創立130周年記念礼拝

2月17日 小田原教会では創立130周年記念礼拝をリンクの要領で執り行われます。

20170217-01

この地において130年の歴史、そこには耶蘇と言われのない蔑視を受けた時代や神に逆らい戦争に加担した歴史、そして人口減少と経済至上主義の現在とさまざまな時代の中に、その時その時の信仰の先達たちがもがくように信仰を守ってきた歴史でもあります。

この日、私たちは敬愛する関田寛雄牧師をお招きして礼拝を守ります。
先生は、まさに私たちの教会のベースであるメソディストの学校青山学院の神学部をご卒業後、川崎桜本教会を開拓伝道で起こしたあと戸手教会をお作りになられた方です。
戸手教会の孫牧師の就任式の時にご挨拶をしただけで説教をお聞きする機会が無いまま今日まで過ぎてしまったのでとても楽しみにしていましたが、拠り所のない大事な別件が起き残念ながら当日は礼拝に参加できません。
あとでテープを聞いて、弱者と寄り添う事を重視した関田先生のお話をお聞きしようと思っております。

教会は、どなたでも礼拝に参加できます。
ご不安な点がありましたら、教会についたら受付でその旨をお話し下さい。
聖書、賛美歌は教会に備え付けがございます。
心からお待ちしております。

消えるものと消えないもの

2017年2月12日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 5章17-20節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

天地が消える、つまりは地球上に住む僕ら「人間(と当時の人が思っていた)」の最期の時。言い換えればすべての人が神のもとに行く神の国の成就の時。その時と言うのは人間が人間のために作ったルールなど成り立たないであろうが、その時まで律法が無くなることはないとイエスは語ります。
人間の支配力がない時まで人間の作った律法に従う矛盾。それは何か?なぜ故に神は神の英知に比べれば取るに足りない人間の作ったルールをそこまで従ってくれるのか?
それは神が人を赦した故。自由をお与えになり、人間の態度を評価するためなのかもしれません。

聖書は福音書を通じてイエスを描いています。様々なルールの狭間をファリサイ派や律法学者から追及され、違反をしたら裁こうと虎視眈々と狙われていました。同時に貧しい民衆はだんだんと形骸化したルールに困窮し、ルールに迎合すれば民衆の支持を失うこともファリサイ派や律法学者も知っていました。
しかしイエスは、律法を守りながらも律法に従えない人への配慮も出来たため、ついには磔刑の死を迎える訳です。
イエスは律法は無用と言う社会革命を起こすわけではなく、律法の意義を純粋に守ることを言いたかったのではないでしょうか?

例えば僕らは車に乗ります。ゆえに交通ルールを守ります。世界四大文明で動物に乗ることや荷物を運ばせることはありましたが、17世紀になるとヨーロッパでは道路が整備され馬車で行き来をするのが当たり前になりました。そして馬車を超える自動車が発明され、交差点での事故が発生するようになります。
事故を防ぐにはどうしたらいいか? 人々は考え、交通ルールを作ります。信号が出来ました。青は進め、赤は止まれ、です。
ですが、赤になる直前進んでしまうと交差点の中で青になったばかりに進んできた車や馬車とぶつかる可能性が出てきました。
そこで、青が終わり赤になる前には黄色に変わるようになり、注意して進め、でも反対側はその間赤のままにする、と言うルールが出来ました。
それでも黄色の終わりにスピードを上げて交差点に入る車、交差点の反対側では相手の信号が黄色になったのを見るや否やアクセルをふかし変わると否や交差点に入る車が出来ました。

律法とはこういうものでしょう。しかし守らなければ大きな事故になる可能性もある。
そんな時イエスが語るのは、律法云々ではないのです。相手のことを思いやりましょう!
まさにコロンブスの卵、目からうろこが落ちた如くの正論。
つまりもし信号がなくても、交差点の前で「すべて」の車がいったん停止し、相手の道路をよく確認し、徐行をして走り抜けれることが出来るのなら、信号と言うルールは不要なのです。なくてもいいわけです。
これこそイエスの言う律法の完成ではないでしょうか?

