福音を恥としない(2)

山口市内の小学校でいじめを受けた女児が不登校になった問題で、男性担任教諭が女児に「先生に超能力があったら加害者を見つけられるのに」と発言していた。女児の父親への取材でわかった。女児は「加害者のことを伝えているのに、真剣に取り組んでもらえない」と受け止め、学校に行けなくなったという。

 市教委によると、「しんでよね」などと書かれたメモが女児の机の中に入れられるいじめは昨年1月下旬から約3カ月間続いた。父親の説明では、その後も夏ごろまで、同級生ににらみつけられるといったことがあった。

 担任と女児の家庭で交わされた「連絡帳」によると、担任は昨年11月16日、女児と個別に面談。女児は「担任に『なぜいじめられたと思う』と尋ねられ、『どうやったら加害者は見つかると思う』『先生に超能力があったら加害者を見つけられるのに』と言われた」と親に伝え、親はそのことを記入した。

 翌17日から女児は不登校に。女児の母親は連絡帳に女児が「加害者の話も何度もしているのに、超能力の話だなんてありえない」と落ち込んでいると書いた。これに対し、担任は「気持ちがやわらぐといいなという思いで話をしていました。傷つけてしまったこと、とても申し訳なく思っています」と記した。

 ログイン前の続き12月2日の連絡帳には女児が自ら「私は先生に傷つけられたことは一生忘れません」と記入。担任は「苦しんでいる気持ちを考えないような幼稚な言い方をしてしまいました」と謝罪の言葉を書いた。

 学校は今月27日夜、緊急保護者会を開き、いじめや学校の対応の経緯を説明した。女児が不登校になった経緯について、市教委は26日に開いた記者会見で「担任との言葉の中で行き違いがあった」と説明。校長は朝日新聞の取材に対し「個別のことでお話しできない」と話した。
朝日新聞 2017年1月30日19時16分

昨日の今日なので、29日の説教はよく覚えている。そんな最中のこの文章に説教がオーヴァーラップした。
説教を聞いて僕は2つに分解した。
1つはキリスト教はドラえもんのポケットではないから「奇跡」を望んでも何も出てこない。→先生が超能力を使えたなら、という言葉は、失望以外の何物でもない。
もう1つはインマヌエル=神共にいまし、である。映画「沈黙」のインプレッション「サイレンスΩ」にも記したけれど、神という名詞を固定概念で思い込んでしまわないで、例えば聖書の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書 18章20節)という概念を外した人の心の中の神性を重視すれば、彼女に共に居ます神のなさ、つまり隣人不在が彼女を苦しめてしまったわけのように見える。

福音とは神という既成概念による「与えられる」存在ではなく、神性により隣人を愛す心を持った人の行為でもあるのではないか?
何の力もないような、ささやかな言葉や無言でいても寄り添える周囲の人。その存在はドラえもんのいかなる道具よりも光って見える。

2月2日のパトビラ(№964 - NPOが運営する無低の実態 -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

さいたま市は26日、生活保護受給者が受け取ったばかりの生活保護費を強制的に回収、管理したとして、同市岩槻区内で生活困窮者受け入れ施設を経営する宗教法人「善弘寺分院宗永寺」(東京都足立区)に対し行政処分を出した、とのニュースが報じられました。このNPO法人は5施設で220人の生活保護者を入居させていましたが、バスで市役所に連れて行き、帰りのバスの中で保護費1万円だけ渡して残りを回収。その後1日千円ずつが渡されたそうです。つまりベニヤで仕切られた約3畳の家賃が47700円、暖房費3080円、水道光熱費9000円、食費棟約3万円がかかるそうです。あまりの劣悪さに支援者にSOSを求めた人たちのおかげで、現状が公になりました。その方が後日入居した近隣エリアの6畳1K(バストイレ付)が43000円なので家賃だけを考えてもそのNPO無低施設は倍の料金を取っていたことになります。
無低からアパートに居を移したとしても12万円近くかかりますからお小遣いがたんまり残ることはないでしょう。でも、監視されない自分の自由な広い空間をもてることは確かです。すべての無低がそうでは決してないと思いますが、逃げられないように1日千円だけを渡すやり方に「昼飯を買い、一日中部屋でテレビを見る生活で気が変になってしまう。だんだん、考える力がなくなり、現状から抜け出すことを諦めてしまう人も多かった」と人格すら破壊してしまうやり方に徹底的なメスを入れてほしいものです。


