久野幻庵顕彰会(Ω)

元標の話が出ました。
今でいう三角点のように、どこかの一点を定点として定め、そこから方角と距離を測ることで様々な場所を特定すること、と言う田代先生の説明がありました。
どんな理由でどこにこの元標があったのか?と言う質問に、よくわからないが、と言う前置きをした後、村長等の自宅などではないか?それも今後皆さんで解明してみてください、とのことでした。

今日の話の中で元標に関わったのが2点。幻庵屋敷が寅十五度。いぼ石が申三度。
いぼ石はどうも2009年に開通した「奥和留沢みはらしコース・明星登山道」の途中にある大きな石のようです。

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これなら大体の場所が分かります。それをGoogleMapの上にポイントとして載せます。
寅は3時の方角、申は9時の方角、つまりは直線状。

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なるほどほぼ直線だ!! つまりは原案屋敷から真西のどこかだったのですね。

そういえば小田原攻めに際して先鋒の徳川軍の別動隊はこのみはらしコースをほぼ下って総世寺に入ったと言われています。この登山道も歴史文化資産として活用したいですね。

そんな質問をしてしまったので、ほかの聞きたいことを聞くのが憚れました。
当時の禅院式の庭園では、母屋と庭の配置はどういう関係だったのか? つまり今確定しているのは心字池のみ、そこから母屋の位置を推測する方法はないのか? という事と、稲葉時代に大きなリフォームはされなかったのか? という点です。
田代先生のご専門が造園なので、こちらを質問すればよかったですね。ちょっと失敗(笑)

当日ご参加されたhinahinaさまのBlogです。

久野幻庵顕彰会(4)

日本各地の詳細を記した最初の書物は風土記ですが、世の権力者は自分の支配範囲を完全把握して実行権力を見せたいのか、明治になっても皇国地誌・久野村誌が発行されます。多くの村町は県職員が記載するのですが、久野村は濱野ヨヘイ氏のものが使用されています。それによれば幻庵屋敷は、元標(げんぴょう)から寅十五度の字盛上(もりがみ)に三千有余歩、のちにその中に水田が作られ、中央に北条神社(幻庵の墓)を稲葉休山が作ったと書かれており、また寅十六度に34歩清水がわいているとも書かれているそうです。

まだまだ知らないことがいっぱい。こうした活動が充実してくれることの望みます。

また日本小田原記というのがあるそうです。
そこには幻庵の事もたくさん書かれています。何より有名なのは一節切(ひとよぎり)と呼ばれる尺八。
実は、小田原北条が開城する時、秀吉側の使者は黒田官兵衛。開城条件は、民を助けることなどかなりの項目があり、氏政はかなり感謝し、お礼として北条家に伝わるお宝を官兵衛に与えたと言われています。その中で幻庵の一節切もあったと推測され、それが息子が治めていた大分に渡ったようで、市議の大村学氏が買戻し小田原城に展示し同時にレプリカを作りそれを披露されました。

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同書には小田原の景勝地も記載があり、「いぼ岩」や「ツボマ」の記載があるとのこと。幻庵だけではなく久野の文化遺産の伝承にも関心を持ちたいです。
まずは、もう少し地域のことを学びたいですね。

久野幻庵顕彰会(3)

それからまた時代が進み、早雲寺などの禅院式となります。これは武士の時代の仏教の考えによるものです。
庭の一部を切り取り独立させる。その中に凝縮された天地人の空間を見て悟りを開くきっかけにする。
長々と庭造りの歴史を語りましたが、幻庵屋敷の庭はこの禅院式の庭園だったと思われます。

同時にこの時代、茶道が発達します。
茶道は、一節には清貧を善しとしたカトリック宣教師の生き方を見て、大名の贅沢に批判の意味を込めたとも言われていますが、思想にシンクロした千利休のアンチターゼは贅沢を排除し、「立って半畳、寝て一畳」を善しとする茶の道。外界との関係を遮断する禅院式庭園と合いまって、四畳半の質素な茶室周りは「露地」とよばれます。
美しいとか目を引くという因子は排除した雑木(一つ一つの木の名前すら言われない)や地比類のみを配して作られた“庭園”です。
歩いて楽しいわけではないし、先ほどの禅院式の作られた所以ではないですが徹底して建物の中から外を見る庭であるのです。
そしてこの禅院式の庭園には「心字池」があります。心の二つの点を右下の「し」字の形の池の中に島として浮かべる池です。

