北条幻庵顕彰会行事 -お誘い- 

20180111-01

のご案内を頂きました。(クリックすると拡大します)
どうぞお越しください。
私はすでに幼稚園の定期理事会の予定が入ってしまっているので残念ながら欠席です(>_<)

曽我の梅林

会社のBlogに記載するために、少し曽我梅林の経緯を調べたところ、「妄想歴史秘話」的には面白そうな話でした。神奈川の梅干しについて 思いっきり妄想の羽をはばたかせて書いてみたいと思います。

落語の演目の一つに幽霊飴と言うのがあります。好きな演目であるのと同時に、この落語は京の町に原型があったようで実際幽霊飴は昔からの名物になっています。

高台寺に預けられた稚児こそ、のちの高僧通幻寂霊(1322-1391)だという伝承があります。幽霊から生まれたから口が臭く悩み、師に相談したところ梅干しを毎朝食べよ、と言うアドバイスをもらい、それを実行したところ口臭が治った、と伝えられています。
梅干しを植えることを良しとした僧故にこういう話が尾びれとして着いたのかもしれません。まさにニワトリが先か卵が先か、と言う話ですが・・・。
ですので福井にある通幻寂霊師ゆかりの寺は梅干し作りは僧侶の大事なお勤めの一つだとつづけられているそうです。

さて、通幻寂霊十哲に了庵慧明(1337-1411)と言う高僧がいます。
能登妙高庵寺など通幻禅師の後席すべてに住持し、大本山總持寺に輪往。50才半ばで相模国に帰り、曽我の里に「竺土庵」を結びます。
ある日、一羽の大鷲が禅師の袈裟を掴んで足柄の山中に飛び、大松の枝に掛けるという奇端を現じました。應永元年(1394)、奇端の啓示を受けた足柄の山中に大寺を建て、大雄山と号しました。
そう、道了尊最乗寺の開祖です。

故に師の梅干しに対する思いは受け継いでいたのかも知れません。

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元に、慶安元年(1648年)の「最乗寺由来書」が南足柄市別編に載っていると石井啓文氏は言い、その一説に
願毎朝喰梅干飲茶七服給者必可除之
とあるそうです。毎朝梅干を食べるためには、今のように店で簡単に買える時代ではないので、自らの庭で梅の木を植え、実を採り塩漬けにしたことでしょう。
山深い最乗寺では梅の木を植えるに適さず、そうなると自身が直前まで庵を結んでいた開けて温かい曽我の地の民に梅を植えることを勧めたのではないでしょうか?

同じく石井啓文氏のご本から借用すると、曽我の梅林は杉田梅を明治時代に横浜市杉田から持ってきたのが最初だと乗松祥子氏が著書「宿福のうめばなし」で語っているそうです。
それは千葉茂原に行った小田原の僧侶が帰路しけに遭い、杉田に流れ着き、お礼にと置いた梅の木が杉田梅で、それを曽我の人が明治期に持ち帰り曽我の梅園にしたのが始まり、と言う話なのです。

何のために、小田原の僧侶は梅の木を持っていたのでしょう? 「たかが」梅の木をなぜ横浜杉田の人は大切に育て、杉田梅と呼ばれるほどの梅園に育て上げたのでしょう?
乗松氏のお話をそのまま信じれば、この2点は解決しないといけない点でしょう。
ウィキペディアによると杉田梅林は、安土桃山時代に、領主によって住民に梅の木の植樹を奨励したのが始まり、とあります。ならば、この小田原の僧侶は安土桃山期(1573-1603)の人物でしょう。

この大梅を、何かのきっかけ・・・そう茂原への宣教や産業指導のために小田原の僧侶は持っていったのではないでしょうか?
実付きがよく滋養強壮もある。そもそも曹洞宗の一門では福井の大本山総持寺や龍泉寺などでも「流行って」いる植物、と欲しがったのかも知れません。
それを持っていきながら、何かの都合で全部を渡し損ねて、お持ち帰りがあった。それを横浜杉田で世話になった人にあげ、杉田で広がりを見せた。
逆に小田原では江戸期に入り曽我は梅畑では無くなった。そんな時にひょんなことから杉田から梅の苗を購入し、曽我に植えようという人が現れたのなら…

