日本人とユダヤ人は文化的に似ているところがあるのは、同じ先祖だからだという考え方があります。が、よくよくその考え方の意見を聞けば、お互い優秀な民族と言う考えにたどり着かせるように見えてなりません。

ユダヤ人は優れているのはどこか? と言うことは日ユ同祖論者の言葉を借りれば、日本人の優れたところにも匹敵致します。
パウロはユダヤ人の優れたところは『神の言葉を委ねられた』点だと語るのです。
キリスト教は『啓示宗教』と中田牧師は語ります。人間の側から神を知ることはできない、と。よしんばそうしたところで、自分の都合に合わせた「神の考え」を本当の神の考えのように思いこむだけだと。
だから神は自らの意志を「何か」を通じて人間にお示しになる。その役割を仰せつかったのがユダヤ人だということです。
だからユダヤ人は神に忠実に生きなければならないのですが、何かのたびに他の神々を見れば浮気をしその神々を拝む…。それに対してユダヤの神は立ち返るように啓示をします。が、滅ぼすこともなく、預言者を通じ「あなたがたが大切」と言うメッセージを送ってくれています。
イエスの時代でも神に頼らず王に頼り、拝金・物質主義に陥りました。イエスを通じて悔い改めを告げられますが、神のみに立ち返ることなくイエスやその弟子ステファノの死と言う局面を迎えます。

イエスより1000年ほど前ダビデ王の時代もそうでした。ダビデ王は、部下の妻に横恋慕し、部下を戦前に送り殺し、その妻を手に入れます。が預言者を通してその罪を神から啓示され、悔い改めます。
心からの懺悔に神は赦し真実を得るのです。真実とは何か? それは神のみにより頼めば失望に終わらない、と言うのが元の意味です。

時代があちこち飛びましたが、神と人の経緯はいつも一緒です。人が神を裏切り悔い改めるように神から啓示され、従ったり従わなかったり…。
神の言葉に委ねられた…。これは他人より偉いとか選民と威張れることではありません。それはユダヤ人も日本人もみんな同じです。神との関係をユダヤの民がすることで他人が見れるようにしたただそれだけのことです。優れているから選ばれたのではなく、もしかしたらだめだから反面教師のように選ばれたのかもしれません。

今の日本を見ているとそう思います。日ユ同祖かどうかはわかりませんが、日本の政治もイスラエルの政治も何も威張れるような優れたことはしていません。戦争の道を進み、手におえない原発事故を犯したにもかかわらず神を恐れず拝金主義の中俣再稼働をし、国民の多くは生活弱者と呼ばれながらも助け合うよりも自分より弱者の受ける生活保護にクレームをつける。
ただ、今から2000年前、3000年前、イスラエルにはきちんと神により頼んだ人がいたことは事実です。間違いを悔い改めた人がいたことも事実です。
1000年後、神の言葉に従ったことが優れた点だと言われるように真摯に聖書に従いたいものです。

夫のちんぽがはいらない

衝撃的なタイトルが話題になったことが知るきっかけになりましたが、読者の感想は極めてまじめに考えさせられた、と言うのでポチッ。

20170427-01

このBlog読者がこのタイトルが何を語っているかわからないという事はないと思いますが、そういうことだけじゃないのです。タイトルはたんなる一事象を取り立てて書いただけで、誰もが、どの家庭でも、いろいろな悩みがありそれと闘いながら、でも悩みだけではなく楽しみもあり粛々と「地球の歴史」は流れている、という事でしょう。

隣の芝生が青く見えると言います。そんな隣はきっと(隣の家である)自分の家の芝生が青く見えるんでしょう。
いわゆる「女遊び」をすることの問題性を考慮しながらも、もっと考えなければいけないこともあるでしょうし、何よりも夫婦間のとらえ方は夫婦以外の人があれこれ言うこともないのでしょう。

しかし、赤裸々すぎましたね。
なんていうのかな、見ず知らずの方の秘部だから冷静に読めたけれど、知り合いがここまでの話を相談されたら頭の中が真っ白になっちゃいそう(笑)

済州島四・三事件

いくつになっても嫌になるほどものを知らないことを痛感します。
韓国に済州島と言う島があります。どんな島かと問われれば、バブルの時代周囲の仲間がゴルフの話をするときに必ず出る名前であり、韓国のリゾート地というもの。
続いては連れ合いがいわゆる韓流ドラマにはまり、チャングムの誓いなどの作品で政治犯の流刑地であったという知識。
上関原発でいろいろと調べている中、北風を防ぐ練塀が祝島と済州島にしかないという2島間だけのオリジナルの移民か文化交流があったとか、海女文化が済州島と五島列島が似ている点。
そんな程度でした。
ところが昨秋、沖縄高江・辺野古に行き、名護署前でキムキガンさんにお会いし、そのご縁でFacebookの友達をお受けしてもらい情報交換が始まりました。Facebookには彼女の一人芝居の話題が満載で、そして4月を迎え「済州4・3事件犠牲者慰霊祭」の文字。
初めて聞く言葉(セレモニー)。
いったい4・3に何があったのか?を調べたら戦後すぐに済州島でも大きな事件があったことが分かりました。
形は違えど台湾の2・28事件のようなものでしょう。支配していた日本の敗戦による国内の不和事件・・・。

