4月27日のパトビラ(№975 - シンポジウムにご参加を -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。


ジャンパー問題では「人権派」の有識者が意見をまとめ小田原市に18ページにもわたる提言書を提出しました。それを受け小田原市は市民にその提言内容を公表し、市の方針を説明するシンポジウムを下記要領で開催することになりました。
日にち:4月30日(日曜日)
時間:午後2時~3時45分
場所:市民会館大ホール
基調講演 『「私たち」の再生~人間の誇りを大事にする小田原~』井手英策(検討委員会座長)
パネルディスカッション  コーディネーター:井手英策、パネラー:和久井みちる・渡辺潤・加藤憲一(市長)

入場は無料です。話を聞いて疑問な点、またここは変えてほしい、などがありましたら5月4日にお伺いした時にでもお聞かせください。夏前には福祉課との意見交換会をする予定です。その時にでも市側に伝えさせていただきます。
この問題に対して有識者の方々も1年後の実績を見極めることで小田原市の取り組みを評価したい、と言っています。有識者の方に小田原市よく頑張った!と言ってもらうためには、市に任せるのではなく自分たちも意見を伝えていきたいと思います。


生活弱者とは「選択の自由」が無い人だと言われました。
そう言う意味では、生活保護を受けている人、受けたくても受けられない人、保護ではない形で労働と言う形でできるだけ生きていきたいが厳しい人、はそれぞれみんな弱者でしょう。
そうした弱者が生きやすい町にするためには、政策を弱者が見聞きし、自分の意見を真摯に発し、それを救い上げるという作業が大事になるでしょう。
と言っても、1日1生一生懸命生きている人にはその時間を作り出すことも難しいかもしれませんが、できる限り参加してくれるとうれしいものです。

イエスの生(せい)を記念する教会

2017年4月23日、横浜市中区にありますなか伝道所で礼拝を守りました。同教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章13-35節。表記のタイトルの説教を北口沙弥香牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


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(個人名にはモザイクをかけさえてもらいました)

教会によって礼拝の方法が少しずつ違います。なか伝道所の礼拝の特徴の一つは、「説教」ではなく「使信」と称し、メッセージの後に会衆の質疑やインプレッションの共有をする点です。
この日もまず北口牧師よりメッセージを受けました。

弟子たちは「暗い顔」をしていた、つまり肉体的にも精神的にもヘトヘトになりながら失意の元60スタディオン(11km)・・・だから3時間ほどの道のりを歩いて居た訳です。普通ならこの倍以上の道を歩くのですから、スピードが遅かったのか、出発時間が遅かったのかどちらかなのでしょう。それでも暗い顔をしていた、ことに注視しなければいけないのでしょう。
同時に行間を読め、と言う考えもあります。イエスが「先を急いで」いたのを引きとめた、のはもう少し自分たちのスキルに会った十分な説明を2人が欲したのかも知れません。同じレベルまでイエスは遜って合わせ、懇切丁寧に話したゆえに2人は十分納得し、熱意が戻りエルサレムに踵を返したとも読めます。

この話はルカによる福音書にしかないと北口牧師は語ります。ルカは4福音書一番最後にかかれた福音書の記載。どこまでが見聞きしたことなのか、どこからがルカが手を加えたものかは明確にはわかりませんが、ルカは、イエスがパンを感謝し裂いたところで、弟子たちはイエスだと分かりイエスの姿が見えなくなった、と書いています。
このルカのオリジナルな記事は、聖餐式を通じてイエスに出会ったことを強調しています。
そしてそれを大事にした後世の教会はもっとデフォルメして教会こそがイエスに出会える場所=教会でしかイエスに出会えないと形を変えていきます。
しかし聖餐式と言う儀式が正しいのか?は、イエスのその前の5000人の給食の記事や最後の晩餐の記事のような聖餐の場面が、儀式の聖餐ではなくともに食事をする聖餐の場面から疑問視されます。2000年経った今イエスの居場所は本当にピンポイントな場所にまで狭められているわけです。
イエスは週一度の数時間の礼拝と言う非日常の場ではなく、いつでもどこでも隣に居てくれるという日常の存在なのです。


