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ゴスペルコンサートのご案内

20181113-01

いよいよ次日曜に迫ってまいりました松井真理さん率いる I say a little prayer & 開成 Grace の2クワイアのコンサート。
なじみあるゴスペルの歌をお聞きいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。

チケットに限りがありますので、事前に教会までご連絡いただけましたら幸いです。

クリスマスのお誘い

今年の松田教会のクリスマスのお話しはザーカイさんらしい



ザアカイさんのお話をご存じない人もいるでしょうから、新所沢キリスト教会こひつじ幼稚園さんのSiteからお借りしましたお話をおよみください。
元Site はこちらです

ザアカイはチビでした。いつもみんなからいじめられていました。
「やあーい、チビのザアカイ」
だからザアカイはいつも背が高くなりたいと思って、木にぶらさがったり、体操をしたり、牛乳をたくさん飲んだり、一生懸命にやってみましたがだめでした。いつもみんなからばかにされていました。
ザアカイは大人になったら、いつもいじめていた人たちをやっつけてやろうと思って、一生懸命に勉強をし、お金をため、それから役人になって税金をとる人たちの中でいちばん偉い人になりましたが、ますますみんなに嫌われるようになってしまいました。
ザアカイはいつも一人ぼっちでさびしくしていました。
どこに行っても木が生えてなくて、岩や石ころばかりのヨルダンの地方で、ザアカイの住んでいたエリコの町だけは、オレンジや無花果や、ぶどうやなつめやしの木がたくさん生えた、美しい緑色のあふれた所でした。
こんなきれいなよい所に住んでいても、ザアカイはいつもさびしくて、つまらない毎日でした。だってお友達が一人もいなかったのです。
それどころかザアカイが町を歩くと人々はザアカイの悪口をこそこそと言ったり、ザアカイを見ただけで顔をそむけて行ってしまうほどでした。
そんなある日のことでした。前からうわさに聞いていたあのイエスさまが、このエリコの町に来られると聞きました。
ザアカイはこのイエスさまがどんな人か見たいと思って、表の道に出てきました。通りには人がいっぱいあふれていました。
みんなイエスさまのお話を聴きたいと思ったり、病気を治して欲しいと考えたり、困っていることをイエスさまに相談したいと思っていたのです。
もちろんイエスさまのお顔を見たいと思っていただけの人たちもいたでしょうが、イエスさまに抱いてもらいたいと考えていた子どもたちもいたはずです。
ザアカイもイエスさまがどんな人か、ちょっと見たかっただけなのですが、あんまり人々がたくさんいるので、まるで壁のようで背の低いザアカイには前がなんにも見えませんでした。
押しわけて前に出ようとしても、それがザアカイだとわかると、人々は意地悪をして、前のほうに通してくれませんでした。
そのとき、ザアカイはあの四辻の近くにあるいちじくの大きな木のことを思い出しました。大急ぎで走って行ったザアカイは、よいこらしょっと、この木に登りました。
そして枝に腰をかけると、向こうのほうからイエスさまがやってこられるのが見えました。
「あっ、先頭を歩いている白い着物を着た人がイエスさまかな。やさしそうな顔をしていらっしゃるな。その横のいかつい肩をした人はだれだろうな、お弟子さんかな」
そんな事をつぶやきながら、いちじくぐの木の上から見物をしているザアカイのちょうど真下までやってこられたイエスさまは、立ち止って上を向き、声をかけられました。
「ザアカイよ、下りていらっしゃい。今晩、わたしたちはあなたの家に泊めてもらうことにしているからね」
ザアカイはびっくりしてしまいました。だってイエスさまにはじめて会ったのに、イエスさまは自分の名前を知っておられたのですもの。
それに、お友達が一人もいなくって、だれも遊びにきてくれたこともないザアカイの家に、イエスさまが来て下さるというのですもの。それに泊ってくださるんですって。
ザアカイはすべり落ちるように、いちじくの木からおりてくると、先頭に立ってうれしそうにイエスさまたちを案内しました。
背の低いザアカイが腰をかがめていましたから、もっと小さく見えましたが、その顔はにこにこと輝いていました。
町の人はみんなあっけにとられてしまいました。
「イエスさまって、あのザアカイが悪いやつで、みんなにきらわれていることがわからないんだろうか」
「不思議だなぁ」
「おかしいなぁ」
町の人たちには、イエスさまのお心がわからなかったのです。
ザアカイはイエスさまたちが家に着かれると、たらいに水をくんできてみんなの足を洗ったり、家の人たちに言ってごちそうをいっぱい作って出したり、一生懸命おもてなしをしました。
だってザアカイには、こんな嬉しい日は今までになかったのですもの。
お食事が終わったときでした。ザアカイはまじめな顔をして言いました。
「イエスさま、わたしがみんなに嫌われていたことがよくわかりました。わたしは自分の事ばかり考えていました。でもイエスさま、私が一生懸命ためたあのたくさんのお金の半分は困っている人たちにみんな分けてあげます。もし、ほかの人からだましてお金をとっていたら、それを倍にして、いいえ、四倍にして返すことにします。もう悪いことは決していたしません」
「イエスさま、これからはチビと言われても、怒ったり、どなったりしません」
イエスさまはとってもうれしそうな顔をしてザアカイに言われました。
「ザアカイ、よかったね。あなたは今日救われたのですよ。わたしは仲間外れにされて、迷っている人たちを救うために来たのですよ。これからはみんなとお友達になって、みんなを助けてあげるようにしなさいね」