20170425-01

少し学んでみようかとまずはこんな本を購入。届きました。
大阪生野のコリアンタウンはこの時脱出した方々も多いという。第二次世界大戦と言う戦争は終わっても庶民の苦労は続いてしまったわけだ。そしてそれは沖縄然り、今もなおなのだ。

公園で、路上で、排除されても、また暮らす

「渋谷も人数はそんなに変わりはありませんよ」穏やかな顔をして小川さんはそういった。
午前中、なか伝道所での礼拝に集い、午後はここ寿生活館4階の会議室での学習会「公園で、路上で、排除されても、また暮らす」に参加した。宮下公園という渋谷駅前の公園の封鎖を巡る学習会で、講師に小川てつオさんをお呼びしてのもの。
話が終わり司会のオリジンが僕に意見を求め、小田原と渋谷の支援の対比を語った回答が最初の言葉。
元来僕はヘタレでジクドウ者だからか、同じ程度の人数での宮下公園の戦いは衝撃的でパワフルである。
でもそれは小田原という土地柄があるかもしれない。温暖で穏やかな土地ゆえ闘いを好まず、そんな妥協する生き方が性についているから戦いが無いのかもしれないし、小田原交流パトロールのパトビラの文章も穏便なものになっちゃうのだろう。
が、自分を卑下してそう言っているのではない。ぼくのような人間が生きやすい社会こそが良い社会だと僕は思っている(笑)

20170423-11

宮下公園は暗渠になった渋谷川とJRの路線の間に作られた細長い公園で1階は駐車場スペースで2階部分に人工地盤で空中庭園さながらの公園を作り上げたもの。こうした事は1964年東京オリンピックによる再開発による「特例」の公園だった。その後こうした立体公園は地下に駐車場を作るなどの形に変えて広く一般化していく。
駅近くの公園だが老朽化した公園のため魅力に欠け、また森林が多いこともあり多くの野宿者の定住の場所となった。桑原敏武渋谷区長時代は追い出しが頻繁に繰り広げられたが功を奏さない中、そこにスポーツメーカー・ナイキジャパンが公園の命名権を取得し、命名権だけではなく公園運営に対しても圧力をかけた。
宮下ナイキパークと銘打った公園改修に先立ち、園内の野宿を余儀なくする仲間たちは追い出しを食うものの、強引なナイキのやり方に反発する市民も多く、苦慮した渋谷区は野宿者や市民グループ等との約束を反故し夜間の立ち入りをできなくする政策を打ち出した。
またこの戦いの中、2011年4月21日に反対派の3団体と野宿の仲間1名が渋谷区を相手取り、路上生活者の生活とアーティストの表現活動の場を奪った行政代執行は違法であり、また精神的苦痛を受けたとして、600万円の賠償を求めて東京地方裁判所に提訴した。2015年3月13日、東京地裁は「代執行による撤去前に男性を担ぎ上げて退去させた」点を執行の許容範囲を超えて違法と認めこの男性に11万円の損害賠償を命じたという裁判勝訴判例も出た。

2014年、2020年東京オリンピックのための渋谷駅前再開発の事業主が三井不動産となり、同公園の一部をホテルにする計画をしたが、緑地公園のために面積減少は難しいとの判断のもと、新たな立体公園として4階建ての施設の屋上を宮下公園にするというプランを発表。
もしかしたら今後は下段階別使用だけではなく、公園の上空を別施設に利用する可能性をも含められそうなデザインになる。
僕らのイメージする公園は、大地が育んでくれた自然の土と、そこに育つ動植物、そしてそうした生き物にパワーを与えてくれる太陽や雨や風の恵みだが、ガラス張りの閉じられた空間の中の人工土壌と人口太陽、潅水装置の公園にいつしかなってしまうのかもしれない。
そうでなくてもTVのCMではしきりに除菌という言葉が使われている。微生物の恩恵によって成り立ってきた日本文化。そこには食(医)も衣(染物)もある。共生・適応できる人体であったからこそ、特に食(医)は健康であり続けられた。そうした文化からの脱却をしたいのだろうか? なにかガラス張りの公園が除菌マニアの日本人に受け入れられそうで怖く悲しい。

話がそれたが再開発に向け渋谷区と事業主は強硬策に出た。それは野宿している人だけではなく、利用者に対しても、また近隣住民に対しても何の連絡もせず突然に公園を封鎖閉園した。
もう少し詳細を書こう。宮下公園は
フットサル場 4,000 - 7,000円(1時間) 夜間照明使用料:30分250円
スケート場 一般:200円(2時間)小中学生:100円(2時間)
クライミングウォール 一般:350円(2時間)小中学生:200円(2時間)
の有料公園だ。予約している人もいたはずだが、それをお構いなく突然の閉園をするが、そこには道義的な責任はあるはずだ。

