神の恵みと憐れみよって

2017年6月25日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 4章1-8節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、 幸いである。主から罪があると見なされない人は、 幸いである。」


パウロは、旧約のアブラハムとかダビデを例題として信仰義認を説きます。
しかし、ではアブラハムも何もしないで尊敬を受けたのか? ダビデはユダヤ一の王と言われたのは何も行動がなかったからなのか?と言えばそうではないでしょう。
神の戒めと教えによって故郷を離れカナの地に移動をする決意と行動。神の命によって一人息子のイサクをささげようとした実行力。そうした行動を民衆は称賛したのでしょう。ダビデも然りです。

信仰義認。この言葉の対語は、行為義認、つまり何かの行動によって救いの結果が変わるという考え方。言い換えれば、中世の免罪符や厄除け壺など、行為が行為で無くなり金に変わっていくことが救いの道であるという、言い換えれば宗教団体が金もうけの手段になる形式、やはり危険な考え方に導かれる可能性は高いです。

また、その行為のみを民衆は褒め称えたのでしょうか? 民衆の称賛はどんな無茶ぶりに見える神の命令にもひるむことなく従ったアブラハムの行動です。ただの行動ではなく、その行動は神を信じることに裏付けがあったからだと思います。

でも、信仰義認も何も問題はないか?と言えば、日々の生活とかけ離れたことでも救われると信仰をする必然性に疑問を持つ人も増えるでしょう。
信仰義認は何もしなくていい、ただ祈ることだけではないような気がします。そこにはやはり行動が伴います。悔い改めて生きよ、と言われた言葉。それは言い換えればイエスのみあとを歩めです。

信仰義認=行動を伴わない救い や カルヴァンの二重予定説=すでに人の生まれる前からその人の救いは決められている、であったとしても神に従いたい。聖書の御言葉に従いたい、と言うのが僕らの真情でしょう。
特にプロテスタントはそうなのかもしれません。ゆえに、カトリックではサクラメントである懺悔も告解もしません。でも聖書はイエスがどう歩んだかを教えてくれます。


信仰義認が信仰義認であるのは、イエスのみあとを歩みたいが、様々な躓きで歩けなくても、大丈夫だよ、歩こうとしたじゃないか、神に従おうとしたじゃないか、私のみを信じてより頼んで生きてくれたね、と神は言ってくれるという意味だと思います。
神は出来ない僕ら、罪ある僕らを義としてくれるということです。それには向かい合うこと、神を信じてみあとを歩こうとすることが大事だと思うのです。

聖書と歎異抄

18日の日曜は、主日礼拝に先駆け御濠端幼稚園の子どもたちと一緒に礼拝を守り、午後は前述のブラサイジョーを楽しみ、夕べからイサンタシャワーの時を過ごしました。
イサンタシャワー、祈りと賛美と食べ物とおしゃべりと笑いの時の頭文字。テゼの祈りと賛美の後は夕餉を楽しみながらのおしゃべり。
でも得てして僕が入ると論議になる場合が多いです(^_^;)
この日は、中田牧師は隣町の教会での説教奉仕。聖書の箇所はルカによる福音書16章19~31節「金持ちとラザロ」のお話。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


神様の御心は勧善懲悪ではない。そもそもすべての人は罪を犯している中、「人の目」であいつの罪は許されるレベルだけれど、こっちの彼は許されない、が有効ならば、神の裁きはいらない。その「人の目」は神を越えたものになるだろうけれど、でもその「人の目」の持ち主も罪を犯している。目くそ鼻くそを笑う、の喩の如しでそれは決して真理ではない。偏ったジャッジメントだ。
神の目で言えば、すべての人は罪を犯している、義人なし!だから、全員天にあげるか陰府に落とすかなのでしょう。そしてイエスを遣わし、天にあげることを明言してくれた、と言うのがキリスト教信仰。神はすべての人の救済のためにいる、というキリスト教の解釈であれば、どんな悪道非道な人でも神は救い給うわけだ。