長井牧師は、ファリサイ派や律法学者も辛い日々を過ごしたのかもしれない、と語ります。
交通事故を無くそうとするのなら、信号を作り、黄色信号を作り、と社会の流れに沿って変革をさせる事が大事だと必死になったのかもしれません。イエスの正論ではなく、目の前の事象に絞り込み、ただその1点だけの解決を試みたのでしょう。

しかしイエスは言います。「神を愛し、隣人を愛しなさい」この短い2センテンスの言葉が守られるのなら、世の中のすべてのルール法律は不要になる、そんな高度なテクニックを教えてくれたのでしょう。それこそルールの感性です。
世のルールは信号を例にとるまでもなく、複雑にすればするほど、その隙間が気になります。破る輩が出てきます。破られればもっと複雑にし破らせないように努力します。管理社会は、穏やかな人を精神的に追い込みます。権力者はその仕事上の力によって狼藉を働かせることもあります。
イエスの言うルールは難しいけれどシンプルで純粋な生き方です。誰もが平等な生き方です。事の大小を問わず、自分より隣人を誰もが優先した世界になりますように。

神を拝まない罪

2017年2月5日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 1章18-25節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。


神がいる。神の思いや考えをまとめた、それが聖書と言っても、そしてそれを書いた人は聖霊に満たされたとしても、もしそこに書き手の「意志」が全くなくすべて神だけのものなら、福音書が4つ必要になるはずもなく、4つあるのは書き手の「感動」があればこそ、大事な部分が人(弟子)それぞれで、それ故に少しずつ福音書の内容は違います。
そして読み手の僕らも同じです。以前遠藤周作氏が、大学の入試に自分の作品が出題され「以下の作品を読んで著者が言わんとしているのは次のA~Dのどれか?」と書かれていたので、Dだろうと解答を見たらAだった、という笑話のような話を書かれていました。大学の専門家の先生すら書かれているものの分析は難しいのですから、僕らが聖書の書かれているものをすべて間違いなく読み取れるとは限りません。
神の存在を信じることと聖書を吟味することはやはり違うことでしょう。
しかし、聖書を全否定することはありません。もしそうだとしたらキリスト教だはないでしょう。細かい一節、一句が書き手のスキル不足や時代が事象をゆがめていたり読み解けないことはあっても、全否定はない訳です。

神の怒りの啓示が書かれています。啓示とは本質を顕わにする、神が顕われることだと牧師は語られます。
顕われる・・・モーセの前に顕われてた神は「私はある」と言われました。「私はいる」ではなく「私はある」という言い方。ここに神は人間が理解できる「存在」ではないことが解るのではないかと僕は思います。
「ある」のは、物質的な存在ではなく、感覚的・精神的な存在だからではないでしょうか? デカルトは他者の絶対的な他者性を神と呼ばれた訳です。われ思う故にわれ有り、「ある」神を僕らは哲学的に知っているのです。
コミュニケーションを取り、喜怒哀楽をぶつけられる相手です。神には「思う」という事象に対して反応があるのです。しかし、絵画や書籍などを通じて僕らが意識の中に思い描く神の「姿」ではないと思うのです。

「ある」神とは、自分の存在自身を神に感謝しながら生きることでもあるのではないでしょうか?「思う」事象をぶつけるコミニュケーションの相手の存在があるこの世は有機質の世の中であることだと人生を謳歌できるのではないでしょうか?
それは安易な言葉で言えば「人は一人では生きられない」ことだと思います。社会の中で生きる生き物だということでしょう。
しかしその世の中において、絶対的他者の神にも隣人にも感謝を忘れ、不満だけを口にするようになった。このことが神の神の怒りの本質ではないでしょうか。

自分は神によってこの世に表された被造物と言う意識があれば、創造者に与えられた存在として感謝のみでしょう。不満と言う名の罪は存在しないはずです。
でも、自分の人生は自分自身のものとなれば、そこには罪(不満)が生じてしまいます。

ここ数回の中田牧師の説教は本質に近づいてインプレッションを上手に書けません。神学を学んでいない自分の限界を感じます。教会には、毎週の礼拝の様子がCDで取り置きしてあります。この拙いBlogを読んでよく解らないので、元説教を聞きたいという方はお気軽に教会まで(笑)

福音を恥としない(2)

