ブラサイジョーものがたり(2)

今年もやってきました、ブラサイジョーの季節です。

20170618-01

いつもの妄想秘話からスタートです。青字の妄想秘話は創作の域を出ておりません。ご了承ください。

「力を見せつけるには少し残虐ぐらいがいい事は信長公の戦いから儂が学んだ事じゃ。」
そういいながら口をいびつに曲げて笑う秀吉の顔を見ながら、力が拮抗してきたとはいえまだまだ時の流れは秀吉公にある、そう思いながら片や娘婿や何度か力を合わせて共通の敵と戦った戦友氏政公の命乞いをしながら家康は頭の中でそろばんをはじく。
あまりやりすぎても反感を買う、それはもう敵なしとなった秀吉との戦いにとって不利な状況を招くだけ。

「氏直は督姫殿の婿じゃったのぉ」、秀吉はあえて周知の縁を口にする。

「はっ、この家康も50を目の前にして子の話になるといささか弱ぉうございますな。殿下の広いお気持ちでなにとぞ…」

「わはは、わかっておるわい、今回の小田原攻めも第一の殊勲物は儂は家康殿だとおもっちょー。その家康殿の目の中に入れても居たくない督姫殿の婿殿ならのぉ」

助かった。これで名門北条家も関東で細々とでも生き延びられる。お目付け役に儂を指名されるだろうが、儂も今川の領土を頂いて、東海道で北条と太平な町づくりをしていこうぞ…。

「しかし、家康殿よ、今回の小田原攻めで、儂は北条の怖さをたんと知った。なにしろ悪く言う民百姓がいない。これは忌むべきことじゃ。」
「そこで、今回の騒動の責任を氏政公に取ってもらうことにした。」

「な、な、何とおっしゃられますか。既に家督を譲り渡し隠居生活をしている氏政公に責任をとらすと…」

「もとはと言えばきゃつが儂の上洛の命を背き出てこなかったからのぉ」
「それにこれだけ慕われた大名に土地を与えておくとまた反乱をしでかすかもしれんのでなぁ、伊豆、相模、武蔵三国の件もご破算だすべて没収することとする。」

今日の謁見の始まりの信長公の逸話と不敵な笑みの意味がだんだん分かってきて家康は思わず武者震いをする。「して、氏直公は…」絞り出すように問うと
「高野山にでも行ってもらおう」と事もなさげにそう告げた。

「誰かおぬか?」秀吉の声が響く。
「はっ」
廊下から返事が聞こえると間髪入れずに秀吉は言う。
「氏政、そうじゃな氏照もじゃ、に切腹を命じよ。介錯は氏規にさせぃ。それを見届けたら氏政は高野山に向かわせよ」

兄弟家族親族の団結が固い北条軍団。弟に兄の介錯をさせ、それを見届けたら子を追放する。非道な決定で北条5代100年は秀吉の一存であっけなく終焉を迎えたのである。

心配顔の民百姓が箱根口門の南に集まる。待医田村安斎の屋敷の周辺は竹を編み通行ができなくなっている。そしてその周りを秀吉が多の侍が囲んでいる。
あちこちから嗚咽が聞こえる。とのさまぁ~と言う声が途切れなく聞こえる。
その中、氏政、氏照兄弟は腹を裂き、弟氏規は涙をこらえ見事介錯をし、すぐさま自らも腹を切ろうとして取り押さえられた。

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切腹の場と言われている医師安斉の屋敷があったと言われる安斉小路の石碑。

亡骸と生害石は氏寺伝心庵に運ばれました。なお、伝心庵はその後城山に移り、そして中町に移ったので、墓地のみがビルに囲まれ残っています。

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僕らはそうした北条末期の遺跡をみたり、江戸時代になってからの小田原城の変革や扱われ方をサイジョーさんからお聞きしました。
元はと言えば、東海道が小田原を通る唯一の幹線道であったため、三の丸周辺からの登城口であったけれど、江戸に中心が移ったため江戸に向いている現在の市民会館そばが大手門に変わったこと、その門は箱根口門を移設したこと。

20170618-03

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藤棚(南町)にかかる小峯橋はお茶壺橋とも言われ、徳川将軍御用達の氏のお茶壺を京に持って行く時に泊まってお茶壺を保管した場所であるが、帰路(京都から江戸)に行く時は湿気を嫌うので東海道ではなく中山道を通ったのでここでは「お茶」は保管されたことがなかったこと。

曲輪、隅櫓、増形と狭間などの一般的な名称、銅門、常盤木門のような小田原城独自の名称や由来。

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雨降る中の探索でしたが、楽しい時間を過ごせました。

20170618-05

また機会を見つけて小田原探索をしたいものです。


一緒に石造物を調査しませんか?