いや、この話のベースは石井啓文氏の話ですが、読んでいて「飛び梅」を思い出しました。
大梅が小田原に帰りたがっていた。300年の時を経て、竺土庵のある地に戻ったとしたら・・・。
この曽我の梅林は雄大な歴史が作り上げたロマンの場所ではないかと思います。

明日の日曜は、気温も上がると報じられています。そうすれば一気に開花するでしょう。
午前中の礼拝のあとは、近所の中河原の梅園にでも行ってみましょうか。

道祖神ワンダーワールド

神奈川に生まれ育ったからか、町の境界と言うことの意識がない。
市名のあとの字名はあっても、それは単なる行政の区分に過ぎず、たとえば久野と扇町の境がある訳ではなく、曽我と千代の境も白線ひとつない。
もう少しローカルな地方に出かけると、しばらく灯りのない道路を走ることがある。そこには「町」の入り口と出口がある。
コミニュティとしての「町」だ。古くはよそ者を排他して、自分たちの力で自治を守ってきたテリトリーだ。

そんな街の入り口には、町の守り神がいる・・・それが神奈川で言うと道祖神だ。もともと中国の道の神『道祖』を祀る信仰なのだろうけれど、町外からの災いを防ぐ信仰と相まって道祖神初日時にあるものだと思っていた。
が、先日の石造物調査会の中で、おもに関東甲信越の信仰だと聞いた。身近な道祖神が身近でない地方があることに驚いた。

そしてそんな関東甲信越の中でも、神奈川の真鶴と信州安曇野に多いという、分布のばらつきの特異性にも興味を持った。
海の町真鶴と山の街安曇野の間にどういう交流があり、この2か所に道祖神が増えたのだろうか?

興味を持つと調べたくなる。
という訳で

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なる本を購入。
著者を見れば、秦野にお住まいの方。
巻頭言に、芭蕉の序文の一説書きされている。『道祖神の招きにあいて』・・・そう芭蕉は、そう言って長い奥の細道に旅立った。
伊勢に生まれた芭蕉は幼少期は道祖神など見たこともなかったろう。江戸に出て初めて辻に建つ地蔵とは違う姿に心をひかれたのかもしれない。

木と違い朽ちるまでの時間が長い石造物。その間風雪にさらされて風化し苔生しる。その古さに、その場所に生きてきた人の生活を想像できるから芭蕉は惹かれたのかもしれないな。
まさにワンダーワールド。昔に想像の翼を広げたい。

道祖神祭りの久野を歩く

小田原市郷土文化館主催の石造物調査会の保坂氏やメンバーの方々と久野のどんど焼きを見に行きました。

と言ってもつい今しがたまで生活をしていた場所。新たな出会いなどないとたかを括っていましたが、いやいやそこはお宝の宝庫久野。
見どころ一杯の半日となりました。

集合場所は、久野水神公園。公園の由来は、兎河原端の岸にある通り久野川の水路を整備したことと関係するのかと思いましたが、この公園でどんど焼きをしている方のお話では、狩川より水路を作ったためと言われました。荻窪用水時代に同じような水路を久野も引いていたことに驚き。
お話によれば、狩川の某所からトンネルで久野坂下の奥(久野709あたり)にもってきて、そこからサイフォン原理でここにひいているのだとか。前述の坂下にも石碑があるとか。
確かに府川から穴部駅にかけてから久野坂下は直線でありますが、何故すぐ横を流れる久野川ではなく狩川の水を取水したのか? は興味深い謎です。

お話のほかにも焼き鳥の御接待を受け、13時に中宿公民館から山車が出るとのことで向かいます。

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そもそも旧正月に火を燃やす祭りは日本全国にあるそうです。しかし、それが道祖神と絡んでいるのは少なく…というより道祖神自身が関東甲信越と鳥取周辺の信仰で、関西や東北にはあまりないらしいです。
しかもこの時期にだしが街中を練り歩くのはもっと限られているとのこと。

道路を歩けば道祖神があるものだと思っていた僕ら小田原市民にとって、もしかしたら「私の町に道祖神なんかないよ」と言う人も多いかも! Blogを読まれている方で、ご自身の街の左義長(どんど焼き)と道祖神についてお教えいただけると助かります。(たとえば、うちの町には道祖神ないよ、とか、どんど焼きで無病息災を記念して団子食べます、とか、習字の神燃やします、等々)

