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RFL広島尾道・・・ にかこつけた観光旅行(3)

どなたが言ったか失念したが、「数学は美しくなければいけない」。自然の摂理を数字にしたものゆえに美しくないものは摂理に逆らっている。至極名言だと思います。
どうでもいい、はいけません。いつでも本物の「美」は追究していきましょう。

さて、僕の良い旅行の定義は「3つの『しい』」です。美しい、おいしい、そして楽しい(もしくは優しい)、です。
旅に出る前には少しながらも予習をしますので、美しいは結構見つけられます。その町が培った『美』は、自然と人が長年織りなしてきたもの、ぜったに摂理ににあった美があります。
が、残りの2つは現地で探さなければなりません。しかし、食も人も大きな摂理の中にあります、おいしくなければ摂理に反しますし、他人と楽しく会話がなければ、優しく接し合わなければこれも摂理に反します。それを探すことは楽しみです。

最初に見つけたお店。鳥居のすぐ下にある参拝者のお茶屋から始まったラーメン屋さんでしょう。尾道ラーメンの看板、何かそそられます。が、残念ながらまだクローズド。

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繁華街(アーケード)に戻りお店を探すとピンと来たのがこのお店。鮮魚と卵がけごはんの文字。

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脱サラの店主が地物に拘ったというお店。さっそくテビラ(手のひらサイズの平目?)をメインにした海鮮丼。
手の込んだ箸休めが3品ついています。昔は尾道でもたくさん魚が売られていたが今はみんな福山に行ってしまう、と。時代の流れですかねェ、との言葉に寂びしさを感じます。
リノベーションして新しいお店も多いじゃないですか、と言うと、でも地産のものを使っているお店はあまり多くないんですよ、とのこと。そうか、それは観光客の僕としてもさびしいです。おいしいものを食べながらひと時の会話に満足です。

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島に渡ったのがお昼ちょっと前。でも、朝が遅かったからまだお腹が空いていません。
しかし尾道の町はとても蒸してとにかく汗を引かせるためにもどこかに入りたいと船着き場の

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和茶話茶さん。島内のバスの運転手さんと隣の魚やさんの憩いの場所(笑) 気さくに話しかけてくれるのはこの町の特徴?

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ひさびさにワッフルなるものを食しました。あれ?疲れている?甘いものがむちゃくちゃ美味しい(^_^)/

町を歩けば老舗のパン屋さん、ねじりパンの文字。入りましょうか?

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レジでお会計をしながら、終えてから、あんこの歴史から何故もみじまんじゅうに粒あんが出来たか迄お話し好きな店主さんです。
次のお客さんが来なければ帰れなかったかも(爆) でも楽しいうんちくありがとう。
雨が降ってきました。午後は観光をやめてホテルに一度戻りシャワーを浴びて夕食に備えます。

さびしんぼうでマドンナの百合子さんの自転車が壊れ、引きながらフェリーに向かう川沿いの道の風景が切なく甘酸っぱく美しかったんです。で、Googleで検索すれば特定でき、そこに1軒だけお店がありました。ここだよ!そう直感して、オープンの7時の5分前にいけば良いですよの優しい言葉。10人ほどのカウンターに座らせてもらいます

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地魚のおつくりやおばんさいはむちゃくちゃ美味しい。ここはお勧め!! 隠れた名店見つけた!
しかし、鳳来鶴を少し含んだころから急に酔いが回ってきて…そういえば脱水気味です。今日は馬鹿に汗かきっぱなしでした。すきっ腹ではなく脱水でも酔いは回ります。
(当然ながら)お初です^_^;、 の僕らに常連さんたちはフランクに話しかけてくれて尾道の歴史を教えてくれます。
海辺の丘陵地だから畑だけだと思ったら田圃も多かった話や、海の中に砂州が出来て潮干狩りができる話など興味深い話がたっぷり。
「船長」と呼ばれている常連さんの写真を見ながら、そんな話を聞いているうちに、オオみんなで写真撮ろうや、と言うことになってパチリ。

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沖縄に行った時に聞いた素敵な言葉「行逢りば兄弟(イチャリバチョーデー)=一度会ったらみな兄弟」を地で行くお店でした。
名残惜しみながらの帰路

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ね、素敵でしょ

さて翌日RFLの会場の周辺にはお店がなくお昼はCoco壱番。トレーラーでのケータリングはかっこいい(^_^)/

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夕食は浜中先生に連れて行って頂きました。ローストビーフのおいしいお店。

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雨後の月があったので、前々から一方的に存じ上げていたシンガーソングライターの松尾さんと差しで頂きました。

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毎日毎日楽しく夕食が食べられることは本当に感謝です。

そしてまた歩き広島10周年の記念のRFLは幕を閉じました。
さて何か忘れちゃいませんか? そう尾道ラーメンを食べていないんです。
と言うことでとっきーさんに連れて行ってもらいました。

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とんかつラーメンがおいしいよ! とのことで間髪入れずに注文。

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アカン湯気でぼけている。
関西だから薄味かと思いましたが、意外に濃いしょっぱいスープ。そこに細く固い麺。とんかつの衣はいつまでも溶けずにしっかりとサクサク。不思議な感覚でした。

