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カナの婚礼

2019年1月20日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 2章1-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

2:1 三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2:2 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
2:4 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
2:6 そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
2:7 イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
2:8 イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。
2:9 世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
2:11 イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。


有名なカナの結婚式の場面。イエスが初めて奇跡をおこなった場所。
清水牧師はこの箇所の存在意義について考えるところから今日の説教を始められました。
福音書に記されているイエスの歩みの多くは、事の善悪を説く場合が多いです。時には律法について宗教者たちと闘うこともあったり、癒しを与えたり、結果ジャッジを得られることが多くあります。
しかしこのカナの結婚式では、表面面だけ見れば、言い争う相手もいなければ、ジャッジングを問う場面もありません。
意見の食い違いはなく、ただ、お祝いの場面で、皆がハッピーになれました、と言うお話です。今日は礼拝の中で「祈り」の当番でしたので、今日の聖書の御言葉を通じての祈りをしましたが、初めての奇跡が難しい話ではなくただ皆の幸せな笑顔になる奇跡だったことに僕は感銘すら覚えた、できればこの1週間も自分も隣人も笑顔で居れるように、イエスの奇跡のように笑顔を生みだせるように、と祈ったのですが、イエスの奇跡はそうした社会になることだったのではないかと思います。

しかし不思議な箇所です。誰かの結婚式に招かれた話であれば、新郎や新婦の名前、またイエスや母マリアとの関係などから書き始めるでしょうけれど、一切そこには及言していません。どれだけの関係者なのかも読者に伝えないまま書かれた結婚式とイエスの初めての奇跡。
福音書の著者が書かなかったのは、初めての奇跡を見ての驚きが余りにも大きかったからかもしれません。それに比べれば、誰の結婚式であろうがイエスとの関係がどうであろうが、もうそんなこと全てよくなったのではないでしょうか?

もちろん細かい内容にも踏み込まれました。
6節にはユダヤ人が清めに用いると言う文言があります。現在の社会においてでも、清めること、穢れることは、差別を助長するものでもありますが、ユダヤの世もそうでした。イエスはこのあと公生涯を送る時、穢れをもっていると言われた羊飼いや取税人、医者や血の病を患っている人など差別なく接していたので、宗教的指導者からは疎まれた存在でした。
たぶんこのかめは聖別をするための道具であったのでしょう。特別な人のみ触ることが許された水を結婚式に参列した誰もが喜びと祝いの笑顔の道具に変えたのです。
ここにキリスト教が「愛の宗教」と言われる所以が発生しました。

そして母マリアはいいます。この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください
この言葉に神の言葉に従順でいる大切さが語られています。

また、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。と言う言葉にごまかしのない真実の人であることが語られています。

当初今日の箇所はお祝いの席に集った皆が幸せになっただけ、と語りましたが、よく考えれば、僕らはこの世に生きとし生けるものすべてが幸福になることこそが、至上の喜びではないでしょうか。
愛と神の導きと真実の生き方、これこそが一番大事なこととイエスは最初の奇跡の中で身をもってそっと教えてくれたのだと思います。

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さて、今日は午後から炊き出しの準備があり、急いで日本キリスト教団小田原教会に行かなければいけなかったので昼食は残念ながら食べられませんでした。
しかし、清水牧師渾身の大作、リノベーションをした新会堂の3D模型が飾ってあったのでそれをぱちり。
イースターはこの会堂でお祝いできたらいいな。

イエスの洗礼

2019年1月13日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 3章15-17節並びに3章21-22節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

3:21 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、
3:22 聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。



AKB(と言うアイドルグループ)が一世を風靡し始めたころから『神』と言う言葉を本来の神以外にも使う若者用語として流行っています。
大勢が舞台に上がる彼女らが舞台上の真ん中で歌うためには「選挙」と言うシステムでたくさん投票を受けなければならず、そんなところからセンターで歌える彼女らを『神』と呼ぶようになったわけです。そこから発生して特別な能力、人に秀でた能力を持つ人、人を驚かせる大事件の主犯などの事を『神』と呼ぶ言い方がはやっています。