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(焼いたお団子を無病息災だからとお子さんにあげながら歩いているご家族をパチリ)

小田原の道祖神は、さまざまな形があり、特異なのは国道1号線の駅東西の道祖神。祠の中は狐が祀られていてどう見てもお稲荷さんなのに道祖神であるという習合神。これは一度見てみたいものです。
多くは双体道祖神でしたが、最近は人気なのが安曇野等でよく見られるただ立っているだけではなく、手をつないだり抱き合ったり酒を酌み交わしたりした格好のものがよく見られているような気がします。

そもそもどんど焼きの語源は何か? と言う話題になりましたが、はっきりしたことは分からないとのことですが、旧暦正月は新月から始まるので、新たに始まるこの世とあの世の境の日でもあって、豆腐を食べる習慣がこの日や葬式の日にもあるそうです。(賽の目に切ることも関連)、また搗き立てをみたらし団子にする話も落語の初天神にあり、みたらしは蜜たらし(蜜とは醤油の中に砂糖を入れたもの)など、うんちくのある方がたくさん集まり新たな情報を頭にとどめておくのが難しいほど(笑)

出発を見届けた僕らは、狩野街道と足柄街道の交差点(久野911・久野調剤薬局前)の道祖神を見に行くことに。
ここの道祖神は、屋根を付けたタイプ。この日は、各家から持ってきたお飾り等で道祖神の「家」を作り、その中で子どもたちは過ごすのが習わしだったそうでその名残が残っています。

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保坂氏が「この道祖神は石の質が赤いですね」とポツリ。道祖神の石なんて気にもしていませんでしたがなるほど赤身がかかっています。どこからここに来たのだろう? いろいろな不思議がまた一つ増えました。

坂を上がったところの畑の隅の祠。

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その先の北久保集落の道祖神ら。

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左端の石仏は上半身のみ? それとも2-3頭身のもの? いわれはなんなのでしょう?
ここでもどんど焼きが行われていました。書初めの半紙を持ってきた子どもが火にくべます。次がうまくなりますように。
火の番をしていた方に北久保の石仏はこれだけ、とのことなので来た道を戻ります。

七軒村。幻庵公の家臣武将の家が七軒あったことからと言われますが、今は面影もありません。でも武家屋敷の多くは家の前に川が流れているところも多いから、この川はその名残かも(笑)
この道路はもっと細かったそうですが、中宿等の集落と諏訪野原の高台の畑をつなぐのに「ニコヨン」の労働力で作ったものだとか。その碑が経っています

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久野保育園裏には、幻庵公乳母を祀った神社(祠)。

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こういうものがあったのも初耳。

お仲間のMさんがミクニグランドのわき(久野3563-イ-1)にも道祖神があるという事で行ってみます。

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僕も初めて歩く道、この周辺に住んでいる人しか知らないような道路岸の道祖神。このグループメンバーの探究心のすごさに改めて脱帽です。
さてこの道祖神、2体とも着衣が十二単のようです。皆さんの知識と想像力が飛び交い、この道祖神が祀られた時代を読み解こうとしています。保坂氏の政治経済の情勢が不安な時代は人物を彫らずに『道祖神』と言う文字だけの道祖神もある、と言う説明からすれば、よき時代だったのかもしれません。

日が西に傾いてきました。楽しかった久野探索。お開きにいたしましょう。

我が家は2月3日、曽我岸あたりを歩いてみようと思っています。

国府津は国府津でなかったのね…^_^; 千代寺院跡研究を聞く

「千代寺院跡研究の到達点」と題した講演会(学習会)に参加してきました。

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連れ合いの実家周辺の事なのでひときわ興味がわく話です。
が、歴史の分析は多岐にわたり考察しなければいけない上にその一つ一つのレベルが高く、頭が爆発寸前。

文献資料から永井肇氏が、建築土木の観点から鈴木亘氏が、出土遺物から田尾誠敏氏が語られ、後半小田原市の文化保護委員の岡本孝之氏が講演をなされました。

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内容についてここに記するのはスキル違いで憚れますし、この日聞いた話を書きあげたら論文のような膨大な量になってしまいますので、自分の歴史認識を改めなければならないことを中心にインプレッションとオピニオンをミックスした形で少し書きたいと思います。

