If ・・・

前々から見たかった「小田原北條氏の[絆]-小田原城とその支城-」展を11日の午後見てきました。
小田原城は熊本地震直後のGWに行ったきり。あの時は入場料をそのまま熊本に寄付し、ささやかながら我が家の小銭が熊本の復興のために使われ、改めて小田原市経済部並びに天守閣館長の大英断にエールを送ります。
そんな訳で今日は地元にお金を落とします(笑)

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この100余ページのカラー展示品目録(紹介)で1500円はお安いです。(これは利益なしですね)

一番の楽しみは、以前八王子城に伺った時に話を聞いた、織田信長からもらったとされているベネチアグラスの壺(瓶)。
当然八王子城は落城に際して、敵に宝物を渡さないように破壊した後お館に火を放ったので、よくこれでこういう形の壺(瓶)と判断したな程度の破片しか残っていないようですが、レースガラスの美しさではなくグレーの濃淡の模様で色を付けた壺(瓶)です。
透き通った美しさが見せ場のはずのベネチアンレースガラスがなぜこうしたものなのか? 何かの機会にお話を伺えれば、と思います。
実物を見ると景徳鎮系の焼き物の豊富さに目が行きます。

歴史にIfは禁句と言いますが、もし信長が明智光秀に討たれなかったら、上杉はその後に滅ぼされたと思います。でも併せて信長も兵力をかなり落としたでしょう。
それでも秀吉は信長に離反はしなかったでしょうし、そうであれば、信長に丁重に使者や貢物を出していた北条は滅ぼされなかったかもしれません。
あと5年信長の死が遅かったらどうだったかな?と言うのは興味深い空想へと誘います。

菊花展が開催していたから、が理由ではないでしょうけれど、小田原城はあいも変わらずに混んでいましたが、それでも多くの観光客にぬかされつつゆっくり2時間以上かけて館内を見てきました。
ブラタモリをきっかけに、虎口を歩き少しは地の利が分かってきて、文久図を見ては現在の町と照らし合わせて連れとたわいもない話をしてきました。
次回行ったら文久図の複製1000円なので買ってこよう\(^o^)/

出口では、かまぼこの一覧。

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かまぼこなんてみんな一緒でしょ? と思われる方、ぜひかまぼこ横丁を試食しながら歩いてみてください。「こんなに違うんだ!」と新鮮な驚きがあると思います。
というか「利きカマ」できるお土産タウンあるといいなぁ~

暮れまでもう少し開催しています。ぜひご覧ください。

広島の旅(2)

「御馳走」と言う言葉は広島の言葉。朝鮮通信使をおもてなしするように、下関の海峡から大阪に着くまでの瀬戸内の各大名に秀吉は命じ、その順位を競わせたわけです。まさに馳せ走り満足できる食材と調理人を探し、呉の蒲刈がその一番の地位を得たと記載があります。
広島はグルメの地でもあります。
そんな広島最初の食事は、トヨタレンタカーを探す中、すわって地図を見ようと入った「なか卯 JR福山駅店」チェーンのファストフーズ店でしたがなになに御馳走は食材だけではなくおもてなしの心。ウェイトレスのおばちゃん、気さくに話しかけてくれ心穏やかに朝食を食べることができました。ありがとう。

トヨレンはそこから1つのブロックの対辺、信号を左折し、次の信号を左折したところ。無事ヴィッツを借りて井原に向かいます。
道路標識には神辺の文字。実は明日は台風でRFLが中止になったので、広島南部教会の礼拝に集おうと思っているのです。ここの牧師が昨3月まで赴任していたのが神辺教会。せっかくだからと教会の前を通ります。

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県道200号から国道486号へ。ほどなく井原鉄道井原線の早雲の里荏原駅へ。北口には早雲の里交流センターがあります。情報を得るためにまずはここに行ってみます。
雨が降ってきました。走って建物に入ると数名の高齢者が建物内を掃除中。 早雲の関係の名所を見に来たと言えば非常に戸惑った様子で、それでもリーダーらしき方が城跡と法泉寺の行き方を丁寧に教えてくれました。残念ながら資料等は置いてないようです。