と言うようなメッセージの感想を受けた話のあと、会衆からいくつかの質疑とインプレッションがありました。その中で1つ。
パンを裂いた後姿が見えなくなった、と言うのは霊的なものか? 疑似的な象徴か? というのがありました。
北口先生や渡辺英俊先生から、また他の信徒からお考えが発言されました。
その中で、精神的な病や障碍を抱えている人の中には幻視体験をする人がいる。病や障碍を持った人は、それによって非情な苦しみを負っているが、そうした中、強烈な出来事にであったあと、心や頭に痛烈な影響があると幻視が見れることがあり、ご本人はそれが幻視か真実かの判別が出来ない、と言う話がでました。
先週小田原教会の説教の中でも、ヘタレな弟子たちが挙って殉教の死を遂げるほどの人生改革があったという話がありました。
イエスの復活に出会う、ことは、どういう事なのかは僕らの能力では分析できかねることなのかもしれませんが、殉教の死を厭わない勇気が与えられるほど大きな出来事だとしたら、残念ながら僕はまだ復活のイエスに出会えていないのかもしれません。が、逆に言えば出会えるその日をワクワクしながら生きれるということでしょう。
トルストイの「靴屋のマルチン」は「明日お前に会いに行くよ」と言う神の声にわくわくしながらの一日を過ごしましたが、あと何年(何十年)のこの世での生の中、復活のイエスにお会いできるのを楽しみにしながら生きたいものです。

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さて、礼拝が終われば、愛餐の時。1つのパンを裂いて共に食し、パン以外もマカロニサラダとコーヒーを食させて頂きました。初めてお会いする人たちが多い中、中心にイエス様がいてくれる食卓。楽しいひと時でした。
なか伝道所の皆さん恵みのひと時の共有ありがとうございました。

恐れながらも大いに喜び

2017年4月16日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 28章1-10節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」



『死からの復活』を証明できる人はいないし、逆に説明を受けずに受け入れる人もいません。
パウロもアテネの教会においての記載に『死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。』(使徒言行録17:32)と書いています。
まぁ常識的に突然出会った人がいくら「先生」と呼ばれるような偉大な人でも、「死者の復活」を語ったところでそう簡単に信じることはできないと「イエスの死からの復活」を前提にしている宗教書である聖書にすら書いています。

立証はできませんが証言はあります。今日の箇所もその一つです。
聖書を読む僕らは、復活を前提に物語を読みますが、日曜の朝イエスの墓に出向いた婦人たちはどんな気持ちでいたでしょうか?
心の片隅には、イエスの死が嘘であってほしい。信じられない。もしかしたら、と言う気持ちがあったでしょう。でもその気持ちはあきらめの中で、でも諦めきれないという感情でしょう。
3・11や熊本地震に際して、家族がつぶれた家の下敷きになり2日経ったとか、津波にのみ込まれて1週間経っても、家族は期待を消しきらない、そんなかんじでしょう。非常につらい葛藤・・・。
でも、そうは言いながらも無理だ、と言う諦めも感じています。だから遺体が腐敗して異臭を放っているだろうからと香油をもって出かけたのでしょう。生きている前提なら遺体処理を想定していないでしょう。

しかし彼女らはイエスを見た訳ではありません。「空の墓」を見ただけです。
ですから、当時のローマの人たちは民衆が騒がないように必死に収集を図ります。曰く誰かに遺体を盗まれた。しかしローマ兵が見張っていたはずだし、自分の職務を放棄すればそれなりの罰をうけます。自分の命を懸けて、また家族や親族まで影響が及ぶことがあるかもしれなければ、イエスの遺体を盗む必然性は全くなくなります。

イエスは本当に甦ったのか?と言われればわかりません。が、自分や家族親族までの影響を考えれば、本当に甦ったことはなくはないと言っても過言ではありません。
この後弟子たちの前にもイエスは現れます。それまではイエスの事を知らないと言ったり、もうこのままエルサレムに居ては自分の身が危ないと故郷に帰ろうとした弟子たち。彼らはみなイエスの弟子として殉教の死を遂げます。なぜ弟子たちは急変したのでしょう?
殉教できる勇気(?)はどこから出てきたのでしょう? 人生をひっくり返すような出来事があった故ではないでしょうか?
命を懸けるような人生の衝撃事件。僕は残念ながらまだ出会っていませんが、それだけの大きな出来事には科学では解決できないほどの驚きがあるのかもしれません。
それがただ一人ではなく10余人。すごい事件があったことは推測易いです。10余人が人生を変える事件を今推測したところで推測の域を出ませんからこれ以上言いませんが・・・。

では僕らはイエスの復活、イースターの出来事から何を考えなければならないのでしょうか?