しかし残念ながら史跡としての幻庵屋敷は整備できているとはお世辞にも言われません。こうした御庭の歴史を知ったうえで、武士の質実剛健な時代の庭をいつでも見に来られるようにしておきたいものです。

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(野崎広大氏(日経の祖)の茶碗、名を幻庵と称す)

久野幻庵顕彰会(2)

続いて田代先生の講演
まずは、万安山栖徳寺(現栖徳山京福寺)は母親のために立てた寺と言われていたが、最近の学説では奥さんのための寺と言う説が有力になっている。
幻庵おぼえ書きは姪ではなく実娘の嫁ぐ時に記したものであるという説が有力。
生まれも1493(明応2)年ではないのではないか?
など、とにかく立木先生まで研究対象になっていなかった御仁なので、まだ不明や検証のし直しをしなければならないことも多く、ここで私が皆さまに話せることは多くないとお話になられ、話の内容も幻庵屋敷の庭に特化したいと言われました。

ヨーロッパの庭は、フランスベルサイユ宮殿を代表するがごとく、自然との調和ではなく、自然を征服した整形型の庭造りを好みます。すべてを根こそぎ剥いで、そこにシンメトリーな仕切りを煉瓦や石で作りその中を飾るものですが、日本のそれは違います。
自然風景を取り入れる抽象(アブストラクト)の世界。人工美ではなく自然の中に作られた庭園美は、明治になってそうした考えもあることがわかるまで海外には受け入れられませんでした。当初この発想は欧米には理解は不可能でしたが、事実この後欧米の絵画もアブストラクトアートのヴームが起こります。

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この抽象の庭園の基本的な考えはお花などの世界にも同様ですが、花自身・石自身ではなく、その花や石を結ぶ間の空間を楽しむ考えに立ちます。
そうした発想があるので庭園には立岩、寝かした岩などがバランス良く配置されています。
田代先生はこの発想は仏教の伝来よりも早い神道の時代から日本にあったと言います。
例えば三輪山には、山麓に鳥居がありその奥に山自身が信仰の対象としてあり、その山頂付近には岩が転がっていると言います。そこは神が降臨する場所で、そこを「クラ」と呼ばれるそうです。地名に倉や蔵がつくのは何かそうしたことに関わっているからであったり、天皇即位のときの高御座(たかみくら)のクラもそれが由来です。
日ユ同祖論と言う考えには賛同できませんが、もうこの時代には洋の東西を行き来するスキルがあって、モーセが神に出会ったのが岩山の上と言う考えがどこかで溶け込んでいるのかもしれません。

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地代が進み、池を掘り、その出た土で築山を作る庭造りが出てきます。
そして、池を中心に自分側が現世、向こう側が来世(神の世界)とする庭造りになります。それは宇治平等院などにみられる世界で、池の向こうの神殿に阿弥陀如来の顔を拝むことに喜びと希望を感じるのです。それを浄土式庭園と言います。

久野幻庵顕彰会(1)

久野北条幻庵顕彰会なる会が立ち上がり、その設立記念講演会に参加しました。
講師は、田代道彌先生。
久野区民会館の1Fホールには入りきれないほどの多くの方が詰めかけました。その数120余名。

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会を始めるに当たり高瀬恵会長が、小田原市役所前に「文化の町小田原」と書いた石の憲章がある。憲章とは市の憲法の如しで、そういう街づくりをしていかなければいけない。久野は北条五代に仕えた幻庵さんの住んだ場所、この場所を顕彰することは市の憲章の言葉をまさに実践すること。
そしてこの北条幻庵さんは故立木望隆氏の人生をかけた研究によって世に出た。氏が天に召されて20年こうした形が整ったことは感慨深いとあいさつされました。
何度かこのBlogでも記しましたが立木望隆先生には小学校の頃から可愛がってもらいました。そして先生の庵で何度も幻庵さんのお話を聞いたのを思い出し僕も感慨深く思いました。