さて、今日の聖書の箇所は、困窮のユダヤの民が虐げられた毎日の中でいつかは神の御許から救い主がこの世にやってきて自分たちを救ってくれると何千年も信じている最中のお話。
何千年も、と言うのは、もう伝説化になっているほどの長い時間ですが、彼らは頑なに「いつかは」を信じていたわけです。
「どんなお方なのだろう?」その風貌も、「どこに現れるのだろうか?」その場所すらわからないですが、いつかと言う希望だけは持っていたわけです。
そんな時にヨハネと言う若者がそのメシアだという噂が立ち、彼から救いのためのバブテスマを受けようと長蛇の列ができた、と言うのが今日の聖書の箇所。

その列にイエスも並ばれるのです。本物のメシアが・・・・、民衆からメシアと言われたものの「イエスの履物のひもを解く値打もない」、とヨハネが言っているそのイエスが!!、です。
そもそもバブテスマとは罪ある人が、悔い改め神に従って生きるための儀式です。ですから神の御許から来て罪を犯していないイエスは受ける必要もないのです。

ですから、共観福音書マタイによれば
3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
3:15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。


と、ヨハネはイエスの洗礼を一度は否定するものの、イエスの願いで洗礼を授ける訳です。
しかも普通の人と同じように列に並んでです。
これはどういう意味なんでしょうか?
清水牧師は大阪釜ヶ崎の本田哲郎神父の著書から話を進めます。
小田原や寿でもやっている越冬炊き出し。そこでは調理した食事を配食する時に長い列ができます。
多くの野宿者は、例えば飲み終わったアルミ缶を集めて日銭をため1日1食の弁当を食べたりしていますが、それはアルミ缶を業者に持って行き、換金してもらってこそお金になる訳です。アルミ缶では食べられません。
しかし、そうした業者も年末年始は休みを取ります。必然、彼らは換金の手段を失い、約1週間食事がとれなくなります。
寒い冬満足に食べられなければ「死」を迎えます、それを防止するのが越冬炊き出しなんです。まさに「越冬」の闘いなんです。そんな炊き出しの行列の後ろを指さし、「見てみぃ、イエスはんが一番後ろに並んでおられる」

イエスはなぜバブテスマを受けるのか? は、みなと同じ目線での行動であるのです。ですから神の御子とはいえ、偉そうに横から割り込んだり、誰の目にもイエスとわかるような服を着て、ではないのです。
普通に普通に列に並び、同じように時間を使って自分の番を待つのです。

AKBに端を発した『神』とは、2年連続得票がトップであるとか、YouTubeの動画で誰もが驚くようなすばらしい技を見せたりとかする人をリスペクトして言う言葉です。
しかし、キリスト教の神は、神であることを隠すように僕らと同じ目線で僕らと同じ困窮をして、僕らと同じ生活をする人です。
そこにはじめて「隣人を自分と同じように愛しなさい」と言う重みのある言葉が生きてくると思うのです。
特に目立つ人ではない中にこそ、僕らが必要としている隣人はいるのです。
炊き出しのごはんが自分の前の人で終わってしまうかもしれない不安、お腹が空いて倒れそうな自分の横でふぅーふぅーと熱いものを冷ましながらおいしそうに食べている「このやろうめ、な奴」。そんな時も静かに耐えて待つ人故に神としての信頼をおきます。
もしかしたらそれは、ロシアの文豪トルストイの名作「靴屋のマルチン」のように神が姿を変えて僕らの前に現れているのかも知れません。あたなは私のようにつらい体験をして優しくなれるのですよ、と。

若かりし頃は、僕も「足が上がらないでつまずく」ことも「暴飲暴食しても胃もたれがする」こともありませんでした。だから、高齢の人がそんなことを言っても心から同意し、本心で気の毒に思うことはありませんでしたが、今は違います。自分が体験すれば、心の底からアーメン(その通り)と言えます。
イエスのした出来事はこうした実体験だったのでしょう。だから僕は神にすべてを委ねられるのです。

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今日は、世は成人式やどんど焼き(左義長)のお祭り。礼拝後はみなさんすぐに帰られる方も多く、少数精鋭の『きょうかいニュース』作成でした。
教会を改修してカフェ[にこっと]を併設し、日曜以外も有益に使ってもらうために楽しい会議が進んでいます。

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キリストにある霊的訓練と成長

2019年1月6日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 3章1-15節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

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3:1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
3:4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
3:5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
3:9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。


この年度は年間を通じてルカによる福音書を通してのメッセージを受けているところですが、2019年最初の礼拝は主題聖句として掲げる聖句からのメッセージをなされることを通例としているとのことで、今年度は前述のヨハネによる福音書3章1-15節からとなりました。