そうしたことの裏に東京オリンピックの影が見える。
スポーツの祭典とはいえ、行き過ぎた感で、政治的なボイコット、薬物の問題、そして多額な金銭と今回もあった委員へのわいろ巧作。世界一になる素晴らしさよりも、自社のウェアーシューズトレーニングマシンで世界一にしたから是非購入しろよ、的なCMやオフィシャルスポンサーで応援していますと大々的にCMする企業のための祭典に見える。
小川さんは言う、再開発とは所有権の再確認だと。自分の権限が及び自分勝手にできる場所を権力者通しが確認し合う行為なんだろう。そこには庶民が入り込める隙間は無い。オリンピックという反対しにくい大義名分の中、勝手に新しい街づくりをするという裏で、追い出しを食らうのは何も野宿者だけではなく、とかでは民家も移転を余儀なくされているニュースは流れる。

しかし最たる人々は野宿を余儀なくする人々だ。野宿者への「怖い」「汚い」「迷惑」というのは実は偏見である部分が多い。もちろんPTAでモンスターペアレントの問題や、町内でのいわゆる『有名人』もいる如く、野宿の中にも周囲に迷惑をかけてしまう人はいるし、ずるい奴もいる。でもその比率は僕らの住む御町内のそれと大差はない。多くはいいオッチャンばかりだ。そのいいオッチャンが国に迷惑をかけないように生活保護を使わないで何とか自分の力で生きていくよ、と言っているけなげな頑張りをなぜ追い出すのだろう?公園だから住んではいけないいというのだろう。頑張る人間を応援してあげようではないか!
井手先生が過日トピックスで、選択の自由が無い人が弱者だ、と書かれた。意味もなく偏見で公園にいるなといって言記載もないまま追い出すという選択幅を狭める作業を少しでも緩和してみようではないか。
公園内で共有できる道はあるはずだ。そもそも子どもたちが野宿のオッチャン達を嫌がっているという話を聞くことはない。大人が勝手に「子どもたちのために」という大義名分をつけ追い出そうとしているだけだ。

・・・しかし、こうした世の理不尽と戦うにはパワーが必要だ。当初小川さんの言葉を紹介した。人数が多くなくともパワーがあれば出来る事は多い、が、残念ながら僕にはそこまでのパワーは無い。できれば穏便にのほほんと過ごしたいタイプの人間なのだ。憧れの動物は「ナマケモノ」である。一日数時間の最低必要だけの行動以外はグータラしていたい。
が、我慢できないこともある。憤ることもある。特に命や権利が脅かされれば窮鼠猫をも噛む。
パワーが無い中でも全くゼロではない。少ないパワーながらも出来る事は言い続け、出来る事は行動を起こしたい。僕のようなグータラな人間が楽しく生きられるためには戦わざるを得ない時は闘おう。

マスコミを通じての宮川公園闘争だったが、少し深く掘り下げて聞くことが出来た。感謝!

ちなみに小川さんのBlogはこちら。ぜひどうぞ!!
今度コーヒーを飲みに伺います(^^)/

4月27日のパトビラ(№975 - シンポジウムにご参加を -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。


ジャンパー問題では「人権派」の有識者が意見をまとめ小田原市に18ページにもわたる提言書を提出しました。それを受け小田原市は市民にその提言内容を公表し、市の方針を説明するシンポジウムを下記要領で開催することになりました。
日にち:4月30日(日曜日)
時間:午後2時~3時45分
場所:市民会館大ホール
基調講演 『「私たち」の再生~人間の誇りを大事にする小田原~』井手英策(検討委員会座長)
パネルディスカッション  コーディネーター:井手英策、パネラー:和久井みちる・渡辺潤・加藤憲一(市長)

入場は無料です。話を聞いて疑問な点、またここは変えてほしい、などがありましたら5月4日にお伺いした時にでもお聞かせください。夏前には福祉課との意見交換会をする予定です。その時にでも市側に伝えさせていただきます。
この問題に対して有識者の方々も1年後の実績を見極めることで小田原市の取り組みを評価したい、と言っています。有識者の方に小田原市よく頑張った!と言ってもらうためには、市に任せるのではなく自分たちも意見を伝えていきたいと思います。


生活弱者とは「選択の自由」が無い人だと言われました。
そう言う意味では、生活保護を受けている人、受けたくても受けられない人、保護ではない形で労働と言う形でできるだけ生きていきたいが厳しい人、はそれぞれみんな弱者でしょう。
そうした弱者が生きやすい町にするためには、政策を弱者が見聞きし、自分の意見を真摯に発し、それを救い上げるという作業が大事になるでしょう。
と言っても、1日1生一生懸命生きている人にはその時間を作り出すことも難しいかもしれませんが、できる限り参加してくれるとうれしいものです。

イエスの生(せい)を記念する教会

2017年4月23日、横浜市中区にありますなか伝道所で礼拝を守りました。同教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章13-35節。表記のタイトルの説教を北口沙弥香牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


20170423-01
(個人名にはモザイクをかけさえてもらいました)

教会によって礼拝の方法が少しずつ違います。なか伝道所の礼拝の特徴の一つは、「説教」ではなく「使信」と称し、メッセージの後に会衆の質疑やインプレッションの共有をする点です。
この日もまず北口牧師よりメッセージを受けました。

