ご真実なる主

2018年7月15日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書詩編 3章1節。表記のタイトルの説教を松元緑牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。)


その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

私と言う「木」の環境は、神の御手の中と言う「流のほとり」にあります。まことに持って信仰者にはありがたく感謝の言葉です。
しかし、実生活では本当か?と問うと、輝かしく楽しい過去ばかりではないのが現実です。
と言うよりも何かをする際にも、思い通りに行かないことが多かったりします。

松元師も道を示してほしいと祈る期間が1年半あったとか。
残念ながら僕はのほほんと生きてきたので、道を示してほしいと切に祈ることもなく、ただ流れに乗って生活してきましたので、実体験を語りながら今日の御言葉をお伝えすることはできません。
が、有名なコヘレトの言葉(3章1-9)

何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時 保つ時、放つ時
裂く時、縫う時 黙する時、語る時
愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。


ではありませんが、生まれた時を希望してその日に生まれた訳ではなく、死して神の元に戻る時も自分ではわかりません。仕事柄少しは体験がありますが、木の種類によって植える時、移植する時は様々です。時期を外すと、枯れやすいですから仕事として受けないことも多分にありますし、受ける時は枯死しても責任は取れない旨を伝えます。
植木に関しては、少しだけプロの自負があるのでそう言えます。つまりは聞いてくる人はその知識がないので、「時がある」ことを知らなかったのでしょう。
逆に言えば、僕も知らないことに関しては「時があること」がわかりません。様々な「その時」が見えない人間であります。
松元師が時を示してほしいと祈り1年半と記しましたが、まさにその1年半後が神の定めた時だったのでしょう。与えられた詩編の御言葉で言えば『ときが巡り来れば実を結び』です。
そうすると今日の御言葉はするすると頭に入り納得できます。

松元師はモーセを例にも出しました。荒れ野の時間はモーセのほぼ人生です。人生を通して道が開かれないこと、と聞くと、何か不幸な気もするかもしれません。
でも約束の地に行けたのは、神を信じ抜いて、なおかつ自身もギブアップをしなかったからだと思います。
人生は死に直面した時に、いい人生だったかどうか? が一番のような気がします。人生の過程ではなく、最後の最後にいい人生と思えるか?
ギブアップしないで待つことができるのなら、最後にいい人生が残っていることでしょう。

待ちの時間ほど不安な時間はありません。その終りがいつだかわからない恐怖はよくよくわかります。
野宿を余儀なくしている方々の所を廻る時、彼らの思いを想像する時一番の不安は、死ぬまでこんな生活なのか?死んだときは野ざらしで死ぬのか?だと思います。今日の飯代がない事よりもこの生活がいつまで続くかの方が不安でしょう。
そうした時、僕らができることは、実は1つおにぎりを渡すことではなく、一人ではないと言う希望を伝えることだと思います。
神は野宿をしているこんな俺をも愛してくれている、と言う希望を、大きな不安に押しつぶされないで持ち続けることでしょう。
もちろん野宿の人だけではなく、病院のベッドの上で時を過ごしている仲間、再発があるかもしれないという病気との闘いの仲間も然りです。
繁栄の形は人の思いとは違うかもしれません。でも神は見捨てないお方です。ギブアップしないで生きたいものです。

イエスさまの郷里での伝道

2018年7月8日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 6章1節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
そして、人々の不信仰に驚かれた。


閉鎖的と言うか保守的な村々ではよくある蔑視がナザレでもあったのでしょう。清水牧師は、村の(イエスの周辺の人たち)は決して悪気が合わった訳ではないでしょう、と言います。

昨今、保守と革新と言う言葉は、極めて政治的な意味合いでしか使われませんが、昨日と同じ生活を守りたいと願えば保守ですし、新しい事をしようと試みるのは革新です。
僕は今の世の中が住みよい世の中ではないのでどうにか変わって行って良くなってほしい、と言う革新的なスタンスですが、人間的には「石橋を叩いて歩きたい」保守的な人間です。
たとえば世がインターネット時代になった時、Web上に言いたいことを書きたいと、ホームページと掲示板を載せて楽しんでいました。ある日、友人が「Blogと言う掲示板より簡単で面白いものがある」と教えてくれましたが、Blogを理解していませんでしたし、掲示板で楽しめていましたのでそっけない返事をしたみたいです。
その後自分自身でBlogの面白さに気が付き、僕のsiteの中心はBlogになりました。
その友人から、そっけない言い方したけれどはまっているじゃん、と冷やかされましたが、そこが「石橋を叩きたい」人間の性(さが)で納得できないとはまれないのです。