結局は自然の摂理と言う美しさは、人間が管理している。物を作るも守るも壊すも人間の采配だしその結果景観と言う考えが生まれる。食事だってそうだ、スキルだけではなくお召し上がれ、と言う言葉に秘められた思いが味にプラスされる。
そう言えばこの瀬戸内から「御馳走様」と言う言葉が生まれたのだ。おもてなしの心を脈々と引き継いでいるのだ。
すべては人だ。僕は3つに出会いに行きながら、人に出会いに行ったのだ。
そして旅の摂理「3つの『しい』」を堪能できた旅だったのだ。

RFL広島尾道・・・ にかこつけた観光旅行(2)

路地は楽しい。
何が楽しいって、曲田先がわからないこと。
まぁ、ホラーやスリラーのゲームのように、またはお化け屋敷のように曲がった先に恐怖があるのなら、そしてそれが続くのなら楽しくないかもしれないが、少なくとも街歩きではワクワク感が優先されて楽しい。

人生の中で一番アドレナリンが出た曲がった先は、イタリアのフィレンツェだった。大型バスがやっと通れるような幅の石畳、両横は3,4階建てのレンガの古いアパート。日本のそれとは違ってそんな路地もなんだか明るいが、歩行者もドライバーも「譲る精神」は乏しくバスの運転手は難儀をしそして極めてゆっくりしか走れない時間が続いた。少しストレスがたまったとき、バスは一度大きく曲がりその路地を脱した。
そこにはその路地からは想像のつかないあまりにも大きくあまりにも美しいドォーモがあった。
そのあと写真を撮りに行ったが、買ったばかりのIXY DIGITAL 200ではどんなに遠くから撮ろうとしても全景が映らなく悔しい思いとともに美しいフィレンツェのドォーモは思い出深い。

あの衝撃を味わいたい。のが、路地歩きの醍醐味なんだろう。
本当かどうかは知らないが、尾道には観光者向けの明細な地図がないそうだ。大林氏が「尾道では是非迷子になってほしい」と、前述の氏の映画のように非常事態の中の日常を味わうためにはそれが大事だということなのだろう。
それは柳田國男氏の「ハレとケ」の思想にも通じるのかもしれない。
ディズニーランドのような「映画セット」で撮影した者にも見所はあるだろうけれど、「映画ロケ」にこだわるのは多分その映画監督がその町の息吹を注入したいゆえだろう。
その提案を受けて方向感覚の鈍い夫婦は迷子になりに街に飛び込むことにする。

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狭い路地の向こうを鮮やかな色をした列車が通り抜ける。

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行商のおばさんが露店で魚をさばいて売っている。もうわが町では見られなくなった風景。
お断りして写真を撮らせてもらう。

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小田原石造物調査会と言う市民グル^プで活動をしていると、ついつい石造物を見ると足を止めてしまうが、なんとその数の多い事か…辻辻には必ず立っているし、町の人の信心も深い。

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ついこの前あたりまでは狭いガードの下に駐輪をするのはごく普通だった。開発と言う名の下でこうした風景を見ることも少なくなった。

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井戸には水神さんをお祀りしているのか、水と神もこの町ではセットだ。

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美しい石垣の寺院。

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このお店やっているのか?と思ってよく見ると明かりがともっている。くさむらもこの店のオブジェなのだろう。

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通称ガウディハウスと呼ばれている。急坂の途中のわずかな土地に建てられた家。金沢主計町にも同じように坂の途中の狭い敷地の家を見たがここまでの異形感はない。ガウディハウスと呼ばれるゆえんだろう。

もともと港町だからネコは多いはず。そして近年の猫ブームに乗じた感はある。人になれている猫ばかり(笑)

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魔法使いに石に変えられたのか、はたまたこの石の猫が年を取り付喪神となって街を徘徊しているのか…。

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いずれにしろ猫好きにはたまらない町だろう。

ホテルの部屋からは対岸の工場のイルミネーション

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今回携帯のGPSをGoogleで表示させるアプリをダウンロードした。

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何でもない坂の町のごく普通の一日をエンジョイ出来た。

RFL広島尾道・・・ にかこつけた観光旅行(1)

大林氏の「尾道三部作・新尾道三部作」に根強いファンがいるのは、氏の画像の素晴らしさもあるが、テーマ自身もあると思う。
興味を抱いた人のことをもっと知りたい、と思っているうちに、そうではなくその人に興味を持った自分自身のことをもっと知りたくなるのもなのかもしれない。
他人になることで他人を主体的に知り愛する一方、主体的な自分から離れて他人になることで客観的に冷静に自分を知り成長させること。
子どもから少し大人になる時の人生の広がりは甘酸っぱくもその後の人生にとってとても大切であることを教えられた「転校生」
入れ替わったことで、隣人をいつくしみ、隣人になった自分をいつくしむことは、僕にとって聖書の「隣人を自分のように愛しなさい」を描いたように思える。
これがどれだけ大きな人生哲学なのかは、この後品を変え形を変えて様々な人がこのテーマで作品を作っているかでもわかる。つまりは多くの人がこのテーマに関心を持っているから、スポンサーも付くのだ。
この作品は、原作の小樽、そして大林氏の故郷この尾道、とともに脚本家で原作の「おれがあいつであいつがおれで」を大林氏に紹介した剣持亘氏のふるさと、そう我が郷土小田原での撮影も候補になっていたという。
小田原ならどこでロケをしたのだろう?階段から落ちるのは小田原城なのかもしれない…なんて想像をするが、尾道の町並みでとられた作品を見れば、やはり尾道でとられてよかったのだと思う。
そんな舞台