まず一つお断りをしなければならないのは、何事もそうですが、1つの事例ですべてを判断しないでほしいということ。まじめに困窮者を救おうと努力している施設もあります。でも比率は極めて低いと言わざるを得ません。それでも十羽一絡げで言われることに心を痛めている施設もあることはお覚え下さい。

そしてそんなひどい施設であったとしても、生活保護をもらえれば、医療扶助を受けられるために医者にかかりやすいことや、冬の寒さや夏の熱中症の予防にはなりやすく、死の恐怖からは少しは逃れられることも確かです。

では何が問題かと言われれば、実は世の中の多くの方が不満に思っている「不正取得」の温存の一つはここではないかと思える点です。
個人で不正をする人は、言い方は悪いですが、生活保護以外もそういう生き方をし続けてきた人です。世の中の詐欺事件と同じです。
こうした貧困ビジネスも同様です。たとえは悪いですが、振り込み詐欺と同じようなもの。ただ振り込み詐欺は、個人を狙うものですが、こうした貧困ビジネスは役所の脆弱部分を通じて税金を搾取する点です。
そのとばっちりが本当に困窮している野宿の仲間たちに行かないように、まずは近問題は役所組織の脆弱部分を解消するよう努力してほしいものです。

福音を恥とせず

2017年1月29日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 1章16-17節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。


聖書、特に新約聖書は「信仰の書物」です。だから読んだ人がそこから影響を受けどう生きるかというものですので、多様な読み方ができると思います。
しかし、聖書を信仰の書としながら、いわゆるカルトと呼ばれる原理主義的な指導者のエキスで聖書をコーティングする宗教グループもあります。
言い方はおかしいですが、過去の神学を鵜呑みにするのではなく、一つ一つの御言葉は私にどう語りかけているのか、この言葉は正しいのか正しくないのかまで、自分の力で吟味する上で聖書は輝きを増してくれます。

福音を恥としない、というショッキングな御言葉で始まる今日与えられた聖句。中田牧師はこのローマ書のポイント、もっと言えばパウロ神学の中心思想だと言われます。
恥ではないとあえて公言する裏には、恥だという考えがあったことでしょう。それはアテネ伝道の際にあざ笑われたことなどに端を発するでしょうし、言葉になっていなくても雰囲気で感じることもあります。2017年生きている僕らも『宗教なんて何も役に立たない』とか『信仰をもっていい事あるの?』というような疑問を投げられることもあるので、人は2000年経った今でもこの問題に直面しているのでしょう。

そもそも福音を信じて人は何の得があるのか?を考えてみましょう。
金持ちになるのでもなく、頭がよくなるわけではないし、永遠の命がこの世で与えられるわけではなく、信仰をもっても病にかかる時はかかるし、年を取って出来ていた事がだんだん出来なくなっていきます。
そもそも十字架にかかって殺されたものが神の訳はないという考え方もあります。

福音を恥とする考えはきっとそうした人の望みがかなえられないことからくるのでしょう。自分のしてほしい事をしてくれる「ご都合のいい神」を望むのならキリスト教の神は神ではないでしょう。それよりも壺を買えば運が開けるような神に託すべきでしょう。しかし「この壺を買えばきっと…」という言葉に心揺らぐことはあっても購入に至る人は少ないのは、例えば金持ちの人は一生懸命働いた人であり、良い学校に行った人はまじめに勉学をした人であるにもかかわらず、その努力なくして叶ってはいけない道理であることを多くの人は知っているのです。でも、そんなものがあったらいいな、と言う妄想がご利益宗教を生むと思うのです。まさにドラえもんがいたらなぁ的な無邪気な羨望でしかないと思うのです。