中田牧師はイサンタシャワーの中の雑談の中で、説教に少しだけ触れ、ラザロは間違いを犯さない善人だったとも書いていないし、金持ちもお金をもっていただけで悪行で金を貯めたかどうかも分からずもしかしたら善意の人だったかもしれない(まぁ施しをしなさいというイエスのお勧めには反していますけれど^_^;)、と言われ、確かにその通りで、この聖書の箇所が言わんとすることがわからなくなったのが論議の始まりでした。

今まで歴代の牧師の言われることからも、僕らが神のなさることにどうこう言える立場ではない事であることは知りながらも、どうしてもこのたとえ話をはじめとするルカのたとえ話は、今僕らが牧師から聞く話、つまり神共にいます、帰依すれば救われることとニュアンスが違うように思えます。
明らかに信徒を増やすために、社会の道徳倫理観を生むように、神はこう望んでいます、的な書き方をしているように思えてなりません。善人であれば天国に行ける、時代を経て免罪符で罪をゆるしてくれる思想を作り出しているような感がしてなりません。
なぜ、ラザロも金持ちも天に行かせなかったのか?は甚だ疑問があります(いや、神にではないです。だってルカだってたとえ話で金持ちが陰府に落とされるのを見ているわけじゃあなく)彼の信仰解釈がこの喩を生み出したのですから。
マルコ等の福音書が魂の叫びを一気に描いたのだとしたらルカの福音書は目的を持って練って書かれたものでしょう。
だから教会に行き始めたころはルカによる福音書が大好きでした。訳の分からない系図から書き始められても何の感動もない中、理路整然とイエスを語るルカは感動をくれました。
でも最近になっては変に鼻につくというか、素朴でも喜怒哀楽が文章から滲み出すほかの福音書に目が行ってしまいます。計算した上で書かれた作品のように思ってしまうのです。
でもそれを悪いとは思っていません、好き嫌いを別として彼なりの宣教の言葉なんです。たとえばこのBlogだって好き嫌いはあるでしょうし、中には楽しみにしてくれる人がいるとすれば書く意味、伝える意義は存在します。そしてもしルカによる福音書が無かったら青年期の僕はクリスチャンになったか?は疑問です。あの時は、正しく生きることを喜びとしたくて聖書を読んでいましたから。


さて、善人往生をとぐいわんや悪人をや 宗教は違えども大好きな言葉。
十字軍と言うおかしな方向に進んでしまったヨーロッパキリスト教。でもシルクロードを経てその崇高な教えは東にも届いていたのでしょう、13世紀後半ヨーロッパで不毛な戦いを繰り広げている中、人の生まれつきの能力や努力ではなくただ神にのみ祈ること、帰依することで救われるというイエスの本当に言いたかったことが、仏教を学ぶ僧によって咀嚼され凝縮されたのではないでしょうか。それが先の歎異抄の一節なのではないかと勝手に思っています。
僕にすればルカの福音書よりも『そのままのあなたを愛している』イエスを通じて語る神の言葉が明確な感がしてます。

20170620-01

で、買っちゃいました(^_^)/

創造主に従って

2017年6月18日、小田原教会に与えられたみ言葉は、使徒言行録 17章22-34節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
皆さんのうちのある詩人たちも、 『我らは神の中に生き、動き、存在する』 『我らもその子孫である』と、 言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。



4つの福音書の次に載っていますが、書かれたのはこちらの方が先だと言われています。パウロの息吹がまだしっかり残っている文章なのかもしれません。息吹つまり熱き思いが伝わってきます。
十戒にある「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。」というもともとの自分の信仰でもあり、イエスも律法を否定していないという十戒の大事な教えがおざなりにされていることに憤慨しているのが今日の箇所です。

長井牧師は今日の箇所を4点で考えられました。
1.信仰が厚いとはどういうことか?
2.神はどこに居て、どういう方か?
3.偶像を神とするとはどういう事か?
4.神は私たちに何を求めているか?
です。

