御頭祭(2)

諏訪大社の歴史は定かではないが、日本の神社歴史の中でも古い由緒がある。
関する記述は古事記にある国譲りの話。伊勢神社系の勢力が出雲系の勢力を制圧する話。大国主命とその子の事代主神(ことしろぬし)は遠く大陸から来る船の灯台になるような大社の建築を条件に伊勢勢力の配下に入るが、弟の建御名方神(たけみなかた)は不満で戦うことを提案する。が、伊勢勢力の前に敗北し逃走。その行き先が「科の地(今はあえて諏訪と呼ばない」であるという記載。
もう一つは諏訪大明神絵詞と言う書物。諏訪の地へとやってきた諏訪大明神は、そこで土着の神たちと対峙する。
土着の洩矢神は鉄輪を持ち、諏訪大明神は藤枝を持って戦った。結果は、藤枝を用いた諏訪大明神の勝利であった。敗れた洩矢神は滅ぼされず、祭祀を司る神長官となる。
また、高照姫という神は諏訪大明神に最後まで抵抗したが、民を守るために退き、先宮神社に幽閉されることを選んだ。こうして諏訪の地は、諏訪大明神が治めることとなった。
と言う話。

2つが絡んでるのは、建御名方神と言う神の名。つまりは出雲を追われた一族が東遷し科地方の豪族を滅ぼして土着したと言う事なのだろう。
2つの違った文章を合わせてしまえば伊勢勢力と出雲勢力の戦にも読めるが、もしかしたら出雲勢力の内乱分裂で力が弱ったところを伊勢勢力に制圧されたのかもしれない。
当初の記載にあえて諏訪と呼ばずに科の地と呼んだのは、諏訪は出雲から来た建御名方神が名乗ったからこの神社も諏訪大明神と呼ばれるようになったようで、その前はミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などを祀っていたようだ。
特にモレヤ神は、前トピの御頭祭の祭祀を司る直属家系の神で諏訪大社の上社前宮であるし、高照姫は先宮神社の神となっているから、服従の上で豪族として生き延びた、若しくは祟り神として恐れられて神社に祀られたか、と言ったところなのだろう。
そして見落としてはいけないのが、藤で戦う出雲軍に対して鉄輪を持ったという記載。既に鈩(たたら)の技術を習得していたのだろう。ヤマタノオロチの神話も殺した大蛇の尾から剣が出てきたのは、戦いで破った相手から鈩を奪ったという意味だとも言われている。いずれにしろ、伊勢系や出雲系に負けじ劣らじの高度な文明を持っていた証拠だと思われる。
しかし前トピの学芸員氏、この地は「田舎だ」と言う。それは、守谷氏が頑なに弥生の文明を否定し、縄文からの文化を傾倒した結果だとも・・・。

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(いたるところで御柱のように4本の柱で取り囲んでいるのを見る。「結界」と言う言葉が頭に浮かぶ)

つまりここで勢力が変わり、御頭祭や御柱祭を行った部族で無い者たちの祭りの中で、土着の古い祭りが融合と存続のはざまで頑張っているのが諏訪の奇祭と呼ばれる祭りの数々だと思われる。
あわせて御『頭祭は大祝(おおほうり)の代理である「神使(おこう)」が近隣の郷を巡回して五穀豊穣を祈願するために、大社から出立する時の儀式』と言われもいるらしい。大祝は出雲系の神であることからいえば、土着神ではない神が新たな五穀豊穣、つまりは農業文明を手に入れた姿なのかもしれないが、そうだとすれば神使(おこう)を縛り上げる理由がなくなる。つまりは融合の故にわからない神事に変化して行ったのだろう。
こうなるとあの創世記のイサクの物語を髣髴させる祭りが何を意味しどうやって始まったかは謎のままだが、歴史ミステリーはミステリーのままで、その祭りを大事にする文化を尊ぶだけでいいのかもしれない。

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(神事は前宮の十間廊で行われる。この十間廊の大きさがユダヤの幕屋と同じ大きさと言う人もいるようだ。)

しかし・・・、聖書に戻るが、神はなぜイサクを神にささげる場所として住まいから3日もかかるほどの場所にあるモリヤ山を選んだのだろう?