山口市内の小学校でいじめを受けた女児が不登校になった問題で、男性担任教諭が女児に「先生に超能力があったら加害者を見つけられるのに」と発言していた。女児の父親への取材でわかった。女児は「加害者のことを伝えているのに、真剣に取り組んでもらえない」と受け止め、学校に行けなくなったという。

 市教委によると、「しんでよね」などと書かれたメモが女児の机の中に入れられるいじめは昨年1月下旬から約3カ月間続いた。父親の説明では、その後も夏ごろまで、同級生ににらみつけられるといったことがあった。

 担任と女児の家庭で交わされた「連絡帳」によると、担任は昨年11月16日、女児と個別に面談。女児は「担任に『なぜいじめられたと思う』と尋ねられ、『どうやったら加害者は見つかると思う』『先生に超能力があったら加害者を見つけられるのに』と言われた」と親に伝え、親はそのことを記入した。

 翌17日から女児は不登校に。女児の母親は連絡帳に女児が「加害者の話も何度もしているのに、超能力の話だなんてありえない」と落ち込んでいると書いた。これに対し、担任は「気持ちがやわらぐといいなという思いで話をしていました。傷つけてしまったこと、とても申し訳なく思っています」と記した。

 ログイン前の続き12月2日の連絡帳には女児が自ら「私は先生に傷つけられたことは一生忘れません」と記入。担任は「苦しんでいる気持ちを考えないような幼稚な言い方をしてしまいました」と謝罪の言葉を書いた。

 学校は今月27日夜、緊急保護者会を開き、いじめや学校の対応の経緯を説明した。女児が不登校になった経緯について、市教委は26日に開いた記者会見で「担任との言葉の中で行き違いがあった」と説明。校長は朝日新聞の取材に対し「個別のことでお話しできない」と話した。
朝日新聞 2017年1月30日19時16分

昨日の今日なので、29日の説教はよく覚えている。そんな最中のこの文章に説教がオーヴァーラップした。
説教を聞いて僕は2つに分解した。
1つはキリスト教はドラえもんのポケットではないから「奇跡」を望んでも何も出てこない。→先生が超能力を使えたなら、という言葉は、失望以外の何物でもない。
もう1つはインマヌエル=神共にいまし、である。映画「沈黙」のインプレッション「サイレンスΩ」にも記したけれど、神という名詞を固定概念で思い込んでしまわないで、例えば聖書の「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイによる福音書 18章20節)という概念を外した人の心の中の神性を重視すれば、彼女に共に居ます神のなさ、つまり隣人不在が彼女を苦しめてしまったわけのように見える。

福音とは神という既成概念による「与えられる」存在ではなく、神性により隣人を愛す心を持った人の行為でもあるのではないか?
何の力もないような、ささやかな言葉や無言でいても寄り添える周囲の人。その存在はドラえもんのいかなる道具よりも光って見える。

福音を恥とせず

2017年1月29日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 1章16-17節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。


聖書、特に新約聖書は「信仰の書物」です。だから読んだ人がそこから影響を受けどう生きるかというものですので、多様な読み方ができると思います。
しかし、聖書を信仰の書としながら、いわゆるカルトと呼ばれる原理主義的な指導者のエキスで聖書をコーティングする宗教グループもあります。
言い方はおかしいですが、過去の神学を鵜呑みにするのではなく、一つ一つの御言葉は私にどう語りかけているのか、この言葉は正しいのか正しくないのかまで、自分の力で吟味する上で聖書は輝きを増してくれます。

福音を恥としない、というショッキングな御言葉で始まる今日与えられた聖句。中田牧師はこのローマ書のポイント、もっと言えばパウロ神学の中心思想だと言われます。
恥ではないとあえて公言する裏には、恥だという考えがあったことでしょう。それはアテネ伝道の際にあざ笑われたことなどに端を発するでしょうし、言葉になっていなくても雰囲気で感じることもあります。2017年生きている僕らも『宗教なんて何も役に立たない』とか『信仰をもっていい事あるの?』というような疑問を投げられることもあるので、人は2000年経った今でもこの問題に直面しているのでしょう。