それぞれに大事な話ですが、説教を聞きながら、ちょっと違うことを思ったので、そちらを書きたいと思います。ですので、説教の内容を聞かれたい方はいつでもお気軽に教会までお問い合わせください。DVDに録音したものがありますので、お貸しすることができると思います。

説教中に頭に浮かんだのは「唯一神」とは何か?と言うことです。
よく多くの人が勘違いしていると思いますが、自然信仰を多神教のように言われますが、それは正しくないように思います。唯一神でも、神作られた木々や草花、動物などを僕らは慈しみます。それは生きとし生けるものの命を大事にすることをキリスト教も言っているからです。神が作ら得たものと言う意味では一神教も多神教も同じです。尊い命がそこにはあります。違いは気も草も取りも人間も一神教では同じ神が作ったという点。
では何が違うか?と言えば、一神教は人間同士の結婚のようなものだと思うのです。
たくさんの神様はたくさんの異性(同性もあり)だと思ってください。素敵な人だと憧れることやお付き合いをすることもあるでしょうけれど、最後はこの人と生涯寄り添いたい、と言う人との結婚(これもひとつの形式概念ですが)するようなものでしょう。
この人に添い遂げるからこそ、ほかの神が不要なのです。

アテネ、つまりギリシアには、ギリシア神話の神々(多神教)があり、同時におおいに論議をすることを良しとする歴史があります。
でも知らない神にまで手を合わせる、つまりは連れ合いが居ながらほかの女性までにまぁとりあえず声をかける的な本当に大事なものとの区別ができないこと。言い方を変えれば自分の頭で考えることなく、よくわからないからとりあえず手を合わせておけばいいや、と言う意識になってはないでしょうか? そうだとしたら本物の神には失礼なことですし、いま日本の社会に蔓延している政治に関しても流されてしまう意識とあまりに似ている感がぬぐえません。
そして人が作った偶像の中に神を押し込める、というような、神と人との立ち位置の逆転をしないようにパウロは声高に注意したように思えます。

キリスト教と言う一神教は、他の宗教を否定する宗教団体ではありませんが、自分は連れ合いが居ればほかの異性に色目を使わない、そういう団体だと思ってくれればよろしいかと思うのです。神に対しても隣人に対してもそうした頑なな頑固な意識を持ちたいと思います。
日本においても戦国武将は「家系を守る」ために本妻以外側室を置く習慣がありましたが、それでも側室を頑なに阻み本妻だけを愛おしく睦まじく過ごした武将もいます。キリスト教と言うのはそんな信仰だと思うのです。
浮気をしない、そこに初めて信頼が生まれるものだと思います。

信じて安らぎを得る

2017年6月11日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 11章25-30節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


群衆は、バブテスマのヨハネもイエスも偉大な預言者とか救世主(メシア)と思って仲間内では言ってはいたけれど結局信じきれずに死に至らした。認めていても受け入れられなかった、と言うことがこの11章全体の要約だ、と牧師は語りはじめられました。
知恵あるものの知恵とは、自分の知恵であるという過信。神から与えられたものであるという大切な部分を忘れ去り驕りや傲慢な気持ちが、知恵(知識)として預言者や救世主(メシア)の存在と信じて従う神への感謝との狭間を生み出してしまったのかもしれません。知恵があっても役立たせることが出来なかった、いやもっと言ってしまえば知恵が邪魔をして神への感謝、遜ることが出来なかったのでしょう。
21世紀に住む僕らも同じことを見聞きします。「聖書に書かれていることは自分も大好きで、その通りだな。と思う事ばかりだ」と言いながらも、神を賛美することはない、礼拝に来て神の前に額ずくことはない。それは知恵が邪魔をしている姿のように僕は見えます。
一方幼きものは経験則がない、それ故に誰かに依存して生活をしています。しかも、その依存の仕方は、「ああ自分は弱きものだ」などと思うことなく、依存が当たり前であり、依存することに抵抗がない。こうした自然の依存をすることこそ大切だと言っているのでしょう。