友人から小田原市の石造物調査ボランティアのための説明会があるというので行ってまいりました。

20170617-01

石仏や五輪塔や記念碑、歌碑などすべて含めて石造物です。
隣接の平塚市で3000以上の石造物があるというので、小田原市だと5000程度はあるのではないでしょうか?
そうしたものを歩きながら「発見」し、大きさや物によっては書かれた文字を記録していくというものです。

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木造物などに比べて保存率が高いですし、それによって以下のことが分かると言います。

20170617-02

探し当て調査するのですから1日で10~20程度しか調査できなければ、5000あれば333回かかります。月に1回の調査だと30年かかる調査です。
元に平塚も20年ほどかかったと言います。
ですからあまり重たく考えずに、自分ができる時に参加する、気軽さは長続きのための重要なポイントかと思います。
もしかしたら僕らの年齢では最後まで参加できないでしょう。
でも少しだけでもやってみたいという気持ちがありましたら 0465-23-1377(郷土文化館)に問い合わせください。
ボランティア保険に入る都合上無連絡の参加はご遠慮くださいとのことです。

楽しく小田原の歴史一緒に探索しませんか?

御頭祭(2)

諏訪大社の歴史は定かではないが、日本の神社歴史の中でも古い由緒がある。
関する記述は古事記にある国譲りの話。伊勢神社系の勢力が出雲系の勢力を制圧する話。大国主命とその子の事代主神(ことしろぬし)は遠く大陸から来る船の灯台になるような大社の建築を条件に伊勢勢力の配下に入るが、弟の建御名方神(たけみなかた)は不満で戦うことを提案する。が、伊勢勢力の前に敗北し逃走。その行き先が「科の地(今はあえて諏訪と呼ばない」であるという記載。
もう一つは諏訪大明神絵詞と言う書物。諏訪の地へとやってきた諏訪大明神は、そこで土着の神たちと対峙する。
土着の洩矢神は鉄輪を持ち、諏訪大明神は藤枝を持って戦った。結果は、藤枝を用いた諏訪大明神の勝利であった。敗れた洩矢神は滅ぼされず、祭祀を司る神長官となる。
また、高照姫という神は諏訪大明神に最後まで抵抗したが、民を守るために退き、先宮神社に幽閉されることを選んだ。こうして諏訪の地は、諏訪大明神が治めることとなった。
と言う話。

2つが絡んでるのは、建御名方神と言う神の名。つまりは出雲を追われた一族が東遷し科地方の豪族を滅ぼして土着したと言う事なのだろう。
2つの違った文章を合わせてしまえば伊勢勢力と出雲勢力の戦にも読めるが、もしかしたら出雲勢力の内乱分裂で力が弱ったところを伊勢勢力に制圧されたのかもしれない。
当初の記載にあえて諏訪と呼ばずに科の地と呼んだのは、諏訪は出雲から来た建御名方神が名乗ったからこの神社も諏訪大明神と呼ばれるようになったようで、その前はミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などを祀っていたようだ。
特にモレヤ神は、前トピの御頭祭の祭祀を司る直属家系の神で諏訪大社の上社前宮であるし、高照姫は先宮神社の神となっているから、服従の上で豪族として生き延びた、若しくは祟り神として恐れられて神社に祀られたか、と言ったところなのだろう。
そして見落としてはいけないのが、藤で戦う出雲軍に対して鉄輪を持ったという記載。既に鈩(たたら)の技術を習得していたのだろう。ヤマタノオロチの神話も殺した大蛇の尾から剣が出てきたのは、戦いで破った相手から鈩を奪ったという意味だとも言われている。いずれにしろ、伊勢系や出雲系に負けじ劣らじの高度な文明を持っていた証拠だと思われる。
しかし前トピの学芸員氏、この地は「田舎だ」と言う。それは、守谷氏が頑なに弥生の文明を否定し、縄文からの文化を傾倒した結果だとも・・・。