さて、続いて旅の内容を語ろう。

御頭祭(1)

諏訪大社の御頭祭を突貫で見に行ってきた。
この祭りは、今は諸般の事情で江戸時代までの祭りの体は失われているが、江戸時代の菅江真澄と言う、今でいえば『街道をゆく』を記した司馬遼太郎氏のような存在の方が書いた文章があるので、それをご紹介すると…。

御神(おこう)といって八歳ぐらいの子供が、紅の着物を着て、この御柱にその手を添えさせられ、柱ごと人々が力を合わせて、かの竹の筵の上に押し上げて置いた。
そこへ上下を着た男が、藤刀というものを、小さな錦の袋から取りだし、抜き放って長殿(祭祀のリーダー)に渡す。長殿がこの刀を受け取り、山吹色の衣を着た神官に渡す。その藤刀を柱の上に置く。
例の神の子供を、桑の木の皮をより合わせた縄で縛り上げる。
諏訪の国の司からの使者の乗った馬が登場する。その馬の頭をめがけて、人々は物を投げかける。しかし、この馬はとても早く走る。
その後ろから、例の御贄柱を肩にかついだ神官が、「御宝だ、御宝だ」と言いながら、長い鈴のようなものを五個、錦の袋に入れて木の枝にかけ、そろりそろりと走り出し、神の前庭を大きく七回まわって姿を消す。そして長殿の前庭で先に桑の木の皮で縛られていた子供が、解き放たれ、祭りは終わった」。


クリスチャンの兄弟姉妹なら何か「ウン?」という話。その「ウン?」の旧約聖書創世記22章の前半を要約すると、
神様がアブラハムにその一人息子であるイサクを捧げるように命じられたます。アブラハムはイサクを連れてモリヤ山に向かい、そこでイサクを縛り、薪の上に横たえ、刀を取り出してイサクを捧げようとすると、「その子を殺してはならない」という声が聞こえました。ふと見ると、枝に角をひっかけた羊がいたので、その羊をイサクの代わりに神様に捧げました。

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(御頭祭は、江戸時代まではこの柱に子どもを縛り付けて馬で運んでいたが、今はこの柱を人が担いでいます)

他人の空似かもしれないが、子どもを縛り、刀を取り出した時に神が子どもを助ける。そしてその子どもの代わりに生贄が用意される、という共通点はなかなか興味深いもの。
しかも子どもの代わりの生贄は75頭のジビエ。「魏志倭人伝」の記載では、倭国に羊はいないと書かれてるのでその情報を信じれば生贄に鹿が選ばれたことはうなずける。しかもその中の一頭は耳裂け鹿を選べ、との言い伝え。神長官守矢史料館の学芸員さんによれば、それは「茂みに角を絡ませた」それによる傷を現しているという説もある、と語られる。

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(耳を切ったのではなくこうした鹿がいるらしい)

そして何よりも、日本の神道系には多いが、ご神体がなく、この諏訪大社も守屋山自身をご神山として崇めていることも旧約のモリヤ山に通じて面白い。まぁ、似ているかどうかと言えばこじつけに近いものがあるかもしれないが・・・。

過去に玉川温泉に行きながら三戸郡の新郷村にあるキリストの墓と言う観光地に行ったことがある。竹内巨麿氏が戸来と言うヘブライを髣髴させる地名言ったり、ナニャドヤラという由来が定かでない民謡を昭和初期にアメリカでご活躍なさった川守田英二牧師は神をたたえる歌として紹介したりしたのでそれなりの観光客の来る場所となっていた。
この戸来郷は12世紀には地名として正規に残っているで、景教として中国に入ってきたキリスト教と土着の宗教や文化が結びついた結果とは思われるが、それにしても中央ユーラシア大陸を越えて文化や思想が訪れてきたことは何とも壮大な物語だ。

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(この守屋家78代が崇めているのはこのミシャグチ神。これもイサクがなまったという人もいる)

きっとこの諏訪大社も同様に文化交流があった結果だと思われるが、それにしてもこの諏訪大社どんな歴史があるのだろう?
生半可な知識で恐縮だが、「妄想歴史」を語りたい。

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久野幻庵顕彰会(Ω)

元標の話が出ました。
今でいう三角点のように、どこかの一点を定点として定め、そこから方角と距離を測ることで様々な場所を特定すること、と言う田代先生の説明がありました。
どんな理由でどこにこの元標があったのか?と言う質問に、よくわからないが、と言う前置きをした後、村長等の自宅などではないか?それも今後皆さんで解明してみてください、とのことでした。

今日の話の中で元標に関わったのが2点。幻庵屋敷が寅十五度。いぼ石が申三度。
いぼ石はどうも2009年に開通した「奥和留沢みはらしコース・明星登山道」の途中にある大きな石のようです。