小田原に生まれ、歴史が好きなものとして、小学校の友人らと休み時間などに『小田原に国分寺があったんだって』と小田原が太古から地域の中心であったことが何か得意げで、『でも火事で焼けちゃって海老名に引っ越したんだって』と合わせて、もし火事にならなかったら小田原が中心都市だったのだろうと残念に思ったものでした。
併せて『酒匂川や森戸川はもっと太く行き来していて、だから国府から川を下った所の港だから国府津っていうんだ』と言うのをまことしやかに言っておりました。
国府津の語源は、国府の津ではなく、郡津(郡家=律令制下における郡の役所で、「こおりのみやけ」と呼ばれたところの津)、すなわち「こおりつ」が変化したものだそうです。
ドヤ顔でそう語る僕の言葉を信じてくださった皆様、誠に申し訳ございませんでした。謹んでお詫び申し上げます。 
であれば、国府津があるから国府があったということはなく(おかしな理論ですが)、千代廃寺が国分寺跡と言う説はだいぶ弱くなっているそうです。
国分寺か否かの一番は、この寺院の伽藍がどういう配列かだったかによるそうです。

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当然国分寺は東大寺の模倣ですので、東大寺式伽藍配列になっていなければなりませんが、どうも千代寺院は法隆寺式の伽藍配列だったというのが最近の説です。

難しくしているのは資料が残っていないこと。寺院自身も変革をしていること。無くなってから時代が長すぎ、また史跡についての保護がしきれなかったことなどがあるようです。
それでも、鈴木氏によると主要伽藍域は下記資料のエリアとされています。記載によれば、西限には7つ石の出土とありますが、僕自身も関係者からもその石の存在を「渡り廊下の跡だ」と語られたのを聞いています。

20171203-06(画像をクリックすると拡大します)

連れ合いも礎石の存在を知っているので、そのうち見せてもらいに行きたいものです。
が、調査図の四角の中と法隆寺式伽藍と照らし合わせると、7つ石のすぐ横に礎石となり、それがどこの部分になるのかは、またそのうちもう少しレベルの低いお話をしていただく機会を作っていただきたいな、と思います。

さて、小学生の時、千代廃寺は焼失後海老名に移転したと仲間内でまことしやかに語られていましたが、今日お話し下さった諸先生は肯定的ではなく、(縄文)弥生以降の住居も確認できるので、その時代の遺物の焦土なのかもしれないとも言われています。

さて、ここからの出土品に木簡があります。また墨書土器もあります。そこには大伴五十戸との記述があり、この大伴は膳大伴(かしわでのおおとも)と考えられると諸先生は語られます。
勉強不足で恐縮ですが、この時まで膳氏を知らずにおりました。と言うか友人に膳さんというものが居るので俄然興味を持ったわけですが、世界大百科事典第2版によると、景行天皇の東国巡幸に供奉,上総国において堅魚や白蛤の料理を天皇に献上し,その功により以後永く天皇の供御に奉仕することを命ぜられ,また膳臣の姓を賜ったという、とあります。なるほど食事のお膳の膳はそういうところからきているのだと納得。
膳大伴が千代廃寺とどういうつながりがあったのかはわかりませんが、すぐ北に大友と言う地名があることからその由来を知るのも興味深いです。
詳細を失念しましたが、確か中里遺跡も静岡以東にない珍しい遺跡だと聞きましたが、それは小田原が海上交通の重要なポイントであることが関係しているのかもしれません。
それはこの千代廃寺そばから「美濃刻印須恵器」が発見されていて、それの最東部であることからも言えるのかもしれません。

さて、その小田原市大友のあるエリアは足上郡、そして永塚―千代―高田のエリアは足下郡と千代寺院の建立中に2国に分かれたと語られます。それまでは1つの国だったので地の焼き釜はからさわ焼釜と言う松田にある釜だったと言われました。その釜は東名の増設工事の際に移転を余儀なくされ、今は最明寺史跡公園 (松田町松田庶子2062 )にあるとのこと。1000年の時代を経ての焼き釜一度見に行きたいものです。

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話を聞いたものの中の1割も書けませんでした。とにかく頭がパンクしそうなボリューム。地元の歴史、少しずつでも学べればいいかなとのんびり構えることにしました。楽しみがまた一つ増えました。