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あの有名な階段から転げ落ちるシーン

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体が入れ替わったことに気が付いた一夫…一美?が、慌てて自転車で一美…一夫?宅に向かうシーン。細く急な歩道橋を全力疾走する小林聡美さんの姿は結構インパクトのあるシーンだった。

新尾道三部作では、あしたが好きだった。永遠の離別も人間生きていく上での大きなテーマ。
突然の死を通してもう一度会いたい、声を聞きたい、意見を聞きたい。これはできないからこそ強い願望になる。
映画では出来てしまい、主人公たちの多くは普通の生活に戻るが、はたして禁断の再会、つまりは叶わぬことを叶えてしまうという『強引』の蜜の味を覚えた人たちが、『もう一回だけ』と言う欲望から逃れられるか? は僕の中でとても興味あること。感動の出会いと別れを涙するよりは、こちらが気にかかる。
そんな呼子号の待合室は今も向島にある。ここも行かないわけにはなるまい。

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尾道渡船で向島にわたります。と、船の待合室(海上)に(^_^)/ 島の皆さんの足だから見る機会も多いんでしょう。

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これは映画のセットで唯一現存している物。乗った本当の小屋がベースなのかな?
呼子丸も精密縮小して作られたというがその存在がリサーチできずに見学は断念。

「時をかける少女」。これは僕の中では映画よりも、ケンソゴルの方がインパクトが強い。そしてSF界の巨匠大好きな筒井康隆氏の作品だ。
未来や過去に行けるが「事実」は変えられない。これはこれでいさぎいい。「明日」に類似しているようで大きく違うのは、変えられないという不変の真理。その中で生きることが摂理なら、あえて奇跡は望まない(と言っても淡い恋心は奇跡を望んだが(笑))
もし能力があるのなら身に着けたい。「本当はどうだったのか?」だけ知りたいことはたくさんある。まさに観光客気分。
しかし、原田知世さん、「なんで、こんな子が?」と疑問視してしまった垢ぬけなさが、美しい名女優になっていくのだから、人材発掘する人の目は鋭いんだろう。

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「艮」読めますか? 読める人は尾道検定1級(笑)
鳥居の真ん中は神様の歩く道、でも鳥居の上はロープウェイ様の通る道(笑) JRが通り地域の人の利便性は格段に向上しただろうし、このロープウェイだって観光資源としてすさまじいものがあるけれど、それによって神社の精神性が大きく破壊されたことも事実。

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タイムトラベルの最中、(未来の)自分が行くことによって、両親と一緒にお参りに来ていた当時(幼い)自分が消えてしまう神社。お堂よりも大きい木に圧倒。
前述の艮はうしとら、です。

尾道三部作のもう一つは。富田靖子さんが主演したさびしんぼう。転校生と時をかける少女の完結がこの作品、と言うことがなかなか理解できない。
何度か見返して思ったのは2作品とも(自分と言う)手が届き過ぎた&(死んでしまったという)届かない『相手』 でも、これはそうでない実際の恋愛対象の橘百合子さんでありながら、もどかしい。自分が恋い焦がれる橘さびしんぼうへどういう風にアプローチすればいいのかわからないウブイ感性は自分を愛(いつく)しんでくれるピエロのさびしんぼうへ遣る瀬無さをぶつけてしまう。実は16才の母の写真の化身でありながら橘さびしんぼうがこうあってほしいという願望なのかもしれない。でも・・・。
それを父親は“おまえ、人を好きになったことはあるか?好きになれ、思いっきり好きになれ、その人の喜びも悲しみもみんなひっくるめて好きになれ”と成就するためには立ち向かう真実と勇気の大事さを教えたのではないだろうか?1,2部で架空の恋愛を映画化し、そしてこの3部で現実も一緒だと言われたような気がする。だから三部作なのだ、と。
邪推かもしれないが、百合子さんのお母さんは海の男を相手に水商売(赤ちょうちん)を営んでいたが体を壊して代わりにお店を切り盛りしていたのではないか?それゆえ別の顔がある自分を知られたくなかったのではないか?父親の夕食を作り着物で店に出る直前の姿だったのではないか?なんて思う。男の子なんて女の子に比べればピュアーであって、そんな別の自分を知って嫌われたくない百合子さんのささやかな反抗。
恋する人はみなさびしんぼう。なぜだろう?恋って暖かくてふわふわで甘酸っぱいものじゃなかったのか?なんでさびしんぼうなのか?それはもしかしたら恋故に見せられない別の顔があるから、それがさびしんぼうなのかもしれない。
もう一回映画に戻ろう、あのピエロさびしんぼうは母親なんですよね。失恋した人の名前を息子につけた、その息子もまた自分から飛び立とうとしている(再度の失恋?)・・・・。アレ?コノエイガノシュジンコウハイッタリダレナンダロウ???モシカシタラボクハ「富田靖子」と言う女優の1人2役ニダマサレテハイナイカ?