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これなら大体の場所が分かります。それをGoogleMapの上にポイントとして載せます。
寅は3時の方角、申は9時の方角、つまりは直線状。

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なるほどほぼ直線だ!! つまりは原案屋敷から真西のどこかだったのですね。

そういえば小田原攻めに際して先鋒の徳川軍の別動隊はこのみはらしコースをほぼ下って総世寺に入ったと言われています。この登山道も歴史文化資産として活用したいですね。

そんな質問をしてしまったので、ほかの聞きたいことを聞くのが憚れました。
当時の禅院式の庭園では、母屋と庭の配置はどういう関係だったのか? つまり今確定しているのは心字池のみ、そこから母屋の位置を推測する方法はないのか? という事と、稲葉時代に大きなリフォームはされなかったのか? という点です。
田代先生のご専門が造園なので、こちらを質問すればよかったですね。ちょっと失敗(笑)

当日ご参加されたhinahinaさまのBlogです。

久野幻庵顕彰会(4)

日本各地の詳細を記した最初の書物は風土記ですが、世の権力者は自分の支配範囲を完全把握して実行権力を見せたいのか、明治になっても皇国地誌・久野村誌が発行されます。多くの村町は県職員が記載するのですが、久野村は濱野ヨヘイ氏のものが使用されています。それによれば幻庵屋敷は、元標(げんぴょう)から寅十五度の字盛上(もりがみ)に三千有余歩、のちにその中に水田が作られ、中央に北条神社(幻庵の墓)を稲葉休山が作ったと書かれており、また寅十六度に34歩清水がわいているとも書かれているそうです。

まだまだ知らないことがいっぱい。こうした活動が充実してくれることの望みます。

また日本小田原記というのがあるそうです。
そこには幻庵の事もたくさん書かれています。何より有名なのは一節切(ひとよぎり)と呼ばれる尺八。
実は、小田原北条が開城する時、秀吉側の使者は黒田官兵衛。開城条件は、民を助けることなどかなりの項目があり、氏政はかなり感謝し、お礼として北条家に伝わるお宝を官兵衛に与えたと言われています。その中で幻庵の一節切もあったと推測され、それが息子が治めていた大分に渡ったようで、市議の大村学氏が買戻し小田原城に展示し同時にレプリカを作りそれを披露されました。

20170204-41

同書には小田原の景勝地も記載があり、「いぼ岩」や「ツボマ」の記載があるとのこと。幻庵だけではなく久野の文化遺産の伝承にも関心を持ちたいです。
まずは、もう少し地域のことを学びたいですね。

久野幻庵顕彰会(3)

それからまた時代が進み、早雲寺などの禅院式となります。これは武士の時代の仏教の考えによるものです。
庭の一部を切り取り独立させる。その中に凝縮された天地人の空間を見て悟りを開くきっかけにする。
長々と庭造りの歴史を語りましたが、幻庵屋敷の庭はこの禅院式の庭園だったと思われます。

同時にこの時代、茶道が発達します。
茶道は、一節には清貧を善しとしたカトリック宣教師の生き方を見て、大名の贅沢に批判の意味を込めたとも言われていますが、思想にシンクロした千利休のアンチターゼは贅沢を排除し、「立って半畳、寝て一畳」を善しとする茶の道。外界との関係を遮断する禅院式庭園と合いまって、四畳半の質素な茶室周りは「露地」とよばれます。
美しいとか目を引くという因子は排除した雑木(一つ一つの木の名前すら言われない)や地比類のみを配して作られた“庭園”です。
歩いて楽しいわけではないし、先ほどの禅院式の作られた所以ではないですが徹底して建物の中から外を見る庭であるのです。
そしてこの禅院式の庭園には「心字池」があります。心の二つの点を右下の「し」字の形の池の中に島として浮かべる池です。

しかし残念ながら史跡としての幻庵屋敷は整備できているとはお世辞にも言われません。こうした御庭の歴史を知ったうえで、武士の質実剛健な時代の庭をいつでも見に来られるようにしておきたいものです。

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(野崎広大氏(日経の祖)の茶碗、名を幻庵と称す)

久野幻庵顕彰会(2)

続いて田代先生の講演
まずは、万安山栖徳寺(現栖徳山京福寺)は母親のために立てた寺と言われていたが、最近の学説では奥さんのための寺と言う説が有力になっている。
幻庵おぼえ書きは姪ではなく実娘の嫁ぐ時に記したものであるという説が有力。
生まれも1493(明応2)年ではないのではないか?
など、とにかく立木先生まで研究対象になっていなかった御仁なので、まだ不明や検証のし直しをしなければならないことも多く、ここで私が皆さまに話せることは多くないとお話になられ、話の内容も幻庵屋敷の庭に特化したいと言われました。