If ・・・

前々から見たかった「小田原北條氏の[絆]-小田原城とその支城-」展を11日の午後見てきました。
小田原城は熊本地震直後のGWに行ったきり。あの時は入場料をそのまま熊本に寄付し、ささやかながら我が家の小銭が熊本の復興のために使われ、改めて小田原市経済部並びに天守閣館長の大英断にエールを送ります。
そんな訳で今日は地元にお金を落とします(笑)

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この100余ページのカラー展示品目録(紹介)で1500円はお安いです。(これは利益なしですね)

一番の楽しみは、以前八王子城に伺った時に話を聞いた、織田信長からもらったとされているベネチアグラスの壺(瓶)。
当然八王子城は落城に際して、敵に宝物を渡さないように破壊した後お館に火を放ったので、よくこれでこういう形の壺(瓶)と判断したな程度の破片しか残っていないようですが、レースガラスの美しさではなくグレーの濃淡の模様で色を付けた壺(瓶)です。
透き通った美しさが見せ場のはずのベネチアンレースガラスがなぜこうしたものなのか? 何かの機会にお話を伺えれば、と思います。
実物を見ると景徳鎮系の焼き物の豊富さに目が行きます。

歴史にIfは禁句と言いますが、もし信長が明智光秀に討たれなかったら、上杉はその後に滅ぼされたと思います。でも併せて信長も兵力をかなり落としたでしょう。
それでも秀吉は信長に離反はしなかったでしょうし、そうであれば、信長に丁重に使者や貢物を出していた北条は滅ぼされなかったかもしれません。
あと5年信長の死が遅かったらどうだったかな?と言うのは興味深い空想へと誘います。

菊花展が開催していたから、が理由ではないでしょうけれど、小田原城はあいも変わらずに混んでいましたが、それでも多くの観光客にぬかされつつゆっくり2時間以上かけて館内を見てきました。
ブラタモリをきっかけに、虎口を歩き少しは地の利が分かってきて、文久図を見ては現在の町と照らし合わせて連れとたわいもない話をしてきました。
次回行ったら文久図の複製1000円なので買ってこよう\(^o^)/

出口では、かまぼこの一覧。

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かまぼこなんてみんな一緒でしょ? と思われる方、ぜひかまぼこ横丁を試食しながら歩いてみてください。「こんなに違うんだ!」と新鮮な驚きがあると思います。
というか「利きカマ」できるお土産タウンあるといいなぁ~

暮れまでもう少し開催しています。ぜひご覧ください。

広島の旅(2)

「御馳走」と言う言葉は広島の言葉。朝鮮通信使をおもてなしするように、下関の海峡から大阪に着くまでの瀬戸内の各大名に秀吉は命じ、その順位を競わせたわけです。まさに馳せ走り満足できる食材と調理人を探し、呉の蒲刈がその一番の地位を得たと記載があります。
広島はグルメの地でもあります。
そんな広島最初の食事は、トヨタレンタカーを探す中、すわって地図を見ようと入った「なか卯 JR福山駅店」チェーンのファストフーズ店でしたがなになに御馳走は食材だけではなくおもてなしの心。ウェイトレスのおばちゃん、気さくに話しかけてくれ心穏やかに朝食を食べることができました。ありがとう。

トヨレンはそこから1つのブロックの対辺、信号を左折し、次の信号を左折したところ。無事ヴィッツを借りて井原に向かいます。
道路標識には神辺の文字。実は明日は台風でRFLが中止になったので、広島南部教会の礼拝に集おうと思っているのです。ここの牧師が昨3月まで赴任していたのが神辺教会。せっかくだからと教会の前を通ります。

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県道200号から国道486号へ。ほどなく井原鉄道井原線の早雲の里荏原駅へ。北口には早雲の里交流センターがあります。情報を得るためにまずはここに行ってみます。
雨が降ってきました。走って建物に入ると数名の高齢者が建物内を掃除中。 早雲の関係の名所を見に来たと言えば非常に戸惑った様子で、それでもリーダーらしき方が城跡と法泉寺の行き方を丁寧に教えてくれました。残念ながら資料等は置いてないようです。

まずは高越城跡に行ってみましょう。肥料で有名なCB化成の工場の間を抜けると農村地帯。道路の両側は暗渠にしていない水路があります。そして道幅は車の幅程度、アップダウンのあるスラローム(笑)