さぁこの話が何でクリスマスのお話なんだろう? メグちゃんの言っていた関係なのかな?
クリスマスはぜひ教会にお越しください\(^o^)/

かめの粉は尽きず

2018年11月11日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、列王記上 17章8-16節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

17:8 また主の言葉がエリヤに臨んだ。
17:9 「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」
17:10 彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。
17:11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。
17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」
17:13 エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。
17:14 なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」
17:15 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。
17:16 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。



神はサレプタと言う町に行け、そこで寡婦にあなたを養わさせるとだけ言うのです。
この町の大きさがわからないですが、その前にいた場所から50-100km離れた町に、果たして寡婦が何人住んでいて、どんなお顔で、おいくつくらいで、どんな特徴があるのか?全く分からないままエリアはその町を目指します。
エリアは神を全く一点も疑う事がなく、その通り町の入り口で寡婦に遭います。しかしこの寡婦かどうかは神からの啓示はありません。
寡婦も神から啓示を受けたのか?もエリアは知らされていないわけです。
そこでアプローチをかけます。
神が養わさせる、と言うくらいだから、水をくれと言ったらためらわずに水をくれるだろうと。
果たしてそうなりました。
そこで更なる追い打ちをかけます。パンもくれ、と。

エリアは神からの声を聞きましたが、世の大半は神の声を聞いたことがないわけです。でも、そんな中でも神は命じます。僕らは全く命令を知らないままにエリアと寡婦のように対面していることがあるのではないでしょうか?
RFLの活動をしていてもやはり必然の出会いだったと感じることはあります。出会う段取りを神がした上だからこそ出会えた関係は、素直に神に感謝をすべきなんでしょう、と思うのは、ベースに信仰があるものの意見なのでしょうか?

名前も素性も知らない女性に出会うと言うという難問は突破したと思ったエリアにとって安堵する間もなく第二の難関が降りかかります。
養ってもらわなければならない人が貧困で食べ物などないと言うのです。
あなたにあげるだけのパンの予備はなく、自分と息子の最後の晩餐としてのパンをこれから焼いて食べたら、もうですべてを尽くし終えたのでこの世と離別するしかないと言うのです。

エリアはこの話を聞いて、2人分のわずかな粉でまず自分のためにパンを作れ、と命じます。
いや、どんだけ上から目線なのか、この気の毒な親子の話を聞いた上でなおかつそんなひどい言葉を投げるのか、と思うのですが、そんなエリアの言葉を寡婦は受け、まずエリアのためにパンを焼き、その後自分たちのパンを焼いたと書いてあります。

この出来事に神が絡んでなければ、ありえない偶然が連続するつまらない話になります。しかし、こうした難問ですら解決ができる神がいればこそ希望がわきます。労苦に立ち向かう勇気がわきます。
そしてどんな出来事もインマヌエル、神共に居たもう、事を感謝したいものです。

****

今日は隣町の町の文化祭に出演されるR兄をはじめ何名かの方がお休み。少しさびしい礼拝になりました。
がいつも通りE子姉がお昼を作ってくださり主の食卓を囲みました。感謝。
そのあとはカフェワークショップをするのですが、カフェ『にこっと』で出すケーキの試食だけさせてもらって所要で帰宅。