弟子たちは「暗い顔」をしていた、つまり肉体的にも精神的にもヘトヘトになりながら失意の元60スタディオン(11km)・・・だから3時間ほどの道のりを歩いて居た訳です。普通ならこの倍以上の道を歩くのですから、スピードが遅かったのか、出発時間が遅かったのかどちらかなのでしょう。それでも暗い顔をしていた、ことに注視しなければいけないのでしょう。
同時に行間を読め、と言う考えもあります。イエスが「先を急いで」いたのを引きとめた、のはもう少し自分たちのスキルに会った十分な説明を2人が欲したのかも知れません。同じレベルまでイエスは遜って合わせ、懇切丁寧に話したゆえに2人は十分納得し、熱意が戻りエルサレムに踵を返したとも読めます。

この話はルカによる福音書にしかないと北口牧師は語ります。ルカは4福音書一番最後にかかれた福音書の記載。どこまでが見聞きしたことなのか、どこからがルカが手を加えたものかは明確にはわかりませんが、ルカは、イエスがパンを感謝し裂いたところで、弟子たちはイエスだと分かりイエスの姿が見えなくなった、と書いています。
このルカのオリジナルな記事は、聖餐式を通じてイエスに出会ったことを強調しています。
そしてそれを大事にした後世の教会はもっとデフォルメして教会こそがイエスに出会える場所=教会でしかイエスに出会えないと形を変えていきます。
しかし聖餐式と言う儀式が正しいのか?は、イエスのその前の5000人の給食の記事や最後の晩餐の記事のような聖餐の場面が、儀式の聖餐ではなくともに食事をする聖餐の場面から疑問視されます。2000年経った今イエスの居場所は本当にピンポイントな場所にまで狭められているわけです。
イエスは週一度の数時間の礼拝と言う非日常の場ではなく、いつでもどこでも隣に居てくれるという日常の存在なのです。


と言うようなメッセージの感想を受けた話のあと、会衆からいくつかの質疑とインプレッションがありました。その中で1つ。
パンを裂いた後姿が見えなくなった、と言うのは霊的なものか? 疑似的な象徴か? というのがありました。
北口先生や渡辺英俊先生から、また他の信徒からお考えが発言されました。
その中で、精神的な病や障碍を抱えている人の中には幻視体験をする人がいる。病や障碍を持った人は、それによって非情な苦しみを負っているが、そうした中、強烈な出来事にであったあと、心や頭に痛烈な影響があると幻視が見れることがあり、ご本人はそれが幻視か真実かの判別が出来ない、と言う話がでました。
先週小田原教会の説教の中でも、ヘタレな弟子たちが挙って殉教の死を遂げるほどの人生改革があったという話がありました。
イエスの復活に出会う、ことは、どういう事なのかは僕らの能力では分析できかねることなのかもしれませんが、殉教の死を厭わない勇気が与えられるほど大きな出来事だとしたら、残念ながら僕はまだ復活のイエスに出会えていないのかもしれません。が、逆に言えば出会えるその日をワクワクしながら生きれるということでしょう。
トルストイの「靴屋のマルチン」は「明日お前に会いに行くよ」と言う神の声にわくわくしながらの一日を過ごしましたが、あと何年(何十年)のこの世での生の中、復活のイエスにお会いできるのを楽しみにしながら生きたいものです。

20170423-02

さて、礼拝が終われば、愛餐の時。1つのパンを裂いて共に食し、パン以外もマカロニサラダとコーヒーを食させて頂きました。初めてお会いする人たちが多い中、中心にイエス様がいてくれる食卓。楽しいひと時でした。
なか伝道所の皆さん恵みのひと時の共有ありがとうございました。

束縛された不自由からの開放

宇都宮けんじ氏がFBで紹介していたニュース。

ホームレスを経験した人が働き、地域の人と交流できる場所をつくりたい――。そんな願いを込めた小さなカフェが東京都練馬区に18日、オープンした。フェアトレードの豆を自家焙煎(ばいせん)したコーヒーや本格カレーが味わえる。

 名前は「カフェ潮(しお)の路(みち)」。一般社団法人「つくろい東京ファンド」(稲葉剛・代表理事)が、クラウドファンディングなどで集めた寄付金で開設した。民家を改修し、2階がカフェ、1階がコーヒースタンドになっている。

 つくろい東京ファンドは2014年7月、空き家を利用した生活困窮者のための個室シェルター「つくろいハウス」を東京都中野区に開設設し、住まいの確保や生活支援をしている。いまは都内4区に22部屋を用意。これまでに約50人が生活保護を利用するなどして一般のアパートに移った。

 ただ、アパート入居後も地域で孤立しがちで、仕事を探そうにも高齢や障害のためフルタイム勤務は難しい人が多い。稲葉さんは「『住まい』の次は『仕事』と『居場所』が必要。それなら自分たちでつくろうという思いでカフェを立ち上げました。地域の方も高齢者もお子さんも集まれる、みんなの居場所にしていきたい」と話す。

