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宮崎の山中の文化に誘われ

日本人は「三大」○○が好きです。秘境と呼ばれる場所も、三大秘境として、岐阜の白川郷と徳島の祖谷峡、そして宮崎の椎葉村がそうだと言われています。唯一行ったことのある白川郷は、村のすぐそばまで高速道路が通るようになりもうひなびたという言葉さえ失われた日本有数の観光地になっています。
それに比べれば、秋田玉川温泉や山梨の奈良田温泉などの方が「いよいよ奥地、悲境に来た」感が強く残っています。

祖谷峡は2018年のRFLの後に行く予定が叶わなくなり、逆に椎葉村はもしかしたら2019年のRFL宮崎がらみで行けるかもしれないとワクワクしています。
柳田国男氏と言えば民俗学の祖でもあり、有名なところでは東北の遠野の伝承の記録がありますが、その柳田氏を民俗学の世界に誘ったのが椎葉村です。
椎葉村を訪れた柳田氏は、興味を持ったことを後狩詞記と言う膨大なメモ書きを残します。それを

20181011-01

著者らが、検証しました。

日本民族と言えば、DNA(遺伝子の一致)を思い起こすかもしれませんが、「遠くの親戚より近くの他人」とかいう言葉もありますが、血よりも濃い生活風習が民族を決めている部分もあります。
その一つに明治維新までは「四つ足」を食べる風習がなかった日本であり、すき焼きに文明開化を代表させたりしますが、それは海辺(平野)の暮らし、農民をはじめとする商工人や武士の話であったわけです。
山で暮らすマタギの生活は、たんぱく源として動物肉を食べ続けていました。

生活の中心、生命の維持をさせる大切な食文化これこそまさに「The文化」だと思うのですが、日本には大きく分けて2つの異文化があったことが伺えられます。
過日記載した銀鏡神社、ここにはお供え物のイノシシの頭が並んでいるそうで、夜を徹して奉納される神楽には「シシトギリ」という演目があり、これはイノシシの通った後を猟師が追いかけるものなのだそうです。

神社に山の動物が供えられるのは、諏訪神社にもあります。御頭祭は鹿の首がいくつも供えられるお祭りです。

なにかこの椎葉村のお神楽と相通ずるものを感じさせます。

Japanの語源は、マルコポーロのジパングの言葉だと言われていますが、たしかに平泉などを中心に黄金の文明はあったかもしれませんが、彼の見た黄金は秋豊作の稲田が太陽に輝き、それを見て喜んでいる農民の姿だったとも言われています。
田んぼが広がるところは確かに黄金色に輝くのは今の世であってもあちこちで見ることができます。

そうすると銀鏡と言う名前も、山々に囲まれ日の出日の入りが遅く農業に適さない場所なのに、そのエリアだけ日照時間が長いだけではなく、その光に何かが反射している姿だったのかもしれない。そんなもう一ひねりの名前の付け方を探ってしまいます。

畠と畑の違いは、まさに文字通りなんです。畠は白く輝く田の様子、これが本来の畑です。が当用漢字から外れて現在は畑に統一されていますが、畑は字の通り焼畑のことです、焼けた黒い畑です。
銀が白に通じる場所、山中にあって焼き畑でない開けた場所が多いからこそ銀鏡なのか、なんて想像を膨らませているのです。
さきほど「銀鏡ーSIROMIー」の映画監督が、FBに濱砂則康氏への哀悼のメッセージを載せていました。
そんな日に

20181012-11

が届いたのも何かのご縁かもしれません。最初の学校の写真は、何かそんな山間にあって開けた様子が垣間見えます。行ってみたい地です。日本神話の一大拠点でもある山々。
生きたい場所は数多くあれど、この地は、ちょうど興味を持った時に悲しい事件がありました。それ故にインパクトが強いのですが、それは過疎の村に対する故人の強い思いなのかもしれません。

栄螺井戸

石垣山城址の北には、「井戸」兼「堰止池」がある。
どう見てもどちらか一つとして考えるのは無理がある。
というのは「堰止池」に見えてしまうのは、北側の石垣擁壁はダムのそれだから。土を盛りその盛土の両側に野積みの石垣を築いたようだ。見事な石垣だ。
しかし、何のためにこんな大きな池を作ろうとしたかは想像つかない。城の大きさから考えても、また北条方が籠城作戦をとっていることからもここまで大量の水がいるとは考えにくいが、まぁ秀吉さんの大風呂敷と言うことにしておこう。