まずは高越城跡に行ってみましょう。肥料で有名なCB化成の工場の間を抜けると農村地帯。道路の両側は暗渠にしていない水路があります。そして道幅は車の幅程度、アップダウンのあるスラローム(笑)

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アップグレードしてもらいわずか数十センチの車幅が増えたことを後悔。GoogleMapで検索すると東江原町5618 となっているあたりからは斜度が急になり民家はなくなります。
人の住む里と神の住む山(いわゆる神隠しの起こる場所)との間には里山がある。住むのは難しいが作物が取れる樹林であり耕せたところは畑だ。うっそうと茂った木々や竹藪は空を狭くし、初めて走る僕らを心細くする・・・。
エンジンがうなり坂を上りきったところ・・・急に空が広くなって、大きな農家が数件現れた。隠れ里?
ここで道を右に切り急激に下ったところが高越城です。

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上地図右隅の駐車場に車を止め、舗装をされた道を歩きます。

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真ん中のくびれたあたりの門をくぐり(これは立派だ)、なだらかな坂を上がったところが四の郭。

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大型化していく城の歴史の前半の時代。他の城と比べると狭く感じるけれど、この時代では五つの郭を持つ立派な城だったのでしょうね。

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城めぐりの楽しさはやはり城址つまりは高台からの風景。藁葺の平屋の百姓の家並みが点在し、それを取り囲むように黄金色の田んぼが実る風景を見るのは城主としての至極の喜びだったのでしょうね。

城址を後に新九郎観音と言うスポットを目指します。

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掛かっていた解説を読むと伊勢新九郎(北條早雲)が帰郷した時に奉納した観音と言われ崇められていたようですが、製造は江戸期とのこと。
でも

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春になると桜の下で祭りをする…、そうした人の心の支えとなっているのならいいんじゃない? って気がします。

法泉寺 に向かいます。

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大きく素晴らしく、そして手が行き届いているお寺でした。
このような天気、どなたもいらっしゃらなく、当然ご住職にもお会いできなかったので(お呼びするのも何なので)拝見させてもらって帰ってきました。
荏原の荘は、早雲の生誕地として盛り上げたいという希望はあるのでしょうけれど、まだまだ観光資源としては使いこなせていないようでした。

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隣町はきのこ町。可愛らしい名前に思わずパチリ。

さて次の目的地へ。早雲の生誕地荏原から西南西へ約10km。稲倉と言う郷へ向かいます。

北条5代が秀吉によって滅ぼされましたが、3代氏康の5男氏規はその後赦され、河内狭山城主となります。徳の篤かった北條一族、残党はお家が持てたことで集まりますが、石高が小さく希望を持った家臣を抱えることが出来ずに、集まった家臣の中には早雲の生まれ故郷に移転するものが現れたようです。
その中の一人に、前小田原市立病院名誉医院長の北条龍彦氏の先祖もいたようです。龍彦氏は、立木望隆先生らと一緒に江戸後期以降の北條家の家計を調べ、この地が故郷であることを確信したと記しています。

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井原に生まれ関東にきて一旗揚げ、そして関東を追われて井原に戻り、そんな井原からまた小田原に戻ってきたという話は、大きな人知を超えた力によって導かれているようでなりません。

広島の旅(1)