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いよいよ見積もりが今週に提出されます。何事もそうですが当初の予算よりも上回るかもしれない中、小規模の教会は戦々恐々としますが、それでも今日の説教のエリアのように、まったく知らないところに「行け」と言う命令だけで怖れや不安を持たずに出向く姿を見て僕らも勇気を持って雄々しく歩みたいと思います。

キリストによる完全な救い

2018年11月4日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヘブライ人への手紙 7章23-28節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

7:23 また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。
7:24 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。
7:25 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
7:26 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
7:27 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。
7:28 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。



旧約の神のポリシーは、アダムとイブそしてその子孫と言う神を裏切った人間との距離ある存在だったと思います。
それ故に私に従えば助けてあげようと繰り返し言われ、逆らうものを滅亡させる恐ろしさをもっていました。
しかし、新約の神は「愛の宗教」と言われるように、その恐ろしさは全くなくなり赦しと慈愛が前面に押し出されています。
同じ神なのに…、なぜ変異したのか? が今日の聖書の箇所だと思います。

清水牧師は2人が相対している時で和解を必要な場合は仲介人がいると物事が解決すると言います。
土地を売りたい人買いたい人がいれば土地鑑定士が必要ですし、法的な話になればお互い代理人を立ててそのジャッジは裁判官がします。喧嘩が始まればまあまあまあと誰かが割って入り仲裁し、結婚をしたい2人の間には仲人が取り持ちます。
この時に大事なのは両者からの信頼だと言うのです。
確かに片一方に立った人であればどんな仲介もうまくいきません。

神と人との間もどちらからも信頼されている人こそ祭司だったわけですが、死により神の御許に戻る時が来たり、また生きている間にも信頼を失墜する行為を起こすこともあります。
「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3:10B)
と言う御言葉通り、どんなに神の前に従順であって人から信頼を受けていても、それは人間ですから罪を犯します。
相性のいい人悪い人で対応が変わったり、怒ったり陰口をたたいたり、馬鹿にしたりめんどくさがったりします。
大きな事件を起こす事だけが罪ではなく、心の中であっても罪は罪です。

が、イエス=キリストのみは、自らそうした罪をもなく、そして屠る生贄を牛や羊ではなく自らと定めて神との和解をしてくださったわけです。
そして神の右の座についたことで時間の概念も超越したことをもって最後の祭司と言われるようになりました。
最後ですから、そして永遠ですから、この先判断が変わることはありません。二度と否定のない永遠の救いです。
これが旧約と新約の神の差ではないでしょうか?イエスキリストの仲介の大きさに感謝しかありません。


****

さて、今日は9名のメンバーと昼食を頂きました。
生きるに一番大切なのは「食」です。それを笑顔で楽しく食べられる幸せ。毎週のご用意のE子姉妹に感謝。
今日はおでんと雑穀枚の御飯とサンマの醤油煮でした。

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試練からの脱出

2018年10月28日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章1-13節。表記のタイトルの説教を東洋福音教団沼津教会新村隆牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。聖書は章節のナンバーも記載いたします。

10:1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、
10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、
10:3 皆、同じ霊的な食物を食べ、
10:4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
10:5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。
10:6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。
10:8 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。
10:9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。
10:10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。



今日は東洋福音教団沼津教会との交換講壇で同教会の新村隆牧師にお越し頂き礼拝を守りました。
教団小田原教会でも交換講壇は行われており、他教会の牧師がお越しになり礼拝説教をお聞きする機会はありましたが、他教派との交換講壇は初めての事でとても興味も持ちながらでした。が、当然のことながらどの牧師先生がお話なされても見上げる主はただ一人、です、何らいつもと変わることはありません(笑)

新村牧師も困窮の青年期を過ごされたと語ります。試練はどこから来るのか?はそうした時からとても大きな関心ごとだった、と。
たとえばお金がない時に車で制限時速を上回り捕まった、とか、おいしいからと無節操に食べてお腹を壊した、と言うような自己責任による試練の時はありますが、そうではない(自分の責任下ではない)試練の時もあります。
新村牧師は2つの例を出されました。一つはモーセ。カナンの地へは徒歩でも約10日で行ける距離だそうです、しかし神は40年かけさせた訳です。今日与えられた御言葉の7-8節のように、モーセがシナイ山に登っている間異教の神を拝み踊り、その結果多くの人が無くなると言うようにこの40年の間青年は皆死んでいき(10歳で出発した人が50歳ですから当然かもしれませんが)、カナに着けたのはたった2人でした。