「井戸」の方はまた見事な栄螺井戸だった。日本は水が湧き易く、しかも井戸掘り職人が多かったせいか、竪穴式の井戸を掘るので、栄螺井戸を見る機会はあまり多くない。が、我が地元で栄螺井戸を見れたことに驚いた。

中近東の砂漠には、まず屋根・壁を作りその中を階段式に掘り進ませる方法をとる。
旧約聖書のイサクの妻リベカの話もそうだし、新約のイエスが疲れ切って腰かけている時に水を差し出したサマリア人の女性の話もそうだが、日本の井戸を想像すると「なんでそんな簡単なこと?」と誤解をする。

インドの階段井戸ほどは大きくないが、これを往復することを依頼するのだから大変なことだ。

栄螺井戸と言うのはその様子が栄螺の貝殻に似ているからだろう。が、まいまいず井戸と呼ばれることが多いらしい。

武蔵野にはいくつかあると書かれていた。ぜひ行ってみたい。
だってGoogleMapを見ただけでもそそられるじゃないか。

20180829-01

石垣山の石垣はなぜ立派なのか?

小田原城郭研究会の山本氏のフィールドワーク「石垣山一夜城と早川石丁場群をめぐる」に参加させて頂きました。
石垣山自身に登るのも(鎧塚ファーム以外は)何十年ぶりのこと。しかもご案内を頂きながら歩くのは初めてと言うわけで期待が膨らみます。併せて、「小田原の石造物を調べる会」の方からも、城址の石造物があるかどうか見て来て、との依頼を受け責任重大でもあります。

20180826-11

城址の整備も進んでおり、石垣も見やすくなっております。
今でも途上のルートとしては一般的な東口から登ります。太閤道に面したこちらが大手門があったと言われていますが、異説もあるとのこと。
本城曲輪には小田原城を臨む展望施設があります。今日日大きな建物が目につき小田原城本丸は目につきにくいですが、それでも緑に囲まれたところを探せば小さくお城が見えます。
城郭研究会で数年前、鎧塚ファームの駐車場を借りてベニヤ板で作った城をクレーン車で釣り上げ、小田原城から測定したそうですが、本当に小さかったと山本氏は語ります。
そもそも一夜城伝説は、林の中でこっそり城を作り、出来上がった挙句に周囲の木を切り倒したから、小田原勢は一夜にして城が出来たと戦意を失った、というのがよく語られているところです。
4月6日に秀吉は湯本早雲寺に到着し、同時に一夜城建設と小田原城包囲を命じます。
つまり小田原方にすれば、4月の時点では城から出ることは全く不可能ではなく、一夜城で何かをしていることは伝わっていたのではないでしょうか?
そして山本氏は、石垣を築くのに木を伐採しないでするのは難しいこと、昼夜構わず普請を勧めた事からかがり火の灯りは小田原からも見れたはずと語ります。
小田原方は石垣山に城を築いていることはわかったが、一夜でできたとは思っておらず、しかしながら80余日で仕上がったことに驚くわけです。
木村宇右門覚書書(伊達政宗言行録)には、石垣山を訪れた伊達政宗が6月9日にはなかった白壁が翌日の10日にあったことに驚き、秀吉の問いに「白紙で作った」と言う推理を返して秀吉が喜んだとの記載があるとのこと。笑っちゃうような陳腐な方法ですが、それでも望遠鏡の精度が低い時代ですので・・・なにおかいわんや、です。
当初に記した城郭研究会の鎧塚ファームでの実験では、本当に小さかったとの言葉とあわせれば、そしてネズミ一匹外に漏れださないように包囲した=北政所などに送った書状には「干殺にする」と書いてある(出入りを頑固に禁止した)ことから、この一夜城の様子はまったく小田原方には見えなかったはずで、白紙で十分脅せたはずだと思います。