RFL広島が、9月16-18日の後半2日で開催されるという話を聞いた時に2泊3日の旅の概要が決まった。

歴史を振り返れば、この中国地方の先祖は神奈川県民なんです。愛甲郡毛利荘を得た大江氏が里の名前を付けたのが毛利の祖です。
小早川氏は湯河原の土肥家の家臣で早川の荘を支配していた一族で、ともに源平合戦の中西走し中国地方に根づいた一族です。
時は流れ、伊勢新九郎は井原の里から京を経て当時一番の軍力のある今川へのもとに行き、その後関八州を治めます。
江戸の町は、小田原の町のコピーです。唯一違うのは、小田原の街づくり以外に陰陽道の考えを咥えた点でしょう。歴史を振り返れば関東は中国地方の人によってつくられました。
だから関東人は遠い歴史をたどって井原を懐かしく思い、広島県民は関東に郷愁の念を抱くのかもしれません。

そんな早雲の里から今回の旅を始めよう。そしてそんな長い道のりも乗ったことのない乗り物で行ってみたい。
という事で、今密かに話題沸騰のドリームスリーパー2を選択。大型バスにたった11人しか乗れないという走るホテル。3連休の前夜予約は取れるかと9時になると同時に予約サイト発車オーライにつなぎます。
あっけなくGet。しかも1A、1Bの席と言うのはいの一番に予約を完了したという事??
さすがにそこまでは人気はないのか? というのも、通常東京―福山の夜行バスは7500円程度なのがこのドリームスリーパー2は22500円と約3倍。新幹線よりもはるかに高いのです。
でも一度は乗ってみたい\(^o^)/

台風が分かっていたので一眼レフは持っていかず、PowerShotG16一台のみ。広角も撮れないのでいささか満足いく情報が提供できるかは不安ですが…。

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11席と言うだけあって全室個室です。廊下からはすりガラスで中にいるかは確認できるかもしれませんが、席に座ってしまえばまったく見えないです。あっ、車内は土禁(土足禁止)で、ステップ2段目で靴を脱ぐとスタッフがビニール袋に靴を入れてくれます。どうも至れり尽くせりのおもてなしはくすっぐったく苦手です(笑)
また座席につくとヘッドフォーン等の備品を持って部屋を廻り部屋内の説明をしてくれます。
約1/3程度がスライドドアとして空きます。

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窓側には15cmほどのスペースに、足側からアメニティグッズケース、ドリンクホルダー、シートアレンジャー、イオン発生器がついています。
アメニティーグッズはポーチに入ったものと書かれていますが、既に経費削減なのかビニール袋に入っているだけで少しチープ。残念
そしてWifiも繋がりますが画面が動きませんでした。これも残念

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ゼログラビティ姿勢と言うのだそうです。お尻が沈みながらも、また背もたれもあまり倒れている気にはならないものの、この足が高く上がる姿勢はなかなか寝心地がいいです。
今回は1回目。ドキドキワクワクで寝ているどころではなく楽しんじゃいましたが、2度目があれば熟睡できるでしょう。でもこのBlogを読まれて乗ろうという方、1番前はタイヤの上です、やはりどうしても振動は激しいので、寝る事前提に乗られる方は車の真ん中あたりがいいかもしれません。

そして車中で見たFacebook なんとRFL広島は台風18号の接近により中止が決定したとのことオーマイガッ―
なんで体育館で行われるイヴェントが中止になっちゃうんだ!!

それでもバスは走ります。小雨降る福山に提示に到着。
実は昨日、この日借りる予定のトヨタレンタカーからTel 「台風が近づいているからどうされます?」と言う話かな?と思ったら、借りようとした車が前借用者が事故を起こしたのでグレードアップしていいですか?というもの。
ラッキー!価格据え置きでのグレードアップ。でも、世の中塞翁が馬と言うことわざがあります。このあとその言葉を身に染みるようになるとは思いませんでした。

第2回石造物調査会(小田原の石仏を調べる会)

郷土文化館からのお知らせチラシを教えてもらいエントリーしたものの、第1回は大阪釜ヶ崎に行っている最中だったもので参加できず。連れ合いの楽しかったの言葉に羨望の中この日を待って参加。
ラッキーなことに前日の雨は止み、なおかつそのせいで気温も低め。屋外のフィールドワークにはもってこいの陽気。
この日は、