20190106-02

そもそも松田教会を含む聖契キリスト教会は、6つの原則指針を信条としているとのこと。それは、神のことばの中心性。新生の不可欠性。教会の包括的宣教に対するコミットメント。信者の交わりとしての教会。聖霊への自覚的依存。キリストにある自由の現実性。
この6つを順番にその年の主題とする、とのことです。

さて、説教に話を戻します。
聖書は、2節にニコデモに「知っています」と言われたことが書かれています。「知っています」と言う言葉は、その言葉にいかような厚みがあるかを把握しなければなりません。
3節以降のイエスとの問答。たぶんこのBlogを読んでいる人は誰もが何かちぐはぐな感じを受けるのではないでしょうか?
そしてとどのつまり10節以降のようにイエスにあきれられてしまうのです。実はよく知らないのに「知っている」と言った・・・もちろん教師として崇められた立場の人だから「それなり」には知っていたのですが、信仰は知識ではない訳です。
教師として豊富な知識を持って満足していたのでしょうけれど、実態感はなかったのではないでしょうか? 今のように神の存在が希薄ではない時代、それゆえに教師として崇められていても神への恐怖と喜びは感じれなかったのかもしれません。
本当に人が様々なことから解放され、罪が許され、聖霊に満たされ、喜びに行きれたか? は、知識ではなく体験なのだとイエスは語っています。実体験では何も「知って」いなかった訳です。この世のしがらみの中で、この世の常識の中で、喘ぐように生きてきたのではないでしょうか?
肩書は立派でも決して喜びにあふれた毎日ではなかったのではないでしょうか?
周囲の目が気になってしょうがなかったのでしょう。若造のイエスに聞きに行くのを知られるのはこの上もなく恥ずかしかった、それ故に夜陰の乗じてこっそりと来たのではなかったのではないでしょうか?
21世紀の今の社会においても、聖書の言葉を「知っている」けれど、実は世のしがらみにとらわれて悪戦苦闘をしている人はたくさんいると思うのです。

信仰は成長だと牧師は語ります。成長がない時は堂々巡りをしてそのスキルの中でしか生きられませんが、成長をすることは失敗をしその失敗を生かして新たなスキルに上がる事だと語ります。
だから成長には失敗はつきもので、信仰者にだって数多くの失敗が与えられます。でも堂々巡りではない、その失敗を活かして成長に変革させる中で、人生の喜びと明日への希望がわくわけです。

向上心は気力です。チェレンジには気力が必要です。頭の中で「知っている」だけではなく、気力溢れる日々、喜びと希望にあふれる日々、失敗して落ち込んだ時そうした「新生」するファイトがわく時、神様はそっと手を差し伸べ聖霊に満たしてくれる訳です。「あれ? 心が軽くなった」「不思議と気楽に生きられる」「毎日がなんだか喜びにあふれている」「『感謝』って実感できる」それが、15節のそれは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。だと思うのです。
永遠の命って死なないことではないのです。死の瞬間、ああいい人生だったと神の御許に行くことだと思うのです。この世への不満や怒りなどを持ったまま死なない事だと思うのです。
ですから、落ち込んだ時、そんな事をふとでも思い起こせてくれればうれしいですし、僕もこの一年感謝と祈りと喜びの年にしたいものです。

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20190106-03

さて、新年最初はやはり通例の昼食会はお汁粉が慣例だそうです。毎月第1週に行っている新会堂建築の祈祷会をした後、12人もの信仰の友とテーブルを囲み、おしゃべりをしながら楽しく過ごしました。

神殿での少年イエス

2018年12月30日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 2章41-52節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

20181230-01


2:41 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。
2:42 イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。
2:43 祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。
2:44 イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、
2:45 見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。
2:46 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
2:47 聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。
2:48 両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」
2:49 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」
2:50 しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。
2:51 それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。
2:52 イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。