20170415-11
(いたるところで御柱のように4本の柱で取り囲んでいるのを見る。「結界」と言う言葉が頭に浮かぶ)

つまりここで勢力が変わり、御頭祭や御柱祭を行った部族で無い者たちの祭りの中で、土着の古い祭りが融合と存続のはざまで頑張っているのが諏訪の奇祭と呼ばれる祭りの数々だと思われる。
あわせて御『頭祭は大祝(おおほうり)の代理である「神使(おこう)」が近隣の郷を巡回して五穀豊穣を祈願するために、大社から出立する時の儀式』と言われもいるらしい。大祝は出雲系の神であることからいえば、土着神ではない神が新たな五穀豊穣、つまりは農業文明を手に入れた姿なのかもしれないが、そうだとすれば神使(おこう)を縛り上げる理由がなくなる。つまりは融合の故にわからない神事に変化して行ったのだろう。
こうなるとあの創世記のイサクの物語を髣髴させる祭りが何を意味しどうやって始まったかは謎のままだが、歴史ミステリーはミステリーのままで、その祭りを大事にする文化を尊ぶだけでいいのかもしれない。

20170415-13
(神事は前宮の十間廊で行われる。この十間廊の大きさがユダヤの幕屋と同じ大きさと言う人もいるようだ。)

しかし・・・、聖書に戻るが、神はなぜイサクを神にささげる場所として住まいから3日もかかるほどの場所にあるモリヤ山を選んだのだろう?

さて、続いて旅の内容を語ろう。

御頭祭(1)

諏訪大社の御頭祭を突貫で見に行ってきた。
この祭りは、今は諸般の事情で江戸時代までの祭りの体は失われているが、江戸時代の菅江真澄と言う、今でいえば『街道をゆく』を記した司馬遼太郎氏のような存在の方が書いた文章があるので、それをご紹介すると…。

御神(おこう)といって八歳ぐらいの子供が、紅の着物を着て、この御柱にその手を添えさせられ、柱ごと人々が力を合わせて、かの竹の筵の上に押し上げて置いた。
そこへ上下を着た男が、藤刀というものを、小さな錦の袋から取りだし、抜き放って長殿(祭祀のリーダー)に渡す。長殿がこの刀を受け取り、山吹色の衣を着た神官に渡す。その藤刀を柱の上に置く。
例の神の子供を、桑の木の皮をより合わせた縄で縛り上げる。
諏訪の国の司からの使者の乗った馬が登場する。その馬の頭をめがけて、人々は物を投げかける。しかし、この馬はとても早く走る。
その後ろから、例の御贄柱を肩にかついだ神官が、「御宝だ、御宝だ」と言いながら、長い鈴のようなものを五個、錦の袋に入れて木の枝にかけ、そろりそろりと走り出し、神の前庭を大きく七回まわって姿を消す。そして長殿の前庭で先に桑の木の皮で縛られていた子供が、解き放たれ、祭りは終わった」。


クリスチャンの兄弟姉妹なら何か「ウン?」という話。その「ウン?」の旧約聖書創世記22章の前半を要約すると、
神様がアブラハムにその一人息子であるイサクを捧げるように命じられたます。アブラハムはイサクを連れてモリヤ山に向かい、そこでイサクを縛り、薪の上に横たえ、刀を取り出してイサクを捧げようとすると、「その子を殺してはならない」という声が聞こえました。ふと見ると、枝に角をひっかけた羊がいたので、その羊をイサクの代わりに神様に捧げました。

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(御頭祭は、江戸時代まではこの柱に子どもを縛り付けて馬で運んでいたが、今はこの柱を人が担いでいます)