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城山の本誓寺さんと鳳巣院さん。
本誓寺は當知山重願院と言う山号。1505(4)年に開山創建と言います。ご住職の話では今川家の藤枝某が開祖だとか。
その言葉を証するがごとく、土中から

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こんな石が出てきたとか。文亀元年?なのだろうか? だとしたら1501年のことになる。新しい意志に見えるのは土中に埋まっていて掘り起こした時に洗ったからなのか? はたまた後世の人がこの寺の縁起を記すために書いた新しいものなのか?
このころの日本はと言えば、東山文化の終焉、11代足利義澄の時代。ここから応仁の乱・乱世の時代へ突き進むころ。
この小田原で言えば伊勢新九郎(北條早雲)が小田原に入ったのが1495年なのでほぼそのころになる。
もとは今川家の客分家臣だったので、小田原の街づくりに名家今川の名前を欲して作らせたものなのかもしれない。

寺内を石造物を探しながら歩けば五輪塔。

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昔何かの本で読んだのは火輪の先が沿っていないものは鎌倉記前と書かれていたようなのでこれは古いものだと興味津々。
しかも空輪部分は風化している。
サイズを測り、裏に回り文字の解析。水輪部分に名前が彫られている。闡譽上人の名前。存ぜぬ名前と家に帰ってクグル。
と、増上寺の67代管主に渡辺教善(闡譽教音)の名前。どうも幕末頃の方のよう。思ったほど古くない五輪塔でした。

1時間ほどお寺を探索させて頂きお礼を言って道路向かいの鳳巣院さんへ。

山号を實平山と言い14世紀頃に久野総世寺五世天祐宗根が開山したと言われています。
小田原七福神の福禄寿がいますが、手には桃を持っているとのこと。ご住職がその由来をお教えくださり、なお秘仏までお見せ下さいました。

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お庭自身には大きな阿弥陀如来像1体と無縁仏の墓のみでした。
2時間ほどの探索で10余の石造物を調査できました。

ブラサイジョーものがたり(2)

今年もやってきました、ブラサイジョーの季節です。

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いつもの妄想秘話からスタートです。青字の妄想秘話は創作の域を出ておりません。ご了承ください。

「力を見せつけるには少し残虐ぐらいがいい事は信長公の戦いから儂が学んだ事じゃ。」
そういいながら口をいびつに曲げて笑う秀吉の顔を見ながら、力が拮抗してきたとはいえまだまだ時の流れは秀吉公にある、そう思いながら片や娘婿や何度か力を合わせて共通の敵と戦った戦友氏政公の命乞いをしながら家康は頭の中でそろばんをはじく。
あまりやりすぎても反感を買う、それはもう敵なしとなった秀吉との戦いにとって不利な状況を招くだけ。

「氏直は督姫殿の婿じゃったのぉ」、秀吉はあえて周知の縁を口にする。

「はっ、この家康も50を目の前にして子の話になるといささか弱ぉうございますな。殿下の広いお気持ちでなにとぞ…」

「わはは、わかっておるわい、今回の小田原攻めも第一の殊勲物は儂は家康殿だとおもっちょー。その家康殿の目の中に入れても居たくない督姫殿の婿殿ならのぉ」

助かった。これで名門北条家も関東で細々とでも生き延びられる。お目付け役に儂を指名されるだろうが、儂も今川の領土を頂いて、東海道で北条と太平な町づくりをしていこうぞ…。

「しかし、家康殿よ、今回の小田原攻めで、儂は北条の怖さをたんと知った。なにしろ悪く言う民百姓がいない。これは忌むべきことじゃ。」
「そこで、今回の騒動の責任を氏政公に取ってもらうことにした。」