そうして困難な時、疲れている時、神に依存をしなさい。と言います。
私のくびきは負いやすい、と言うのです。が実はわかるようでわかりにくい喩えです。
喩え話は、喩えの内容がシンクロしなければならず、イエスと僕とでは生きる時代や風習、文化文明が違うので時折わからないことがあります。
でも、今日説教を聞いていた時にふっと頭に思い浮かんだのは「登山」でした。
僕らが子どもの頃は、カニ族と呼ばれる若者が夜行電車で穂高だとかアルプスだとかに行きました。キスリング型リュックサックは横長のバックパックのために電車の通路をまっすぐに歩くとリュックが背もたれにぶつかってしまうので横向きに歩くことからその名がつけられました。
僕が高校生になるころには、バックパックも横長から縦長に形状が変わり、背もたれには通気性のいいクッションがつけられたり、胸と腰にはリュックが揺れないようにベルトがつけられたりしました。
大した登山はしないものの、通気性がいい素材が出た時と腰のベルトのしっかりしたものが出た時、僕も買い換えた覚えがあります。
くびきは田起こしの大型の鍬を牛にひかせるために、また重い荷物を牛にひかせるために首に掛ける板状の道具です。これがうまく重さを分散してくれるが故に牛も我慢をして荷物を引いてくれます。
僕の場合は趣味の山登り(ハイキング)でしたが、それでも自分にフィットしたリュックの方が登山もしやすいので2度ほど買い換えた訳です。
私のくびきは負いやすい、つまりは僕の理想のリュックが見つかった時、昔のリュックよりははるかに険しい山も登れるようになったわけです。
箱根や丹沢の山に行きましょう。でもわらじで登ってみましょうと言われたら途中でリタイヤするかもしれません。でもフィットする登山靴があれば登れるかもしれません。

くびき=道具があれば歩かなくて山頂につけるものではありません。くびき=道具は楽にさせてくれるけれど、結局は自分の足で一歩一歩歩くのです。
人生を歩むときに、様々なしがらみをリュックに入れて歩くのならば、重さの分散が理に叶ったリュックの方がいいですし、リュック自身ではなく同行してくれる励ましてくれる仲間がいた方がいいかもしれません。
シャリバテに遭わないように甘いものや水筒の水を分けてくれる友人の存在が助かるのかもしれません。
くびきを軽くすることで、よし頑張ろう、辛いけれど新たに歩み出そう、と言う気持ちにさせてくれる、そんな人生の応援団が宗教なのかもしれません。

聖霊降臨

2017年5月28日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章44-53節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。


イエスの復活とは
1.イエスの死後、自分もイエスの仲間だと言われて制裁を受けるのを怖がってバラバラになった。
2.復活のイエスに出会うことで自分が信じてついてきたイエスのが正しいことを再確認し、エルサレムに戻った
3.そこで仲間と出会うが、仲間と会っても共に祈りを合わせる事しかできなかった。

その直後の場面がペンテコステ、この日の出来事。
いまいち勇気の出ない弟子たちの背中を押してくれる霊なる存在。
クリスチャンでない友人に昔言われたことがあるのは、「三位一体の神と言うけれど、神とキリストはわかるけれど聖霊ってなんだ?」と言う疑問符。
明確にこういうものだと伝えられないもどかしさ。でもそれは多くのクリスチャンも抱えているのかもしれません。
クリスマスは、人を救うための「神」の祝日。
イースターは、神と同等の神の子である事を祝う「イエス」の祝日。
それに比べて、ペンテコステの祝いは、祝い自身も祝いの内容も承知が薄いのが先の友人の発言とダブります。

しかしイエスの死後…特に復活のイエスに出会えない人たちは、この世で生きる中では何度も高い壁にぶつかります。深い溝のある谷を前にビビります。その時「勇気を与えてください」という祈りを僕らはします。その祈りが聞き入れられる、それは「成功」ではなく聖霊が伴ってくれることではないでしょうか?
とかく「もうだめだ」と思いヘタレてしまうかもしれませんが、あとで考えると決して限界でなかった、もう少し頑張ればよかった、と言う事が多々あります。本当にBestを尽くしたのであれば納得いきます。そのBestを尽くそうとしてヘタレてしまう自分を叱咤激励してくれる陰なる力が聖霊ではないでしょう。自分で持っている力ではなく、聖霊の力を借りて苦難にも立ち向かえることこそが、聖霊だと思います。
その力に押し出されて外に飛び出して宣教が出来た。それ故に教会の誕生日と言われる所以でしょう。