他人の空似かもしれないが、子どもを縛り、刀を取り出した時に神が子どもを助ける。そしてその子どもの代わりに生贄が用意される、という共通点はなかなか興味深いもの。
しかも子どもの代わりの生贄は75頭のジビエ。「魏志倭人伝」の記載では、倭国に羊はいないと書かれてるのでその情報を信じれば生贄に鹿が選ばれたことはうなずける。しかもその中の一頭は耳裂け鹿を選べ、との言い伝え。神長官守矢史料館の学芸員さんによれば、それは「茂みに角を絡ませた」それによる傷を現しているという説もある、と語られる。

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(耳を切ったのではなくこうした鹿がいるらしい)

そして何よりも、日本の神道系には多いが、ご神体がなく、この諏訪大社も守屋山自身をご神山として崇めていることも旧約のモリヤ山に通じて面白い。まぁ、似ているかどうかと言えばこじつけに近いものがあるかもしれないが・・・。

過去に玉川温泉に行きながら三戸郡の新郷村にあるキリストの墓と言う観光地に行ったことがある。竹内巨麿氏が戸来と言うヘブライを髣髴させる地名言ったり、ナニャドヤラという由来が定かでない民謡を昭和初期にアメリカでご活躍なさった川守田英二牧師は神をたたえる歌として紹介したりしたのでそれなりの観光客の来る場所となっていた。
この戸来郷は12世紀には地名として正規に残っているで、景教として中国に入ってきたキリスト教と土着の宗教や文化が結びついた結果とは思われるが、それにしても中央ユーラシア大陸を越えて文化や思想が訪れてきたことは何とも壮大な物語だ。

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(この守屋家78代が崇めているのはこのミシャグチ神。これもイサクがなまったという人もいる)

きっとこの諏訪大社も同様に文化交流があった結果だと思われるが、それにしてもこの諏訪大社どんな歴史があるのだろう?
生半可な知識で恐縮だが、「妄想歴史」を語りたい。

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久野幻庵顕彰会(Ω)

元標の話が出ました。
今でいう三角点のように、どこかの一点を定点として定め、そこから方角と距離を測ることで様々な場所を特定すること、と言う田代先生の説明がありました。
どんな理由でどこにこの元標があったのか?と言う質問に、よくわからないが、と言う前置きをした後、村長等の自宅などではないか?それも今後皆さんで解明してみてください、とのことでした。

今日の話の中で元標に関わったのが2点。幻庵屋敷が寅十五度。いぼ石が申三度。
いぼ石はどうも2009年に開通した「奥和留沢みはらしコース・明星登山道」の途中にある大きな石のようです。

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これなら大体の場所が分かります。それをGoogleMapの上にポイントとして載せます。
寅は3時の方角、申は9時の方角、つまりは直線状。

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なるほどほぼ直線だ!! つまりは原案屋敷から真西のどこかだったのですね。

そういえば小田原攻めに際して先鋒の徳川軍の別動隊はこのみはらしコースをほぼ下って総世寺に入ったと言われています。この登山道も歴史文化資産として活用したいですね。

そんな質問をしてしまったので、ほかの聞きたいことを聞くのが憚れました。
当時の禅院式の庭園では、母屋と庭の配置はどういう関係だったのか? つまり今確定しているのは心字池のみ、そこから母屋の位置を推測する方法はないのか? という事と、稲葉時代に大きなリフォームはされなかったのか? という点です。
田代先生のご専門が造園なので、こちらを質問すればよかったですね。ちょっと失敗(笑)

当日ご参加されたhinahinaさまのBlogです。

久野幻庵顕彰会(4)

日本各地の詳細を記した最初の書物は風土記ですが、世の権力者は自分の支配範囲を完全把握して実行権力を見せたいのか、明治になっても皇国地誌・久野村誌が発行されます。多くの村町は県職員が記載するのですが、久野村は濱野ヨヘイ氏のものが使用されています。それによれば幻庵屋敷は、元標(げんぴょう)から寅十五度の字盛上(もりがみ)に三千有余歩、のちにその中に水田が作られ、中央に北条神社(幻庵の墓)を稲葉休山が作ったと書かれており、また寅十六度に34歩清水がわいているとも書かれているそうです。