福音を恥としない、福音を信じて何になるんだ。そういう意味ではキリスト教は何もならない宗教です。
しかし聖書の神は一つだけ「何かになる」ものをくれます。それは神共にいます事、癒してくれることです。しかし、こんなことは世間は歓迎しないです。自分の生活にプラスになることだけを追い求めたら神共にいることが何の得になるか、と思うから。
でも、それはじつは信じる者信じない者、すべての人を神が寄り添ってくれているからです。空気があることは誰もありたがらないのはあまりにも当たり前のことだからでしょう。
そしてよくよく考えれば、金や頭や健康も人生を楽しく過ごすには大事な要素かもしれませんが、なくても十分楽しめます。しかし、本当に苦しい時共に居てくれる信頼をおけるものの存在は無ければとても苦しい人生になってしまいます。

しかしキリスト教は2000年もの間続いています。それは実感がないままの人も多いですが、空気のありがたさを実感している人もいるからです。
日本は水はタダだと思ったのが最近は有料で買う習慣が増えました。当たり前をありがたい事と認識しなければならない時もあります。

北条長綱幻庵

八王子城を見に行った時、ボランティアガイドの方に、小田原北条直系五代は有名なんだけれど、そこから外れると途端に知名度が落ちる、旨の話を聞き、納得してしまいました。
たとえば信長からお礼にもらったベネチアングラスがあったなんて話も僕もついこの前知ったばかりです。そんなレベルですら支城の話題は継がれていないでしょうし、小田原城自身も昨年のブラタモリのきっかけが無ければ総構えを歩く事もなかったかもしれません。

子を産むことは当時は、領土を拡大した時の支城の城主を作ることや政略結婚をして他国から攻められないようにすること。
古代や中世のヨーロッパのように滅ぼしつくさない日本の国の戦いは攻撃と和睦とを繰り返したので家族の絆は大切な要因だったのでしょう。それを打ち破ったのは信長。家族よりもカンパニー的な組織として雇用に力を注ぎました。
しかし北条氏は無骨に「お家」を中心とした体制を敷いていきます。どちらがいい悪いではなく、その考えに基づいて、しっかり方針に従ったからこそ、北条も五代という長期政権を担えたのでしょう。

その中心の人物と言えば、表題の長綱幻庵です。
しかし八王子のボランティアガイドの方の言われるように、早雲や氏政は知っていても幻庵は知らないという人が多いです。五代にわたり殿さまに仕えた早雲の末息子。
笛や茶の道にも精通し、千利休などとも交流がある文化人。同時に箱根神社の別当でもあり、また武の道も優れていた御仁。
一節によれば、幻庵が死した知らせが入ったから秀吉は小田原攻めを決意したとも言われています。

そこで

20170128-01

という企画をご紹介いたします。それだけの郷土の名士を埋もれさせるのは忍びないと有志が立ち上がってのもの。私も是非に参加したいと思っています。

何より僕らの結婚式の主賓挨拶をしてくださったのは、この幻庵研究の第一人者でした立木望隆氏でした。先生もきっと喜ばれていると思います。
お気軽にお越しください。

メキシコの壁でアメリカの庶民の暮らしは厳しくなるよな

【ワシントン=河浪武史】スパイサー米大統領報道官は26日、トランプ大統領が指示したメキシコ国境の壁の建設財源として「メキシコのような国の製品に、20%の輸入課税をかけて捻出する」との考えを表明した。同氏は議会共和党が検討する法人税制の改革案に言及したとみられるが、関税の大幅な引き上げと混同され、市場に混乱が広がっている。

 トランプ氏は国境の壁の建設費用を「メキシコに払わせる」としてきたが、メキシコ側は明確に拒否しており、財源確保が不透明になっている。共和党上院トップのマコネル院内総務は26日、壁の建設費用に120億~150億ドル(約1兆3800億~1兆7200億円)かかるとの見方を示した。

 スパイサー氏は米フィラデルフィアでの共和党集会に出席後、財源案について記者団に説明した。議会共和党は連邦法人税率を35%から20%に下げ、輸出事業の課税を免除する一方で輸入ビジネスは課税強化する法人税制改革案を検討中だ。スパイサー氏は同案に言及したとみられるが、具体的な説明がなく市場には混乱が広がっている。

 スパイサー氏の発言は「検討中の包括的な税制改革案は、米国が貿易赤字を抱えているメキシコのような国からの輸入に課税する仕組みだ。500億ドルの輸入に20%を課税すれば、年100億ドルの税収が得られ『壁』の財源を簡単に賄える」というものだ。