「な、な、何とおっしゃられますか。既に家督を譲り渡し隠居生活をしている氏政公に責任をとらすと…」

「もとはと言えばきゃつが儂の上洛の命を背き出てこなかったからのぉ」
「それにこれだけ慕われた大名に土地を与えておくとまた反乱をしでかすかもしれんのでなぁ、伊豆、相模、武蔵三国の件もご破算だすべて没収することとする。」

今日の謁見の始まりの信長公の逸話と不敵な笑みの意味がだんだん分かってきて家康は思わず武者震いをする。「して、氏直公は…」絞り出すように問うと
「高野山にでも行ってもらおう」と事もなさげにそう告げた。

「誰かおぬか?」秀吉の声が響く。
「はっ」
廊下から返事が聞こえると間髪入れずに秀吉は言う。
「氏政、そうじゃな氏照もじゃ、に切腹を命じよ。介錯は氏規にさせぃ。それを見届けたら氏政は高野山に向かわせよ」

兄弟家族親族の団結が固い北条軍団。弟に兄の介錯をさせ、それを見届けたら子を追放する。非道な決定で北条5代100年は秀吉の一存であっけなく終焉を迎えたのである。

心配顔の民百姓が箱根口門の南に集まる。待医田村安斎の屋敷の周辺は竹を編み通行ができなくなっている。そしてその周りを秀吉が多の侍が囲んでいる。
あちこちから嗚咽が聞こえる。とのさまぁ~と言う声が途切れなく聞こえる。
その中、氏政、氏照兄弟は腹を裂き、弟氏規は涙をこらえ見事介錯をし、すぐさま自らも腹を切ろうとして取り押さえられた。

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切腹の場と言われている医師安斉の屋敷があったと言われる安斉小路の石碑。

亡骸と生害石は氏寺伝心庵に運ばれました。なお、伝心庵はその後城山に移り、そして中町に移ったので、墓地のみがビルに囲まれ残っています。

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僕らはそうした北条末期の遺跡をみたり、江戸時代になってからの小田原城の変革や扱われ方をサイジョーさんからお聞きしました。
元はと言えば、東海道が小田原を通る唯一の幹線道であったため、三の丸周辺からの登城口であったけれど、江戸に中心が移ったため江戸に向いている現在の市民会館そばが大手門に変わったこと、その門は箱根口門を移設したこと。

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藤棚(南町)にかかる小峯橋はお茶壺橋とも言われ、徳川将軍御用達の氏のお茶壺を京に持って行く時に泊まってお茶壺を保管した場所であるが、帰路(京都から江戸)に行く時は湿気を嫌うので東海道ではなく中山道を通ったのでここでは「お茶」は保管されたことがなかったこと。

曲輪、隅櫓、増形と狭間などの一般的な名称、銅門、常盤木門のような小田原城独自の名称や由来。

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雨降る中の探索でしたが、楽しい時間を過ごせました。

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また機会を見つけて小田原探索をしたいものです。


一緒に石造物を調査しませんか?

友人から小田原市の石造物調査ボランティアのための説明会があるというので行ってまいりました。

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石仏や五輪塔や記念碑、歌碑などすべて含めて石造物です。
隣接の平塚市で3000以上の石造物があるというので、小田原市だと5000程度はあるのではないでしょうか?
そうしたものを歩きながら「発見」し、大きさや物によっては書かれた文字を記録していくというものです。

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木造物などに比べて保存率が高いですし、それによって以下のことが分かると言います。

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探し当て調査するのですから1日で10~20程度しか調査できなければ、5000あれば333回かかります。月に1回の調査だと30年かかる調査です。
元に平塚も20年ほどかかったと言います。
ですからあまり重たく考えずに、自分ができる時に参加する、気軽さは長続きのための重要なポイントかと思います。
もしかしたら僕らの年齢では最後まで参加できないでしょう。
でも少しだけでもやってみたいという気持ちがありましたら 0465-23-1377(郷土文化館)に問い合わせください。
ボランティア保険に入る都合上無連絡の参加はご遠慮くださいとのことです。

楽しく小田原の歴史一緒に探索しませんか?