もし誰かが、イエスの復活を科学的に立証したとして、また信じたところで、「ああ、2000年前にそんなことがあったのだね」と感嘆で終わってしまったら…それが自分の人生に何の影響もないものだったら、復活したところで何にも意味がないでしょう。
僕らはイエスの復活からイエスのみあとを歩む必然性を感じます。併せて死に打ち勝ったということを知り不安を払しょくすることです。
イエスの歩みのみあとを歩めば死さえも怖くないということを信じる事が復活の出来事です。

さて、イエスは婦人たちにガリラヤへ行くよう伝えよ、と言います。ガリラヤとはなんでしょう。それは弟子らの故郷、生活の場です。特別な場所でなければイエスに会えないのではなく、毎日の生活の中でイエスはいつも隣に寄り添ってくれています。

イースターおめでとうございます。

僕となられた主

2017年4月13日、洗足木曜日の小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネによる福音書 13章1-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。


TVで「モニタリング」と言う番組があります。常識を超えたシチュエーションを隠しカメラでとらえどのような対応をするのか?を観察するという番組です。
もしその番組で、「私はクリスチャンです。今日は聖書で大切に教えている『洗足の木曜日』です。あなたの足を洗わせてくれませんか?」と言ったら何人が足を洗わせてくれるでしょう?100人頼んで99人は訝しげにNoと答えるでしょう。
そして番組では身分を明かして「何故そうなったか?」を聞きますが、そのように聞かれれば、「理由はわかりましたが、足を洗われるのは恥ずかしいです」と答えるのではないでしょうか?
たぶんこのBlogを読まれている人も、次回僕と会った時に「では足を洗わせてください。」と言われたら同様の理由でお断わりになられるでしょう。
なぜ足を洗われるのは恥ずかしいのでしょうか?足を洗われるだけでなく訳もなく人にしてもらうことは心苦しかったりします。

さて、そんなことを頭の片隅に入れて頂き、話をこの最後の晩餐の場面に戻します。通常は食事を前にして、土埃の舞う外から部屋に帰ってきた客人をもてなすために奴隷が足を洗います。が、今日の箇所を読むと食事の最中であります。そんな時にイエスはわざわざ立ち上がって弟子の足を洗おうとしたので弟子たちはことさらびっくりしたのでしょう。普段の作法ではないのです。既に食事の最中なのです、意図があることは弟子にも伝わったでしょう。
そんなシモンペテロとイエスの会話に話を戻したいと思います。
このシモンペテロは一生懸命な純な人ではありますが、知慮に足りなかったり冷静さに掛けたりする愛すべき御仁です。
何か意図があってイエスが自分の足を洗おうとしたので思わずNoを言ったところ、イエスに諌められます。
すると全身をと突拍子もない返しを語ります。
しかしイエスは全身は清いからと語ります。
意味のつかみ難い言葉ですが、長井牧師はヨハネによる福音書1章29-34節
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

イエスの前で神の子であるという証しをしたことによる「聖霊による洗礼」を受けたから清いと言われたと語ります。
水によるバブテスマを弟子たちが皆授かったかどうかは記載がないので不明ですが、「足を洗われる」ことで霊によるバブテスマを受けた事をシンボリックに示したのでしょう。
ではなぜ足を洗うのでしょう?またあなたたちも互いに足を洗い合えと言われたのでしょう?
そこにはただ隣人愛を伝えるだけではなく、当初の足を洗われることが恥ずかしかったり、申し訳なく思ったりするだけでなく、その恥ずかしさを超えるだけの愛の存在が大切だと言いたいのではないでしょうか?
寝たきりの家族の介護、そこには足を洗う行為、洗われる行為は当然のごとく存在します。互いに寝たきりの方サバイバーさんとケアギバーさんになること、そこに恥ずかしさすら超えた愛の本質があるのではないでしょうか?
もしモニタリングで「足を洗ってくれませんか?」だったらもしかしたら半分は洗ってくれるかもしれません。そこにあるのは洗ってあげたという優位性ではないでしょうか?
野宿を余儀なくされている人におにぎりを届ける活動は、もしかしたら”優位性”に浸った行動かもしれないけれど、野宿の人との関係が正常化すると、入れて頂いたコーヒー(野宿の方がなけなしのお金で買ってくれたものでしょう)や家のそばで取れた山草などの漬物をご相伴にあずかりながら会話する中から、より一層親密さが増したりもします。