今日の説教とは少し違う話ですが、以前からこの50日と言う数字が意味することを思っています。
50=49+1
仏教でも七七日(しじゅくにち)の法要をします。この日を境にご霊前がご仏前になります。
旧約聖書レビ記23章16節にも「七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。」とあります。
ペンテコステは、イエスので時代だけではなく紀元前1000年の時代にも50日と言う数字が出てきます。エジプトを逃げ出し荒野をさまよう最初の50日はそれこそ混乱の日だったでしょう。何をどうしていいのかもわからない手探りの日であり、何の食材も道具もない日々。そこには不安しかなかったのでしょう。
仏教のそれもそうなのかもしれません。親しい人の死は何よりの不安とストレス。しかし、残されたものも現実を受け入れられるのは50日と言う日数なのかもしれません。
数字が旅をし、新しい地で教えとなって行ったのか、それとも50日と言う日数に人の記憶と関係する何かがあるのかはわかりませんが、50日の困窮(ペンテコステ)は忘れられない日として感謝をする日になったことも確かです。

主の証人として

2017年5月28日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 24章44-53節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。



本田哲郎神父の「釜ヶ崎と福音」を読み終えて、その中に
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10章40-42)
の最初の「あなたがた」は誰を指しているのか!? これを自分のように思い、それ故に等しく隣人との共生を説きますが、ここは十二弟子、つまりは底辺層で生きている人を受け入れる人は幸いな人と言う意味だと記しています。
とかく、聖書を読むとき自分に置き換えたり、イエスのみあとを歩くためにどうすればいいか?を考えます。
でも、そのまま読んではいけない。自分はそこまで困窮していないだろう、もっと大変な人のために隣人を受け入れる立場なことを自覚せよ、という時もあるのだ、と頭に刻まれた中での今日の説教。


エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。と書かれています。文字通りこのあなたがたは私たちの事ではないですが、しかし私たちの事でもあります。上記のマタイによる福音書とは違い、イエスに会ったことのない私たちも証人としてその歩みと栄光を言い表すことができます。

ではイエスの栄光を言い表すとは何か?が問題になります。
いろいろな教会の中で、牧師の説教で、足が悪くて車いすで来た人が、教会で聖霊に触れ、帰る時には歩いて帰れるようになりました。ハレルヤ。と言う内容の説教があります。
体調がよくなる場面は聖書の中にたくさん書かれ、そこに希望を持ちますが、神の愛は肉体の変化がすべてでしょうか?肉体がよくなったからキリスト教は素晴らしいのでしょうか?
そうではないでしょう。

イエスは何をしたか?それは癒しをしました。癒しとは一番近い日本語は「手あて」だと言われます。手をそっと触れる、そのぬくもりは、決して完治する治療は出来なくても、心がほっとできるものだと言います。
そしてもう一つ「憐れんで」と言う言葉。これは沖縄の肝苦しい、向き合う言葉に重なります。
結果を求めるのではない、とっさに隣人と向き合うこと、これがイエスの証人としての生き方でしょう。

この週僕はがんのソウルメイトの病状の悪化を聞きました。わがことのように苦しい話です。そしてでも何もできない自分が不甲斐ないです。
そんな苦しい状態の時、なにもできないけれど、神に委ねること祈ることが一番の僕らのすべきことで出来ることです。イエスが出会った人に寄り添ったように、僕も祈ることで友人に寄り添いたいです。それを促すのが今日の説教だったのかもしれません。

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信仰によって義とされる

2017年5月21日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章21-31節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。この神は、割礼のある者を信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです。それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。