ヨーロッパの庭は、フランスベルサイユ宮殿を代表するがごとく、自然との調和ではなく、自然を征服した整形型の庭造りを好みます。すべてを根こそぎ剥いで、そこにシンメトリーな仕切りを煉瓦や石で作りその中を飾るものですが、日本のそれは違います。
自然風景を取り入れる抽象(アブストラクト)の世界。人工美ではなく自然の中に作られた庭園美は、明治になってそうした考えもあることがわかるまで海外には受け入れられませんでした。当初この発想は欧米には理解は不可能でしたが、事実この後欧米の絵画もアブストラクトアートのヴームが起こります。

20170204-11

この抽象の庭園の基本的な考えはお花などの世界にも同様ですが、花自身・石自身ではなく、その花や石を結ぶ間の空間を楽しむ考えに立ちます。
そうした発想があるので庭園には立岩、寝かした岩などがバランス良く配置されています。
田代先生はこの発想は仏教の伝来よりも早い神道の時代から日本にあったと言います。
例えば三輪山には、山麓に鳥居がありその奥に山自身が信仰の対象としてあり、その山頂付近には岩が転がっていると言います。そこは神が降臨する場所で、そこを「クラ」と呼ばれるそうです。地名に倉や蔵がつくのは何かそうしたことに関わっているからであったり、天皇即位のときの高御座(たかみくら)のクラもそれが由来です。
日ユ同祖論と言う考えには賛同できませんが、もうこの時代には洋の東西を行き来するスキルがあって、モーセが神に出会ったのが岩山の上と言う考えがどこかで溶け込んでいるのかもしれません。

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地代が進み、池を掘り、その出た土で築山を作る庭造りが出てきます。
そして、池を中心に自分側が現世、向こう側が来世(神の世界)とする庭造りになります。それは宇治平等院などにみられる世界で、池の向こうの神殿に阿弥陀如来の顔を拝むことに喜びと希望を感じるのです。それを浄土式庭園と言います。

久野幻庵顕彰会(1)

久野北条幻庵顕彰会なる会が立ち上がり、その設立記念講演会に参加しました。
講師は、田代道彌先生。
久野区民会館の1Fホールには入りきれないほどの多くの方が詰めかけました。その数120余名。

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20170204-03

会を始めるに当たり高瀬恵会長が、小田原市役所前に「文化の町小田原」と書いた石の憲章がある。憲章とは市の憲法の如しで、そういう街づくりをしていかなければいけない。久野は北条五代に仕えた幻庵さんの住んだ場所、この場所を顕彰することは市の憲章の言葉をまさに実践すること。
そしてこの北条幻庵さんは故立木望隆氏の人生をかけた研究によって世に出た。氏が天に召されて20年こうした形が整ったことは感慨深いとあいさつされました。
何度かこのBlogでも記しましたが立木望隆先生には小学校の頃から可愛がってもらいました。そして先生の庵で何度も幻庵さんのお話を聞いたのを思い出し僕も感慨深く思いました。

20170204-01
(僕らの結婚式で主賓の挨拶をしてくださっている立木先生。もう30余年前のこと)

北条長綱幻庵

八王子城を見に行った時、ボランティアガイドの方に、小田原北条直系五代は有名なんだけれど、そこから外れると途端に知名度が落ちる、旨の話を聞き、納得してしまいました。
たとえば信長からお礼にもらったベネチアングラスがあったなんて話も僕もついこの前知ったばかりです。そんなレベルですら支城の話題は継がれていないでしょうし、小田原城自身も昨年のブラタモリのきっかけが無ければ総構えを歩く事もなかったかもしれません。

子を産むことは当時は、領土を拡大した時の支城の城主を作ることや政略結婚をして他国から攻められないようにすること。
古代や中世のヨーロッパのように滅ぼしつくさない日本の国の戦いは攻撃と和睦とを繰り返したので家族の絆は大切な要因だったのでしょう。それを打ち破ったのは信長。家族よりもカンパニー的な組織として雇用に力を注ぎました。
しかし北条氏は無骨に「お家」を中心とした体制を敷いていきます。どちらがいい悪いではなく、その考えに基づいて、しっかり方針に従ったからこそ、北条も五代という長期政権を担えたのでしょう。