山本氏は、瓦は製造に約80日間かかる、とも語りました。
4月に着工すると同時に瓦を造り始めたとして7月1日降伏を受け容れるまでは約90日、またこの瓦の土(粘土)は関東静岡東部の物だとかで、どう計算しても築城までには瓦は乗っていなかった、つまりはダミー(ギミック)だったと思います。土(粘土)をこね、型押しで成形し、天日で乾かし施釉までは大量生産できても、その後の素焼きは窯の大きさで焼ける枚数が決まります。僕も炭焼きをしたことがありますが、釜内が冷えるまで数日は釜開きできません。数百、数千枚谷の瓦がそう簡単に焼けるはずはないと思います。
もしかしたら近隣の寺院にある出来あいの瓦を寄せ集めたのかもしれない、でもそうならば寺院の覚書にその旨が記載されているでしょうからその可能性も低いでしょう。
何度も書きますが、城郭研究会の実験では一夜城は豆粒のように見えた、そうです。ですから瓦があろうがなかろうが大したことではありません。
しかし問題は、この石垣山城址から瓦破片が数多く発見されることです。しかも天正19年と言う文字が記された瓦が複数枚発見されていると言います。
これは何を意味しているのでしょう?天正18年に北条方は降伏をしているのです。何故に降伏した後に瓦を乗せたか?
石垣山城は、小田原征伐のためだけの城ではなかったことが推測できます。その後も城としての存在があればゆえに「本物」の城になるように修復を続けたのではないでしょうか?

石垣山の北に小田原城は位置しています。東の相模湾は秀吉軍の船がびっしりと沖に並んでいます。現在でもここから伊豆方面は、JRの路線と国道135号が山と海の狭間を縫うように進んでいきます。う回路が築けないためによく渋滞を起こす場所です。う回路はないのは山がすぐに海に落ちている難所だからです。
ですから、城の東側は誰もうかがい知ることのない、つまりは北へダミーの物で威圧するだけなら「まじめ」に作る必要のない石垣です。
つまりは、石垣づくりは同盟の配下臣への威圧だと思っていました。また、のんびりと「干攻め」をする中で士気を落とさせないように競わせる(労働させる)ものだと思っていました。
が、どうもそれだけではなく、小田原城落城後も城としての使命があったのでしょう。
すごい、大発見でした(^^♪

20180826-12

しかし同時に、大手門手前、南曲輪に面するところに「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻まれた石がありました。
これは何を意味するのでしょう? 江戸城普請時にこの一夜城の石垣の石を運び出したのではないでしょうか?
江戸時代4,5度の大地震がありその度地盤の弱い小田原城は石垣が崩れたそうですが、石垣山城の石垣は壊れず直下で起こった関東大震災で初めて崩れたと旧山の持ち主の方が語ったと山本氏は説明します。
しかし崩れた石はたいして地面を埋めていません。つまり絶対量が不足しています。それが上記のこの石垣の両側は加藤肥後守(加藤清正?)が使用する石、という書き物があるのではないでしょうか
もしかしたら、江戸城普請時ころまでは石垣山城の使命が「何か」あったのかもしれません。

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さて、城跡には上記書き込みのある石のほか1体の祠がありました。ちょうど山神様を祀った木の祠の北西にあたりところにありましたが、祠があるだけで中の仏様はありませんでした。
さて何の仏像だったのでしょう? いつの時代だったのでしょう? 感じから言って私有地に払い下げ以降の物のように見受けられました、すると山神様と一緒の時代なのかもしれませんね。 畑の真ん中に祠を築いたのかもしれません。

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同行のメンバーさんがロガーでコースを拾ってくれました。半日で6kmですから、そんなに歩いたわけではありませんが、猛暑の中のアップダウン思った以上にへばりました。
が、純粋な歴史好きと言うよりは人間ウォッチング・民俗学的な想像(妄想)好きなものとしては、この一夜城をめぐるさまざまな事象を妄想できて大変楽しゅうございました。