御頭祭(2)

諏訪大社の歴史は定かではないが、日本の神社歴史の中でも古い由緒がある。
関する記述は古事記にある国譲りの話。伊勢神社系の勢力が出雲系の勢力を制圧する話。大国主命とその子の事代主神(ことしろぬし)は遠く大陸から来る船の灯台になるような大社の建築を条件に伊勢勢力の配下に入るが、弟の建御名方神(たけみなかた)は不満で戦うことを提案する。が、伊勢勢力の前に敗北し逃走。その行き先が「科の地(今はあえて諏訪と呼ばない」であるという記載。
もう一つは諏訪大明神絵詞と言う書物。諏訪の地へとやってきた諏訪大明神は、そこで土着の神たちと対峙する。
土着の洩矢神は鉄輪を持ち、諏訪大明神は藤枝を持って戦った。結果は、藤枝を用いた諏訪大明神の勝利であった。敗れた洩矢神は滅ぼされず、祭祀を司る神長官となる。
また、高照姫という神は諏訪大明神に最後まで抵抗したが、民を守るために退き、先宮神社に幽閉されることを選んだ。こうして諏訪の地は、諏訪大明神が治めることとなった。
と言う話。

2つが絡んでるのは、建御名方神と言う神の名。つまりは出雲を追われた一族が東遷し科地方の豪族を滅ぼして土着したと言う事なのだろう。
2つの違った文章を合わせてしまえば伊勢勢力と出雲勢力の戦にも読めるが、もしかしたら出雲勢力の内乱分裂で力が弱ったところを伊勢勢力に制圧されたのかもしれない。
当初の記載にあえて諏訪と呼ばずに科の地と呼んだのは、諏訪は出雲から来た建御名方神が名乗ったからこの神社も諏訪大明神と呼ばれるようになったようで、その前はミシャグチ神、蛇神ソソウ神、狩猟の神チカト神、石木の神モレヤ神などを祀っていたようだ。
特にモレヤ神は、前トピの御頭祭の祭祀を司る直属家系の神で諏訪大社の上社前宮であるし、高照姫は先宮神社の神となっているから、服従の上で豪族として生き延びた、若しくは祟り神として恐れられて神社に祀られたか、と言ったところなのだろう。
そして見落としてはいけないのが、藤で戦う出雲軍に対して鉄輪を持ったという記載。既に鈩(たたら)の技術を習得していたのだろう。ヤマタノオロチの神話も殺した大蛇の尾から剣が出てきたのは、戦いで破った相手から鈩を奪ったという意味だとも言われている。いずれにしろ、伊勢系や出雲系に負けじ劣らじの高度な文明を持っていた証拠だと思われる。
しかし前トピの学芸員氏、この地は「田舎だ」と言う。それは、守谷氏が頑なに弥生の文明を否定し、縄文からの文化を傾倒した結果だとも・・・。

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(いたるところで御柱のように4本の柱で取り囲んでいるのを見る。「結界」と言う言葉が頭に浮かぶ)

つまりここで勢力が変わり、御頭祭や御柱祭を行った部族で無い者たちの祭りの中で、土着の古い祭りが融合と存続のはざまで頑張っているのが諏訪の奇祭と呼ばれる祭りの数々だと思われる。
あわせて御『頭祭は大祝(おおほうり)の代理である「神使(おこう)」が近隣の郷を巡回して五穀豊穣を祈願するために、大社から出立する時の儀式』と言われもいるらしい。大祝は出雲系の神であることからいえば、土着神ではない神が新たな五穀豊穣、つまりは農業文明を手に入れた姿なのかもしれないが、そうだとすれば神使(おこう)を縛り上げる理由がなくなる。つまりは融合の故にわからない神事に変化して行ったのだろう。
こうなるとあの創世記のイサクの物語を髣髴させる祭りが何を意味しどうやって始まったかは謎のままだが、歴史ミステリーはミステリーのままで、その祭りを大事にする文化を尊ぶだけでいいのかもしれない。

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(神事は前宮の十間廊で行われる。この十間廊の大きさがユダヤの幕屋と同じ大きさと言う人もいるようだ。)

しかし・・・、聖書に戻るが、神はなぜイサクを神にささげる場所として住まいから3日もかかるほどの場所にあるモリヤ山を選んだのだろう?