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アップグレードしてもらいわずか数十センチの車幅が増えたことを後悔。GoogleMapで検索すると東江原町5618 となっているあたりからは斜度が急になり民家はなくなります。
人の住む里と神の住む山(いわゆる神隠しの起こる場所)との間には里山がある。住むのは難しいが作物が取れる樹林であり耕せたところは畑だ。うっそうと茂った木々や竹藪は空を狭くし、初めて走る僕らを心細くする・・・。
エンジンがうなり坂を上りきったところ・・・急に空が広くなって、大きな農家が数件現れた。隠れ里?
ここで道を右に切り急激に下ったところが高越城です。

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上地図右隅の駐車場に車を止め、舗装をされた道を歩きます。

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真ん中のくびれたあたりの門をくぐり(これは立派だ)、なだらかな坂を上がったところが四の郭。

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大型化していく城の歴史の前半の時代。他の城と比べると狭く感じるけれど、この時代では五つの郭を持つ立派な城だったのでしょうね。

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城めぐりの楽しさはやはり城址つまりは高台からの風景。藁葺の平屋の百姓の家並みが点在し、それを取り囲むように黄金色の田んぼが実る風景を見るのは城主としての至極の喜びだったのでしょうね。

城址を後に新九郎観音と言うスポットを目指します。

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掛かっていた解説を読むと伊勢新九郎(北條早雲)が帰郷した時に奉納した観音と言われ崇められていたようですが、製造は江戸期とのこと。
でも

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春になると桜の下で祭りをする…、そうした人の心の支えとなっているのならいいんじゃない? って気がします。

法泉寺 に向かいます。

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大きく素晴らしく、そして手が行き届いているお寺でした。
このような天気、どなたもいらっしゃらなく、当然ご住職にもお会いできなかったので(お呼びするのも何なので)拝見させてもらって帰ってきました。
荏原の荘は、早雲の生誕地として盛り上げたいという希望はあるのでしょうけれど、まだまだ観光資源としては使いこなせていないようでした。

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隣町はきのこ町。可愛らしい名前に思わずパチリ。

さて次の目的地へ。早雲の生誕地荏原から西南西へ約10km。稲倉と言う郷へ向かいます。

北条5代が秀吉によって滅ぼされましたが、3代氏康の5男氏規はその後赦され、河内狭山城主となります。徳の篤かった北條一族、残党はお家が持てたことで集まりますが、石高が小さく希望を持った家臣を抱えることが出来ずに、集まった家臣の中には早雲の生まれ故郷に移転するものが現れたようです。
その中の一人に、前小田原市立病院名誉医院長の北条龍彦氏の先祖もいたようです。龍彦氏は、立木望隆先生らと一緒に江戸後期以降の北條家の家計を調べ、この地が故郷であることを確信したと記しています。

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井原に生まれ関東にきて一旗揚げ、そして関東を追われて井原に戻り、そんな井原からまた小田原に戻ってきたという話は、大きな人知を超えた力によって導かれているようでなりません。

広島の旅(1)

RFL広島が、9月16-18日の後半2日で開催されるという話を聞いた時に2泊3日の旅の概要が決まった。

歴史を振り返れば、この中国地方の先祖は神奈川県民なんです。愛甲郡毛利荘を得た大江氏が里の名前を付けたのが毛利の祖です。
小早川氏は湯河原の土肥家の家臣で早川の荘を支配していた一族で、ともに源平合戦の中西走し中国地方に根づいた一族です。
時は流れ、伊勢新九郎は井原の里から京を経て当時一番の軍力のある今川へのもとに行き、その後関八州を治めます。
江戸の町は、小田原の町のコピーです。唯一違うのは、小田原の街づくり以外に陰陽道の考えを咥えた点でしょう。歴史を振り返れば関東は中国地方の人によってつくられました。
だから関東人は遠い歴史をたどって井原を懐かしく思い、広島県民は関東に郷愁の念を抱くのかもしれません。