アニメ「一休さん」に出てくる新右エ門さんって・・・

郷土史に造詣の深い数名のFacebook知人がお奨めだったコミックスを購入。

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ゆうきまさみ氏・・・聞いたことのあるお名前、と検索すれば漫画本を読んでいた時代から楽しみにしていた漫画家さん。そうなんだ、あの漫画家さんが北条早雲を題材に漫画描いてくれたんだ、と喜んでまず第1巻を読破。
作家さんの下調べはやはりすごいです。未成人(元服)の時代の早雲さんですから、男性社会の武士の世の中ではまだ活躍できるはずもなく、そこには姫や女官たちとの過ごす時代ですので、上っ面の資料では手に負えない話でしょう。
そうしたご苦労は教科書+α程度の知識の僕には非常に参考になる漫画です。
それに何と言っても、武将の名前のルビがいい。とかく同じような名前が多い中インプットしやすいルビのふり方は妙案です。さすがです。

よく戦国時代は、小田原に始まって小田原に終わる、と言われます。北条早雲の小田原攻めから秀吉の小田原攻めまでが戦国の世と言われて、僕もそう教わってそう思い続けてきましたが、「戦国」と言う意味では、もう応仁の乱から「戦国」なんですよね。
返って関東においては、いわゆる「戦国時代」は善政の北条五代ゆえ大平時代だったと思います。
第一巻は応仁の乱の直前。ここからはえげつない将軍の変わり身の早さで京の都は、そして派生した全国が戦いの中に巻き込まれていきます。
続き楽しみです。

さて、歴史と言うのは意識をしないと猪ではないけれど縦系に猛進してしまいます。親が、子が、敵が、味方がと主人公を中心とした小さな輪で、とかく横のつながりを忘れがちです。
この漫画を読むまで、北条早雲と一休さんと言う組み合わせを考えてもいませんでしたが、テレビアニメ「一休さん」に出てくる蜷川新右衛門は「早雲の伊勢家」の家臣だったんですね。(少し誇張が入っています。正確には…自分で調べてね)
でもこの関係が一番の収穫だったかも(笑)

国府津は こ ̄うづ or こ\うづ

最初に誤っておきます。イントネーションに弱く、記号は間違っているかもしれません。もし違いがありましたらお教えください。

小田原駅から17時50分ころ上りの電車を待つと
快速アクティの男性のアナウンスは「次はこ\うづに止まります。」といい
そのほかのアナウンスは「こ ̄うづ」と言います。昨日も同じ列で待っていたOLさん2人連れが、「どっちが正しいの?」と話し合っていましたが、さてどっちが正しいのでしょかねぇ?
聞きなれているのは「こ ̄うづ」ですが・・・。

昔、国府津の語源は、千代廃寺が国府つまり国分寺跡だからと言われて、その港故に国府津と言われていました。
国(こく)は、こ ̄くですから、国府の港だったら「こ ̄うづ」で良いのでしょうけれど、最近は国府は民間人の郡家で、郡(こおり)の港から国府津になったという説が主流のようです。
郡と言う字で有名なのは、福島の郡山。「こ\おり」から来たのなら、国府津の発音は聞きなれない「こ\うづ」なのでしょうか?

いずれにしても放送によってイントネーションが違うのはいかがかな、と。
統一してくれるのを望みます。

38年ぶりのかいぼり

小田原北条は時代を読む力が欠如していたので、読み間違えをして豊臣に敗れた、と伝えられてきましたが、最近徐々にそうではなく、僅差の勝負で開城になった、と言われ始めました。
言い方が悪いけれど、徳川家康や伊達政宗が、しっかり力の差がないことを認識して北条についていたら間違いなく北条は勝利(少なくとも和睦)は出来たと勝手に思っております。(大袈裟か)
まぁ、そんな「時代の IF」 は意味を持ちませんので、こちらにおいておいて・・・。

TV東京のバラエティ番組「池の水ぜんぶ抜く大作戦」で小田原城のお濠の水を抜くことなりました。
3月10日から濠にすむ生物の影響を加味しながらゆっくりと水を抜きはじめ、17日には三の丸小学校前の堀はほぼヘドロ地状態。続いて馬出門前の水を抜いているところでした。

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17日の学橋。1mほど水位が低下。

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17日、生物保護のため馬出門のところで水位調整

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17日。お堀端通りから三の丸小の交差点。

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17日。御茶壷橋横の大型バス駐車場あたりは水が引けてました。