向島に渡ったのは前述のとおり。行きは「あした」の航路で、帰りは「さびしんぼう」の航路を使った。素敵な島だった。坂を上ったところに住む貧しい父娘の家はここらへんかと思わず想像をした。実はさびしんぼうのロケ地で一番興味のあったのは夕闇の向島百合子さんの住んでいるあたり。でも、さすがにわからなかった。

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上の写真の坂道をホテルから写す。あの森の向こうには造船工場の社宅やその方のための飲み屋があるに違いない、と勝手に妄想(笑)

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今日も映画のワンシーンのように多くの高校生が島と本島を渡る。

デジタル編集やCGが出始める10代の時、大林作品は陳腐にすら感じた。特にねらわれた学園の峰岸徹さん演ずる魔王子の胸の目玉、幻滅をした。しかし、CGが何でもできるに従い、派手さを競うようになるに従い、大林作品のコラージュ手法がよみがえってきた。ウルトラマンや仮面ライダーのような番組を見て、CGより昔のアクションの方が楽しいことを知った感はある。
今更になってなんてすばらしい映画作りなんだ、と思えるようになった。
原作と言う大きなファンタジーをもらって氏はそこにありふれた日常を叩き込む。だからなんでもない尾道の何でもない風景がキラキラ輝く。

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いや、歩行も危ないんですけれど…。
でも我が家や僕の車も毎日見ていると劣化に気付かずそれでも快適だったりする。この橋だって少し前までは毎日わたっている地元の人にしてみればそんな危険な橋じゃなかったのだろう。

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何処も田舎だった。そこに人が集まって町を作り都会になるが、それは実は息苦しいところかもしれない。この道幅に心が落ち着く。交通網が15分に1本の地域から1時間に1本の地域に引っ越して余計にそれを感じる。

何事もそうだが僕は少し知恵が回るのが遅れる。すぐに理解できないのだ。会話より文章を書くのが好きなのは時間をかけられるからだ。「一を聞いて十を知る」という諺があるが、僕は「十を聞いても一を理解するに時間がかかる」のだ。それは映画を見ることにも当てはまる、僕はいいオヤヂになってから大林氏のファンになった。

そして尾道は大林さんだけではない。こんな美しい街、素敵な小路がたくさんあった。これは次Blogに書く事にしよう。

おとぎ話に出てくるのはおじいさんとおばあさん

RFL広島の帰りに立ち寄ろうとした祖谷峡。

「あなたは山が好きですか?海が好きですか?」と言う思考の問いかけには、僕はガラパゴスや小笠原のような海でもそして宮崎椎葉村、岩手県遠野やこの映画の祖谷峡のような山中の場所でも行き難い場所が好きです、と答えにならない答えを言うと思います。
交流が盛んで異文化の混じりあうようなイスタンブールや敦煌も捨てがたいが、独自の文化を持つ町々の方に触手は伸びます。

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この映画は祖谷と言う町の素材をベースに作ったおとぎ話。
だから細かいことを突っついちゃあいけないのです。お爺さんひとりで然程裕福でなく日々の仕事で精一杯なのに赤子をどうして育てられたか、とか、そもそも見ず知らずのお爺さんが引き取れるはずがないことは百も承知です。

落語の演目に『桃太郎』と言うのがあります。眠れないという子どもにおとっつぁんが昔話を聞かせるのだけれど、いちいち理屈でおとっつぁんの方が焦れてしまいます。すると子どもは昔話の解説をするのですが
「昔々」「あるところに」などとして、時代や場所を細かく設定しないのは、いつの時代のどこの子どもにも聞かせられるようにした配慮で、おじいさんが山にいるのは「父親の恩が山よりも高いこと」、おばあさんが川にいるというのは実は海のことであり、「母親の恩が海よりも深いこと」を表現している。本当は父親と母親のことだが、話に愛着を持たせるために老けさせていると語っているうちにおとっつぁんの方が寝てしまう、というもの。
桃太郎だって唐突に鬼ヶ島に行くことを思い立つわけで、故郷の住民が目の前で鬼にやられているシーンはない。しかしそれを設定が悪いとは僕らは言わないのです。

そう思うとこの祖谷と言う日本の原風景の象徴のような山中におじいと美女が住んでいて、その美女が気立てもいいというのは全く持っておとぎ話のそれ。
それが都会との交流で消えていく寂しさと自分たちにも当然の権利として文明を謳歌するという喜びの狭間と言うテーマで、何よりも美しい日本の美を映像化しています。2つの違うものがカオスな状態を経てホモジナイトされるエントロピーの法則に叶おうとする中で、カオスな不安定な時ほど混じりたくもあり反発もするのです。

映画には天空の里のかかしたちも友情出演。物語云々よりもきれいな映像をファンタジックに楽しみたい人向けの映画でした。
いつかは本物のかかしを見に行きます(^_^)/

久野自主フィールドワーク(総世寺編その1)

7月7日に舟原日影地区の自主調査をし、暑い間は移動の少なく日影の多い寺社を先にしようと総世寺に調査の依頼をし今日相成ったわけだ。
1441年に小田原城主だった大森氏頼が開祖となって創建された曹洞宗のお寺。小田原の住民になじみの深い北條早雲が生まれるよりもずっと前、しかし京の都では幕府に対して不満が多くなり後の応仁の乱の導火線に火がついたころ。
古刹ゆえに石造物もパッと見ただけで100近くはありそう。今日はまず参道から。