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。(マルコによる福音書1:12)も、イエスを試練にあわせたのは悪ではなく霊だと書いてあります。
神が試練を与えることはあるのは確かです。では何で与えられ、どう対処するのか?Goalはどうなのか?が試練と向き合う方法だと思います。
しかし何で与えられるかは、全能の神ではない僕らには理解できないことでしょう。

さて、創世記を見ると延々と家系が描かれています。生まれて○○歳まで生きて死んだ、を繰り返しています。人間は生まれて死ぬように定められています。
その間様々な人が人生の中で困窮をしています。息子を殺せと命じられた人、弟に騙された人…しかし、誰もが困窮の中、神と和解できずに死んでいくものはないのです。神は最後の最後に試練からの解放をしてくれています。

もし何の試練もない一生だったら、悲しみや苦しみがなかったらどんなにいい人生なんだろう? と一度や二度思うことは誰しもあるのではないでしょうか? そしてよくよく考えて、そんな不毛の人生はいやだと思うのではないでしょうか?
僕のがん闘病ソウルメイトの方で「がんになってよかったこと」を書き綴った人がいます。
富豪の家に生まれた釈迦は、人生を見つめて出家します。
試練があっても笑顔で入れる人、試練がないので自ら試練を求める人。
そこには試練を乗り越えた喜びがあり、そして喜びを友と分かち合える楽しみがあります。悲しみは聞いてもらえることで一人ではないことを実感できるのです。
試練があればこその人生なのです。

話は全く違いますが、重いものにロープをつけ引っ張って動かすとき、一人で引っ張る時と、誰かを背負って引っ張る時、後者の方が重いものを動かせるのです。自重があれば靴と地面の間の摩擦が大きくなりしっかりと歩けるのです。背負ったら一層大変じゃないか?でも、背負うとできることもあるのです。
軽いと摩擦がないので摩擦の大きな荷物は動かないのです。
家康は
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
と言いました。
重荷を背負って荷重をかけてしっかりと地面に足をつけていないとちょっとした風でも体が持って行かれます。しっかりと人生を歩むためには重荷は必要なのかもしれません。

重荷を負うことで摩擦が働きしっかり地に足がつき歩けます。僕らクリスチャンは自ら定めた十字架を背負っています。重ければ重いほど、試練があればあるほど人生をしっかり歩けるのかもしれません。

そして最後に証しの大切さをお話し下さいました。
証は先ほども記したように話すことで喜び悲しみを分かち合えます。他人に話した言葉は自らにも返ってきます。再度よかった時悲しかった時、苦しみの時笑顔の時をリプレイできます。
弟子たちもパウロもきっと福音書や手紙を書きながらイエスに出会えた嬉しさをかみしめたのでしょう。それはブログを書く僕も全く一緒です。再度午前のイエスの言葉をかみしめられる喜びにあずかれるのです。

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礼拝が終わればみなでの食事。いつもながらE姉の手作りお料理に舌鼓。

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今日はお初にお会いした新村先生とも旧知の中のようにたくさんおしゃべりをさせて頂きました。ありがとうございます、感謝。

富める者と神の国

2018年10月14日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 10章17-30節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」
10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。


過去の説教でもお話しされたようにマルコは人生と言う「道」に通じる「道」をよく使っていますが、新共同訳は違う言葉を使っており、今回も「旅」になっています。
しかし、今回の話も「永遠の命を得るように生きるにはどうすればいいのか?」と言う人生の今後の行程を尋ねる話です。

質問者は、きっと親からの財産を譲り受けて何の苦労もなくここまで来たのか? もしくは自らの才覚で財を増やしたかいずれかであろうと思われます。
可能性としては後者が近いのではないでしょうか? それ故に自分の努力でどうにでもできる自信からの質問に見えます。自信家です。

それに対してイエスは、なぜ人である私に最大級の賛辞をつけて物事を訪ねるのか? と人の力の無力さと神の力の偉大さを伝えますが、どうも伝わらないです。
そして、この質問者は人間の価値基準である財産に執着し、神への帰依を拒みます。
神様よりお金をとった訳です。
そしてイエスにNoGoodと言われて帰るのです。