それから4日、予定ではお日様の力で乾燥し始め作業しやすい環境になるところだったのでしょうけれど、小雨ぱらつく毎日。
そして本番の今日は、関東でも雪の予報の寒い日。お昼の気温は4℃と発表されています。
それでも市民ボランティアと力を合わせ外来生物駆除と清掃を兼ねた作業がなされました。
TVのバラエティとタイアップしたこの企画に賛否両論出ています。
しかし、かいぼりは38年ぶりということ。
昨年ダイバーを擁して清掃活動した際に2年間で246kgものゴミが出たこと。
そんな状態であっても観光課の予算から鑑みて、かいぼり(例えば市民が夜陰に乗じて飼えなくなったペットを捨てに来るなど生態系が崩れているにもかかわらず)を5年とか10年にできないこと。ごみ掃除だって246kgになる前にしなければいけないのでしょうけれどそれも叶わぬこと。
予算がないのなら市民ボランティアの力と言っても、何も無い時に「かいぼりします。ボランティア募集します」と言ったら果たして200人も集まるか、と考えればそれも厳しい。
それゆえに話題性のあるTVバラエティ番組とのタイアップは僕は致し方ないものだと思っています。バラエティ番組のイヴェントであっても濠がきれいになる方がいいです。

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21日。学橋周辺の駐車場は当然のごとく満車。止めようとする車がゆっくり走るので渋滞。歩道も観覧客でびっしりです。

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21日。募集したボランティアは午前100人午後100人ですが、圧倒的に不足。

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撮影スタッフも寒い中ご苦労様。

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数日前、生物に対する配慮が足りないというクレームがインターネットに載りました。小田原の場合はどうだったのでしょうか?それでも多くの方が網を水槽に持って行ってはチェックしていますが、泥水ごとですからすぐに真っ黒で、僕らの想像以上大変だということがわかります。

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僕の勝手な思いですが、水のある市内が好きなんです。福岡大濠公園とか岐阜長良川や京都鴨川、こうした清流のそばは夏の格好のデートスポット。はい、若者が街歩きを楽しめる街こそ活気のある街だと思うのです(^^♪
それにはお濠の水は清流であってほしい。春の桜も清流の水面に映し出されるほうがきれいに決まっているじゃないですか・・。
歩いていても透き通った水のそばの方が気持ちいい。アオミドロの水が似合うのは妖怪あたりを観光名所にしたところだと思うのです。

でも一方の自分が反論します。果たして戦国の世では水は澄んでいたのか?と。外敵を防ぐための濠ならば深さを判断できる澄んだ水ではなく現在のようなアオミドロの状況判断しにくい水ではなかったのかい?と。
そして、きっと一面にハスが植えられていたのではないか、と。
以前、館林から寄居に遊びに行ったことがあります。その時に、「ハスはね、根まで棘があるので城に侵入しようと濠を潜って進もうとするのを妨げるし、有事の際には食料になるからよく植えられた。」と聞きました。
すると小田原城もハスが一面に植えられていたのでしょうか?

北条時代は濠や空堀のメンテはどの程度やっていたのでしょうか? 推測のようなお濠だったのでしょうか?
緑の水面とハスの茂った葉っぱ、今のように電気のない時代「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではありませんが、恐怖は妖怪を生み出します。河童がいたというのも得てして濁った水の中です。亀や魚の飛び込む水のポチャという音と合わせてそんな得体のしれないものも想像したのだと思うのですが、小田原には河童の伝説は聞かないです。
逆に酒匂川などでカワウソに化かされた話は残っています。そうするとそんな妖怪が生まれないようなきれいなお濠だったのでしょうか?