イエスの人生は30歳のいわゆる公生涯の前と後に分けられるが、前はクリスマスの時を除いてあまり記録がありません。それはある意味当然で、まだ普通の男性の一人にすぎないのだから致し方ない訳です。しかし、それでもインパクトのある事件もあったのでしょう。それが今日の箇所です。
年に一度のエルサレム詣出は一族郎党みんなで行く大事なお勤めでもあり楽しみだったのでしょう。だから子どもは子ども同士でワイワイガヤガヤと楽しくしているからイエスも子どもたちに混じって楽しんでいると思ったら、帰り道のテントを建てた時どこにも居ないことがわかって両親が青ざめた、という感じだったのでしょう。仲間の人に「ごめん、先に帰っていて、イエスがいないからもう一度エルサレムまで戻ってみる」と弟妹を他の親族に預けて「良い、きちんとみんなのいうこと聞いて帰るのよ」って不安そうな弟妹への後ろ髪をひかれるが如く、しかし野獣の多い道すがらどうかイエスが無事にいてとふたりはエルサレムに急いだことでしょう。

出会ったイエスは、神殿に居ました。安堵と共に沸き立つ怒り。「何やっているの!」と言う声に、「なんで?」と言うイエス。
イエスの生涯が終わり、ヨハネもマリアも当のイエスも天に召され、聖書と言う書物になった物を読んだ僕らだからイエスの「何で?」は理解できていても、当初書いた公生涯になる前のただの少年イエスの言葉としては理解できないし、ましては不安からの怒りを感じているマリアにはそれを要求するのは酷です。

清水牧師は今日のポイントは、51節母はこれらの事をすべて心に納めていたと言うところにあると言います。不安からの怒りの矛先のイエスの対応が理解できなかったとしても自分の腹に納めた態度。
もしかしたらイエスを身ごもった時に起こった天使からの祝福が甦ったのかもしれません。
この子は違う、というところを感じていたのかもしれません。だから納められたのかもしれないわけです。

私たちの当然(親の心配)と神の当然(イエスの回答)は違うでしょう。私たちは神の当然を理解できない部分が多分にあります。致し方ない事です。
だから、100%理解することを自らに課してはいけないのかもしれません。マリアのように、イエスの言っていること(したこと)は、自分には理解できないけれど、でも心に納めよう。と言う態度が正しい事なのかもしれません。マリアはイエスの誕生前に『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。(ルカによる福音書1:45)』とエリザベトにあいさつをするわけです。
愚直にでも信ずること。これを貫いたのがマリアの人生かも知れません。
磔刑の死だって母親としてはあまりにも辛い事です。それでも神を信じ、神の示した道をすすんだ息子イエスを信じ、ただただ信じ祈った母親。
この清書の箇所は、イエスが神の子の片りんを見せた、と言う側面もありますが、今日の説教は母マリアの信仰心をお話し頂きました。

十字架にかかる直前、エルサレム入城は過ぎ越しの祭りの時でした。そして3日後に死人のうちより甦り天に昇る訳です。
41節、46節はまさにイエスの死と復活を髣髴させる書き方です。つまりは十字架の死と復活も人の目には理解しがたいが、それでも神には不可能なことはなくなされる。マリアのように自身が理解できなくても心に納めただ祈ることの大切さを暗示しているのかもしれません。

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さて、年末でしたが今日は礼拝後まで残られる方がたくさんおられ、皆で昼食を共にできたことは感謝です。

クリスマス愛餐会

クリスマスは24日のイブと25日に行事を行うのが常ですが、教会は最寄りの日曜にクリスマス礼拝をして愛餐会をするところが多いです。
松田教会もご多分に漏れず今日の礼拝後に愛餐会が持たれました。

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松田教会のFacebookにもご案内が載っていました、礼拝のご案内と愛餐会のお誘い。

多くの教会の愛餐会は一品持ち寄り。
最近は様々な飲み会もお店ではなくレンタルスペースを借りて料理を持ち寄って気兼ねなく楽しむのが流行っていると聞きますが、まさにそんな感じなのかもしれません。
小さな教会ですが、みなボランティア精神旺盛と言いますか、教会のイヴェントに奉仕するのが喜びと言いますか、たくさんの料理が集まります。

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そして今年はハンドベルグループのルピナスさんが初披露の場として、松田教会のクリスマス愛餐会を選んでくれました。

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クリスマス定番曲のメドレー。澄んだ音色にみなうっとりと。

そしてお待ちかね。そうYouTubeでこの続きは23日に、と語ってくれたE姉妹とメグちゃん

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なんとなんと続きはミュージカルのように歌が挟まり、イエス様とザーカイさんの心温まるお話に目頭を熱くしながら酔いしれました。これは見れなかった方は残念です、とてもよかった。
ぜひ、またの機会にザーカイ物語見たいものです。