この聖書の話を聞いて、そうだ!イエスの言うとおりだ。と言うのは難しいです。僕もすべてを捨てて、と言われたら躊躇し結果この金持ちと同じようにすごすごと引き下がるでしょう。
大金持ち、小金持ちではない、比率から言えば貧乏の方に属してもすべてを捨ててはできません。

ではどう読むのか? 
野宿の方に出会うとほとんど何も持たずに生きている方がいます。で、「何か必要なものがありますか?持ってきますよ」と言うとささやかな物のリクエストがあります。
で、それが可能とわかるとリクエストの要求率がアップすることがあります。
僕らもそうです。今年の給料でもやっていけたはずなのに、ベースアップがあり例えば1万円上がったとすると月末に1万円が余る訳ではなく、いつもと同じように無くなるのです。
極論から言えば「もっと」と言う要求は、お金と言う悪魔に心が囚われてしまった状態なのかもしれません。
「もっとほしい」が過ぎたからこそ財産家になった青年。

「足る」ことを知る。そこにはなくてもどうにかなる、と言う発想がなければいけないでしょう。
そして自分の商才があったのなら、その力をほかに分け与えられなくてはいけないことを諭されたのではないでしょうか?

しかし僕らはこの金持ちと五十歩百歩です。どうしても自分がかわいく、自分のための無駄遣いは許せても他人が自分の稼いだお金を無駄遣いすれば腹立たしく思ってしまうのです。
それでもイエスは言います。27節、神は救うことができる。神を無視して拝金にならないのなら、完璧でなくても、だめだと言われてすごすごと引き下がることなく、だめな自分でも救ってくださいと神に委ねていきることが大切なのです。神は全能だからです。

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さて、今週も礼拝が終わった後はみなでの昼食会。愛餐の時。
今日はピタパンと野菜たっぷりのスープ。

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そしてカフェワークショップをいたしました。
工事をお願いする棟梁にお越し頂いて顔合わせ。改修が本格的に進んできます。

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お交わりの多い主日でした

教会と言う場所は、ほぼ毎週礼拝に来る人、ご都合で時たまにしか来れない人、それと嬉しいサプライズの新来会者の方からなります。
今日は学校からお勧めの女子学生さんお二人が来られました。こういうのはとてもうれしいこと。

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松田教会は礼拝が終わると全員で食事をとるのが通例。今日はE姉のタイカレー。
そこに東海大のS先生と学生さんが交わりにぎやかな食卓に!

教会は今東海大学のボランティアの協力のもと改築の準備の時。
新しい礼拝堂は、喫茶ルームを併設し、平日も開かれた場所として使ってもらおうと計画中。
周りで測量をしている最中、僕らはS先生と相談したり、喫茶ルームの名前を検討したりとワクワク楽しい時間を過ごします。

いよいよ稼働していく、それは神様とそして「笑顔と感謝」言う代償だけで頑張ってくれている多くの若人の力によるもの。ぜひ素敵な喫茶ルームを備えた教会を早く建てたいものです。

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仕える者となりなさい

2018年9月23日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 9章30-37節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

9:30一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。
9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。

9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。
9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。
9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」



イエスたちは町から町へと移動しながら福音を述べ伝えています。その最中が今日の聖書の箇所。ベトサダからフィリポ・カイサリア地方を通ってカファルナウムへ来たところです。その途中途中で弟子たちは「(弟子の中で)誰が一番偉いか?」を言い争っていたと書いてあります。新共同訳では「途中」に言う表現を使っていますが、新改訳聖書は「道」と言う表現を使っており、清水牧師は「道」の方が理解しやすいのではないかと語ります。
それは、確かにベトサダからカファルナウムへの旅の途中の道々でですが、あわせて人間にとっては「(歩んでいる)人生の道」であり、弟子たちは(自分の人生の転機である)エルサレムへの道のりの途中であり、イエスにとっては十字架への道であるからだと言います。それを裏付けるようにこの福音書の著者マルコは「道」と言う言葉が好きでよく使っています。たぶん言葉の裏の含みをもたせているのでしょう。