小田原市役所前の噴水の水が汚いからどうにかしてほしい、という苦情が市役所に寄せられた、ということがあり、意見を求められたことがあります。
家庭排水が流入する河川ならその栄養分が河川を汚染させるが、循環をさせている普通の水が、太陽の力を得て藻類が繁殖するのは当たり前の事象で、透き通ったきれいな噴水であり続けたいのなら生物が住めない「死の水」にさせないと無理ではないか、という話をしたことがあります。
戦国の世にはそんな学問もなかったでしょうし、お日様燦燦のお濠はきっと豊かな生態系で藻類も繁殖して、やはり僕は緑だったと推測します。

小田原城のお濠が復元し歴史の再現をさせるものなのか、現代の風光明媚な観光スポットにするのか、どうなるのかは楽しみでもあります。
寒い中、写真を撮るだけでも手がかじかみました。どうぞ体調を崩しませんようにとお祈りしています。
サクラの花がきれいな水面に映えたら写真を撮りに行きましょう(^^♪

北条幻庵顕彰会行事 -お誘い- 

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のご案内を頂きました。(クリックすると拡大します)
どうぞお越しください。
私はすでに幼稚園の定期理事会の予定が入ってしまっているので残念ながら欠席です(>_<)

曽我の梅林

会社のBlogに記載するために、少し曽我梅林の経緯を調べたところ、「妄想歴史秘話」的には面白そうな話でした。神奈川の梅干しについて 思いっきり妄想の羽をはばたかせて書いてみたいと思います。

落語の演目の一つに幽霊飴と言うのがあります。好きな演目であるのと同時に、この落語は京の町に原型があったようで実際幽霊飴は昔からの名物になっています。

高台寺に預けられた稚児こそ、のちの高僧通幻寂霊(1322-1391)だという伝承があります。幽霊から生まれたから口が臭く悩み、師に相談したところ梅干しを毎朝食べよ、と言うアドバイスをもらい、それを実行したところ口臭が治った、と伝えられています。
梅干しを植えることを良しとした僧故にこういう話が尾びれとして着いたのかもしれません。まさにニワトリが先か卵が先か、と言う話ですが・・・。
ですので福井にある通幻寂霊師ゆかりの寺は梅干し作りは僧侶の大事なお勤めの一つだとつづけられているそうです。

さて、通幻寂霊十哲に了庵慧明(1337-1411)と言う高僧がいます。
能登妙高庵寺など通幻禅師の後席すべてに住持し、大本山總持寺に輪往。50才半ばで相模国に帰り、曽我の里に「竺土庵」を結びます。
ある日、一羽の大鷲が禅師の袈裟を掴んで足柄の山中に飛び、大松の枝に掛けるという奇端を現じました。應永元年(1394)、奇端の啓示を受けた足柄の山中に大寺を建て、大雄山と号しました。
そう、道了尊最乗寺の開祖です。

故に師の梅干しに対する思いは受け継いでいたのかも知れません。

20180210-01

元に、慶安元年(1648年)の「最乗寺由来書」が南足柄市別編に載っていると石井啓文氏は言い、その一説に
願毎朝喰梅干飲茶七服給者必可除之
とあるそうです。毎朝梅干を食べるためには、今のように店で簡単に買える時代ではないので、自らの庭で梅の木を植え、実を採り塩漬けにしたことでしょう。
山深い最乗寺では梅の木を植えるに適さず、そうなると自身が直前まで庵を結んでいた開けて温かい曽我の地の民に梅を植えることを勧めたのではないでしょうか?

同じく石井啓文氏のご本から借用すると、曽我の梅林は杉田梅を明治時代に横浜市杉田から持ってきたのが最初だと乗松祥子氏が著書「宿福のうめばなし」で語っているそうです。
それは千葉茂原に行った小田原の僧侶が帰路しけに遭い、杉田に流れ着き、お礼にと置いた梅の木が杉田梅で、それを曽我の人が明治期に持ち帰り曽我の梅園にしたのが始まり、と言う話なのです。

何のために、小田原の僧侶は梅の木を持っていたのでしょう? 「たかが」梅の木をなぜ横浜杉田の人は大切に育て、杉田梅と呼ばれるほどの梅園に育て上げたのでしょう?
乗松氏のお話をそのまま信じれば、この2点は解決しないといけない点でしょう。
ウィキペディアによると杉田梅林は、安土桃山時代に、領主によって住民に梅の木の植樹を奨励したのが始まり、とあります。ならば、この小田原の僧侶は安土桃山期(1573-1603)の人物でしょう。