RFL(リレーフォーライフ)ではサバイバーズラップ(がんと闘っている患者さんのみのウォーク)と共にケアギバーズラップという介護者(家族友人仲間病院関係者)のみがサバイバーの拍手の中歩く時があります。特別な何かを連れ合いにしているわけでもないし、気恥ずかしくて僕は歩いたことがありませんでしたが、これこそ互いに足を洗う関係。大いに堂々と笑顔で歩くことをこの洗足の木曜の出来事は教えているのだと思います。
何もしていないよ、でも共にいる、それこそ互いに愛する姿の基本なのでしょう。「これが愛だ」ではなくよくわからないが最期の時、死をも祝福だと思われる人生を過ごし過ごさせる関係。足を洗うに代表された愛し合う姿を覚えつつ、イースターの良き日を待ち望みたいものです。

最後の晩餐の言葉

浅田真央選手の突然の引退は多くの番組で取り上げられ、町行く人の声や同じフィギュアスケートの仲間をゲストに呼んで驚きと感謝のコメントを述べさせたりと、今週は週明けからスポーツニュースはこのニュースでもちきりです。
その中の一つの番組に同じ中京大で学んだ一人のスケーターの方が出演し、「事前に相談などなかったですか?」という質問を受けていました。
氏は「ありませんでした」と答えつつも「今考えると・・・」「正月にLineで年賀の挨拶を送ったら、『今年も頑張ってね』という内容のメールが返って来た」と語っていました。
氏がおかしいと思ったのは「(ともに)頑張ろうね」ではなく「頑張ってね」という言い回し。
あなたに送ったメールだからともには不要で私のメールの目的はあなたに対して頑張ってね、という意味とも取れるし、もう私は引退するからこの後はあなた方ほかのメンバーに全日本を託すから頑張ってね、ともとれるわけです。
氏が「今考えれば」と断りをつけながら言ったのは、今思えば後者だったのか、それとなく気持ちに区切りをつけていたのではないか?という意味だったのでしょう。

最後の晩餐の席、弟子たちにとってイエスはふしぎなことを言われたなと思ったと思います。だいたい今までも色々なたとえを用いて話しても全てを理解できなかったから、また今度も俺たちのわからない話なんだ、位に受け流していたのかもしれません。
でもかすかに頭の中に入っていた。パンを裂き、ワインを共に口にした。このあともこうしろと言った。何が起きるかはその言葉か推測できなくても、そうした一つ一つの言葉は覚えていたのでしょう。

今思えば大変重要なことを言ったのだよな。イエスの死後弟子たちはその重要性に気がついたのでしょうね。
後にならないと気がつかない事はいくらでもあります。でも気がついたところから始めればいいことなのでしょう。
浅田真央選手はもしかしたら正月には心を決めていたのかもしれません。でもわからない時はそこから想像しすぎてしまうよりは分かった時点で引退に際しての感謝の気持ちを伝えればいい事でしょう。
そして僕らは洗足の木曜と主の受難の時を今年も過ごし、来たる主日はイースターを共に祝うのです。

蔑む者と見張る者

2017年4月9日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 27章32-44節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。
イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。


今日与えられた聖書の箇所は以上の通りですが、長井牧師はその直前も紹介されました。
この直前27章27-31節。

それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。

力の差が非常にあり抵抗できない人を前にした非道の行動は、少し前の1988年にあった「女子高生コンクリート詰め殺人事件」など事件。内容を読むのも憚れれる残虐なものに代表されるものを思い出します。
殺人や傷害事件云々では置いておいても、弱い者いじめ、嵩にかかった威圧、こうしたものは卑劣に見えます。

聖書の中の兵士に女子高生を殺害した少年たちがオーバーラップします。殴る理由のために難癖をつける姿、自分たちが殴った女の子の顔がパンパンに腫れたと笑いあったとか、という記事が27節からの、そして今日の箇所の兵士やファリサイ派の冷ややかな顔を想像させます。