〆は隣接の松田町民文化センターで行われたリルプレ・カイグレ クワイヤー聖歌隊With松井真理さんらのゴスペルコンサートを見て終了。(途中で電車の時間となり退席)
こうして楽しいクリスマス礼拝の1日を過ごしました。

イエス様の時代、1日は日が沈むところから始まります。つまり明日24日の日没からクリスマスが始まり25日の夕日が沈むところを以て終わるわけです。
正月もあえて「元旦」と朝一番を特別視するわけですが、クリスマスも24日の夜、なったばかりを大切にし、クリスマスイーブニング(イブ)の礼拝を致します。が、松田教会は今年はイブ礼拝をいたしません。

私も仕事が終わる時間と(休日故の早まった)小田原教会のイブ礼拝の時間がタイミングあわず明日は家でイブを過ごします。

この方こそ主キリストです

2018年12月23日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 2章1-20節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。


2:1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2:2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
2:3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
2:4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
2:18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
2:19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。



クリスマスのお祝いは、裏に商業ベースと言うのもあるけれど、今やムスリムの人々もヒンドゥーや仏教徒もお祝いする全世界のものになっています。
例えば1568年のルイスフロイス宣教師の日記に「足利義昭を奉じて上洛した織田信長と京の実権を握っていた松永久秀がクリスマスの日に一時休戦」と書かれているし、1914年第一次世界大戦時のイギリスとドイツ両国は1日間クリスマス休戦をしたのは歴史に新しく、つまりは「本当の」意味は少しおいておいても、心がほっとすると言う意味ではクリスマスは大いに役立っているのでしょう。

クリスマスの礼拝説教はどうしても同じ個所が選ばれるので、毎年聞いているとその時牧師が何のメッセージを告げようと思っているかもわかって興味深いものです。今年はイエスの誕生の場所とそこにお祝いに駆け付けた羊飼いについてでした。
クリスチャンでない人でも、イエスが馬小屋で生まれた、と言うエピソードは聞いたことがある人も多いと思います。この箇所は、僕も何度も聞いたことのある箇所です。
まず、ナザレのイエスが140kmもかけてベツレヘムに行ったのは、住民登録のためであり、それは税金徴収のためと言うのはまず間違いのない事のようです。
そして行った先のベツレヘムで宿が取れなかった、と言うのも確かでしょう(そんな歴史的文献がないと言う方がいるかもしれませんが、そこを覆す(イエスは馬小屋で生まれなかった)と聖書そのものを覆すことになり、今日のBlogの存続自身も覆りますので却下です)。
なぜ宿が取れなかったのかについては2つのお話を聞きました。一つはオーソドックスに住民登録のための人があふれて本当に宿が取れなかった、と言う話と、マリアの胎の子はヨセフの子ではないと言う社会的な道義、当時の律法違反の噂がベツレヘムにも流れ、かかわりを避けたくてどの宿屋求めなかった。が、多少の温情をもった宿屋の主が、どこにも行けないのは不憫だろうから馬小屋でよかったら、と申し出た、と言う説。

聖書は2:7に場所がなかったからである。 と書かれています。
場所とは何か?を考えてみたいものです。

お腹の大きな妊婦さんがほぼ満員の電車に乗ってきたが、立っていた。その理由は何か? 座る「場所がなかったのである」のです。
社会においての場所とは、スペースと言う意味だけではなく、その人を囲んだ隣人の考え方(態度)ではないでしょうか?
ひと言の「どうぞ」があれば妊婦さんは座れます。「(座る)場所があった」訳です。
イエスの誕生の裏には、身重のマリアをどうすべきか? という人間の考え方だったのでしょう。
電車の中で、寝たふりをしますか? 読書やスマホに熱中して気が付かないふりをしますか? 車掌さんもそんな細かい事まで気を配る余裕はないよ、と言うでしょう。
だれもが妊婦に気が付き、誰もがどうにかなるだろう、と甘い気持ちで対応したのが、2000年前の「場所がなかったのである」です。
自分の部屋を差し出す人はいなかったでしょうか?宿屋の主人は私たちが布団部屋で寝ますからとはいえなかったのでしょうか?万が一誰も部屋の提供もできなくとも、何故布団の提供、暖房の提供などはなかったのでしょうか?