31節でイエスは人々の手に引き渡され殺される」と弟子たちに語り、それに対して弟子たちは怖くて尋ねられなかった、と記載されています。
時同じくしてわが国では最大与党の自民党の総裁選が行われ、安倍氏が国会議員票329票+党員票224票=計553票、石破氏は73票+181票=計254票でした。選挙後安倍氏はダブルスコア―で勝ったことのみを強調し、国会議員の考えと国民(党員は224対181の均衡)の考えが乖離していることには一切触れませんでした。しかも懐刀の麻生氏は「石破氏の善戦?どこがだ??」と言っていたのは、本心ではなく弟子たちが『怖くて尋ねられなかった』のと同じ焦りを感じさせてなりません。
『これからエルサレムにいって「王」となり、俺たちはその側近として偉そうにできる』それだけを楽しみにイエスについてきた弟子たちにとって殺されるなんて言葉は聞きたくもないし理解したくもない不吉な言葉に過ぎなかったのでしょう。

今日の一つの大きなテーマがここ「人々の手に引き渡され殺される」です。
このBlogを読まれている人の中には、クリスチャンの人、そうでない人もいるでしょう。その一人一人が、このイエスの死をどう受け止めるかは人それぞれですが、クリスチャンは自分の罪のためにイエスは十字架につけられた、と広言をしているのです。
2000年以上前の十字架刑が自分のせいだと言うのは時系列的におかしなことかもしれませんが、それが神の救いなのです。時空を無視したすべての時代の霊の救世なのです。
三浦綾子さんの「塩狩峠」の中で、主人公の信夫は伝道師の伊木の「十字架につけたのはあなた自身だと分かっているのか?」と言われて、頭(かぶり)を振り「とんでもない。僕はキリストを十字架につけた覚えはありません」といいます。それが普通の考え方なのかもしれません。でも僕ら人間の叡智を超えたのが神であり、「人々の手に引き渡され」る中に僕もいるのです。
僕も「その場」にいたとしても『この人は無実だ』と言えなかったでしょうし、そんな僕の駄目さ愚かさ弱さ全てを僕の代わりに償ってくれるのがイエスの十字架の死です。

そして生き方として仕えよと弟子たちに語ります。これが2つ目のテーマ。
給仕すると言うことは、相手の食事のタイミングや要求にあわせて温かいものは温かくお出しし、冷たいものは冷たくおいしく出すようにするものです。それだけではなく、お冷お酒などもタイミングを計ってお伺いを立てるものです。
カトラリーを落とせば(お客さんの粗相であっても)お前のせいだ、自己責任だなんて言わずに、そっと新しい物に代えるのが給仕です。
それはいかに相手の気持ちに近づけられるかの想像力の勝負であり、それの実践です。
そうであれといいます。隣人を愛せ、の愛し方をこう教えられました。

決してバーターの取引ではありません。ですから隣人を愛さなくても神はイエスを通じて僕らの罪を許してくれています。どんな犯罪者であっても…例えば浅原彰晃氏であってもA級戦犯諸氏であっても僕らであっても差なく赦されるのです。
が、同時にイエスが僕らに教えた生き方はこの給仕の精神なら、感謝と共にこの精神を全うすることがイエスのみあとを歩むと自らの意志で約束したクリスチャンとしての生き方ではないでしょうか?

みことばを実行する人

2018年9月9日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヤコブの手紙 1章17-27節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。


1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。
1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。



「信仰義認」と言うパウロの教えがあります。ただ神を信じる信仰によって救われるという考え方で、日本のキリスト教会でもその考え方が踏襲されていると言っても過言ではないでしょう。
しかし、今日のヤコブの手紙の著者は、少し異論を書いています。行動する意義が説かれています。
清水牧師は、それは整合を外れた訳ではなく、『行いによって人祝福されるが、それはしかし救いの条件ではない』と語ります。極めて明快だと思います。

19節以降の解りにくいたとえ話。
人は外から意見されるのが嫌いです。聞いているようで「聞く耳を持たず」です。
そして「口は達者」です。自分の事を棚に上げ、他人の些細な欠点でも見つけやすいものです。
また、他人が悪気地を言うのを聞くのも嫌です。「自分が出来もしないのに偉そうに言う」と思うものです。
だから意見されるような聖書の御言葉に聞き従わなうことに躊躇をしちゃあいけないのでしょう。みんな出来ないから自分だけ守っても、と他人のせいにしちゃあいけないのでしょう。人より「早く」聞くことが大事なのでしょう。
人の欠点を話す時はしないように精一杯すべきでしょう。できるだけ我慢して口から出ないように(遅く)すべきでしょう。また、ほかの人が欠点を見つけた時も悪い所は見ないように(遅く)しましょう。そうした実行をしましょう、とヤコブは言われているのだと思います。