この大梅を、何かのきっかけ・・・そう茂原への宣教や産業指導のために小田原の僧侶は持っていったのではないでしょうか?
実付きがよく滋養強壮もある。そもそも曹洞宗の一門では福井の大本山総持寺や龍泉寺などでも「流行って」いる植物、と欲しがったのかも知れません。
それを持っていきながら、何かの都合で全部を渡し損ねて、お持ち帰りがあった。それを横浜杉田で世話になった人にあげ、杉田で広がりを見せた。
逆に小田原では江戸期に入り曽我は梅畑では無くなった。そんな時にひょんなことから杉田から梅の苗を購入し、曽我に植えようという人が現れたのなら…

いや、この話のベースは石井啓文氏の話ですが、読んでいて「飛び梅」を思い出しました。
大梅が小田原に帰りたがっていた。300年の時を経て、竺土庵のある地に戻ったとしたら・・・。
この曽我の梅林は雄大な歴史が作り上げたロマンの場所ではないかと思います。

明日の日曜は、気温も上がると報じられています。そうすれば一気に開花するでしょう。
午前中の礼拝のあとは、近所の中河原の梅園にでも行ってみましょうか。

道祖神ワンダーワールド

神奈川に生まれ育ったからか、町の境界と言うことの意識がない。
市名のあとの字名はあっても、それは単なる行政の区分に過ぎず、たとえば久野と扇町の境がある訳ではなく、曽我と千代の境も白線ひとつない。
もう少しローカルな地方に出かけると、しばらく灯りのない道路を走ることがある。そこには「町」の入り口と出口がある。
コミニュティとしての「町」だ。古くはよそ者を排他して、自分たちの力で自治を守ってきたテリトリーだ。

そんな街の入り口には、町の守り神がいる・・・それが神奈川で言うと道祖神だ。もともと中国の道の神『道祖』を祀る信仰なのだろうけれど、町外からの災いを防ぐ信仰と相まって道祖神初日時にあるものだと思っていた。
が、先日の石造物調査会の中で、おもに関東甲信越の信仰だと聞いた。身近な道祖神が身近でない地方があることに驚いた。

そしてそんな関東甲信越の中でも、神奈川の真鶴と信州安曇野に多いという、分布のばらつきの特異性にも興味を持った。
海の町真鶴と山の街安曇野の間にどういう交流があり、この2か所に道祖神が増えたのだろうか?

興味を持つと調べたくなる。
という訳で

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なる本を購入。
著者を見れば、秦野にお住まいの方。
巻頭言に、芭蕉の序文の一説書きされている。『道祖神の招きにあいて』・・・そう芭蕉は、そう言って長い奥の細道に旅立った。
伊勢に生まれた芭蕉は幼少期は道祖神など見たこともなかったろう。江戸に出て初めて辻に建つ地蔵とは違う姿に心をひかれたのかもしれない。

木と違い朽ちるまでの時間が長い石造物。その間風雪にさらされて風化し苔生しる。その古さに、その場所に生きてきた人の生活を想像できるから芭蕉は惹かれたのかもしれないな。
まさにワンダーワールド。昔に想像の翼を広げたい。

道祖神祭りの久野を歩く

小田原市郷土文化館主催の石造物調査会の保坂氏やメンバーの方々と久野のどんど焼きを見に行きました。

と言ってもつい今しがたまで生活をしていた場所。新たな出会いなどないとたかを括っていましたが、いやいやそこはお宝の宝庫久野。
見どころ一杯の半日となりました。

集合場所は、久野水神公園。公園の由来は、兎河原端の岸にある通り久野川の水路を整備したことと関係するのかと思いましたが、この公園でどんど焼きをしている方のお話では、狩川より水路を作ったためと言われました。荻窪用水時代に同じような水路を久野も引いていたことに驚き。
お話によれば、狩川の某所からトンネルで久野坂下の奥(久野709あたり)にもってきて、そこからサイフォン原理でここにひいているのだとか。前述の坂下にも石碑があるとか。
確かに府川から穴部駅にかけてから久野坂下は直線でありますが、何故すぐ横を流れる久野川ではなく狩川の水を取水したのか? は興味深い謎です。