調査をしていると、お声をかける方が。聞けば総代のKさん。ご住職(大黒さん)には調査のお願いをしたが、総代さんにはお声掛けしていなかったので不信がられたのかもしれない。説明をすれば、ご自身のご存じの知識をお教えくださる。

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山門の入り口の塀。左右ともここの真ん中に何か板碑が埋められている。

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これはKさんのお話だと、農地解放する前の総世寺の参道の入り口にあったものを、農地解放で小さくならざるを得ない寺社所有地に移設したものだという。
文字には大正4年乙卯の文字。

当時は久野坂下の1号古墳の横の尾根道からこの総世寺に来たらしい。
中宿からの戦後にニコヨンの労働力で作られた道とぶつかるところの「花立松」から総世寺の地所だったという。
荼毘に臥す時などは、ここで松の下に花を供えて参道に入ったのだとか。

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参道の長さ約1km。

秀吉の小田原攻めで箱根を下った家康別働隊はこの総世寺に陣を敷き秀次を連れてきた。なるほどうまい、破れかぶれになって攻めてきても小田原城からはちょいと届かない何重かの防波線の後ろながらも、こちらからは小田原城の様子が見える場所。
この久野の丘陵に壮大な寺院があった。石造物以外にももしかしたらいろいろなお宝をお教えいただけるかもしれない。
楽しみにしたい。

栄螺井戸

石垣山城址の北には、「井戸」兼「堰止池」がある。
どう見てもどちらか一つとして考えるのは無理がある。
というのは「堰止池」に見えてしまうのは、北側の石垣擁壁はダムのそれだから。土を盛りその盛土の両側に野積みの石垣を築いたようだ。見事な石垣だ。
しかし、何のためにこんな大きな池を作ろうとしたかは想像つかない。城の大きさから考えても、また北条方が籠城作戦をとっていることからもここまで大量の水がいるとは考えにくいが、まぁ秀吉さんの大風呂敷と言うことにしておこう。

「井戸」の方はまた見事な栄螺井戸だった。日本は水が湧き易く、しかも井戸掘り職人が多かったせいか、竪穴式の井戸を掘るので、栄螺井戸を見る機会はあまり多くない。が、我が地元で栄螺井戸を見れたことに驚いた。

中近東の砂漠には、まず屋根・壁を作りその中を階段式に掘り進ませる方法をとる。
旧約聖書のイサクの妻リベカの話もそうだし、新約のイエスが疲れ切って腰かけている時に水を差し出したサマリア人の女性の話もそうだが、日本の井戸を想像すると「なんでそんな簡単なこと?」と誤解をする。

インドの階段井戸ほどは大きくないが、これを往復することを依頼するのだから大変なことだ。

栄螺井戸と言うのはその様子が栄螺の貝殻に似ているからだろう。が、まいまいず井戸と呼ばれることが多いらしい。

武蔵野にはいくつかあると書かれていた。ぜひ行ってみたい。
だってGoogleMapを見ただけでもそそられるじゃないか。

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石垣山の石垣はなぜ立派なのか?

小田原城郭研究会の山本氏のフィールドワーク「石垣山一夜城と早川石丁場群をめぐる」に参加させて頂きました。
石垣山自身に登るのも(鎧塚ファーム以外は)何十年ぶりのこと。しかもご案内を頂きながら歩くのは初めてと言うわけで期待が膨らみます。併せて、「小田原の石造物を調べる会」の方からも、城址の石造物があるかどうか見て来て、との依頼を受け責任重大でもあります。

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城址の整備も進んでおり、石垣も見やすくなっております。
今でも途上のルートとしては一般的な東口から登ります。太閤道に面したこちらが大手門があったと言われていますが、異説もあるとのこと。
本城曲輪には小田原城を臨む展望施設があります。今日日大きな建物が目につき小田原城本丸は目につきにくいですが、それでも緑に囲まれたところを探せば小さくお城が見えます。
城郭研究会で数年前、鎧塚ファームの駐車場を借りてベニヤ板で作った城をクレーン車で釣り上げ、小田原城から測定したそうですが、本当に小さかったと山本氏は語ります。
そもそも一夜城伝説は、林の中でこっそり城を作り、出来上がった挙句に周囲の木を切り倒したから、小田原勢は一夜にして城が出来たと戦意を失った、というのがよく語られているところです。
4月6日に秀吉は湯本早雲寺に到着し、同時に一夜城建設と小田原城包囲を命じます。
つまり小田原方にすれば、4月の時点では城から出ることは全く不可能ではなく、一夜城で何かをしていることは伝わっていたのではないでしょうか?
そして山本氏は、石垣を築くのに木を伐採しないでするのは難しいこと、昼夜構わず普請を勧めた事からかがり火の灯りは小田原からも見れたはずと語ります。
小田原方は石垣山に城を築いていることはわかったが、一夜でできたとは思っておらず、しかしながら80余日で仕上がったことに驚くわけです。
木村宇右門覚書書(伊達政宗言行録)には、石垣山を訪れた伊達政宗が6月9日にはなかった白壁が翌日の10日にあったことに驚き、秀吉の問いに「白紙で作った」と言う推理を返して秀吉が喜んだとの記載があるとのこと。笑っちゃうような陳腐な方法ですが、それでも望遠鏡の精度が低い時代ですので・・・なにおかいわんや、です。
当初に記した城郭研究会の鎧塚ファームでの実験では、本当に小さかったとの言葉とあわせれば、そしてネズミ一匹外に漏れださないように包囲した=北政所などに送った書状には「干殺にする」と書いてある(出入りを頑固に禁止した)ことから、この一夜城の様子はまったく小田原方には見えなかったはずで、白紙で十分脅せたはずだと思います。