イエスが宣教を始めるのはバブテスマのヨハネからヨルダン川で洗礼を受けてからです。直後荒野で悪魔から3つの誘惑を受けます。
悪魔の「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。(略)」に対しイエスは「神の子なら」と繰り返し言います。
そして宣教の最後、今日の箇所では兵士などに「神の子なら」と言われます。
最初の荒野の誘惑に際しては、そんな悪魔の誘惑に応じることなく『あなたの神である主を試してはならない』と信仰で切り返しました。同じ言葉を浴びせられたイエスは今度はどうしたでしょうか?
マタイによる福音書は、この十字架のやり取りに関してイエスの言動は書かれていません。あくまでもこの場において僕ら人間が神(神の子)に対してどうしたか?に特化して記しています。
ですから想像の部分もありますが、イエスは神のすること全てを受け入れたのでしょう。ルカ福音書によれば「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。とあります。
命がけで信仰、つまりは神との関係を言い表したのでしょう。

この後イエスは十字架上で亡くなります。
その後天変地異がおこります、そして同時に上記で人格すら否定した兵士が 「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。
あの極悪非道の兵士たちが心を入れ替え、神とイエスに畏敬の念を感じたのはなんだったのでしょうか?
もちろん、科学が発達していない時代ですので天変地異が起こったことで恐怖心がわいたことは一つの事実でしょう。が同時に、イエスの命を懸けてまでの徹底した信仰心をみたからということもあるのではないでしょうか?行動に感銘を受け自分が突き動かされるそんな出来事だったのではないでしょうか?

今日の聖書の最初。キレネ人のシモンがイエスの十字架を担がせられます。「なぜだよ?」犯罪者の十字架を担ぐなんて嫌に決まっていることを偶然にもせざるを得なかった。
しかし、それは後世の僕らの目にはラッキーなことです。神は何の理由もないことはなさいません。
シモンもそしてこの兵士たちも、信仰を伝える重要な人物になっていった訳です。

認められて生きる

2017年3月26日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 17章1-13節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。


長井牧師は今日の箇所は2つから成り立つと言います。
1つは山頂。つまりは僕らが普段いない世界、言い換えれば神性のイエスとの出会い。
もう1か所は山から下りた場所、僕らが生活する日常の場。イエスの人間性。

そしてもう一つ。12弟子のうちに山頂に伴ったお弟子さんは、ガリラヤ湖畔で漁をしていた4人で一番最初に弟子にした人のうちの3人です。
そしてこの3人が最後の晩餐の後ゲッセマネについて行った人でもあります。つまり山頂と言うイエスの神性を知って地上と言う日常の場でイエスとずっと共にいた人だという点です。
しかし、これだけの感動。イエスの神性を知りながらも、ゲッセマネではイエスの苦悩の祈りを見聞きしながら居眠りをしてしまうのです。

毎週のようにこのBlogで説教を聞いた後のインプレッションとか自分のオピニオンを記していますので、読まれている方は、なんでキリスト教の信仰は「神に委ねる」ことばかり強要されて自分の切なる願いを聞き入れてくれないのか? と思っている方もいるかもしれません。
が、この弟子たちの姿を見て、一瞬の奇跡を見たところでその感動が長く続かないことをご理解頂けるのではないでしょうか?
そして「神に委ねる」と一緒にいつも書いているのは「そのままのあなたを愛してくださっている」ことと「インマヌエル=神共にまし」です。
山頂の感動を忘れて居眠りをし、そしてその後イエスを見捨てた弟子たちです。ですが、イエスは見捨てなかったのです。愛し続けてくれたのです。
見捨てて逃げた弟子たちが、再度勇気をもって集まった時に、弟子たちは何の新しいスキルを得たから集まった訳ではありません。そのままの姿で、弱く頼りないままでした。
でも一人一人できることを全力でしようと言う意思をもって集まりました。
生き生きと生きる事、その延長上に宣教があった訳です。

奇跡を見ることではなく、ただ生き生きと生きる姿こそ、キリスト教の信仰を表しているのだと思います。
教祖が宙に浮いた、とオウム真理教は信徒を集めました。教祖が亡くなった有名人とチャネリングができると新興宗教の教祖は言っています。でもだからなんだ、としか言いようがないのです。教祖のそんな奇跡を見て喜んでお金を出すのは遊園地のアトラクションで楽しいショーを見ているのと同じです。一瞬で終わった後はむなしさだけが残るのではないですか?本当の信仰は生き生きとした明日、感謝と希望と祈りが残ります。

3月30日のパトビラ(№972 - ケースバイケースなのか一律なのか -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