お話のほかにも焼き鳥の御接待を受け、13時に中宿公民館から山車が出るとのことで向かいます。

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そもそも旧正月に火を燃やす祭りは日本全国にあるそうです。しかし、それが道祖神と絡んでいるのは少なく…というより道祖神自身が関東甲信越と鳥取周辺の信仰で、関西や東北にはあまりないらしいです。
しかもこの時期にだしが街中を練り歩くのはもっと限られているとのこと。

道路を歩けば道祖神があるものだと思っていた僕ら小田原市民にとって、もしかしたら「私の町に道祖神なんかないよ」と言う人も多いかも! Blogを読まれている方で、ご自身の街の左義長(どんど焼き)と道祖神についてお教えいただけると助かります。(たとえば、うちの町には道祖神ないよ、とか、どんど焼きで無病息災を記念して団子食べます、とか、習字の神燃やします、等々)

20180113-03
(焼いたお団子を無病息災だからとお子さんにあげながら歩いているご家族をパチリ)

小田原の道祖神は、さまざまな形があり、特異なのは国道1号線の駅東西の道祖神。祠の中は狐が祀られていてどう見てもお稲荷さんなのに道祖神であるという習合神。これは一度見てみたいものです。
多くは双体道祖神でしたが、最近は人気なのが安曇野等でよく見られるただ立っているだけではなく、手をつないだり抱き合ったり酒を酌み交わしたりした格好のものがよく見られているような気がします。

そもそもどんど焼きの語源は何か? と言う話題になりましたが、はっきりしたことは分からないとのことですが、旧暦正月は新月から始まるので、新たに始まるこの世とあの世の境の日でもあって、豆腐を食べる習慣がこの日や葬式の日にもあるそうです。(賽の目に切ることも関連)、また搗き立てをみたらし団子にする話も落語の初天神にあり、みたらしは蜜たらし(蜜とは醤油の中に砂糖を入れたもの)など、うんちくのある方がたくさん集まり新たな情報を頭にとどめておくのが難しいほど(笑)

出発を見届けた僕らは、狩野街道と足柄街道の交差点(久野911・久野調剤薬局前)の道祖神を見に行くことに。
ここの道祖神は、屋根を付けたタイプ。この日は、各家から持ってきたお飾り等で道祖神の「家」を作り、その中で子どもたちは過ごすのが習わしだったそうでその名残が残っています。

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保坂氏が「この道祖神は石の質が赤いですね」とポツリ。道祖神の石なんて気にもしていませんでしたがなるほど赤身がかかっています。どこからここに来たのだろう? いろいろな不思議がまた一つ増えました。

坂を上がったところの畑の隅の祠。

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その先の北久保集落の道祖神ら。

20180113-06

左端の石仏は上半身のみ? それとも2-3頭身のもの? いわれはなんなのでしょう?
ここでもどんど焼きが行われていました。書初めの半紙を持ってきた子どもが火にくべます。次がうまくなりますように。
火の番をしていた方に北久保の石仏はこれだけ、とのことなので来た道を戻ります。

七軒村。幻庵公の家臣武将の家が七軒あったことからと言われますが、今は面影もありません。でも武家屋敷の多くは家の前に川が流れているところも多いから、この川はその名残かも(笑)
この道路はもっと細かったそうですが、中宿等の集落と諏訪野原の高台の畑をつなぐのに「ニコヨン」の労働力で作ったものだとか。その碑が経っています

20180113-07

久野保育園裏には、幻庵公乳母を祀った神社(祠)。

20180113-08

こういうものがあったのも初耳。

お仲間のMさんがミクニグランドのわき(久野3563-イ-1)にも道祖神があるという事で行ってみます。

20180113-09

僕も初めて歩く道、この周辺に住んでいる人しか知らないような道路岸の道祖神。このグループメンバーの探究心のすごさに改めて脱帽です。
さてこの道祖神、2体とも着衣が十二単のようです。皆さんの知識と想像力が飛び交い、この道祖神が祀られた時代を読み解こうとしています。保坂氏の政治経済の情勢が不安な時代は人物を彫らずに『道祖神』と言う文字だけの道祖神もある、と言う説明からすれば、よき時代だったのかもしれません。

日が西に傾いてきました。楽しかった久野探索。お開きにいたしましょう。

我が家は2月3日、曽我岸あたりを歩いてみようと思っています。
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