山本氏は、瓦は製造に約80日間かかる、とも語りました。
4月に着工すると同時に瓦を造り始めたとして7月1日降伏を受け容れるまでは約90日、またこの瓦の土(粘土)は関東静岡東部の物だとかで、どう計算しても築城までには瓦は乗っていなかった、つまりはダミー(ギミック)だったと思います。土(粘土)をこね、型押しで成形し、天日で乾かし施釉までは大量生産できても、その後の素焼きは窯の大きさで焼ける枚数が決まります。僕も炭焼きをしたことがありますが、釜内が冷えるまで数日は釜開きできません。数百、数千枚谷の瓦がそう簡単に焼けるはずはないと思います。
もしかしたら近隣の寺院にある出来あいの瓦を寄せ集めたのかもしれない、でもそうならば寺院の覚書にその旨が記載されているでしょうからその可能性も低いでしょう。
何度も書きますが、城郭研究会の実験では一夜城は豆粒のように見えた、そうです。ですから瓦があろうがなかろうが大したことではありません。
しかし問題は、この石垣山城址から瓦破片が数多く発見されることです。しかも天正19年と言う文字が記された瓦が複数枚発見されていると言います。
これは何を意味しているのでしょう?天正18年に北条方は降伏をしているのです。何故に降伏した後に瓦を乗せたか?
石垣山城は、小田原征伐のためだけの城ではなかったことが推測できます。その後も城としての存在があればゆえに「本物」の城になるように修復を続けたのではないでしょうか?

石垣山の北に小田原城は位置しています。東の相模湾は秀吉軍の船がびっしりと沖に並んでいます。現在でもここから伊豆方面は、JRの路線と国道135号が山と海の狭間を縫うように進んでいきます。う回路が築けないためによく渋滞を起こす場所です。う回路はないのは山がすぐに海に落ちている難所だからです。
ですから、城の東側は誰もうかがい知ることのない、つまりは北へダミーの物で威圧するだけなら「まじめ」に作る必要のない石垣です。
つまりは、石垣づくりは同盟の配下臣への威圧だと思っていました。また、のんびりと「干攻め」をする中で士気を落とさせないように競わせる(労働させる)ものだと思っていました。
が、どうもそれだけではなく、小田原城落城後も城としての使命があったのでしょう。
すごい、大発見でした(^^♪

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しかし同時に、大手門手前、南曲輪に面するところに「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻まれた石がありました。
これは何を意味するのでしょう? 江戸城普請時にこの一夜城の石垣の石を運び出したのではないでしょうか?
江戸時代4,5度の大地震がありその度地盤の弱い小田原城は石垣が崩れたそうですが、石垣山城の石垣は壊れず直下で起こった関東大震災で初めて崩れたと旧山の持ち主の方が語ったと山本氏は説明します。
しかし崩れた石はたいして地面を埋めていません。つまり絶対量が不足しています。それが上記のこの石垣の両側は加藤肥後守(加藤清正?)が使用する石、という書き物があるのではないでしょうか
もしかしたら、江戸城普請時ころまでは石垣山城の使命が「何か」あったのかもしれません。

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さて、城跡には上記書き込みのある石のほか1体の祠がありました。ちょうど山神様を祀った木の祠の北西にあたりところにありましたが、祠があるだけで中の仏様はありませんでした。
さて何の仏像だったのでしょう? いつの時代だったのでしょう? 感じから言って私有地に払い下げ以降の物のように見受けられました、すると山神様と一緒の時代なのかもしれませんね。 畑の真ん中に祠を築いたのかもしれません。

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同行のメンバーさんがロガーでコースを拾ってくれました。半日で6kmですから、そんなに歩いたわけではありませんが、猛暑の中のアップダウン思った以上にへばりました。
が、純粋な歴史好きと言うよりは人間ウォッチング・民俗学的な想像(妄想)好きなものとしては、この一夜城をめぐるさまざまな事象を妄想できて大変楽しゅうございました。

駆け込み訴え

神は何をさせるべきイエスをこの世に送ったのか? イエスの誕生は何か? と問われれば、僕らの罪を背負って死することで、僕らが赦される、つまり神との和解を仲介するための誕生だった、と言う信仰に基づき僕らはクリスチャンとしての日々を送っていると思います。

イースターの前の金曜日は、聖金曜日と呼ばれ、英語ではGoodFridayと言います。もともとはGodFridayだったそうですが、それでも、自分たちが信じているイエスが十字架にかかって死した日をGoodと呼ぶのは、やはりその後ろにある罪が赦されたことがあるでしょう。信仰無き方にとっては死の日をGoodと言うのはあり得ないことだと思います。