まだまだ知らないことがいっぱい。こうした活動が充実してくれることの望みます。

また日本小田原記というのがあるそうです。
そこには幻庵の事もたくさん書かれています。何より有名なのは一節切(ひとよぎり)と呼ばれる尺八。
実は、小田原北条が開城する時、秀吉側の使者は黒田官兵衛。開城条件は、民を助けることなどかなりの項目があり、氏政はかなり感謝し、お礼として北条家に伝わるお宝を官兵衛に与えたと言われています。その中で幻庵の一節切もあったと推測され、それが息子が治めていた大分に渡ったようで、市議の大村学氏が買戻し小田原城に展示し同時にレプリカを作りそれを披露されました。

20170204-41

同書には小田原の景勝地も記載があり、「いぼ岩」や「ツボマ」の記載があるとのこと。幻庵だけではなく久野の文化遺産の伝承にも関心を持ちたいです。
まずは、もう少し地域のことを学びたいですね。

久野幻庵顕彰会(3)

それからまた時代が進み、早雲寺などの禅院式となります。これは武士の時代の仏教の考えによるものです。
庭の一部を切り取り独立させる。その中に凝縮された天地人の空間を見て悟りを開くきっかけにする。
長々と庭造りの歴史を語りましたが、幻庵屋敷の庭はこの禅院式の庭園だったと思われます。

同時にこの時代、茶道が発達します。
茶道は、一節には清貧を善しとしたカトリック宣教師の生き方を見て、大名の贅沢に批判の意味を込めたとも言われていますが、思想にシンクロした千利休のアンチターゼは贅沢を排除し、「立って半畳、寝て一畳」を善しとする茶の道。外界との関係を遮断する禅院式庭園と合いまって、四畳半の質素な茶室周りは「露地」とよばれます。
美しいとか目を引くという因子は排除した雑木(一つ一つの木の名前すら言われない)や地比類のみを配して作られた“庭園”です。
歩いて楽しいわけではないし、先ほどの禅院式の作られた所以ではないですが徹底して建物の中から外を見る庭であるのです。
そしてこの禅院式の庭園には「心字池」があります。心の二つの点を右下の「し」字の形の池の中に島として浮かべる池です。

しかし残念ながら史跡としての幻庵屋敷は整備できているとはお世辞にも言われません。こうした御庭の歴史を知ったうえで、武士の質実剛健な時代の庭をいつでも見に来られるようにしておきたいものです。

20170204-21
(野崎広大氏(日経の祖)の茶碗、名を幻庵と称す)

久野幻庵顕彰会(2)

続いて田代先生の講演
まずは、万安山栖徳寺(現栖徳山京福寺)は母親のために立てた寺と言われていたが、最近の学説では奥さんのための寺と言う説が有力になっている。
幻庵おぼえ書きは姪ではなく実娘の嫁ぐ時に記したものであるという説が有力。
生まれも1493(明応2)年ではないのではないか?
など、とにかく立木先生まで研究対象になっていなかった御仁なので、まだ不明や検証のし直しをしなければならないことも多く、ここで私が皆さまに話せることは多くないとお話になられ、話の内容も幻庵屋敷の庭に特化したいと言われました。

ヨーロッパの庭は、フランスベルサイユ宮殿を代表するがごとく、自然との調和ではなく、自然を征服した整形型の庭造りを好みます。すべてを根こそぎ剥いで、そこにシンメトリーな仕切りを煉瓦や石で作りその中を飾るものですが、日本のそれは違います。
自然風景を取り入れる抽象(アブストラクト)の世界。人工美ではなく自然の中に作られた庭園美は、明治になってそうした考えもあることがわかるまで海外には受け入れられませんでした。当初この発想は欧米には理解は不可能でしたが、事実この後欧米の絵画もアブストラクトアートのヴームが起こります。