 議会共和党の法人税制改革案は「国境調整型」と呼ばれ、メキシコ製品に限らず、日本などすべての輸入品の課税を強化する仕組みだ。日本の消費税が輸出品の課税を免除し、輸入品には国内製品と同じく課税する仕組みと同様だ。トランプ氏は同案を「複雑すぎる」と否定的にみてきたが、税財政の決定権を持つ米議会は、新たな法人税制の導入に向けて議論を加速している。

 ただ、消費税のような付加価値税と異なり、法人税の「国境調整」は世界貿易機関(WTO)が禁じる輸出補助金にあたる可能性がある。輸入品の大幅な値上がりにつながるため、米議会内でも新制度の導入に慎重な意見がみられる。また、議会共和党の法人税改革案は、税率引き下げによって10年間で9千億ドルの税収減になるとの試算があり、壁の建設費用が賄えるとのスパイサー氏の主張を疑問視する声もある。
 日本経済新聞 2017/1/27 7:10

ほぉほぉ、関税をかけることでメキシコに作らせる気だという。
でも、メキシコの国を出る時の金額が変わることはない。

安倍氏が中国との間に中国のお金で壁を作る。まぁ、渋って出さないだろうからとりあえず日本が作って後々中国から徴収するよ。方法は中国からの商品に関税をかける方法だよ。
と実行に移したとしよう。
日本でメイドインチャイナのユニクロの洋服があったとしよう。
中国で700円で作らせたフリース。経費&利益を乗せて日本で1200円で売っていたとして、今度は700円+関税140円+経費&利益500円=1340円。関税をかけて嫌がらせを使用がしまいが、中国の企業は粛々と700円の洋服を作り続けるだけで痛みはない。
これは中国に払わせている事ではなく、日本の消費者が支払っている事だよね。
もしくは1200円で売るためにはユニクロさんの経費&利益を360円に減らさなければならない。
もちろんユニクロさんの経営努力(?)というか強国の圧力で中国の生産者に583円にさせる方法もあるだろうけれど、21世紀何もかもギリギリでやっている中、何も変革ないままに117円利益を減らせるわけはない。そもそもトランプさんがほしいのは関税だから中国から安く買ったら意味はない。140円を117円にしたら税金で壁が作れなくなってしまう。
取引の中止となれば、関税を手に入れることは不可能だ。相手に関税を払わせることが可能なのは、相手の利益を確保してあげられる時のみ。
そして輸出するものへの税金だとしよう。中国人が爆買いに来た。中国では日本製品を売っていないのではなく、日本に来た方が安いからだ、それ故に日本に旅費をかけて買い物に来る。もし、中国人だから20%余計に税金をかける、と言ったら誰も来ない。日本製品のボイコットをするか、若しくはフィリピンのような税金のかからない国で購入するだろう。その国に中国の人には定価で売らないでくれは越権行為で言えない。つまりは輸出品に税金をかけるのもうまくいかないだろう。
トランプさんの作戦は、机上の空論か、若しくはアメリカ国内の物価高騰に結びつくのだろうな。

サイレンス(Ω)

ちょっと言葉が足りないと思い、1/24に改版。

スコセッシ氏のインタビュー
『遠藤周作が描いた「白でも黒でもない」曖昧なニュアンスを映画の中で忠実に再現すること』

この言葉は、言葉は違うが僕の感想のその部分だ。ただ僕の言わんとする「白黒」はあくまでも人にとっての白黒なので、氏の思いと同じか違うかは分からない。少なくとも遠藤周作氏の中には『因果応報』とか『勧善懲悪』と言った「白黒」は無かったと思う。
これは、僕の個人的な意見だけれど旧約の神が「名を呼んではならない、と言ったところから繋がる。なぜ名を呼んではいけないか?
それはたとえ「名」ではなくても「神」という名詞であったとしても共有すれば、固定観念が生まれる。それは、神に似せて人を作ったはずなのに、人の思考に神を下らせてしまうからではないか?
沈黙も、「愛に不完全な」人であったとしてもここで何か優しい言葉をかけてくれるはずなのに、なぜ「愛が完全な」神は黙っているのか?という人の「思い込み」の話であり、神の意志の話ではない、というところに遠藤氏は焦点を置いているのだと思う。それは晩年、神という言葉で誤解をするのならトマトや玉ねぎでもいい、という「固有名詞に誤魔化されない、ことを語っている所に通じる。
実は神はその時「あしあと(下記に参照)」という詩の如く、苦しんでいる神父を背負い苦しみを共にし、声をかけ続けていたのかもしれない。でも聞き取れない人間は、非常に悩み苦しんだり、または神を非難する。
それは「ああ、俺は神の言葉を聞くことが出来ない」のではなく「神よ何故言葉を発してくれないか」である。その非難は何なのか?
人は自分の想像力で自分勝手な神像を作っているのではないか?遠藤氏は神が自分の思い通りにならなくても非難してはいけない、そんなことを言いたかったのではなかったのか?
そしてその事に対して僕は遠藤周作氏のそれよりもスコセッシ氏のそれの方が商業主義的に見えた。遠藤周作氏がポイントとしたこの部分は薄れているように思えた。