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(僕らの結婚式で主賓の挨拶をしてくださっている立木先生。もう30余年前のこと)

北条長綱幻庵

八王子城を見に行った時、ボランティアガイドの方に、小田原北条直系五代は有名なんだけれど、そこから外れると途端に知名度が落ちる、旨の話を聞き、納得してしまいました。
たとえば信長からお礼にもらったベネチアングラスがあったなんて話も僕もついこの前知ったばかりです。そんなレベルですら支城の話題は継がれていないでしょうし、小田原城自身も昨年のブラタモリのきっかけが無ければ総構えを歩く事もなかったかもしれません。

子を産むことは当時は、領土を拡大した時の支城の城主を作ることや政略結婚をして他国から攻められないようにすること。
古代や中世のヨーロッパのように滅ぼしつくさない日本の国の戦いは攻撃と和睦とを繰り返したので家族の絆は大切な要因だったのでしょう。それを打ち破ったのは信長。家族よりもカンパニー的な組織として雇用に力を注ぎました。
しかし北条氏は無骨に「お家」を中心とした体制を敷いていきます。どちらがいい悪いではなく、その考えに基づいて、しっかり方針に従ったからこそ、北条も五代という長期政権を担えたのでしょう。

その中心の人物と言えば、表題の長綱幻庵です。
しかし八王子のボランティアガイドの方の言われるように、早雲や氏政は知っていても幻庵は知らないという人が多いです。五代にわたり殿さまに仕えた早雲の末息子。
笛や茶の道にも精通し、千利休などとも交流がある文化人。同時に箱根神社の別当でもあり、また武の道も優れていた御仁。
一節によれば、幻庵が死した知らせが入ったから秀吉は小田原攻めを決意したとも言われています。

そこで

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という企画をご紹介いたします。それだけの郷土の名士を埋もれさせるのは忍びないと有志が立ち上がってのもの。私も是非に参加したいと思っています。

何より僕らの結婚式の主賓挨拶をしてくださったのは、この幻庵研究の第一人者でした立木望隆氏でした。先生もきっと喜ばれていると思います。
お気軽にお越しください。

真鶴伝説の夕べ

FaceBookを介して真鶴の村田町議より楽しそうなお誘いを受けたので行ってまいりました。
幾人かのプレゼンテーターの方が、自分の持ちネタを語るという形で会は進むのですが、やはりこうした『大字(地名)』単位の集会はみな共通理解の字名(集落名)と地の利関係が頭に入っているので、それを勉強不足で伺ったのは楽しみを半減させるもったいないものでした。反省(ー_ー)!!

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さて、トップバッターは、貴船神社の宮司の平井さん。
夏の夜にふさわしい怪談話をとお話し下さったのは、まんが日本昔ばなしでも放映された「おんぶ狐」のお話し

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語られた内容は全編の長いものですが、ここは公式Siteが紹介するあらすじでご紹介。
昔、真鶴(まなづる)の高丁場(たかちょうば)という所に、一匹の子ぎつねがいた。母ぎつねとはぐれたのか、一人ぽっちだったが元気に野原を走り回っていた。
時々寂しくなると、野原の一本道を通りかかる村人を騙して、嬉しそうにおんぶしてもらうのだった。しかし夜が明ける頃には、子供に化けた子ぎつねは大きな石や切り株にすり替わり、村人たちは三日三晩寝込むほど疲れ果ててしまうだのった。
そのイタズラに怒った村人たちは、子ぎつねを捕まえ、大勢で追い回して殺してしまった。それ以来、野原の一本道は静かになったが、村人たちは何か心に引っかかるものがあった。「殺してしまうほどのイタズラだっただろうか、子ぎつねは寂しかっただけじゃないのだろうか・・・」
村人たちは、せめてもの償いにと、子ぎつねがいた野原が見渡せる場所に稲荷神社を建てて子ぎつねを弔った。