もう一歩話を進めると、ではどうしてイエスは十字架にかかったのか?と言う、木曜夜以降の話が大切になるのかもしれません。
それは、裏切り(イスカリオテ)のユダが、イエスのいる場所を捕まえようとしている人に教えたからでしょう。
暗闇(今日のように街灯もない、しかもオリーブ畑の中)ですので、月の明かりがあったとしても、顔をよく知らない兵士らはイエスを捕まえられない。そこでユダは自分が挨拶をした人がイエスだと伝え、それによってイエスは捕まってしまいます。

イエスは既にエルサレムで捕まり死す、と言う自身の未来を知っていたので、たとえユダがいなくても捕まったかもしれません。
しかし、歴史を作った(創造した)神は、ユダを介してイエスを捕まえさせます。
神は間違いなくユダを使われたわけです。
神にとってユダとはどういう存在か? はクリスチャンにとっていろいろな意見があると思います。
一例でいえば、ユダは死の後天に召されたのか?地獄に落ちたのか? は論議になるところかもしれません。

教団小田原教会のどの牧師の説教だったかは失念しましたが、ユダとペテロの違いのご説を聞いたことがあります。
ペテロの方が、内容も回数もひどいことをした。しかし、ペテロは許しを請うため謝罪をした(希望を捨てなかった)が、ユダは自ら絶望をした。
このお話はストンと入るお話で、どんなに大きなミスをして人は許せなくても神はお赦しくださることを信じています。

もっと言えば、イエスの死によって神が赦すのなら、イエスを死に追い込むという神の最大の仕事の功労者はユダなんでしょう。
神と人との「関係の絶対性」と言う観点で吉本隆明氏は著書の中でいくつかの本を紹介ましたが、その一冊

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の中の表題の作品をを読んでみました。太宰治氏はこの観点で神と人との関係の絶対性をどう感じてこの作品を書いたのか?いろいろと思うところはあります。
一つ太宰治氏のユダ論に同調するのは、ろばの子に乗ってエルサレム入場をするという旧約の成就をナンセンスのように書かれていた点。もしかしたら氏も旧約の成就よりも福音書のイエスの言動に心ときめいたのかも知れません。稚拙なおしゃべりと同じようなテーマが使われていることは何かくすぐったくも嬉しかったりします。成就と言うのはイエス自身が旧約の言葉を知らずにロバに乗ったのならそう呼んでいいですが、イエスが旧約に書かれたエルサレム入場の仕方がロバに乗ってであることを知っていてでしにロバを探させたならそれは成就ではないのではないでしょうか?
吉本氏のようにしっかりと読み切れていないせいか、僕には可愛さ余って憎さ百倍のユダの、しかしそんな気持ちながらもまだイエスを師として愛してやまないユダの、人間性だけが浮かび上がってなりません。イエスを自分だけのものにしたいと言うエゴイスティクに存在する内容は、文壇にデビューしてまだ日の浅い太宰治氏の大物作家への野望なのかもしれません。
しかし、葛藤があったのかもしれないのは、この次の作品が走れメロスで、ここではこの作品と逆さまの裏切らないすばらしさが書かれている点です。
太宰治氏は取り立てて好きな作家ではなかったので、教科書に載っていた走れメロス以外は読んだことありませんでしたが、せっかくたくさんの短編が載っている本を購入したので読み続けてみたいものです。

アニメ「一休さん」に出てくる新右エ門さんって・・・

郷土史に造詣の深い数名のFacebook知人がお奨めだったコミックスを購入。

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ゆうきまさみ氏・・・聞いたことのあるお名前、と検索すれば漫画本を読んでいた時代から楽しみにしていた漫画家さん。そうなんだ、あの漫画家さんが北条早雲を題材に漫画描いてくれたんだ、と喜んでまず第1巻を読破。
作家さんの下調べはやはりすごいです。未成人(元服)の時代の早雲さんですから、男性社会の武士の世の中ではまだ活躍できるはずもなく、そこには姫や女官たちとの過ごす時代ですので、上っ面の資料では手に負えない話でしょう。
そうしたご苦労は教科書+α程度の知識の僕には非常に参考になる漫画です。
それに何と言っても、武将の名前のルビがいい。とかく同じような名前が多い中インプットしやすいルビのふり方は妙案です。さすがです。

よく戦国時代は、小田原に始まって小田原に終わる、と言われます。北条早雲の小田原攻めから秀吉の小田原攻めまでが戦国の世と言われて、僕もそう教わってそう思い続けてきましたが、「戦国」と言う意味では、もう応仁の乱から「戦国」なんですよね。
返って関東においては、いわゆる「戦国時代」は善政の北条五代ゆえ大平時代だったと思います。
第一巻は応仁の乱の直前。ここからはえげつない将軍の変わり身の早さで京の都は、そして派生した全国が戦いの中に巻き込まれていきます。
続き楽しみです。

さて、歴史と言うのは意識をしないと猪ではないけれど縦系に猛進してしまいます。親が、子が、敵が、味方がと主人公を中心とした小さな輪で、とかく横のつながりを忘れがちです。
この漫画を読むまで、北条早雲と一休さんと言う組み合わせを考えてもいませんでしたが、テレビアニメ「一休さん」に出てくる蜷川新右衛門は「早雲の伊勢家」の家臣だったんですね。(少し誇張が入っています。正確には…自分で調べてね)
でもこの関係が一番の収穫だったかも(笑)