でも、日本で“仕える人”となることで、真のキリスト教徒となる。と言うスコセッシ氏の言葉、そこに遠藤氏の母なる神像を照らしたのだとすれば、僕は監督の主題を見過ごして映画を見終えたのかもしれない。

ヴ~ン、このインタビュー記事を読み終えた今もう一度この映画を見たくてしょうがない。
でもまず「『最後の誘惑』を見ることが優先かな。ヨナよな会開催すっぺかな。

参照
あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ

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1月26日のパトビラ(№963- 求めるべきは正しい生活保護の在り方! -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。


古くは小泉氏、そして昨年はトランプ氏や小池都知事が、旧体質の大きな力に戦いを挑むときに、大きな悪の組織と戦かう小さな正義の味方、と声を上げる、いわゆる『劇場型』の戦いをして、その分かりやすさで国民の同意を得ました。
今回の小田原市のジャンパー事件もその手の批判報道が多かったように思えます。 大きな悪の組織と見立てられた小田原市福祉課に攻撃をすることで多くの国民は溜飲を下げたと思います。
ですが、例えば皆さんの中にも恩恵にあずかった医療単給。通常は、まず市役所に申請を出して、承認を得てから医者に行けますが、僕らを通して申請前に医者に行ける形を小田原市はとってくれています。それは痛みや苦痛を少しでも早く取り除くという考慮からの裁量です。こんな政策をとってくれているところは多くはありません。小田原市職員は僕らの目には他市町村福祉行政に比べても平均点以上の働きをしています。
しかし、あのジャンパーの内容は先週のビラの通り誰がどう見ても間違っています。間違いは間違いとしてきちんと声をあげなければなりません。ですから私たちは裏面のような抗議文を小田原市長に渡しました。
それでも、大切なのは攻撃するだけではなく、正しい生活保護の在り方です。明日の住みよい町づくりです。猛省をしてもらった上では。市役所職員と今後も力を合わせていければと思います。