村人たちの言うように子ぎつねはちょっとしたいたずらだった。
村人たちも困っているのでそれを解消したいだけだった。
お互い少し度が過ぎて、キツネの死を迎え、殺したことを悔やむようになった。
圧倒的な悪人のない中、最悪の結果を迎える事こそ本物の「怪談」ではないかと宮司さんは語ります。
『倭名類聚鈔』によれば、「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」とあります。中国の鬼は日本人の思想と結びつき隠迩へ変化した言われています。迩(ちかく)に隠れているもの、それはすなわち自分の心の闇。邪悪な闇に取りつかれてしまった結果後悔をすることを犯してしまった話でもあるのかもしれません。後から思えばそこまですることなかったな、きっと魔がさしたんだよ。それは鬼(聖書で言えば悪魔)のなせる業・・・。
昔話は僕らに大切なことを教えてくれます。この話も弱者としての象徴である「女子ども」であります。(母狐とはぐれて)孤独がさびしいという心に訴えるものがあります。そして新美南吉氏のゴン狐の哀れな最期に通じるものを感じます。

続いてレイラインを中心としたお話を、稲葉さん、村田さんにして頂き、港の酒屋の草柳酒店のご主人は頼朝にちなんだ話をしてくれました。
レイラインと言う発想は後出しじゃんけんのように出来上がっている地図をこねくり回してこじつけたものだと思っていましたが、山が山である理由、つまりは崩れないで高さを保持している理由は、僕ら人間の意思ではないところにあるのではないか?と言う考え方を聞き、言われてみれば長い年月の中噴火をして消滅した山もあれば残る山もある、それは人智を超えたパワーがそうさせているというのはまさに理屈です。そしてそんな理屈に気がついた(山頂に日の出、日の入りを見て神秘的だと思った人が)その延長上に祠を作るのもまた理です。レイラインもなかなか面白いぞ。
そして草柳商店のご主人から「頼朝船出」の試飲をさせて頂き、頭の回転をより滑らかに致します(笑)

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福浦の子の上神社の宮司の穂積さん。
そもそも神道の言わんとする八百万の神とは満天の星々と言う意味である、と言う僕にとっては衝撃的な話から始まり、大海原に量に出て行ったものはオリオン座を指標として海で漁をした。
それ故に、三ツ星は聖なるものだから、真鶴の三ッ石も聖別されている。同時にオリオンの3つ星を囲む四角に呼応するのは福浦の福浦カツラゴ海岸の枡形岩。
その上には竜宮伝説の岩もあったところで、僕らがよく耳にする浦島太郎のお話と少し違う太郎伝説を聞きました。
太郎の玉手箱には非常に高度な漁業方法が書いてあり、しかし太郎しか読めなかった。太郎も非常な長命であったがそれでもやがて死を迎え、それ以降はその文字を読める人が出るまで隠しておこうと地中に埋めその上に竜宮神社を立てた、というもの。
お話は各自大変面白かったです。
でも、神道は底津和田都美神・中津和田都美神・上津和田都美神の三位一体の神、とか、トーラ(英語のティーチ(教える)の語源)と虎の巻の関連、真鶴で出掛けに餅を食べる風習から真鶴の語源は「マナ降る」とかは少し強引で日ユ同祖論的な臭いを感じました。でも宮司が言われたように記録媒体としての紙が貴重な時代、口頭伝承で改ざんされたものや変化したもの消えてしまったものもたくさんあります。門前払いではなく1つの意見として受け入れることも大事なのでしょう。
そして、635年にシルクロードを伝わって中国まで景教(キリスト教)が伝わって来ているので、日本へも教えは伝来されているはずです。そしてもしかしたら、モーセの時代(紀元前1300年ころ)にも口頭伝承として陸路か海路をたどってマナの話が伝わって来たのかもしれません。
ロマンを感じることが出来ればこの夏の夜のイヴェントは大成功だったのではないでしょうか?