そもそも福音を信じて人は何の得があるのか?を考えてみましょう。
金持ちになるのでもなく、頭がよくなるわけではないし、永遠の命がこの世で与えられるわけではなく、信仰をもっても病にかかる時はかかるし、年を取って出来ていた事がだんだん出来なくなっていきます。
そもそも十字架にかかって殺されたものが神の訳はないという考え方もあります。

福音を恥とする考えはきっとそうした人の望みがかなえられないことからくるのでしょう。自分のしてほしい事をしてくれる「ご都合のいい神」を望むのならキリスト教の神は神ではないでしょう。それよりも壺を買えば運が開けるような神に託すべきでしょう。しかし「この壺を買えばきっと…」という言葉に心揺らぐことはあっても購入に至る人は少ないのは、例えば金持ちの人は一生懸命働いた人であり、良い学校に行った人はまじめに勉学をした人であるにもかかわらず、その努力なくして叶ってはいけない道理であることを多くの人は知っているのです。でも、そんなものがあったらいいな、と言う妄想がご利益宗教を生むと思うのです。まさにドラえもんがいたらなぁ的な無邪気な羨望でしかないと思うのです。

福音を恥としない、福音を信じて何になるんだ。そういう意味ではキリスト教は何もならない宗教です。
しかし聖書の神は一つだけ「何かになる」ものをくれます。それは神共にいます事、癒してくれることです。しかし、こんなことは世間は歓迎しないです。自分の生活にプラスになることだけを追い求めたら神共にいることが何の得になるか、と思うから。
でも、それはじつは信じる者信じない者、すべての人を神が寄り添ってくれているからです。空気があることは誰もありたがらないのはあまりにも当たり前のことだからでしょう。
そしてよくよく考えれば、金や頭や健康も人生を楽しく過ごすには大事な要素かもしれませんが、なくても十分楽しめます。しかし、本当に苦しい時共に居てくれる信頼をおけるものの存在は無ければとても苦しい人生になってしまいます。

しかしキリスト教は2000年もの間続いています。それは実感がないままの人も多いですが、空気のありがたさを実感している人もいるからです。
日本は水はタダだと思ったのが最近は有料で買う習慣が増えました。当たり前をありがたい事と認識しなければならない時もあります。

暗闇から光へ

2017年1月22日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 4章12-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

メガネをはずすと目の前が見えなくなるだけではなく何か頭の中もぼんやりする様で思考が定まらない、そんな感覚に僕はなります。同時に話も雑談ならともかくきちんと聞く時はメモを取らないとどうも理路整然としないし、覚えている時間も短くなります。
先週は耳だけで説教を聞いていましたが、家に帰るころにはどんな説教だったか内容もあやふやでBlogにインプレッションを記載するどころではなく失礼をしてしまいました。


イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、 湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、 異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、 死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。



4つの福音書の著者は、書かれた背景、書いた時期、書きたい事、当然のことながらすべて違います。このマタイはきっと「正当な」王家系統者、つまりユダヤ最大の王であったダビデやソロモンのような強大な国家を作ってほしいという民衆の願いに対しての回答を書きたいという願いがあったのではないでしょうか?
ですから1章1節からは、初めて聖書を読む者にはただただ面白くもない名前の羅列を記し、今日の箇所もイザヤ書9章からの引用を書き、そこには正当な神に油注がれたイエスが神の名によって平和を作り出すことを書こうとしたのだと思います。
イザヤ書の中では異邦人のガリラヤと書かれていますが、長井牧師はこの地はマカバイ王家の地、熱心党の本拠地であり、異邦人の地ではないと語ります。では何ゆえに異邦人の地と記されたか?と言えば、イエスによる新しい解釈のユダヤ教つまりはキリスト教に対して異邦人の町と言う意味だったのでしょう。
そこでイエスは悔い改めよ、と伝道を始めたのです。
もちろん、2017年の日本と言う地も異邦人の町。2000年と言う月日、極東と言う洋の東西の違い、そんな辺境の地でも、イエスに出会い、イエスの悔い改めよという言葉によって教会は建てられ、この日僕らも礼拝の民として集いました。

悔い改めよ、よく日本でも一部の福音原理的なグループの金属板のプレートがあちこちに貼られていますが、何か大きく懺悔をして生き直さなければならないようなインパクトを与えます。
しかし長井牧師は、もう一度神を見よ、と言うニュアンスの発言だと語ります。