その中心の人物と言えば、表題の長綱幻庵です。
しかし八王子のボランティアガイドの方の言われるように、早雲や氏政は知っていても幻庵は知らないという人が多いです。五代にわたり殿さまに仕えた早雲の末息子。
笛や茶の道にも精通し、千利休などとも交流がある文化人。同時に箱根神社の別当でもあり、また武の道も優れていた御仁。
一節によれば、幻庵が死した知らせが入ったから秀吉は小田原攻めを決意したとも言われています。

そこで

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という企画をご紹介いたします。それだけの郷土の名士を埋もれさせるのは忍びないと有志が立ち上がってのもの。私も是非に参加したいと思っています。

何より僕らの結婚式の主賓挨拶をしてくださったのは、この幻庵研究の第一人者でした立木望隆氏でした。先生もきっと喜ばれていると思います。
お気軽にお越しください。

真鶴伝説の夕べ

FaceBookを介して真鶴の村田町議より楽しそうなお誘いを受けたので行ってまいりました。
幾人かのプレゼンテーターの方が、自分の持ちネタを語るという形で会は進むのですが、やはりこうした『大字(地名)』単位の集会はみな共通理解の字名(集落名)と地の利関係が頭に入っているので、それを勉強不足で伺ったのは楽しみを半減させるもったいないものでした。反省(ー_ー)!!

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さて、トップバッターは、貴船神社の宮司の平井さん。
夏の夜にふさわしい怪談話をとお話し下さったのは、まんが日本昔ばなしでも放映された「おんぶ狐」のお話し

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語られた内容は全編の長いものですが、ここは公式Siteが紹介するあらすじでご紹介。
昔、真鶴(まなづる)の高丁場(たかちょうば)という所に、一匹の子ぎつねがいた。母ぎつねとはぐれたのか、一人ぽっちだったが元気に野原を走り回っていた。
時々寂しくなると、野原の一本道を通りかかる村人を騙して、嬉しそうにおんぶしてもらうのだった。しかし夜が明ける頃には、子供に化けた子ぎつねは大きな石や切り株にすり替わり、村人たちは三日三晩寝込むほど疲れ果ててしまうだのった。
そのイタズラに怒った村人たちは、子ぎつねを捕まえ、大勢で追い回して殺してしまった。それ以来、野原の一本道は静かになったが、村人たちは何か心に引っかかるものがあった。「殺してしまうほどのイタズラだっただろうか、子ぎつねは寂しかっただけじゃないのだろうか・・・」
村人たちは、せめてもの償いにと、子ぎつねがいた野原が見渡せる場所に稲荷神社を建てて子ぎつねを弔った。

村人たちの言うように子ぎつねはちょっとしたいたずらだった。
村人たちも困っているのでそれを解消したいだけだった。
お互い少し度が過ぎて、キツネの死を迎え、殺したことを悔やむようになった。
圧倒的な悪人のない中、最悪の結果を迎える事こそ本物の「怪談」ではないかと宮司さんは語ります。
『倭名類聚鈔』によれば、「鬼ハ物ニ隠レテ顕ハルルコトヲ欲セザル故ニ、俗ニ呼ビテ隠ト云フナリ」とあります。中国の鬼は日本人の思想と結びつき隠迩へ変化した言われています。迩(ちかく)に隠れているもの、それはすなわち自分の心の闇。邪悪な闇に取りつかれてしまった結果後悔をすることを犯してしまった話でもあるのかもしれません。後から思えばそこまですることなかったな、きっと魔がさしたんだよ。それは鬼(聖書で言えば悪魔)のなせる業・・・。
昔話は僕らに大切なことを教えてくれます。この話も弱者としての象徴である「女子ども」であります。(母狐とはぐれて)孤独がさびしいという心に訴えるものがあります。そして新美南吉氏のゴン狐の哀れな最期に通じるものを感じます。

続いてレイラインを中心としたお話を、稲葉さん、村田さんにして頂き、港の酒屋の草柳酒店のご主人は頼朝にちなんだ話をしてくれました。
レイラインと言う発想は後出しじゃんけんのように出来上がっている地図をこねくり回してこじつけたものだと思っていましたが、山が山である理由、つまりは崩れないで高さを保持している理由は、僕ら人間の意思ではないところにあるのではないか?と言う考え方を聞き、言われてみれば長い年月の中噴火をして消滅した山もあれば残る山もある、それは人智を超えたパワーがそうさせているというのはまさに理屈です。そしてそんな理屈に気がついた(山頂に日の出、日の入りを見て神秘的だと思った人が)その延長上に祠を作るのもまた理です。レイラインもなかなか面白いぞ。
そして草柳商店のご主人から「頼朝船出」の試飲をさせて頂き、頭の回転をより滑らかに致します(笑)