福浦の宮司さんは1500年ほど続く神社の現職。その祖先は龍の助けを借り大仕事をしたのだとか。そんなお話の最中バケツをひっくり返したような大雨に。
宮司さん、今日竜神を連れてきてなんてお願いしていないですよ(笑)
カサモッテイナイ・・・。
そんな訳で100m先のセブンイレブンまで重い体を揺らせて猛ダッシュ!!でも若くはない、100mでびっしょりに!!
で、財布を開けたら1642円しかなかった(爆) ビニールじゃない傘の値段は税込み1652円、十円足りない、とあきらめながら独り言のように「あとはカードしかないや」と照れ笑い。
するとバイト君、カードも使えますよ、って。
今のCVSクレジットカードも使えるんですね。
気持ちいい対応に土砂降りの真鶴を気持ちよく後にできました。
楽しい夏の夜の夢を過ごせました。ありがとうございました。

ブラサイジョーものがたり(episodeおまけ)

拙いBlogをお読みくださりありがとうございました。
小田原市が「市」になったのが1940年、私が見つけられた小田原市の人口推移は下記の表で、それは市になった後、周辺の下府中(鴨宮・中里エリア)や櫻井(栢山)を含めたのちの1950年以降のもの。
1950年当時は8万程度の人口が1005年に20万に一瞬なったのですが、また現在は19余万人と20万を割っています。

ではクイズです。
小田原の過去最高人口は何人だったでしょう?





集計をするときに考慮することは、こうした人口変移は1年単位ですが、四半月と仮定すれば、たぶんこの小田原攻めの1590年の5~7月ではないでしょうか?
近年20万に行くか行かないかの人口。小田原攻めの前の1585年の小田原は2万程度しかいなかったと言われています。(当時の2万は大都市です。トップの京や堺でも15万程度。現在日本でトップの東京が1400万人ほどですから、それから考えると200万人都市だったわけです)
そんな2万しかいない小田原に20万もの敵軍が攻めかけ、北條も関東一円から10余万人を集めたわけです。人口の15倍の兵士の数…。
今でいえば300万人の武士がいる恐ろしさ、農耕商人は生きた心地はしなかったでしょうね。

ブラサイジョーを歩く時、どうしても視線は武士同士の合戦になりがちですが、北条氏の求めた武士以外の人たちの平安はどうすべきかも推測しながら歩けると楽しいでしょうね。

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ブラサイジョーものがたり(episodeΩ 開城前夜)

まずはこちらをクリックしてください

城作りは時代とともに、そして城主とともに変革をする。
戦国の世はたいそう立派な天守閣は必要とせず、どちらかと言えばバリケードの要素の高い戦の物。それが天下統一を成し遂げるときに戦わう気持ちを萎えさせる威圧する道具として巨大な天守閣を作ったのが織田信長である。
しかし伊勢宗瑞こと早雲は今川家に居る時以来、常々何のための戦いかを疑問をもっていた。何のための領地拡大かを考えていた。
その結果が、農民の保護も目的とした小田原城の総構である。しかし、小田原城だけではない、例えば鎌倉玉縄城も同様に牛馬を連れた農民が避難できるような構造だった。
虫けらのように扱われた農奴の時代、人格をもった『人』として扱った北条家。
生活の保障はなく税を納めるだけの対象であった農民。それ故に、戦いになれば収穫間近の田畑であってもその上で合戦が行われる。そして踏み荒らされても、国主からの納税の通達がある。権利と義務のバランスが常識と大きく食い違う生活は、「民」の姿ではなく「奴隷」そのものである。国主が守ってくれる、という歴史が語る言葉は全くの戯言に過ぎない。
だから農民であっても武器をもっている。刀はもちろん、なければ竹やりででも身を守らなければならない時は戦う。
秀吉による身分制度の確立前はそれが当然であった。
しかし、この住民を大切にする領主は民から愛された。それは、この後、北条家が潰され、この地の民が徳川の配下となった時、如実に表れる。
江戸の町は北条の民が作った。しかし北条恋し、小田原恋しの民を、滅ぼした側の家康が使いこなすのは大変苦労したという。小田原の町民を団結させないように、江戸のあちこちに移り住まわせ彼らの結束力を削いだ。


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(蛙石の伝説に限らず、災害の前に警告を与えてくれる伝説は各地にある。「赤目地蔵」という昔話は大好きな話だ。神が啓示した予言ではなくいたずらだからと馬鹿にする住民。しかし、いたずらをさせること自身が神によるものである。という話だろう。でも、自然なら逃げ出すことも可能だ、しかし戦争からは逃げられない。北條は五代にわたり、誰もが平和に暮らせる世を求めた。それが叶わぬことに蛙石は泣いたのだろう)