そんな早雲の里から今回の旅を始めよう。そしてそんな長い道のりも乗ったことのない乗り物で行ってみたい。
という事で、今密かに話題沸騰のドリームスリーパー2を選択。大型バスにたった11人しか乗れないという走るホテル。3連休の前夜予約は取れるかと9時になると同時に予約サイト発車オーライにつなぎます。
あっけなくGet。しかも1A、1Bの席と言うのはいの一番に予約を完了したという事??
さすがにそこまでは人気はないのか? というのも、通常東京―福山の夜行バスは7500円程度なのがこのドリームスリーパー2は22500円と約3倍。新幹線よりもはるかに高いのです。
でも一度は乗ってみたい\(^o^)/

台風が分かっていたので一眼レフは持っていかず、PowerShotG16一台のみ。広角も撮れないのでいささか満足いく情報が提供できるかは不安ですが…。

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11席と言うだけあって全室個室です。廊下からはすりガラスで中にいるかは確認できるかもしれませんが、席に座ってしまえばまったく見えないです。あっ、車内は土禁(土足禁止)で、ステップ2段目で靴を脱ぐとスタッフがビニール袋に靴を入れてくれます。どうも至れり尽くせりのおもてなしはくすっぐったく苦手です(笑)
また座席につくとヘッドフォーン等の備品を持って部屋を廻り部屋内の説明をしてくれます。
約1/3程度がスライドドアとして空きます。

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窓側には15cmほどのスペースに、足側からアメニティグッズケース、ドリンクホルダー、シートアレンジャー、イオン発生器がついています。
アメニティーグッズはポーチに入ったものと書かれていますが、既に経費削減なのかビニール袋に入っているだけで少しチープ。残念
そしてWifiも繋がりますが画面が動きませんでした。これも残念

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ゼログラビティ姿勢と言うのだそうです。お尻が沈みながらも、また背もたれもあまり倒れている気にはならないものの、この足が高く上がる姿勢はなかなか寝心地がいいです。
今回は1回目。ドキドキワクワクで寝ているどころではなく楽しんじゃいましたが、2度目があれば熟睡できるでしょう。でもこのBlogを読まれて乗ろうという方、1番前はタイヤの上です、やはりどうしても振動は激しいので、寝る事前提に乗られる方は車の真ん中あたりがいいかもしれません。

そして車中で見たFacebook なんとRFL広島は台風18号の接近により中止が決定したとのことオーマイガッ―
なんで体育館で行われるイヴェントが中止になっちゃうんだ!!

それでもバスは走ります。小雨降る福山に提示に到着。
実は昨日、この日借りる予定のトヨタレンタカーからTel 「台風が近づいているからどうされます?」と言う話かな?と思ったら、借りようとした車が前借用者が事故を起こしたのでグレードアップしていいですか?というもの。
ラッキー!価格据え置きでのグレードアップ。でも、世の中塞翁が馬と言うことわざがあります。このあとその言葉を身に染みるようになるとは思いませんでした。

ブラサイジョーものがたり(2)

今年もやってきました、ブラサイジョーの季節です。

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いつもの妄想秘話からスタートです。青字の妄想秘話は創作の域を出ておりません。ご了承ください。

「力を見せつけるには少し残虐ぐらいがいい事は信長公の戦いから儂が学んだ事じゃ。」
そういいながら口をいびつに曲げて笑う秀吉の顔を見ながら、力が拮抗してきたとはいえまだまだ時の流れは秀吉公にある、そう思いながら片や娘婿や何度か力を合わせて共通の敵と戦った戦友氏政公の命乞いをしながら家康は頭の中でそろばんをはじく。
あまりやりすぎても反感を買う、それはもう敵なしとなった秀吉との戦いにとって不利な状況を招くだけ。

「氏直は督姫殿の婿じゃったのぉ」、秀吉はあえて周知の縁を口にする。

「はっ、この家康も50を目の前にして子の話になるといささか弱ぉうございますな。殿下の広いお気持ちでなにとぞ…」

「わはは、わかっておるわい、今回の小田原攻めも第一の殊勲物は儂は家康殿だとおもっちょー。その家康殿の目の中に入れても居たくない督姫殿の婿殿ならのぉ」

助かった。これで名門北条家も関東で細々とでも生き延びられる。お目付け役に儂を指名されるだろうが、儂も今川の領土を頂いて、東海道で北条と太平な町づくりをしていこうぞ…。

「しかし、家康殿よ、今回の小田原攻めで、儂は北条の怖さをたんと知った。なにしろ悪く言う民百姓がいない。これは忌むべきことじゃ。」
「そこで、今回の騒動の責任を氏政公に取ってもらうことにした。」