宗教改革をしたルターは大学で法律を習ったものの、ある日野原で雷にあたり死の恐怖を味わい、この世での生涯は自分の意志ではまかりならないものがあると思い、アウグスティヌス派の修道院にはいり極限をめざし修行の日々を過ごします。がどんなに禁欲しても自分の思う域に達しなかったそうです。

作家の鯨統一郎氏の作品の中で仏陀は悟りをひらけなかったと書いていたのを思い出します。
ルターもそうですが、頑張った要因がもしかしたら死後天国(神の御許)に行けることを求める、つまりは悟りではなく自分のために頑張っているのだという自分の気持ちがほんのわずかでも生まれたら、そこには悟りが開けないことになるでしょう。
己の未来のために頑張るのは、別段誰でもしているのです。週末どこか遊びに行くために働くのと何ら変わりがないと気がつけばその修行の意味を疑問に感じてしまうものでしょう。

先輩友人の笹村さんは曹洞宗の僧侶でもあります。この宗派は死後の存在を認めないそうで、そうであればルターや仏陀の悟りの苦しみはなかったかもしれません。ある意味、未来が無い分悟りを開くには開きやすいかもしれませんが、でも僕はその希望が無いことに飛び込む勇気はありません。僕にとっては死して神のもとに行ける希望こそが自堕落にならない生活の源なのです。
鯨氏は悟りをひらけなかったという仏陀ですが、本当はどうだかわかりません。でもルターは聖書に書かれたことは律法を守ることで救われるのではなく、神の愛でこそ救われるものであることに気が付きます。
どんなに頑張っても完璧にはなれません。それは聖書の中に「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3章10節)とある通り、僕らはいくら頑張っても、妬んだり怒ったり恨んだり、不親切をしたり、見て見ぬふりをしてしまうものです。

そんな人間に対して神は、人を義とすることで神は正しくなる、と言うのです。言い換えれば、神は人を義とすることの望んでいるのです。信仰告白で言う『神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。』なのです。

不完全な人間を義とする神の恵み、だから救われる。これは、一つの考え方です。でもその考え方に「賭ける」ことが信仰ではないでしょうか。

それを僕らは些細なことで他人を見下そうとしています。目くそ鼻くそを笑う、と言う喩えは、今僕が活動している野宿者支援にもかかわります。
慶応大学の井手教授は、この問題は生活が苦しい中級階級の人が、生活保護を利用している人に対して「俺も苦しいのに税金を使ってもらえないのに、あいつらは税金を使ってずるい」と言う妬みが根底にあるのではないか?と分析されましたが、まさに僕もその通りに思い、そうした思いは形は違えども僕の中にもあるでしょう。他人ばかりがいい思いをすればいい気持ちになれないものだと思います。
教会もそうではないのではないでしょうか? 教会に毎週行っているとか、洗礼を受けたとか、様々なご奉仕をしているとか、そんなことで「中流階級」のようなオーラを出してはいないでしょうか?無言のうちに生活保護利用者を見下すように「あいつらはずるい」と来ない人や奉仕をしない人を非難してはいないでしょうか?

しかし神はすでにすべての人を救った、と完了形で語ります。それは信じようが信じなかろうが同じです。どういう人生を送って洋画関係ありません。
一点違うのは、信じていない人は救われていながらも救われるのか不安に思っている人で、信じている人は救われたんだと喜びにあふれている人です。

旧約のアブラハムも小さな一部族の長に過ぎませんでした。イエスの母マリアも一庶民の少女に過ぎませんでした。でも神の言葉に信じますと答え、信じて祝福を受けました。無条件の祝福の訪れを喜び以て待ちながら生きたいものです。

神の愛の実現

2017年5月14日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ヨハネの手紙Ⅰ 2章1-11節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。

愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。



何度も説教で聞いている「罪=的外れ」
「大丈夫」とは、もともとは「立派な男子」を意味する言葉ですが、今になっては「問題ない」と言う意味に変わりました。そのように時代で意味が変わる言葉はたくさんあり、「罪」も的外れから非行・法違反に変わりました。
でも、本来は人の決めたものに対してではなく、そこには神と言う絶対的な存在に従わないことこそが「罪」であります。
絶対的存在と言う部分で言えば、初めて映画に出演する俳優さんが監督を無視して演技をして自分の演技が最高と勝手に演じることのようなもので、それ故に「的外れ」な演技と言われちゃうことと同じなのでしょう。