さて、続いて旅の内容を語ろう。

御頭祭(1)

諏訪大社の御頭祭を突貫で見に行ってきた。
この祭りは、今は諸般の事情で江戸時代までの祭りの体は失われているが、江戸時代の菅江真澄と言う、今でいえば『街道をゆく』を記した司馬遼太郎氏のような存在の方が書いた文章があるので、それをご紹介すると…。

御神(おこう)といって八歳ぐらいの子供が、紅の着物を着て、この御柱にその手を添えさせられ、柱ごと人々が力を合わせて、かの竹の筵の上に押し上げて置いた。
そこへ上下を着た男が、藤刀というものを、小さな錦の袋から取りだし、抜き放って長殿(祭祀のリーダー)に渡す。長殿がこの刀を受け取り、山吹色の衣を着た神官に渡す。その藤刀を柱の上に置く。
例の神の子供を、桑の木の皮をより合わせた縄で縛り上げる。
諏訪の国の司からの使者の乗った馬が登場する。その馬の頭をめがけて、人々は物を投げかける。しかし、この馬はとても早く走る。
その後ろから、例の御贄柱を肩にかついだ神官が、「御宝だ、御宝だ」と言いながら、長い鈴のようなものを五個、錦の袋に入れて木の枝にかけ、そろりそろりと走り出し、神の前庭を大きく七回まわって姿を消す。そして長殿の前庭で先に桑の木の皮で縛られていた子供が、解き放たれ、祭りは終わった」。


クリスチャンの兄弟姉妹なら何か「ウン?」という話。その「ウン?」の旧約聖書創世記22章の前半を要約すると、
神様がアブラハムにその一人息子であるイサクを捧げるように命じられたます。アブラハムはイサクを連れてモリヤ山に向かい、そこでイサクを縛り、薪の上に横たえ、刀を取り出してイサクを捧げようとすると、「その子を殺してはならない」という声が聞こえました。ふと見ると、枝に角をひっかけた羊がいたので、その羊をイサクの代わりに神様に捧げました。

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(御頭祭は、江戸時代まではこの柱に子どもを縛り付けて馬で運んでいたが、今はこの柱を人が担いでいます)

他人の空似かもしれないが、子どもを縛り、刀を取り出した時に神が子どもを助ける。そしてその子どもの代わりに生贄が用意される、という共通点はなかなか興味深いもの。
しかも子どもの代わりの生贄は75頭のジビエ。「魏志倭人伝」の記載では、倭国に羊はいないと書かれてるのでその情報を信じれば生贄に鹿が選ばれたことはうなずける。しかもその中の一頭は耳裂け鹿を選べ、との言い伝え。神長官守矢史料館の学芸員さんによれば、それは「茂みに角を絡ませた」それによる傷を現しているという説もある、と語られる。

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(耳を切ったのではなくこうした鹿がいるらしい)

そして何よりも、日本の神道系には多いが、ご神体がなく、この諏訪大社も守屋山自身をご神山として崇めていることも旧約のモリヤ山に通じて面白い。まぁ、似ているかどうかと言えばこじつけに近いものがあるかもしれないが・・・。