公務員試験に合格し高い志をもって入所した職員はやはり希望の塊だぅたと思うのです。特に福祉職の方は憲法の崇高な理念に基づきできる限りサポートをしたいと、時の上司に相談するも、きっと『そんな前例はない(悪しき前例を作るな)』『予算がないから無理だ』『法律に書いてないだろう』そうした言葉が跳ね返ってきたことも少なからずあったのだと思います。先の生活保護行政のあり方検討会の席上でも有識者の方が盛んに言われたのは、血の通った行政であり、相談者の立場に立ったアドバイスでした。
どうにかしたいという目標設定を立てても、行政と言う名の高い壁があり目標に絶対に達せられない時、誰もがやる気を失うか若しくは違う到達できそうな目標に変えます。やらなければならない生活困窮者のサポートが「前例」や「予算」や「法律」といった一介の職員で手出しできない壁に阻まれた中で到達可能な「不正受給撲滅」と言う道に走ってしまったのはある意味不幸だったというのも共通の認識です。
今回のジャンパー作成という一事象に端を発した根柢の問題点は、一律に「予算」や「法律」という形で縛ってしまって、個々の悩み困窮を伴ってくれる部署がなくなってしまった点だと思います。そういう意味では、この問題は小田原市の問題ではなく国策の話であり、国民の意識の問題だったのです。


行政をよくするには「3主義」を廃止することは、もう20余年前に聞いて言い続けていることです。だからまた同じことを言っていると思われる方も居られるかと思いますが、言い続ける必然性を感じています。
多くの方がこの問題に対してバッシングをされました。しかし、ケースワーカーの熱意をしぼませているのは何か?は真摯に追及しなければならないことです。
今回の検討会においても言葉は違えど同じこと言われたと思います。
小田原の問題ではない、保護課の問題ではない。まさにその通りです。この問題は、この国の国民が同じ日本人に対してどう一緒に生きて行こうか?と言う問題だと思うのです。

律法とは

2017年2月19日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 2章12-160節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

アブラハムの時代から神と共に暮らしている。そしてその後、モーセらがエジプトの奴隷の地から逃げていくときに神は盾となって守ってくれた。
と言うシーンから読み取れるのは、神は制約ある「奴隷」と言う立場からの解放、自由を与えてくれる存在。

そしてその直後与えられたのが律法ということから考えれば「律法」の原点は解放や自由のためのものではなければいけない訳です。
コントロールする「律法」が解放や自由である。それがごく一部の人ではなく、すべての人の解放や自由であるためには、その「律法」の根底に「隣人愛」がなければ、誰もの自由である「律法」にならない訳です。

2017年2月12日にマタイによる福音書5章17-20節の御言葉が与えられました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」
さて、イエスの言う完成とは何か?

僕の一番好きな聖句であるマタイによる福音書22章36節以下を見ると、イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
律法と預言の書は、とイエスは言っています。聖書は現聖書どおりに書かれた訳ではありません。イエスの時代のユダヤ教は律法の書である創世記から申命記とイザヤ書からマラキ書までで形成されていました。
つまり神から命じられた生き方をひと言で言えば神を愛せ、と同時に隣人を愛せ、に尽きるというわけです。

そういう今日のパウロの真意は3章28節に書かれている信仰義認です。
信じること、神に帰依することのみが信仰のベースである、と言う考え方ですが、今日の箇所を見ると律法の行動にこだわっているように見えます。
が、律法を真摯にこだわることは、本気で聞く、本気で知ろうとすることでしょう。それは行動です。
聞いて、心に留めていれば、日々の行動が変わります。

隣人を愛せ、と言う言葉をフーンで終わらせていれば、真剣に隣人を愛そうという行動をとらないでしょう。でも、その言葉が神から与えられた言葉と真摯に問うていれば、日々の生活の中でそういう場面に当たった時行動をとることができます。

信仰義認とは信仰に基づいた行動と言う意味だと思います。イエスも行動を起こしながら生きました。イエスのみあとを歩む僕らも同様であることが求められているのでしょう。

争いから得るもの

2017年3月12日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 12章22-32節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」