 カフェでは20~70代のホームレス経験者5人がスタッフとして働く。時給は1千円。その人の事情や体調に応じて柔軟な働き方ができる。さらに多くの人に呼びかけていくという。将来的には子ども食堂や学習支援にもカフェを活用していきたいとしている。

 ログイン前の続きコーヒーは200円、日替わりランチ500円、カレー700円。シェフを務める同ファンドの小林美穂子さんは「カレーは3時間かけてつくっています。おいしいですよ」。お金がない人も足を運べるよう、余裕のある人が「次に来店する誰か」のために飲食代を前払いする仕組みも採用し、「お福わけ券」と名付けた。200円と700円の2種類がある。

 見学会やプレオープン日には、かつて新宿駅の段ボールハウスで暮らしていたホームレス経験者も含め、稲葉さんの長年の知人が集まった。かつて日雇いで建築の仕事をしていたという男性(64)は「顔見知りが多いから、またコーヒー飲みに来ます。お店がはやるといいな」と話していた。

 カフェは火、木の12~17時、コーヒースタンドは火~金の12~15時。今後営業日を増やしていきたいとしている。詳細は同ファンドのウェブサイト(http://tsukuroi.tokyo別ウインドウで開きます)で。
 朝日新聞 清川卓史 2017年4月21日06時00分

本田哲郎神父の著書「釜ケ崎と福音」内の言葉を借りずとも野宿を余儀なくしている人にお声をかけると、その多くは生活保護を取得したいという言葉より、もう少しここで自分の力で頑張りたい、という回答が返って来ることが多いのは、野宿者支援をしている人共通の認識だと思います。かくいう僕も高齢の野宿者に、体調不安から少ししつこいぐらいに生活保護受給の正当性を語ったこともありますが渋られることが圧倒的に多かったです。

さて、井手先生の仰った『自由のなさ』こそが弱者の意味、という言葉を昨日聞く機会があり、全くその点こそが一番の問題点なのだと思った次第です。
僕らが当たり前にしている「会話」や「生活」。考えてみると、例えば学校のいじめではこの「会話」における自由のなさ、つまりは無視・孤立が一番の苦痛なのでしょう。野宿の人も大きなコミニュティがあるドヤ街、また小田原のような地方都市でもコロニーを作って生活している人は「会話」がありますが、ドヤ街の中でも小田原でも孤立している仲間がいます。僕らが訪問をすれば誰とも会話する機会が無く溜まった言葉が出てきてあっという間に30分、時には1時間ほども傾聴したケースもあります。仲間不足という「自由のなさ」という弱者であるわけです。
また、野宿のコロニーからアパートに居宅設定した直後(半年くらい)で亡くなられるケースもありました。部屋という囲まれた空間から外に出れなくなって、大自然という自由が奪われた…出ようと思えば自分の部屋だから出れるのでしょうけれど囲まれた不自由さを味わった結果なのかもしれません。囲まれた瞬間に保守的な心が生じ、外に出るのが怖くなるのかもしれません。
地方都市から電車を乗り継いで東京に行く、最初の一歩が踏み出せない。興味ある集会なので出てみたいが勇気が出ない。楽しそうなんだけれど、不安な要素は無いんだけれど怖気づいている自分。踏み出してみれば「なんだ、簡単な事じゃん」と言えるのは分かっているんだけれどな…。
河島英五さんというミュージシャンの方がいて、その方の作品に「てんびんばかり」というのがあります。その一説に

うちの仔犬はとても臆病で一人では街を歩けない
首輪をつけると とても自由だ
僕を神様だと思っているんだろう

というフレーズがあります。僕らは首輪をつけられることが不自由な象徴として感じますが、首輪をつけてのお散歩はご主人さまと一緒という自由を感じているというこのフレーズはよくわかります。自由かどうかは自分の感性に行動が適合できるかどうかなんですよね。

問題は、他人によって首輪をつけなければいけないという強制、首輪をしてはいけないという圧力があることが「不自由」=「自由のなさ」でしょう。
支援を始めたころ、若気の至り(と言っても若くはなかったけれど)アパートに入りたくないという自由を無視して必死に自分の意見を押し付けてしまったかな、と思っています。
傾聴などとかっこいいことを語りながら、実は持論を静かに聞いてくれたのは野宿を余技する人だったのかな?と思うのです。

聖書に善きサマリア人の喩というのが載っています。

ある人がエルサレムからエリコに向かう道中で、強盗に襲われて身ぐるみはがれ、半死半生となって道端に倒れていた。祭司、レビ人といった神殿にかかわる人々はこの人を助けずに通り過ぎた。しかしユダヤ人から大変に嫌悪されていたサマリア人は、この半死半生の人を助けた。傷口の治療をし、家畜に乗せて宿屋まで運び、宿屋に怪我人の世話を頼んで費用まで出した。
このたとえ話の後、律法学者に対してイエスは、このたとえ話で誰が怪我人の隣人であるかを律法学者に問い、律法学者が「助けた人(サマリア人)である」と答えると、「行って同じようにしなさい」とイエスは言った。

という喩は、とかくサマリア人になりなさい、的な説教になりますが、けが人の僕の話を聞いてくれる野宿者こそが(社会で蔑視されているけれど)サマリア人なんだな、と思います。

それでも孤独でストレスをため込んで吐き出すことが出来なければ病んでいきます。
野宿者支援というのは実はこうした孤独解消のボランティアなのかもしれません。
そしてQOL(クオリティ・オブ・ライフ)働きたい人に働く場を創造する活動なのかもしれません。
子ども食堂も野宿者の支援も市民の理解やスキルが上がって来て形はどんどん良く変わっていくのかもしれません。
今まで僕らの活動は「寄り添う」共生に趣きをおいていましたが、少し「脱出」QOL、笑顔を拭くりだす支援ににシフトしていくべきなのかもしれませんね。

自民党は久野の住民をテロリストとおもっていたのか!!