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抗 議 書
2017年1月23日
小田原市長 加藤憲一 殿
小田原交流パトロール
私たちは1995年より小田原市内の野宿を余儀なくされる仲間の支援をしている市民グループで、「小田原交流パトロール」と申します。
2007年に生活支援課で作成され、庁内、及び生活保護受給者訪問時に着用していたジャンパーの文言が差別的で、生活保護受給者を蔑視する内容であると、小田原市として、謝罪し、処分を行ったことを報道で知りました。あわせて小田原市ホームページ生活保護制度の説明文に関しても申請権の侵害を招く恐れが高いとの指摘があり、文面の変更がなされました。
私たちは、この事態に対して本市の最高責任者としての貴職がどのようなリーダシップを発揮し、信頼回復に努めるかが強く求められていると考えます。
生存権を保障する生活保護制度は最後のセーフティネットであり、その基盤は憲法25条を具現化するものです。加藤市長はそれ故に「いのちを大切にする小田原・ケアタウン推進事業」を推し進められているのではないのでしょうか。
そうした施策とは真逆の今回の事件に関して、市民として大きな衝撃を受けています。また、野宿を余儀なくされる仲間の支援をしている市民グループとして、この事態をきづかずに過ごしてきた責任を痛感しております。
刃物をもった相談者による事件があったことが契機、「仕事がきつく、職員の士気を高めたかった。」という市側のコメントに、東京都のケースワーカーの方も『身内である他部署に対して“俺たちをなめないでくれ”っていう思いが本当にあるんだと思う』(東京スポーツ紙より抜粋引用)と、忙しい割に働きが認めず報われにくい部署である思いを代弁しているように思います。そのような職場環境が今回の件の背景にあるのではないでしょうか。
このジャンパーは仲間内で私費での購入と言う形のため上層部には伝わりにくかったという側面もあるとは思いますが、10年間市庁舎内で着て歩く姿を見た他部署職員が「おっ、お揃いで何を着ているんだ」と言う関心ももたずに、その内容を聞くことなしに過ごした、役所内の意思疎通のなさにも驚きを覚えます。市役所全体が、自分の仕事が忙しすぎるために、他の仕事に関心を持てないようになっている、このような職場環境が今回の件が10年間見逃された原因ではないでしょうか。
既にジャンパーの廃棄と謝罪が出されたことに私たちは一定の理解をしています。しかし、生活支援課の職場環境(仕事内容や量と専門性)の改善がなければ根本的な解決にならないと思います。生活支援課の職員、およびケースワーカーの増員を強く要望します。そのことで、福祉行政を重視して行く姿勢を具体的に示してもらいたいと思います。
今回の事件を通して明日の小田原市を考える時に、しなくてならないのは正しい生活保護行政への理解と社会保障政策の推進です。今までも野宿を余儀なくされる仲間の支援をする市民グループとして市と連携してまいりました。今後も積極的に協力して行く所存です。貴職の日ごろの主張である、「市民と行政の協働を育てる」意味でも、今回の事件を機に、市民と行政を含めた開かれた討議の場の設置を要望します。あらゆる市民が安心して暮らせる社会保障政策はどうあるべきか、誰も排除しない温もりある地域社会の実現のための具体的な政策とあわせて市役所内の職場環境の改善を実現して頂けますようお願い申し上げます。


今回のこの事件で小田原に住む僕らは何を一番に考えなければいけないのか?
それは明日の正しき(=誰ものHQOL(ハイクオリティオブライフ)な)生活をどう作り上げるか? という事だと思います。
過去のジャンパー問題の問題点をつらつらと語るよりは、市民である僕らは猛省をした行政マンとよりよい小田原をともに作り上げていくことのみに専念すべきと判断しました。
そもそも小田原だけではなく、福祉課に配属になると他部署の職員から憐みの目で『大変なところに廻されちゃったな』と同情とも侮蔑とも取れる言い方をされる職場環境はどのようなものでしょう? 配属と言う自分の意志では変えることのできない物に対してなぜ『いじめ』のような憐みの目が存在しちゃうのでしょう?
しかし、他職員こそ抗議されるべき存在なのに・・・、焦点は福祉課に向くこととはなんなのでしょうか?いわれなき差別を受けて、差別などしていないとうそぶかれたり、差別を受けるお前らが悪いというのがまかり通るのならそれが間違いだと僕は思います。
もちろん何度も言うようにだからと言ってノーサイドとはいかない問題でしょう。少なくともあの言葉は自分たちのいわれなき偏見の屈辱のフラストレーションを抱いたとすれば他人に同じ屈辱を与えてはいけない事でしょう。でもそれは僕らがやらなくても誰かがやってくれる話。
明日の小田原を作ろうという問題は、人道・人権問題と声をあげている市外のグループの人はしてくれません。
僕らは小田原の生活困窮者のために市役所担当職員と力を合わせていくためにこうした方策をとりました。
23日14時に数名で市役所に抗議に出向きます。

暗闇から光へ

2017年1月22日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 4章12-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

メガネをはずすと目の前が見えなくなるだけではなく何か頭の中もぼんやりする様で思考が定まらない、そんな感覚に僕はなります。同時に話も雑談ならともかくきちんと聞く時はメモを取らないとどうも理路整然としないし、覚えている時間も短くなります。
先週は耳だけで説教を聞いていましたが、家に帰るころにはどんな説教だったか内容もあやふやでBlogにインプレッションを記載するどころではなく失礼をしてしまいました。


イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、 異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。