日曜日、教会に行っています、と出向き、「平和になりますように」「不正が無くなりますように」「差別が無くなりますように」と祈っても、『本気度』が問われます。平和のために時間をさけたでしょうか?不正をなくすために努力したでしょうか?差別をなくすためにあなたは何をしたでしょう?
そうした行動をもとなった本気の改革をしなさい、と言われても、してこないから平和が実現せず、不正や差別が続くのでしょう。
礼拝の祈りはセレモニーではない、と言われました。礼拝は派遣の祈りをもって閉じられます。僕らは主の恵みを持ってこの世に押し出されていくのです。礼拝に行っているクリスチャンであります、と満足してはいけないのです。

イエス様は聖書の中で
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

マタイによる福音書22:36-40とあります。
主を愛するのは信仰です。そして隣人を愛すのは行いです。信仰と行いは同じように重要だと言っておられます。
信仰心があるからと行いを軽視していないか自分自身に問い続けたいものです。
2章20説に行いの伴わない信仰が役に立たないと書かれています。

大能の力によって強められなさい

2018年9月2日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、エフェソの信徒への手紙 6章10-20節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
6:18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
6:19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
6:20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。


讃美歌21の372番に「幾千万の母たちの」と言う讃美歌があります。その4番の歌詞は
幾千万の母と子の
こころに合わせいまいのる。
自分のなかの敵だけを
おそれるものと なるように


とあるのです。
この詩は阪田寛夫さんによるもの。坂田さんは誰もが知っている童謡の「サッちゃん」や「おなかのへるうた」の作詞家でもあります。
氏は、大正年間に生まれ、戦争にも関わった反省の中から自分が反戦歌を作ってもいいのか悩み、それでも書かねばと奮いできたのがこの讃美歌だと言われています。
与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」と歌います。誰もが家族の死を望む者はおらず、何としてでも(エゴイスティクに言えば)自分の家族だけは生きて帰ってきてほしい、と言うのは敵の家族であろうが味方の家族であろうがそう思っていたはずです。誰もが戦争で嫌な思いをしたくなかった、悲しい涙を流したくなかった。それでも戦争は進んだ。
その反省がこの4番の歌詞だと思います。武器云々ではなく戦争は人の心が起こします。もっと言えば、人の心に忍び込む悪魔の仕業だと言ってもいいでしょう。

そしてそれは戦争だけではなく、様々な不平、差別、陰謀など穏健な人を怒らせるだけのさまざまな悪魔の仕業があるのです。
清水牧師は説教の中で、神を信じると言う人は少なからずいるが、その中でも悪魔の存在は否定的な人もいる。が、対極的な存在の悪魔が理解できなければ、神の本当の存在も見えにくいものだ、と語りますがまさにその通りだと思います。

「魔が差した」と言う言葉。なんで魔はさすのか?といえば、まさにそれを悪魔の仕業だと思います。
神にしろ悪魔にしろ有機的な「モノ」だと思うから、神の存在も悪魔の存在もわかりにくいし非科学的なものだと思われがちですが、喜怒哀楽のような感情と同じく心の中に湧き出すものだとすれば、「アル」ことに不可思議はないでしょう。
遠藤周作氏の「白い人黄色い人」などはまさに悪魔に敗れる話ですが、誰もがうなずく話だと思います。悪魔を語るにはぜひこの本をご一読なされてからにして頂きたいと思うほどです。
いずれにしろ「負の力」はどこからか湧いてきます、もしくはやってきます。これは確かなことです。多分論点になるのは存在自身ではなく、それに「悪魔」と言う名をつけるかどうかだけです。

その時にどうしろと言うのか? が今日の聖書の箇所です。パウロが僕らに教えてくれた言葉です。
悪魔に対抗するためには武具を着けよ、と言うのです。真理、正義、福音、信仰で身を包めと言います。これは全て聖書に書かれています。つまりは悪魔に忍び込まれないようにするためには己の力を過信しないこと、人間の力だけでは悲しみや苦しみが怒りと言う悪魔に変わってしまいます。そうならないためにはキリスト教で言えば聖書により頼み、その教えに忠実に従って生きることが大事なのでしょう。
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