ついに国会審議がはじまった共謀罪。19日の衆院法務委員会で安倍首相は、「我が国がテロ組織による犯罪を含む国際的な組織犯罪の抜け穴になることを防ぐ上において極めて重要」などと“テロ対策”であることを強調したが、もはやこんな詭弁が通用するわけがない。

 というのも、今回の共謀罪の取りまとめ役となっている自民党法務部会長である古川俊治参院議員が、「テロだけじゃない」とテレビで断言したからだ。

 その発言が飛び出したのは、昨日20日に放送された『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日)の人気コーナー「そもそも総研」でのこと。コーナー進行役の玉川徹氏が共謀罪の重要人物である古川議員に取材を行ったのだが、そこで古川議員が語った内容は、まさに共謀罪の恐ろしさを裏付けるものだった。

 たとえば、安倍政権は共謀罪の捜査対象はテロ組織などの「組織的犯罪集団」に限られているというが、277ものの犯罪のうち、ひとつでも2人以上で計画や準備行為をしたと見なされれば「組織的犯罪集団」とされてしまう。そこでもっとも懸念されているのが、沖縄における基地反対のように、一般市民が参加する運動が「組織的な威力業務妨害罪にあたる」として共謀罪を適用されるのではないか、という問題だ。

 そこで玉川氏は、沖縄のように基地建設を阻止するために市民たちがトラック車両を現場に通さないよう座り込みで抗議する、そのことのために銀行でお金を下ろすなどしたときにも共謀罪は適用されるのか?ということを古川議員に質問。すると、古川議員はこう述べたのだ。

「仮に完全にトラックを防止するっていう目的だけにみんなが集まると、仮にですよ、仮にね。極めて具体的な計画でやる。具体的な計画といったら危険性が出てくるということですから、まさにやろうとしているということなんですね。そして、そのための実行準備行為をやったという段階じゃないと、これ適用になりませんから」

ここですかさず玉川氏は「逆にいえば、そこまでやれば適用できるということですよね」と言うと、古川議員は「そうなれば、組織的犯罪集団として認定される可能性はありますね」と明言したのである。

 つまり、トラック阻止を計画し準備しただけで「組織的犯罪集団」となり、共謀罪で逮捕されてしまう、というのだ。安倍首相は「一般市民が対象になることはない」と繰り返し強調するが、とんだ大嘘ではないか。

 反対運動だけではない。例として、原発のような国策を推進する企業に対してSNS上で集団で批判を書き込むといった行為を信用毀損・業務妨害罪にあたるとして共謀罪が適用される可能性について、古川議員はこのように言い切った。

「故意があるということは確定的に何か証拠に出ていて、かつ、その具体的な計画で、まさに実行の段階に入って、それで実行準備行為があるという段階になれば、それはその犯罪は成立するので、あり得ることです」

 この古川法務部会長の説明によって、共謀罪とはやはり、テロとはまったく関係がない一般市民に、権力者の思うがまま、いくらでも適用できる法案だということがよくわかるだろう。しかも、古川議員はこんなことまで言い出したのだ。

「テロなんて言ってませんよ、この法律だって」
「それはいろんな意味でですよ、テロだけじゃないですね」

「テロ等準備罪」とテロの脅威を利用した嘘っぱちのネーミングに置き換えたのは安倍政権だが、その取りまとめ役たる法務部会会長である古川議員は自らが、“この法案はテロだけが取り締まりの目的じゃない”ときっぱり宣言したのである。

 ようするに、「テロ等準備罪」というのは詭弁でしかないと自民党議員によってお墨付きが出たわけだが、問題は、安倍首相がこうした詭弁を弄して国会議論を掻き混ぜ、共謀罪を押し通そうとしていることだ。

実際、前述した19日の衆院法務委では、民進党・山尾志桜里議員が、安倍首相は1月の予算委では「そもそも犯罪を犯すことを目的としている集団でなければなりません」と言っていたのに、その3週間後にはオウム真理教を例に出し「当初はこれは宗教法人として認められた団体でありましたが、まさに犯罪集団として一変したわけであります」と説明を一変させたことを指摘。「“そもそも発言”を前提とすれば、オウム真理教は『そもそも宗教法人』なので対象外ですね? どちらが正しいんですか?」と質問を行った。