20170204-11

この抽象の庭園の基本的な考えはお花などの世界にも同様ですが、花自身・石自身ではなく、その花や石を結ぶ間の空間を楽しむ考えに立ちます。
そうした発想があるので庭園には立岩、寝かした岩などがバランス良く配置されています。
田代先生はこの発想は仏教の伝来よりも早い神道の時代から日本にあったと言います。
例えば三輪山には、山麓に鳥居がありその奥に山自身が信仰の対象としてあり、その山頂付近には岩が転がっていると言います。そこは神が降臨する場所で、そこを「クラ」と呼ばれるそうです。地名に倉や蔵がつくのは何かそうしたことに関わっているからであったり、天皇即位のときの高御座(たかみくら)のクラもそれが由来です。
日ユ同祖論と言う考えには賛同できませんが、もうこの時代には洋の東西を行き来するスキルがあって、モーセが神に出会ったのが岩山の上と言う考えがどこかで溶け込んでいるのかもしれません。

20170204-12

地代が進み、池を掘り、その出た土で築山を作る庭造りが出てきます。
そして、池を中心に自分側が現世、向こう側が来世(神の世界)とする庭造りになります。それは宇治平等院などにみられる世界で、池の向こうの神殿に阿弥陀如来の顔を拝むことに喜びと希望を感じるのです。それを浄土式庭園と言います。

久野幻庵顕彰会(1)

久野北条幻庵顕彰会なる会が立ち上がり、その設立記念講演会に参加しました。
講師は、田代道彌先生。
久野区民会館の1Fホールには入りきれないほどの多くの方が詰めかけました。その数120余名。

20170204-02

20170204-03

会を始めるに当たり高瀬恵会長が、小田原市役所前に「文化の町小田原」と書いた石の憲章がある。憲章とは市の憲法の如しで、そういう街づくりをしていかなければいけない。久野は北条五代に仕えた幻庵さんの住んだ場所、この場所を顕彰することは市の憲章の言葉をまさに実践すること。
そしてこの北条幻庵さんは故立木望隆氏の人生をかけた研究によって世に出た。氏が天に召されて20年こうした形が整ったことは感慨深いとあいさつされました。
何度かこのBlogでも記しましたが立木望隆先生には小学校の頃から可愛がってもらいました。そして先生の庵で何度も幻庵さんのお話を聞いたのを思い出し僕も感慨深く思いました。

20170204-01
(僕らの結婚式で主賓の挨拶をしてくださっている立木先生。もう30余年前のこと)

北条長綱幻庵

八王子城を見に行った時、ボランティアガイドの方に、小田原北条直系五代は有名なんだけれど、そこから外れると途端に知名度が落ちる、旨の話を聞き、納得してしまいました。
たとえば信長からお礼にもらったベネチアングラスがあったなんて話も僕もついこの前知ったばかりです。そんなレベルですら支城の話題は継がれていないでしょうし、小田原城自身も昨年のブラタモリのきっかけが無ければ総構えを歩く事もなかったかもしれません。

子を産むことは当時は、領土を拡大した時の支城の城主を作ることや政略結婚をして他国から攻められないようにすること。
古代や中世のヨーロッパのように滅ぼしつくさない日本の国の戦いは攻撃と和睦とを繰り返したので家族の絆は大切な要因だったのでしょう。それを打ち破ったのは信長。家族よりもカンパニー的な組織として雇用に力を注ぎました。
しかし北条氏は無骨に「お家」を中心とした体制を敷いていきます。どちらがいい悪いではなく、その考えに基づいて、しっかり方針に従ったからこそ、北条も五代という長期政権を担えたのでしょう。

その中心の人物と言えば、表題の長綱幻庵です。
しかし八王子のボランティアガイドの方の言われるように、早雲や氏政は知っていても幻庵は知らないという人が多いです。五代にわたり殿さまに仕えた早雲の末息子。
笛や茶の道にも精通し、千利休などとも交流がある文化人。同時に箱根神社の別当でもあり、また武の道も優れていた御仁。
一節によれば、幻庵が死した知らせが入ったから秀吉は小田原攻めを決意したとも言われています。

そこで

20170128-01

という企画をご紹介いたします。それだけの郷土の名士を埋もれさせるのは忍びないと有志が立ち上がってのもの。私も是非に参加したいと思っています。

何より僕らの結婚式の主賓挨拶をしてくださったのは、この幻庵研究の第一人者でした立木望隆氏でした。先生もきっと喜ばれていると思います。
お気軽にお越しください。
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