「な、な、何とおっしゃられますか。既に家督を譲り渡し隠居生活をしている氏政公に責任をとらすと…」

「もとはと言えばきゃつが儂の上洛の命を背き出てこなかったからのぉ」
「それにこれだけ慕われた大名に土地を与えておくとまた反乱をしでかすかもしれんのでなぁ、伊豆、相模、武蔵三国の件もご破算だすべて没収することとする。」

今日の謁見の始まりの信長公の逸話と不敵な笑みの意味がだんだん分かってきて家康は思わず武者震いをする。「して、氏直公は…」絞り出すように問うと
「高野山にでも行ってもらおう」と事もなさげにそう告げた。

「誰かおぬか?」秀吉の声が響く。
「はっ」
廊下から返事が聞こえると間髪入れずに秀吉は言う。
「氏政、そうじゃな氏照もじゃ、に切腹を命じよ。介錯は氏規にさせぃ。それを見届けたら氏政は高野山に向かわせよ」

兄弟家族親族の団結が固い北条軍団。弟に兄の介錯をさせ、それを見届けたら子を追放する。非道な決定で北条5代100年は秀吉の一存であっけなく終焉を迎えたのである。

心配顔の民百姓が箱根口門の南に集まる。待医田村安斎の屋敷の周辺は竹を編み通行ができなくなっている。そしてその周りを秀吉が多の侍が囲んでいる。
あちこちから嗚咽が聞こえる。とのさまぁ~と言う声が途切れなく聞こえる。
その中、氏政、氏照兄弟は腹を裂き、弟氏規は涙をこらえ見事介錯をし、すぐさま自らも腹を切ろうとして取り押さえられた。

20170618-06

切腹の場と言われている医師安斉の屋敷があったと言われる安斉小路の石碑。

亡骸と生害石は氏寺伝心庵に運ばれました。なお、伝心庵はその後城山に移り、そして中町に移ったので、墓地のみがビルに囲まれ残っています。

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僕らはそうした北条末期の遺跡をみたり、江戸時代になってからの小田原城の変革や扱われ方をサイジョーさんからお聞きしました。
元はと言えば、東海道が小田原を通る唯一の幹線道であったため、三の丸周辺からの登城口であったけれど、江戸に中心が移ったため江戸に向いている現在の市民会館そばが大手門に変わったこと、その門は箱根口門を移設したこと。

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藤棚(南町)にかかる小峯橋はお茶壺橋とも言われ、徳川将軍御用達の氏のお茶壺を京に持って行く時に泊まってお茶壺を保管した場所であるが、帰路(京都から江戸)に行く時は湿気を嫌うので東海道ではなく中山道を通ったのでここでは「お茶」は保管されたことがなかったこと。

曲輪、隅櫓、増形と狭間などの一般的な名称、銅門、常盤木門のような小田原城独自の名称や由来。

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雨降る中の探索でしたが、楽しい時間を過ごせました。

20170618-05

また機会を見つけて小田原探索をしたいものです。


一緒に石造物を調査しませんか?

友人から小田原市の石造物調査ボランティアのための説明会があるというので行ってまいりました。

20170617-01

石仏や五輪塔や記念碑、歌碑などすべて含めて石造物です。
隣接の平塚市で3000以上の石造物があるというので、小田原市だと5000程度はあるのではないでしょうか?
そうしたものを歩きながら「発見」し、大きさや物によっては書かれた文字を記録していくというものです。

20170617-03

木造物などに比べて保存率が高いですし、それによって以下のことが分かると言います。

20170617-02

探し当て調査するのですから1日で10~20程度しか調査できなければ、5000あれば333回かかります。月に1回の調査だと30年かかる調査です。
元に平塚も20年ほどかかったと言います。
ですからあまり重たく考えずに、自分ができる時に参加する、気軽さは長続きのための重要なポイントかと思います。
もしかしたら僕らの年齢では最後まで参加できないでしょう。
でも少しだけでもやってみたいという気持ちがありましたら 0465-23-1377(郷土文化館)に問い合わせください。
ボランティア保険に入る都合上無連絡の参加はご遠慮くださいとのことです。

楽しく小田原の歴史一緒に探索しませんか?
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