 すると安倍首相は、藪から棒にこんなことを言い出した。
「“そもそも”という言葉の意味について、山尾委員は『はじめから』という理解しかないと思っておられるかもしれませんが、『そもそも』という意味には、これは、辞書で調べてみますと(中略)これは『基本的に』という意味もあるということも、ぜひ知っておいていただきたいと。これは多くの方々はすでにご承知の通りだと思いますが、山尾委員は、もしかしたら、それ、ご存じなかったかもしれませんが、これはまさに『基本的に』ということであります。つまり、『基本的に犯罪を目的とする集団であるか、ないか』が、対象となるかならないかの違いであって。これは当たり前のことでありまして」

 姑息にも程があるが、「そもそも」という言葉を「基本的に」という意味で使うことは一般的にほとんどないだろう。たとえば三省堂の『大辞林』では、名詞用法としては〈(物事の)最初。起こり。どだい。副詞的にも用いる〉とし、接続詞としては〈改めて説き起こすとき,文頭に用いる語。いったい。だいたい〉と説明している。「基本的に」という意味は書かれていない。

 同様にネット上でも「『基本的に』なんて意味で『そもそも』と言うか?」と疑問が呈され、朝日新聞は『広辞苑』『日本語大辞典』『大辞林』『日本国語大辞典』を調査し、どの辞書も〈「基本的に」とする記述はない〉と記事にしている。さらに辞書をテーマにした「四次元ことばブログ」では、30種類以上の辞書を調べても、戦前の辞書まで遡って調べても、「そもそも」を「基本的に」と語釈する辞書は見つからなかったとレポートしている。

ぜひ安倍首相にはわざわざ調べてみた辞書が何であるのか明かしていただきたいものだが、言うまでもなく、山尾議員はそんなことを問いただしたかったわけでは決してなく、“誰がターゲットとなるのか”という重要な問題が本題だったはず。それを自分の発言責任を放り出して、根拠もない自己弁護で議論を進展させようとしないのだ。

 だが、今後もこのような詭弁に詭弁を重ねるバカバカしい議論がつづいていくことは必至だろう。しかも、この日の法務委では、まともな答弁ができない金田勝年法相の“代打”として、要求されてもいない林真琴刑事局長を政府参考人として出席させることを強行採決。前代未聞の国会ルール破りを展開した。

 しかし、こんな滅茶苦茶なやり方で、どんな問題法案だって押し通せてしまうのが安倍“独裁”政権である。冒頭に紹介した『モーニングショー』のように、いまこそメディアは共謀罪の危険性と安倍政権の暴挙を暴き立てていかなくてはならないのだ。

(編集部)LITERA 2017.04.21|社会

自治会をあげて地域の環境問題を守る。
それは香川県の豊島や岐阜の御嵩町をはじめいたるところで起こった民間産廃施設反対運動があり、わが町小田原市久野もご多分に漏れず山間部の計画のためにできる限りのことをした。僕らもトラックの前に座り込みもした。行政センターの駐車場に寝泊まりをして反対を言い続けた。
原発反対や沖縄辺野古・高江の米軍基地反対も形は違えども「公害」問題だ。地元民にすればまさに火の粉が降りかかった大変なことなのだ。

テロリストが、私はテロリストでこれから危険な行為をするなど言うはずがないことは子どもでもわかる理屈。
地下に潜ったテロリストをあぶりだすためにはどうするのか? と言った時、立法提案者たちは認めていないがこの共謀罪では民間人を犠牲にして捜査対象にする、ということだろう。
でも実はそんなところに真意を置いていないだろうと推測していたが、まさにその疑心は的中した。この法案は、あくまでも政府の建設しようとしている迷惑施設に反対するものを法的に処罰しようという内容だったのだ。
自治会長が捕まる。反対運動のリーダーが逮捕される。そうして運動の力を弱め、政府のやりたい放題にする。このための法案でもあることを僕らは肝に銘じておかなければならない。

もしそれは嫌だというのなら法案賛成政党に票を入れない。これしかない。

4月20日のパトビラ(№974 - 人権を司法が守る -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

千葉県弁護士会の会長が52歳の壮年の方になりました。若い方が熱意をもって会を引っ張ることは素晴らしい事です。しかも弁護士と言う大事なお役目の会ですからなおさらです。
そんな会長のあいさつがホームページ上に乗っていましたが、そこには
『国民の人権を不当に侵害する法律や行政行為は、裁判手続などの司法作用により正されなければならないということです。』とありました。日本の三権分立が大きくゆがめられています。沖縄では法を曲げてでも米軍基地を作ろうとしているし、原発事件の片棒を担いでまだ放射線量の高い所に帰村させ補償を打ち切ることも法治国家でありながら法が国民を守らない出来事です。
もちろん野宿の仲間を囲む事例もたくさんあります。生活保護実施要領等の解釈をもってなんとか路上からアパートへ直接入居せずに敷金・礼金の不要な無低に一度介してからとしていますが、森川弁護士は同資料内の「安定した住居のない要保護者が住宅の確保に際し、敷金等を必要とする場合」は一定額を支払うべきという一文をもって支払うのが当然と言います。まさに行政行為が憲法25条の精神に則ってほしいものです。専門家の弁護士をはじめ、市民グループも一体となって憲法の権利を守り続けたいです。