イエスは弁護者だと言います。弁護とは何とかして助けてあげようとする人です。つまりは「的外れ」な監督の指示に従わない俳優さんのように、神の示した生き方に従わない人間と神の間を取り持つ存在なのです。

これも何度も書いています。聖書をどんどん凝縮していくと「神を愛し、隣人を愛し」なさい。につきつめられるでしょう。
そして僕らはそれに対して「アーメン(その通り)」と言いながらも、すぐにその「アーメン」を忘れ、勝手な人生を送ります。
長井牧師はそういう時に「的外れ」をしやすいと言います。
出来なかったという反省と自己嫌悪。

しかし聖書はそれでも神から導かれ守られているという喜びと感謝を教えてくれる本です。

敬虔なクリスチャンと言う言葉があります。
敬虔とはなんなのでしょう? 僕はその言葉を聞く時に思い出すのは放蕩息子の喩えです。
放蕩の限りをつくし一文無しになった時、あっ神の元に戻ろう、と思う心。
どうしてもそこまで放蕩の限りをしつくしたら恥ずかしい、申し訳ないと神のもとには帰れないでしょうけれど、帰ることこそが敬虔な信仰なのではないでしょうか?

弁護者イエスがいます。
そして神はあなたを愛しています。放蕩の限りを尽くしている頃飢饉が息子の行った地方であると聞き不安に思い、そしてもしかしたら帰るのではないかと毎日小高い山の上から探し求め、その通り帰って来た瞬間に抱きしめてくれる存在です。
愛していると言ってくれることに背を向ける必要はありません。申し訳ないと思うこともありません。
「ほめて伸ばす」と言う言葉に似ています。どんな人生をしていても励ましてくれる神。
励まされて伸びたいです。

正しい者はいない

2017年5月7日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章9-20節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、 神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、 彼らは舌で人を欺き、 その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。」
さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。



先週からの続きになります今日の箇所、ユダヤ人もギリシア人(異邦人)も神の前で罪を犯し神の怒りを買った民族であると言います。民族と言うと僕ら日本人は特に他の日本人に押し付けて自分は関係ないと言いやすい観を感じますので、ここでは人と言うことにします。

先週の説教でもお話がありましたが、ユダヤ人は神に「選ばれた」民族と異邦人を卑下していました。そうしたユダヤ人の一人に、今日のローマの信徒への手紙を記したパウロがいます。
フィリピの信徒への手紙3章5節に、
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
と記しているように、選民の中でなお選ばれたものと言う自負。そんなパウロが神の前で正しくないと言います。
ですから他のユダヤ人たちもグゥの音が出ません。

正しいものは何か?をパウロは実体験を含めて語ります。前述のフィリピの信徒への手紙の直後、
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

神の座にありながら遜(へりくだ)って人となり、その遜った人生を示した生き方にパウロは「義」と言います。
人に仕える生き方、つまり特権と言う利権ではなく義務が生じたというのです。
「特権」と言って見下すのは決して義務ではなく、神の啓示に逆らった生き方だというのです。

3・11の時、世界中が感動をしたのは報道された被害者たちの共生でした。すべてを失った、第三者ではなくても弱者とみなす環境にありながら支え合って生きる姿に素晴らしさを感じたものです。連帯・分かち合いこそが神の啓示でしょう。それをその啓示から僕ら人間は見せてもらい感激をしたのです。

しかし感動は消えやすいものです。
イエスの弟子として最初から御後を歩いたシモンペテロに関する記事がルカによる福音書5:4-にあります。
話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

イエスの奇跡を何度も見ていたはず、つまりはイエスが網を下せ、と言えばそこには魚がいるという意味であることを知りながら、無理ですよ、でもお言葉ですから致し方ありません、と言う投げやりな態度。