放蕩息子の喩えが聖書には載っています。乱れた生活の挙句日々の生活にも事欠いた息子が父の所へ行って謝ろう、と帰ると、遠くからその姿を見た父親は駆け寄ってよかったと涙流さんばかりに喜んで帰宅を歓迎した。と言う話です。
僕らが何かをきっかけに「神はいない」とか「もう信仰生活は疲れた」「勝手に生きたい」と神に背を向けて(放蕩息子の喩えでは放蕩生活をはじめても)、何かをきっかけに神の元に戻ろう(もう一度神を見よう=悔い改めよう)とすれば、神は喜んで遠くからでも駆け寄ってくれる、と言う話です。
大きな懺悔のような、「○○しなければならない」という条件は神は求めていない。ただ神の元に帰ろう、と言うだけで十分なのでしょう。

もちろん放蕩生活を進めているわけでもありません。でもこの放蕩息子の話には兄もいます。父親に仕え日々精進しながら仕事に明け暮れても質素な食事の毎日。遊ぶこともなく一生懸命の兄は、弟の帰宅に際して父親が歓迎の宴をしたことに腹を立てます。
ずっと自分は父に仕えたのに、何一つしてくれなかった。
わかるなぁ、その気持ち。僕には痛いほどよく解る。やっぱり一生懸命生きた人は放蕩の限りを尽くした人より目をかけてほしいよ。お前はよくやっていると言ってほしいんですよ。
と言う弟との比較。それ自身がお門違いなのでしょう。

僕の天国論は誰でも行ける場所だと思っています。地獄は永遠の場所ではないと。
じゃあ放蕩息子のようにこの世でも好き勝手やった方が得じゃん。悪い事して死刑になっても天国に行けるなら悪い事しようぜ。なのでしょうか?

もしそうであってもイエスのみあとを歩んで人の目には兄のように要領の悪い生き方をしたとしてもそうあれ、と言うのがクリスチャンになるということなのでしょう。

悔い改めよという言葉は神が人に言う言葉。人と人との関係では愛し合いなさい。です。
隣人を愛しながら神を見ながら生きること。そしてそれがしんどくなったとしても神は何度でも赦してくれるからそれを信じて希望を持つこと。
今週も背伸びしすぎることなく身の丈に合った愛の中に生きていきたいものです。

イサンタシャワー

礼拝が終わり野宿を余儀なくされている仲間への炊き出しをしました。
例年は、正月も終えたこの時期は炊き出し会場に、本当に野宿をしている方だけではなく保護を受けている生活困窮者や様々な理由で孤独な生活を送られている方が会話を求めて来るなど多種多様な方の訪問がありますが、今年はそうした人は少なく木曜に出会っている野宿の方ばかりです。
でも、人数はその分減っており去年の半分程度しか集まっていません。
それでもこの場で「同じ釜の飯を食った仲間」、昨木曜日の訪問で回った時は皆で一つのテントで5人で談笑なされていました。

昨木曜日は寒波の到来で小田原のでも最低気温は0℃前後。寒さと心細さは加算されると情けなく惨めな気持ちになります。
そんな気持ちは仲間との団結、団らんが打開してくれます。
この5人は物腰が柔らかくまじめなのでなんとかこの困窮から抜け出してほしいものですが、まずは困窮の中の仲間がいることで仲間から勇気をもらいあいながら頑張ってほしいものです。

さて、そんな夜はイサンタシャワーと言う教会行事に参加。
祈りと賛美の時をまず持ちます。この祈りに関しては1個だけ決まりがあります。それはただ一つのことだけ祈るという事。
僕は今日は上記のことが一番の関心ごと。というか、この仲間の関係性がうれしくて元気をもらえてありがたい事でしたのでその時が与えられたこと、そして野宿の方々の健康を祈ります。
寒さの中、厳しく世知辛い中、希望を持って生きる唯一の力は仲間の存在です。そんな仲間と力強く生きていく彼らに絶大な応援ができればと思ってとりなしの祈りを捧げました。