洗足の木曜日で訪問をお休みしました。2週間ぶりの訪問です。
だいぶ暖かくなってまいりました。皆さん元気で過ごしているでしょうか?
同時にジャンパー事件以降、小田原市の行政の在り方も注視し、久々に僕の生活の中心となりました。
そのほかにも、東京都渋谷区の公演の封鎖とかもニュースとして流れていました。

そんな訳で学習会の公示です。
交流学習会「公園で、路上で、排除されても、また暮らす」

2017年3月27日に事前告知なしに宮下公園の封鎖が強行され、抗議した支援者・野宿者が逮捕されるという事態が起きています。日々暮らすために必要な荷物を取り戻すだけでも、多大な労力と時間がかかったといいます。
オリンピックの会場となる予定の明治公園では、度重なる排除が起きています。
現実に公園に暮らしている方から、オリンピック関連の再開発が進む中での排除とその闘いの実際について聞いていきたいと思います。

日時:2017年4月23日(日)午後2時~
講師:小川てつオさん(反五輪の会)
場所:寿生活館4階 会議室(横浜市中区寿町3-12-2、JR石川町駅北口下車、徒歩5分)
主催:寿支援者交流会(045-641-5599・寿生活館4階)


私も参加する予定です。人権問題にご興味のある方ぜひどうぞ!!

恐れながらも大いに喜び

2017年4月16日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 28章1-10節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」



『死からの復活』を証明できる人はいないし、逆に説明を受けずに受け入れる人もいません。
パウロもアテネの教会においての記載に『死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。』(使徒言行録17:32)と書いています。
まぁ常識的に突然出会った人がいくら「先生」と呼ばれるような偉大な人でも、「死者の復活」を語ったところでそう簡単に信じることはできないと「イエスの死からの復活」を前提にしている宗教書である聖書にすら書いています。

立証はできませんが証言はあります。今日の箇所もその一つです。
聖書を読む僕らは、復活を前提に物語を読みますが、日曜の朝イエスの墓に出向いた婦人たちはどんな気持ちでいたでしょうか?
心の片隅には、イエスの死が嘘であってほしい。信じられない。もしかしたら、と言う気持ちがあったでしょう。でもその気持ちはあきらめの中で、でも諦めきれないという感情でしょう。
3・11や熊本地震に際して、家族がつぶれた家の下敷きになり2日経ったとか、津波にのみ込まれて1週間経っても、家族は期待を消しきらない、そんなかんじでしょう。非常につらい葛藤・・・。
でも、そうは言いながらも無理だ、と言う諦めも感じています。だから遺体が腐敗して異臭を放っているだろうからと香油をもって出かけたのでしょう。生きている前提なら遺体処理を想定していないでしょう。

しかし彼女らはイエスを見た訳ではありません。「空の墓」を見ただけです。
ですから、当時のローマの人たちは民衆が騒がないように必死に収集を図ります。曰く誰かに遺体を盗まれた。しかしローマ兵が見張っていたはずだし、自分の職務を放棄すればそれなりの罰をうけます。自分の命を懸けて、また家族や親族まで影響が及ぶことがあるかもしれなければ、イエスの遺体を盗む必然性は全くなくなります。

イエスは本当に甦ったのか?と言われればわかりません。が、自分や家族親族までの影響を考えれば、本当に甦ったことはなくはないと言っても過言ではありません。
この後弟子たちの前にもイエスは現れます。それまではイエスの事を知らないと言ったり、もうこのままエルサレムに居ては自分の身が危ないと故郷に帰ろうとした弟子たち。彼らはみなイエスの弟子として殉教の死を遂げます。なぜ弟子たちは急変したのでしょう?
殉教できる勇気(?)はどこから出てきたのでしょう? 人生をひっくり返すような出来事があった故ではないでしょうか?
命を懸けるような人生の衝撃事件。僕は残念ながらまだ出会っていませんが、それだけの大きな出来事には科学では解決できないほどの驚きがあるのかもしれません。
それがただ一人ではなく10余人。すごい事件があったことは推測易いです。10余人が人生を変える事件を今推測したところで推測の域を出ませんからこれ以上言いませんが・・・。

では僕らはイエスの復活、イースターの出来事から何を考えなければならないのでしょうか?

もし誰かが、イエスの復活を科学的に立証したとして、また信じたところで、「ああ、2000年前にそんなことがあったのだね」と感嘆で終わってしまったら…それが自分の人生に何の影響もないものだったら、復活したところで何にも意味がないでしょう。
僕らはイエスの復活からイエスのみあとを歩む必然性を感じます。併せて死に打ち勝ったということを知り不安を払しょくすることです。
イエスの歩みのみあとを歩めば死さえも怖くないということを信じる事が復活の出来事です。

さて、イエスは婦人たちにガリラヤへ行くよう伝えよ、と言います。ガリラヤとはなんでしょう。それは弟子らの故郷、生活の場です。特別な場所でなければイエスに会えないのではなく、毎日の生活の中でイエスはいつも隣に寄り添ってくれています。

イースターおめでとうございます。
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