科学が進んだことは特にすばらしい事ばかりではないけれど、物事が少しわかりかければ世の中は大きく変わります。2000年前はこのユダヤ地方だけではなく、わからないことの多くを人智を超えた力と思うことは多分にあったと思います。
21世紀の今日でも子どもたちは本気で妖怪ウォッチやゲゲゲの鬼太郎の中に出てくる妖怪がいると信じているだろうし、僕も子どもの頃見たウルトラQや妖怪人間、どろろと言った特撮やアニメが現実にあるもの(居るもの)と言う感じで怖かったです。心霊写真などの番組はあいもかわらずよくTVで流れているし、そこでは『○○の霊です』などまことしやかに大のおとなが言っています。要は2000年程度の時間の中では科学はさほど進歩しなかったのかも知れません。
ですから、統合失調や心の病などの方を見ても治療法や原因が探れない時代の人は悪霊のなせる業と思ったのかもしれませんし、がんや腫瘍が神経に触れていたがる姿をみても外から患部が見えないので同じように感じたかもしれないと思うのです。

そういう意味では、重要な一つの仕事として『悪魔祓い』はあったのでしょうし、ファリサイ派と言われる人の特権だったのだと思います。
今多くの人が医者に行くようにファリサイ派の人のところに行って調子の悪さを訴え、悪魔を追い出してもらい機嫌よく帰っていく姿は容易に想像できます。
そこにファリサイ派ではないイエスがやってきていとも簡単に病を治してしまった。
『おいおいおい、冗談じゃないよ』『いったい誰に断りをして俺の島で治療をしているんだよ』『好き勝手なことしてもらっちゃあ困るねぇ』
多くの民衆が見ている前で大勢の人が一人の若者に対して手荒なことは出来ないでしょう、何より群衆も奇跡を起こされているのを目撃しています。でも、黙っていたらおまんまの喰い上げだぁ、何かこいつは偽物だとしなければ俺たちの立場が無くなるとファリサイ派の人たちは危機感を覚えたのではないでしょうか?

そして言ったのは、こんな奇跡を起こせるのはお前は悪霊に乗っ取られているからだろう!? 滑稽な言いがかりです。だって自分たちと同じことをしているのを見てお前は悪霊だから出来ると言うのなら、じゃああなたもそうなんですね、と言い返されるのは当然です。
しかし売り言葉に買い言葉のそうした議論をイエスは不毛と思い、滑稽な言いがかりにも真摯に応えているのが今日の箇所です。

先ほど統合失調や目に見えないところの腫瘍などで苦しんでいる人が悪霊に取りつかれたと記しましたが、ただそれだけではなく、穢れの発想が多くあり、血や死体に触るとか、荒野で生活する羊飼いなども悪霊に取りつかれやすかったりします。そうした人は社会コミニュティの中で蔑視されています。もしかしたら極度の蔑視の中、優しい対応ができにくい人もいたかもしれません。
例えば野宿を余儀なくする方の中には、人として優しいけれど片付け事が全くできない人もいます。そうした1点のマイナス部分だけを大きく評価して「だからあいつは駄目なんだ」と言うレッテルを貼られやすい中、イエスの奇跡はそういう偏見・蔑視で見ないことで人として社会の中で生き易くする、それこそが福音であり、神はそうした福音を与えることを自分にもファリサイ派の人にも命じている。福音的な社会を共に作り上げよう、と語っている言葉だと思います。
イエスは誰もが福音、つまり神の愛の中平等に生きて人生を楽しむ権利をもっているのだからそういう社会を作り上げようではないか、と特権階級のファリサイ派の人に語りますが、ファリサイ派の人々は自分の地位を脅かす存在としか思えなかったのでしょう。

しかし、そう読み解く僕らはファリサイ派の人のように気付けているのでしょうか?
三浦綾子さんの「塩狩峠」で主人公は、友人が金を盗み社を追われる事を善きサマリア人の喩えに置き換えいまこそこの怪我をしている旅人を救うサマリア人になるのだとしますが、受け入れてもらえず苦しみ、そして実は自分がけがをして倒れている旅人であり、通りかかるイエスと言う名のサマリア人を待っていることに気付き、信仰を告白します。

今日の箇所も気付いていないファリサイ派の人々にイエスは神の国はあなたたちの所に来ていると言われます。
あなたの仲間たちは何の力によって・・・とも言われています。
僕らは2000年の間に然程進歩もなく、未知なるものに恐怖をし、隣人を疑心で見ながら国際紛争の中で不安に生きています。ファリサイ派の人も今を生きる僕らも変わりません。自分では歩けない傷ついた旅人のようなものです。そこに神の国は来ていると語ってくれる言葉の助け手に勇気をもっていたいです。
気付かない者、傷ついて倒れている者と言う自覚の中、それでも助け手が来ることに感謝をしてこの1週間も過ごしたいものです。
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