帰るだけの走行(下道倶楽部)

世の多くの方は、「速さ」が好きだ。新幹線や高速道路…。でも僕はその速さがあまり好きではない。
という訳で、今回の静岡森町のキャンプも往復「下道倶楽部」の旅でした。
特に帰路は明るいうちの道中なので、国道1号ではない旧東海道をメインに帰りました。

掛川は、日本中の道の駅の中で一番お世話になっている道の駅かもしれません。そんな道の駅の近くで国道1号に別れを告げて県道415号へ。日坂を超えると小夜の中山、旧東海道の難所の一つ。
なお、緑字の歌は「お江戸日本橋」 僕はこの歌は江戸から京に上る歌しか知らなかったのですが、今日から江戸に下る歌もあったそうです。上り歌、下り歌をUPします。

小夜の中山 夜泣石 日坂の
名物わらびの餅を焼く
こちや いそいで通れや掛川へ

袋井、掛川打過ぎて、日坂の
小夜の中山夜泣石
こちや菊川渡りて、袖ぬらす。


民謡「お江戸日本橋」でも歌われている場所。残念なことに三大敵討ちには入っていないが、この夜泣き石伝説は興味深い。金に目がくらみ、そして仏教でいう因果なのか、相手が以前自分が殺めた人の子どもであること知らずにエピソードを打ち明け、仇をとられてしまう、と言うのはいろいろな教訓を複合的に語っている。
が、今日も乗っている車はキャンピングカー、この峠を走行するには周囲の方々にご迷惑をかけそうなので横目で見ながらスルー。いつかは行きたい峠越え。

そのまま道は県道381号へ。金谷の駅裏を通って大井川を渡る。古い橋なので若干道幅は細いが、水色の鉄骨が美しく好きな橋。

藤枝娘のしをらしや 投げ島田
大井川いと抱きしめて
こちや いやでもおうでも金谷せぬ

いはで焦るる金ヶ谷で、思わずも
花の女郎衆は大井川
こちや二八ばかりの投げ島田。


上り歌は都都逸のような艶のある歌詞。作者は藤枝で素敵な乙女を見つけたのか?
そして江戸に戻る時は大井川の川辺での一夜の情事か?

急がないのんびりドライブ。走っていると丸子(鞠子)路。そう有名なとろろ汁の丁子屋さんの看板。
昔友人ファミリーと食べに来たな。とろろ汁もむかごもおいしかったことを思い出しながらも車を進めます。
間もなく安倍川。大井川が思ったほど水量がなかったのに比べ、今日の安倍川はどうどうと流れています。
この上流で砂金が撮れたそうで、ここを通りかかった家康に餅を献上する際、砂金に見立てた黄な粉をまぶした餅を喜んで安倍川もちと呼ばれ名物になったそうな。

江尻つかれてきは府中 はま鞠子
どらをうつのかどうらんこ
こりや 岡部で笑はば笑わんせ

花のゆかりの藤枝に、思ひきや、
かかる岡崎真葛原
こちや夢か現か、宇津の女で。
津田の細道はかゆかず、花染の、
衣物の袖を振りはいて、
こちや鞠子府中の賑ひな。


このエリアは(京への)上り歌より、(江戸への)下り歌の方が多くあります。帰るのが嫌で足取りが重くなったのでしょうか?

静岡の次はしばらく大きな町がなかったのは一昔前。今は東静岡まで長い大きな町となっています。交通量も多いです。
実はこの先で通りたい道があるので、ここからは道を間違えないように慎重な運転が必要です(笑)
というのも静岡はバイパス道が発達している県。目的地が遠ければ信号も少ないバイパスを走った方が楽で、カーナビゲーションもその道を進めます。
機械を信じてはいけません。

実は旧東海道の興津駅のそばの旧国道1号に面した一軒のお店
GoogleStreetView

20180816-01

洋服屋のマネキンの隣、店の中を車庫にしているお店。
個人店舗で買い物をする習慣も薄れ、スーパーやデパートにそれが移り、そして今やインターネットの買い物が主流になったりしています。
この店に気が付いたのはパジェロに乗っていた頃か、レグナムに乗っていた頃か? 少なくとも20年は経ちます。それ以前は、店舗内にたくさんの洋服を飾ってお客さんにアピールしていたのでしょうけれど、だんだん客足が少なくなり、空いた半分の場所に車を入れ始めたのかも知れません。
当時は静清バイパスもなく、下道を走るとこのエリアで軽い渋滞にはまるのが常で、少し焦れながら走っている時に見たこのお店に連れ合いと顔を見合わせて、くすっと笑ってなんか焦れている自分たちの浅はかさを恥じたものでした。
ゆっくりと時の流れている清見寺から興津は、時間が許せば通りたい道なのです。

愚痴を由井だす(さった)坂 馬鹿らしや
絡んだ口説きも興津川
こりや 欺まして寝かして恋の坂

江尻、興津の浜辺より、はるばると、
三保の松原右に見て、
こちや浮世の塵を薩多坂。


さったは素敵な峠です。しかし車は海岸すれすれを通ります。台風の高潮や津波の恐怖を感じる場所です。
そして富士、三島を経由して国道246号に。
約6時間の下道倶楽部。今回も楽しめました\(^o^)/
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