20160810-04

福浦の子の上神社の宮司の穂積さん。
そもそも神道の言わんとする八百万の神とは満天の星々と言う意味である、と言う僕にとっては衝撃的な話から始まり、大海原に量に出て行ったものはオリオン座を指標として海で漁をした。
それ故に、三ツ星は聖なるものだから、真鶴の三ッ石も聖別されている。同時にオリオンの3つ星を囲む四角に呼応するのは福浦の福浦カツラゴ海岸の枡形岩。
その上には竜宮伝説の岩もあったところで、僕らがよく耳にする浦島太郎のお話と少し違う太郎伝説を聞きました。
太郎の玉手箱には非常に高度な漁業方法が書いてあり、しかし太郎しか読めなかった。太郎も非常な長命であったがそれでもやがて死を迎え、それ以降はその文字を読める人が出るまで隠しておこうと地中に埋めその上に竜宮神社を立てた、というもの。
お話は各自大変面白かったです。
でも、神道は底津和田都美神・中津和田都美神・上津和田都美神の三位一体の神、とか、トーラ(英語のティーチ(教える)の語源)と虎の巻の関連、真鶴で出掛けに餅を食べる風習から真鶴の語源は「マナ降る」とかは少し強引で日ユ同祖論的な臭いを感じました。でも宮司が言われたように記録媒体としての紙が貴重な時代、口頭伝承で改ざんされたものや変化したもの消えてしまったものもたくさんあります。門前払いではなく1つの意見として受け入れることも大事なのでしょう。
そして、635年にシルクロードを伝わって中国まで景教(キリスト教)が伝わって来ているので、日本へも教えは伝来されているはずです。そしてもしかしたら、モーセの時代(紀元前1300年ころ)にも口頭伝承として陸路か海路をたどってマナの話が伝わって来たのかもしれません。
ロマンを感じることが出来ればこの夏の夜のイヴェントは大成功だったのではないでしょうか?

福浦の宮司さんは1500年ほど続く神社の現職。その祖先は龍の助けを借り大仕事をしたのだとか。そんなお話の最中バケツをひっくり返したような大雨に。
宮司さん、今日竜神を連れてきてなんてお願いしていないですよ(笑)
カサモッテイナイ・・・。
そんな訳で100m先のセブンイレブンまで重い体を揺らせて猛ダッシュ!!でも若くはない、100mでびっしょりに!!
で、財布を開けたら1642円しかなかった(爆) ビニールじゃない傘の値段は税込み1652円、十円足りない、とあきらめながら独り言のように「あとはカードしかないや」と照れ笑い。
するとバイト君、カードも使えますよ、って。
今のCVSクレジットカードも使えるんですね。
気持ちいい対応に土砂降りの真鶴を気持ちよく後にできました。
楽しい夏の夜の夢を過ごせました。ありがとうございました。

ブラサイジョーものがたり(episodeおまけ)

拙いBlogをお読みくださりありがとうございました。
小田原市が「市」になったのが1940年、私が見つけられた小田原市の人口推移は下記の表で、それは市になった後、周辺の下府中(鴨宮・中里エリア)や櫻井(栢山)を含めたのちの1950年以降のもの。
1950年当時は8万程度の人口が1005年に20万に一瞬なったのですが、また現在は19余万人と20万を割っています。

ではクイズです。
小田原の過去最高人口は何人だったでしょう?





集計をするときに考慮することは、こうした人口変移は1年単位ですが、四半月と仮定すれば、たぶんこの小田原攻めの1590年の5~7月ではないでしょうか?
近年20万に行くか行かないかの人口。小田原攻めの前の1585年の小田原は2万程度しかいなかったと言われています。(当時の2万は大都市です。トップの京や堺でも15万程度。現在日本でトップの東京が1400万人ほどですから、それから考えると200万人都市だったわけです)
そんな2万しかいない小田原に20万もの敵軍が攻めかけ、北條も関東一円から10余万人を集めたわけです。人口の15倍の兵士の数…。
今でいえば300万人の武士がいる恐ろしさ、農耕商人は生きた心地はしなかったでしょうね。

ブラサイジョーを歩く時、どうしても視線は武士同士の合戦になりがちですが、北条氏の求めた武士以外の人たちの平安はどうすべきかも推測しながら歩けると楽しいでしょうね。

20160504-01

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