祈りと賛美が終われば、ともに食卓を囲みます。

20170115-11

20170115-12

老若男女鍋をつつき談笑できる豊かな時間。
僕らも野宿のコロニーと同じ仲間がいなければ生きていく元気が不足してしまいます。
豊かな時間に感謝します。

御心に適うもの

2017年1月8日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 3章13-17節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。



教会は洗礼を大切にしています。これは「神と自分」の部分ではまったくその通りだと思うのですが、「自分と他人」と言う人と人との間では僕は意味を感じないのです。ですから、教会に神を求めに来ることよりも受洗と言う儀式を大事にし、未受洗者をオミットする聖餐式にはどうも違和感があります。教会や牧師や信徒が「していい」、「してはいけない」というようなものではないような気がします。教会の敷居は高いのにそれを越えてきたところには神への依存があるのだからその人個人と神との関係なので僕ら人がとやかく言うのは神への越権行為、お門違いな気がします。
その考えのベースはこの場所で、イエスは正しいからと受洗をしたけれど、この後イエスは洗礼を授けた記述はないのです。イエスであっても神の前に正しい事として自分の信仰の表明をしましたが、それを他人には強要しなかったのでしょう。
そんな自分の考えのまま、今日の説教を聞きました。

長井牧師は、「イエスは教祖にならなかった」と語ります。先生のお考えはわからないけれど、「教祖」として上から目線で受洗をしなければクリスチャンではない、と言う「宗教」でないという意味であるのなら、僕としては心強い説教です。

神とイエスの関係で言えば、上に居る神と下から見上げるイエス。それはイエスと人の関係の相似のように見えます。そして下から上の神を見上げるイエスの生き方、つまりは一番下座に居るもののようにふるまえという生き方を倣えというイエスに従いたいのです。

そして牧師は続いてネルソン・マンデラ氏の
生まれたときから、肌の色や育ち、宗教で他人を憎む人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。
もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。
愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。

と言う名言を引き合いに語られます。
それは聖書に記載されたイエスの生きざま、行動や発言に従ったクリスチャンの考え方です。

受洗とは神への証。神の世界を作ることこそ人の平和と幸福が成し遂げられるという信頼。ゆえに自分の行動をもって神の愛を実践するのです。この一点に集中したいです。

聖書は生きている書物と言われます。それは聖書によって生き方を定めその生き方を全うする人が多いからでしょう。
日本キリスト教団は宣教基礎理論というものがあります。そのⅠの2の(4)ハのdの中に、「信徒は、この世の問題を自己の問題として神にとりなし、神の言葉を伝達し、また、礼拝に参与して神のみわざを証しすることである」と書かれています。
ネルソン・マンデラ氏は、聖書に従って神から愛を学び、愛を広げるというイエスのみあとを歩んだわけです。僕らもイエス→マンデラ氏→自分と言うつながりを大切にしたいものです。
受洗をして仲間になってくれることは何よりもうれしい事。でも、イエスはそれよりも隣人を愛すことをもっと重要視したのではないでしょうか。

流行と信仰

「そんな硬いこと今流じゃないよ」と若い子には言われちゃうかもしれませんが、やはりどうもハロウィン騒ぎにはついて行けないところがあります。
だからこそ僕は一神教であるクリスチャンに惹かれたのかもしれません。

ユダヤ教グループであるユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、ともにベースである旧約聖書を経典として持ちます。その最初の方にエジプトを逃げ出し新たな自分たちの国を目指すモーセ一族の話が載っています。
ウィキペディアにはその様子が簡略化されまとめていますのでコピーをさせてもらいます。モーセがシナイ山において神から十戒の石版を授与されるまでには40日の期間を要したとされているのだが、麓に残されたイスラエルの民は時間の経過と共に忍耐力を失い、ついには、モーセは死んだと思うようになった。ハザルは同書の注釈において、このときサタンが現れ、雲の上に立つモーセの幻影をイスラエルの民に見せたとしている。不安になった民はアロンのもとに相談に出向き、苦肉の策として民族を導いてくれる新しい神の制作を懇願する。アロンはそれに応じ、全民衆から貴金属の提出を命じる。こうして鋳造の金の子牛が完成したのである。
これを知った神は、一刻も早く下山するようモーセに命じる。モーセが下山して宿営地に戻ったところ、民衆は宴に興じながら金の子牛を拝んでいた。怒りに満ちたモーセは十戒の石版を破壊するやいなや、金の子牛を破壊する