4つの福音書の著者は、書かれた背景、書いた時期、書きたい事、当然のことながらすべて違います。このマタイはきっと「正当な」王家系統者、つまりユダヤ最大の王であったダビデやソロモンのような強大な国家を作ってほしいという民衆の願いに対しての回答を書きたいという願いがあったのではないでしょうか?
ですから1章1節からは、初めて聖書を読む者にはただただ面白くもない名前の羅列を記し、今日の箇所もイザヤ書9章からの引用を書き、そこには正当な神に油注がれたイエスが神の名によって平和を作り出すことを書こうとしたのだと思います。
イザヤ書の中では異邦人のガリラヤと書かれていますが、長井牧師はこの地はマカバイ王家の地、熱心党の本拠地であり、異邦人の地ではないと語ります。では何ゆえに異邦人の地と記されたか?と言えば、イエスによる新しい解釈のユダヤ教つまりはキリスト教に対して異邦人の町と言う意味だったのでしょう。
そこでイエスは悔い改めよ、と伝道を始めたのです。
もちろん、2017年の日本と言う地も異邦人の町。2000年と言う月日、極東と言う洋の東西の違い、そんな辺境の地でも、イエスに出会い、イエスの悔い改めよという言葉によって教会は建てられ、この日僕らも礼拝の民として集いました。

悔い改めよ、よく日本でも一部の福音原理的なグループの金属板のプレートがあちこちに貼られていますが、何か大きく懺悔をして生き直さなければならないようなインパクトを与えます。
しかし長井牧師は、もう一度神を見よ、と言うニュアンスの発言だと語ります。

放蕩息子の喩えが聖書には載っています。乱れた生活の挙句日々の生活にも事欠いた息子が父の所へ行って謝ろう、と帰ると、遠くからその姿を見た父親は駆け寄ってよかったと涙流さんばかりに喜んで帰宅を歓迎した。と言う話です。
僕らが何かをきっかけに「神はいない」とか「もう信仰生活は疲れた」「勝手に生きたい」と神に背を向けて(放蕩息子の喩えでは放蕩生活をはじめても)、何かをきっかけに神の元に戻ろう(もう一度神を見よう=悔い改めよう)とすれば、神は喜んで遠くからでも駆け寄ってくれる、と言う話です。
大きな懺悔のような、「○○しなければならない」という条件は神は求めていない。ただ神の元に帰ろう、と言うだけで十分なのでしょう。

もちろん放蕩生活を進めているわけでもありません。でもこの放蕩息子の話には兄もいます。父親に仕え日々精進しながら仕事に明け暮れても質素な食事の毎日。遊ぶこともなく一生懸命の兄は、弟の帰宅に際して父親が歓迎の宴をしたことに腹を立てます。
ずっと自分は父に仕えたのに、何一つしてくれなかった。
わかるなぁ、その気持ち。僕には痛いほどよく解る。やっぱり一生懸命生きた人は放蕩の限りを尽くした人より目をかけてほしいよ。お前はよくやっていると言ってほしいんですよ。
と言う弟との比較。それ自身がお門違いなのでしょう。

僕の天国論は誰でも行ける場所だと思っています。地獄は永遠の場所ではないと。
じゃあ放蕩息子のようにこの世でも好き勝手やった方が得じゃん。悪い事して死刑になっても天国に行けるなら悪い事しようぜ。なのでしょうか?

もしそうであってもイエスのみあとを歩んで人の目には兄のように要領の悪い生き方をしたとしてもそうあれ、と言うのがクリスチャンになるということなのでしょう。

悔い改めよという言葉は神が人に言う言葉。人と人との関係では愛し合いなさい。です。
隣人を愛しながら神を見ながら生きること。そしてそれがしんどくなったとしても神は何度でも赦してくれるからそれを信じて希望を持つこと。
今週も背伸びしすぎることなく身の丈に合った愛の中に生きていきたいものです。

サイレンス(α)