さまざまな事象からふりかえっても神の前で僕らは罪を犯しています。
「罪」と言うと、犯罪のように思いますが、神に従わないことが罪です。原語で言うと「的外れ」と言う意味です。
大きな「罪」を見て、ああ自分のやったことは些細な間違いだった、と言うかもしれません。
しかし牧師は語ります。
黒い壁に黒いしみがついても目立ちません。灰色の壁でもそんなに目立たないかもしれません。でも白い壁なら黒いしみは目立ちます。
罪は前提である壁の色、つまりは自分の立ち位置によって逃げることもできるのでしょう。
日本にも目くそ鼻くそを笑う、と言うことわざがあります。
自分の立ち位置を弁(わきま)えず、他人を誹謗、蔑視しても意味がありません。自分も罪人です、と言うことを自覚した上で、そんな自分をも愛して下さる神様。なら、他人を愛す神でもあります。
感謝をもって、神に選ばれた人であればこそ隣人にも仕えたいものです。

神の真実

2017年4月30日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 3章1-8節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。
決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、 裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。
しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。
決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。
またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。


日ユ同祖論、日本人とユダヤ人は文化的に似ているところがあるのは、同じ先祖だからだという考え方があります。が、よくよくその考え方の意見を聞けば、お互い優秀な民族と言う考えにたどり着かせるように見えてなりません。

ユダヤ人は優れているのはどこか? と言うことは日ユ同祖論者の言葉を借りれば、日本人の優れたところにも匹敵致します。
パウロはユダヤ人の優れたところは『神の言葉を委ねられた』点だと語るのです。
キリスト教は『啓示宗教』と中田牧師は語ります。人間の側から神を知ることはできない、と。よしんばそうしたところで、自分の都合に合わせた「神の考え」を本当の神の考えのように思いこむだけだと。
だから神は自らの意志を「何か」を通じて人間にお示しになる。その役割を仰せつかったのがユダヤ人だということです。
だからユダヤ人は神に忠実に生きなければならないのですが、何かのたびに他の神々を見れば浮気をしその神々を拝む…。それに対してユダヤの神は立ち返るように啓示をします。が、滅ぼすこともなく、預言者を通じ「あなたがたが大切」と言うメッセージを送ってくれています。
イエスの時代でも神に頼らず王に頼り、拝金・物質主義に陥りました。イエスを通じて悔い改めを告げられますが、神のみに立ち返ることなくイエスやその弟子ステファノの死と言う局面を迎えます。

イエスより1000年ほど前ダビデ王の時代もそうでした。ダビデ王は、部下の妻に横恋慕し、部下を戦前に送り殺し、その妻を手に入れます。が預言者を通してその罪を神から啓示され、悔い改めます。
心からの懺悔に神は赦し真実を得るのです。真実とは何か? それは神のみにより頼めば失望に終わらない、と言うのが元の意味です。

時代があちこち飛びましたが、神と人の経緯はいつも一緒です。人が神を裏切り悔い改めるように神から啓示され、従ったり従わなかったり…。
神の言葉に委ねられた…。これは他人より偉いとか選民と威張れることではありません。それはユダヤ人も日本人もみんな同じです。神との関係をユダヤの民がすることで他人が見れるようにしたただそれだけのことです。優れているから選ばれたのではなく、もしかしたらだめだから反面教師のように選ばれたのかもしれません。

今の日本を見ているとそう思います。日ユ同祖かどうかはわかりませんが、日本の政治もイスラエルの政治も何も威張れるような優れたことはしていません。戦争の道を進み、手におえない原発事故を犯したにもかかわらず神を恐れず拝金主義の中俣再稼働をし、国民の多くは生活弱者と呼ばれながらも助け合うよりも自分より弱者の受ける生活保護にクレームをつける。
ただ、今から2000年前、3000年前、イスラエルにはきちんと神により頼んだ人がいたことは事実です。間違いを悔い改めた人がいたことも事実です。
1000年後、神の言葉に従ったことが優れた点だと言われるように真摯に聖書に従いたいものです。
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