そしてもう一つ、天使が顕われたのが、王や祭司長たちではなく、羊飼いです。
昔、野宿者支援をしていた時に満天の星(冬冷えだからこそ)を見上げながら歩いた時同行の友が「外にいたからこそこの星を見れたんだね」と言いました。
王宮や温かい部屋VS路上と言う場所の関係だけではなく、見ようとしたかどうかです。
もしかしたら聖書には書かれていないけれど、天使は王様や祭司長の所にも喜びを伝えたかもしれません。が、寒いしなぁ、それに馬小屋なんかになんで俺が行かなきゃいけないの?俺偉いんだよ、と行かなかったら出会えないわけです。
羊飼いは蔑まされた弱者故に小さな喜びにも反応できたのではないでしょうか?
しかも、絵本などを見るとわずか数人の羊飼いしかいません。選ばれた羊飼いなのでしょうか?天使の言葉に無気力な羊飼いらもいたのかもしれません。そういう羊飼いは千載一遇のチャンスを逃しました。

クリスマスの出来事は、『出会い』のお話ばかりです。ですからそれは2000年前に起こった出来事だけではなく、今だって起きる可能性を大きく秘めた物語です。

クリスマスおめでとうございます。今日は礼拝に出発する直前の我が家の玄関の様子です。

20181223-01

クリスマスのお誘い

今年の松田教会のクリスマスのお話しはザーカイさんらしい




クリスマスはぜひ教会にお越しください\(^o^)/

ザーカイさん って・・・


悔い改めにふさわしい実を結ぶ

2018年12月16日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 3章7-28節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

3:7 そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3:9 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
3:10 そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
3:11 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
3:12 徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。
3:13 ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
3:14 兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。
3:15 民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。
3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3:17 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
3:18 ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。



今日与えられた御言葉は、先週の聖書の続きの部分です。そこで、と始まっているのは先週のルカによる福音書3:3「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」であり、その集まった群衆へのメッセージが今日の箇所です。

今までのままでいいのか!?と問いかけます。
悔い改める、すなわち今までの生き方の間違いがあるのなら正しなさい。そうすれば神様の目に正しく映ります、とたらるのです。

しかしそれにしてもヨハネの言葉は鋭いです。確信をグサッとついて、神の前に自分は正しい人間だと立てるのか?と問うのです。集まった群衆は慌てふためきます。どうすればいいのですか?とアドバイスを乞うのです。
ヨハネは、鋭い問いかけの割に易しい悔い改めを語ります。それは不満を言わないことと弱者への愛を注ぐこと。
これがヨハネの言う悔い改めであるのなら、2000年経った今も本質は変わらず、今もこれを守ることは絶対的に正しいと思えるし、従っていないのならやはり悔い改めるべきだと思うのです。

しかし、残念ながら今日日の為政者は、また権力者は従っていないように見えます。
様々な政治献金規制法の違反と悪びれずに「訂正しました」の言葉で済ます禊。国民の福祉のために課税をしますと税金をあげながら、国民への還元はなく、一部の自分へ政治献金を献げる企業体の繁栄のために使用する政策。そしてさまざまな福祉のカット。目を海外に転じても同様です。
神の目に正しく救われるためには易しい事ですが、権力者の立場には難しい事なのかもしれません。

清水牧師は、悔い改めは言葉ではない、と語ります。「仰る通りです」と言ってもやらなければだめなのです。
実をつけろ、と聖書は語り、その実も判断の末に切られてしまうかもしれない、と言うのです。実は神の目に沿ったものなのか否かをたちどころに判断してしまいます。見て嗅いでそして一口口に入れればいい実か否かはわかるものです。

自己中心のわがままな人生を送るものにとって悔い改めて隣人愛を説くわけです。それは改めなければ裁きが下り、方向転換して隣人愛に生きれば福音の喜びがあると言われます。
そしてその最たる実行者であるメシアがこのあと生まれれば、自分など靴の紐を解くすら叶わないと言うのです。
そう言わしめたイエスの誕生を祝うクリスマスが来週に迫っています。よきアドベントを共に過ごしたいものです。

****

20181216-01

今日は教会学校の子どもたちもたくさん来てくれたし、礼拝後の昼食も大勢でワイワイと\(^o^)/
終わってからはカフェワークショップ。いよいよ迫った会堂改修工事とカフェのために話し合いの時を持ちました。

あらゆる人が神の救いを見る

アドベントの季節を迎えました。
説教台の隣にはクランツが置かれ2本目のろうそくに明かりがともされました。

20181209-01

2018年12月9日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 3章1-6節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

3:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、
3:2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。
3:3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
3:4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。
3:5 谷はすべて埋められ、 山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、 でこぼこの道は平らになり、
3:6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」



でこぼこの道、山あり谷ありの道を整地して主の道を作る。道路工事ではないがこの光景が信仰とどのようにリンクするのかは、ちょっと推測が難しいけれど、たとえば欲望がゴミ袋に入っていたらどうなのだろうか?
大金持ちになりたい、とか、長生きをしたいと言うのはものすごい大きなゴミ袋で、あと漫画の「俺の空・刑事編」で主人公が日本最大財閥の財力で湖の水を全部抜いて証拠品を捜したのをスカッとした気分で呼んでいた僕も今思えば権力欲に取りつかれていたのかもしれません。きっと大きなゴミ袋が道をふさいでいたのでしょう。中身によっては硬いもの、鋭利なもので通る通行人にけがをさせるかもしれません。
そこまで大きくなくても、腹減った、我慢できないというものも、暑いから業務時間は始まったけれどもう少し涼んでいようも、かったるいから電車のシートに腰かけて寝ているふりしちゃおうも、黄色信号だけれど止まらず行っちゃえも、みんな道路をふさぐ欲望のゴミ袋たちでしょう。踏んでつぶれちゃうものもあるかもしれませんが、たとえそうであっても道をよけて歩くものです。ポイ捨てされたごみ袋は邪魔なものです。
ゴミ袋の大小や中身どうであれども皆行く手を塞ぐ物、これらをどかしちゃいましょう、と言うのが今日の聖書の御言葉。
いやいや難しいぞ。水戸黄門だって印籠と言う権力を振りかざすのだし、それもNGといわれたら悪がはびこるんじゃないかい?
しかし果たしてそうだろうか? 民主化が成功している事例は、権力者の鶴の一声じゃなく、力ない人たちがないなりの力を結集して勝ち取っている場合が多いし…。
それに本能に近い欲は駄目だと言ってもなかなか捨てられない。まさに義人無し、だ(>_<)

今日の御言葉が与えられる前に聖書を交読しました。

1:3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
1:4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
1:5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
1:6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
1:7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。
1:8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
1:9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
1:10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。


9節以下で知る力(真の知識)と見抜く力(識別力)を身に着けろと言われます。そしてキリストの日に備えて清い者(純真)、とがめられ(非難され)るところのないものになれと書かれています。

道路をふさぐゴミ袋の中の者は本当に必要なものですか?大事にしなければいけないものですか? 不要かもしれないけれど捨てられないものまで捨ててストイックに生きなければ絶対ダメではありません。そこまでの義人はいないのです。でも捨てちゃおう、と思うことは大事です。エイ!と捨てる勇気も必要です。
知る力と見抜く力で自分の人生にどこまで大事な物かを分別しましょう。断舎利しましょう。

そしてもう一つ。なんで神の言葉がヨハネに降ったのか? 王宮に居るヘロデなどには降らなかったのか? を考えてみたいのです。その差はきっと、傲慢な生き方か否かです。
俺の空・刑事編はスカッとする話です。水戸黄門の前に悪人がひれ伏すのは小気味いいのです。でも、そのやり方は冷静に見れば傲慢この上ないのです。誰かの力(それは財閥と言う財力であったり、徳川幕府と言う権力為政者だったり)で解決に導かれるのではなく、たとえ解決できなくても尽力する謙遜の中に生きることの大事さを教えてくれています。

神は結果を求めるのではなく、神の道を歩む経過を大事になされる方ではないでしょうか?


****

20181209-02

今日は、お昼ご飯のお料理を作ってくださっているE姉はじめ多くの方が関わっているボランティア等のクリスマス会でお昼を共にできない寂しいものでしたが、清水牧師の農場で作られた野菜を中心にヘルシーな食事を共にした後、会堂改修工事の相談会を施工担当のM棟梁と設計プロデュースの東海大S教授と教会役員さんとの会合に首を突っ込ませてもらいました。
予算と手持ち金額の差はいかんともしがたい金額でしたが、M棟梁とS教授の綿密な協議の結果なんと妥協できそうな数字に近づきました。
皆さんの多大なるご尽力はもとよりですが、余りに僕らの考えを超えた金額が一致をしそうになると、もうやはり神様の召命として改築をしなければならないと感じます。
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