初めて文章を見たのはまだ小学生の頃。母親が買ってきたぐうたらシリーズ。
今でも覚えている
「経済学部
 への期待」
と黒板に書かれた小論文のタイトル。緊張のあまり2つのどちらかから選ぶと思った受験生が盲腸のあとガスが出るのを家族一同で期待した論文を書いた、とか
まだウォシュレットをTOTOが開発したばかりでモニターとしてつけてもらったが、温度調節を忘れて客人のお尻を熱湯が直撃した話に笑いながら、読み漁り、そしてクリスチャンであることを知り、芥川賞受賞作品の「白い人・黄色い人」を買うに至りました。
ところが中学生には難解。当時の僕は、今の世の中の多くの人と同じようにクリスチャンのまくら言葉は「敬虔な」であって、神を裏切ることのない人がなるもんだと思っていましたので、何となく許せない話と言う感じで、それからしばらくは遠藤周作さんからは離れてしまいます。
そして続けて読んだのは三浦綾子さん。心地いいですよね、いかにもTheクリスチャン。こうでなくちゃ、と言う感じで読み漁るのですが、なんかげっぷが出る「生」への重さ、襟を正す生真面目さの厳しさを感じ、遠藤文学に戻ります。私が・棄てた・女とかおばかさんとか実直の中に信仰がある生き方を読んでいく中で、信仰が培われていったのかもしれません。そして、沈黙に出会うのです。
もうこの頃は「白い人・黄色い人」を最初に読んだような表面的なクリスチャン像ではなく、物語の中の人たちの信仰における愛を意識できるようになっていたので、この踏み絵を踏む時の神の言葉は涙なくして読めないほどの感動をしたもんです。

そういえば、遠藤周作氏の言葉で「母なる神」と言う言い方がありますが、この言葉も大好きで、キリスト教の神に僕も父親ではなく慈愛満ちた「母なる神」を感じてしまいます。無上の愛の存在を感じるのです。

そして30余年経った数年前。アメリカのなんだか有名な監督がこの作品を気に入り撮影したがっているという話を聞き、遠藤文学を映画に出来るのかい?と言う冷めた目で見ながらも完成を楽しみにしていました。
どうも浮気性(?)なのか、作ることを公言しながらも他作品を先に作ったりとやきもきさせましたが、いよいよ日本での公開が決まりました。
居てもたってもいられず、封切を待っていってきました。

20170121-01

ご覧になっていない方もたくさんいるでしょうから詳しく書くことは憚られますので、ちょっとしたインプレッションのみ。
原作を読んで30余年。忘れている点も多々ありますから、勘違いがあったらごめんなさい。
でも原作に非常に忠実だったと思います。惚れ込んだから忠実だったのかもしれません。
が…。
遠藤作品の「白い人・黄色い人」や「沈黙」は、神の愛だけに特化されて人はおろおろとし、そして悩むだけでしたが、マーティン・スコセッシ監督は、少し情に厚かったのか人の希望が描かれていました。果たして遠藤周作氏はこの『人の愛』が書きたかったのか?疑問ですが、なかなかの秀作でした。
でも、その疑問の分、ノンクリスチャンの方にはわかりやすい作品になったのかもしれません。
そして欧米のクリスチャン向けにはあちこちに聖書の場面がちりばめられています。たとえば主人公ロドリゴ神父が転ぶとき…、おっとその先は…内緒です。

ところでキチジローは棄教しました。棄教後は聖餐に与れるのでしょうか?
聖餐の本質はどんなものか?も気になっています。


PS
1/24 追記 サイレンス(Ω) 記しました

物語の背景(3)

小田原のジャンパー事件。
「誰も止めようと言い出す職員はいなかったのか?」と言うご意見もあります。

でも、150人規模の学校の入卒園式、君が代斉唱でご起立くださいの言葉に148人くらいの親は立つんじゃないかな?
その人たちは、日の君をどう思っているんだろう? 何かのアンケートで、正式な国旗・国歌ではないというのは2割以上いたはずで、そうすれば30人は座っているはず。
なんで学校でいじめが無くならないんだろう?それは誰かの「やめろよ」と言う勇気が出ないからだよね。言った途端そのお鉢は自分に向いてくる。そうしたら自分がいじめられてしまう、そんな恐怖があるからだよね。
なにもそんな特別な話をしているんじゃない。誰もがみな社会の中で村八分の一抹の恐怖を漠然と抱き、それ故に【空気を読みながら】生きているわけだ。

ましてや職場は入卒業式と違い一過性ではないし、学校と違い3年や6年でバイバイという訳にはいかない。うまくやっていくことは社会人としても求められている、と言う意識を、僕は卑怯者と笑えない。
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