何の鳴き声だ?蛙か?しかし不気味に大きい声じゃのぉ。
不吉な鳴き声…、海が荒れるのか?大津波でも来るのか?
古新宿の漁師たちは暗くなってきた海を見つめながら口々にそう言いあう。
しかし沖の脇坂や九鬼の船は微動だにせず灯りをともし停泊している。海が荒れてあいつらの船がみんな沈めばいいのにのぉ、無理であることを承知でぽつりとつぶやく。
もう3月か…あいつらがいるから漁にもでられねぇ、食い物も底をついて久しいなぁ。いくら氏直さまが配給の粟をくれると言ってもひもじいよなぁ。
いつしか話題は不気味な鳴き声から沖に停泊している水軍への恨み節に代わっていく。
なぁ、そういえば原方は家康さまによって大きな被害を受けたらしいが、それ以来誰も攻めてこないなぁ、もう戦いは終わりなのかなぁ?
そんな話をしていると一番大きな船を持つ網元で働いている太兵衛が、慌てて浜に来た。「おい、しっとるか?あの不気味な声はお稲荷様の蛙石じゃ」「わしこの耳で聞いてきた。」
蛙石ってあの蛙石か!
互いに顔を合わせ刹那に走りはじめる。
蛙石が鳴く時大きな異変があるというのはこの村に住む者の間では常識であった。
多くの村の若者が乏しい松明のもと北条稲荷を囲む。その中で蛙石は不気味に泣き続けた。小田原城落城の前夜の事であった。

****
長いことお読みくださりありがとうございます。あくまでも創作の域を出ておりません。史実に基づく話は15日のブラサイジョーでお楽しみください。

ブラサイジョーものがたり(episode7 家康攻める)

まずはこちらをクリックしてください

20160503-44
(現住所で言えば広小路というが、戦国時代は井細田口の虎口だった場所。ここでは渋取川の流れを見ることができる。この川はここから北上し寺町大長院を西に合同庁舎の裏を通り荻窪用水にぶつかる。この広小路の交差点は複雑な形をしているが、虎口として重要な場所であったのだ。)


荻窪用水に端を発し濠として整備された渋取川。その東側には葦子川が流れている。この川もまた小田原城の濠の役割をしている。籠城を得意とする北条故に、うかつにこの濠を渡れば怒涛の攻撃を仕掛けられるやもしれない。おいそれとは入れずにらみ合いが続く。
いちばん海側の山王に陣を敷いたのが徳川家康。その数3万。一つの軍勢では一番大きな軍団だ。


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(渋取川は新玉小・蓮上院の裏を流れ浜町で東に折れ山王川(久野川)に注ぐ。今歩いている場所の下が渋取川、暗渠だ。この場所は川崎長太郎の私小説「抹香町」の舞台として昔歩いた場所だ。)


家康は事あるたびに河口の神社に詣でた。途中原方の村には大きな屋敷がある。「はて、葦子川の外側にこのような屋敷とは」家康は、村の外れで畑仕事をしている老父に訪ねた。小柄な老人は体型に似合わず大きな声で、「あの家は、皮田の太郎左衛門の家だ」という。
当時の小田原はいわゆる革職人は蔑視されておらず、この太郎左衛門も早雲が腕を見込んで伊豆長岡から連れてきた職人である。早雲は城内の職人町に住むように告げたが、「わしのようなものは城内なんぞ」と断りこの原方村に屋敷を構えた。
家康は神社に詣でた帰りに屋敷を訪れ、自分の陣の兵の武具の修理を頼んだ。しかし、太郎左衛門は、北条の殿に代々仕えこの周囲の長吏をまとめる権利まで頂いた。その殿を責める敵方の武具の修理などできないと断った。
何食わぬ顔をしながら陣に戻った家康は、井伊直政を呼んだ。夜撃ちをせよ、原方村から南袖が藪の篠曲輪を焼いてまいれ。
6月22日、小田原城が唯一攻められた日であった。


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(山王神社の裏で山王川(久野川)にぶつかった。相模湾はもう目の前だ)
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