過去に玉川温泉に行きながら三戸郡の新郷村にあるキリストの墓と言う観光地に行ったことがある。竹内巨麿氏が戸来と言うヘブライを髣髴させる地名言ったり、ナニャドヤラという由来が定かでない民謡を昭和初期にアメリカでご活躍なさった川守田英二牧師は神をたたえる歌として紹介したりしたのでそれなりの観光客の来る場所となっていた。
この戸来郷は12世紀には地名として正規に残っているで、景教として中国に入ってきたキリスト教と土着の宗教や文化が結びついた結果とは思われるが、それにしても中央ユーラシア大陸を越えて文化や思想が訪れてきたことは何とも壮大な物語だ。

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(この守屋家78代が崇めているのはこのミシャグチ神。これもイサクがなまったという人もいる)

きっとこの諏訪大社も同様に文化交流があった結果だと思われるが、それにしてもこの諏訪大社どんな歴史があるのだろう?
生半可な知識で恐縮だが、「妄想歴史」を語りたい。

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久野幻庵顕彰会(Ω)

元標の話が出ました。
今でいう三角点のように、どこかの一点を定点として定め、そこから方角と距離を測ることで様々な場所を特定すること、と言う田代先生の説明がありました。
どんな理由でどこにこの元標があったのか?と言う質問に、よくわからないが、と言う前置きをした後、村長等の自宅などではないか?それも今後皆さんで解明してみてください、とのことでした。

今日の話の中で元標に関わったのが2点。幻庵屋敷が寅十五度。いぼ石が申三度。
いぼ石はどうも2009年に開通した「奥和留沢みはらしコース・明星登山道」の途中にある大きな石のようです。

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これなら大体の場所が分かります。それをGoogleMapの上にポイントとして載せます。
寅は3時の方角、申は9時の方角、つまりは直線状。

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なるほどほぼ直線だ!! つまりは原案屋敷から真西のどこかだったのですね。

そういえば小田原攻めに際して先鋒の徳川軍の別動隊はこのみはらしコースをほぼ下って総世寺に入ったと言われています。この登山道も歴史文化資産として活用したいですね。

そんな質問をしてしまったので、ほかの聞きたいことを聞くのが憚れました。
当時の禅院式の庭園では、母屋と庭の配置はどういう関係だったのか? つまり今確定しているのは心字池のみ、そこから母屋の位置を推測する方法はないのか? という事と、稲葉時代に大きなリフォームはされなかったのか? という点です。
田代先生のご専門が造園なので、こちらを質問すればよかったですね。ちょっと失敗(笑)

当日ご参加されたhinahinaさまのBlogです。

久野幻庵顕彰会(4)

日本各地の詳細を記した最初の書物は風土記ですが、世の権力者は自分の支配範囲を完全把握して実行権力を見せたいのか、明治になっても皇国地誌・久野村誌が発行されます。多くの村町は県職員が記載するのですが、久野村は濱野ヨヘイ氏のものが使用されています。それによれば幻庵屋敷は、元標(げんぴょう)から寅十五度の字盛上(もりがみ)に三千有余歩、のちにその中に水田が作られ、中央に北条神社(幻庵の墓)を稲葉休山が作ったと書かれており、また寅十六度に34歩清水がわいているとも書かれているそうです。

まだまだ知らないことがいっぱい。こうした活動が充実してくれることの望みます。

また日本小田原記というのがあるそうです。
そこには幻庵の事もたくさん書かれています。何より有名なのは一節切(ひとよぎり)と呼ばれる尺八。
実は、小田原北条が開城する時、秀吉側の使者は黒田官兵衛。開城条件は、民を助けることなどかなりの項目があり、氏政はかなり感謝し、お礼として北条家に伝わるお宝を官兵衛に与えたと言われています。その中で幻庵の一節切もあったと推測され、それが息子が治めていた大分に渡ったようで、市議の大村学氏が買戻し小田原城に展示し同時にレプリカを作りそれを披露されました。

20170204-41

同書には小田原の景勝地も記載があり、「いぼ岩」や「ツボマ」の記載があるとのこと。幻庵だけではなく久野の文化遺産の伝承にも関心を持ちたいです。
まずは、もう少し地域のことを学びたいですね。
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