と言う話ですが、一神教とは他に神がいないわけではなく、自分が信じた神のみを浮気をせずにただひたすら信じることです。

信じるためには僕はある程度の内容理解が必要だと思っていて、ただわからないけれど楽しそう、とクリスマスを受け入れ、そして今度はハロウィンを受け入れ、その反面流行が過ぎ去ったがごとくに除夜の鐘はうるさいから鳴らさないでほしい。たき火は野焼きと同じだからドンド焼きはやめましょう、と言う風習への考え方はどうも苦手です。もう少し一つ一つの行事をしっかり学び、自分の宗教の行事は大切にしたいものだと思います。

これと決めたらまぁとにかく一生懸命それに従う、そんな馬鹿正直な人生の方が僕は似合っています。

20170108-01

街行く皆さんは、クリスマスを過ぎた後まだ教会にリースやクリスマスの飾りつけが残っていて、忙しくて片づけ損なっていると思われるかもしれませんが、一般的に教会は公現日まで飾り付けはしていますし、東方教会の方は今日がクリスマスのお祝いの日です。
年末に銀座に行った際、購入したクリスマスツリーの飾り皿。小さな変形の飾り皿立てが見つからず飾ることもできませんでしたが、インターネットで見つけた清州の業者さんが持っていたので購入。送料込302円に、お手数や領収書用紙、封筒を入れたら赤字ではないかと思ってしまいます。せめてもの罪滅ぼしにお店の名刺を添付してPR
クリスマス最後に飾ることが叶いました。ありがとう\(^o^)/

20170108-02

恵みの福音

2017年1月1日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 1章1-7節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

20170101-01

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、――
この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。――
神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。



2017年を迎えました。
1月1日、初めての日。そんなことで特別な日に思えます。でも、「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という一休宗純師の歌。そして「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と言うテサロニケの信徒への手紙の言葉。
特別視するかしないかは個々の気持ちひとつで、365日のただの1日に過ぎないのかもしれません。
様々なスポーツでも「練習は試合のように、試合は練習のように」といいます。特別な日を普段の日のように、ハレの日でもケの日のごとく過ごせることが大事なのかもしれません。

もう一つ、教会の暦ではまだクリスマスの時を過ごしています。アドヴェントと言う備えでもありウキウキと嬉しい時は社会・経済でもクリスマスを共有していますが降誕を期に社会・経済は一気に正月モードになってしまいます。でもクリスマス、つまり「救い主の誕生」は産まれるまでではなく産まれたことが大事なはなしで、救い主が生まれた喜びとキリストの光がこの世に輝きだすエピファニーまでが喜びあいたい時であります。

さて2017年中田牧師は小田原教会の礼拝説教をローマの信徒への手紙の連続講解を選びました。その1回目となりますが、あわせてパウロの人生についての話でもありました。3度の伝道旅行をしたパウロ。
でも考えてみれば僕らも人生と言う旅を歩んでいます。併せて礼拝のさいごに牧者から祝祷派遣の言葉をうけて礼拝を終え、各家庭に戻り、一週間家事を、仕事を続けます。

エピファニーは東方の博士たちが星に導かれイエスに会った日とも言われています。そんな博士たちはイエスに会った後、天使に道を変えて帰るように言われます。
牧師は、この事実と合わせて、このことは意味ある示しでもあるといわれます。つまりイエスに会ったことで人生の道が変わる、今まで歩いてきた道と違う道を歩むこと、と言われました。

博士たちも、救い主がどんな人かわからなかったはずです。占星術、星占いの結果、「何かがある」ことはわかっていてもそれがどんなことかわからなかった。それでも行くことは個人の成し遂げたいというわくわく感でありますが、そんなわくわく感は多くの占星術の博士が味わったと思います。それでも行った博士、行かなかった博士、そこには背後の神の呼びかけに応える、逆に言えば呼びかけられたことに従順な姿の大事さを感じます。

最初いつもと同じと書きました。でも、一年の計は元旦にありとも言います。背後の神の呼びかけに応えることをこの一年の目標に飄々と毎日を楽しみたいと思います。
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