大工の息子じゃないか! ある意味蔑視的な見方です。が、蔑視ではなくその道(宗教指導者)のプロじゃないだろう? と言う意味なのでしょう。具体的にどこかできちんと学んだことを示さなければ納得しない、と言うのは残念ながら僕も持っています。まったく前述のBlogと同じです。大工であろうがその思想がきちんとしたものなのか?否か? は、今日日のオウム真理教などの新興宗教を見ると、洗脳なのかを僕は疑ってしまいます。
だから大切なのはとことん調べて納得できるかどうかでしょう。
しかし併せて、マリアの息子…もしかしたら出生の話に遡り噂になっているのかもしれませんし、ヨセフの名前が出てこないのはヨセフはすでに死んでしまい寡婦と言う差別社会の中にあって厳しい家族を卑下しているのかもしれません。

いずれにしろ、つまらない理由です。くだらないナンセンスな話です。そんな理由でイエスの言動を重要視しなかった訳です。
でもそれは後の世になり、聖書がまとめられ、それを読み納得して受け入れられたからなのかもしれません。その場にいたら僕もどうだったかは甚だ疑問です。
だとすれば先人の過ちから僕らは学ばなければなりません。

医者が患者を治そうとする時、患者が医者のいう事を聞かなければまず治らないでしょう。
どんな名医でも、医者の力には限界があり、その限界は患者力でしょう。

イエスの言動を頑なに聞く耳持たないナザレの人たち。イエスの言葉がどんなに鋭くも、イエスの行いがどんなにスキルが高くても成し遂げられないでしょう。
「何言っているんだ」と言う態度なら、重要なポイントだって聞き漏らします。馬耳東風なら聞いたことも頭に入りません。

ナザレの人たちは極めて人間的な出生とか生活環境とかで、重要なものを聞き漏らしてしまったのです。頑なな心で大事なものを受け入れられなかったのです。

イエスはそれでも周辺の村々を訪れました。神は愛をあきらめません。
そして併せて、イエスが来た日も平凡な毎日の中の突然であり、特別な肩書やスタイルやお連れが居た訳でもありません。「ナザレのイエス」で現れました。
僕らの生活の中にも神の愛が顕われているかもしれません。が、平穏無事な時に神を忘れ己の成果のように楽しみ、困窮の時だけ神を恨み何もしてくれないと言った自己中心にならないようには心がけたいです。
今日の喜びは、普段着のイエスがそっと寄り添ってくれただけなのでしょう。
神がよろってくれている恵みを神から頂けたものと感謝することは大事だと思います。

ただ信じていなさい (イイワケ・・・)

下記BlogをUPしてまったく間違いは書いてはいないつもりだし、そもそも僕の雑感なんです。
でも、クリスチャンでない方がお読みになられて誤解されてはいけないと思い、少し追加。

宗教の中には、指導者の発言は絶対でそこに異論や疑問のはさめる余地はないところもありますが、キリスト教の多くの教会は、聖書のみ言葉を牧師は取り次ぐだけですし、聞いている信徒はただの一般人です。
ですから聞いて理解できないこともあるし、疑問に思いながらも(礼拝後の時間を使って牧師にお尋ねすることもなく)帰宅することもあります。
なんとなくしか理解できない時もあります。

でもそれがキリスト教だと思うのです。神は人間を支配しようとしなかったのです。だからロボットではないのです、神の言うことは絶対命令だけではないのです。
自由がある。だから分岐点があり、悩み、そして神に祈るのです。

だからこの世は楽しいのです。

ただ信じていなさい

2018年7月1日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 5章21-24a節と5章35-43節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。


****

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。



この日松田教会に与えられた聖書の箇所は、2カ所です。しかし、この2カ所の間に別の話が入っていただけでストーリーとしてはこれで1つの話です。
とはいえ、サンドイッチにされた話もないと分かりにくいので、簡略に述べると、12年間出血の病に苦しんでいる娘がいました。当時は血は穢れているものですから、出血の患いである人は大声で「私は穢れたものです」と言いながら歩かなければいけないと言う屈辱の人生を送らなければいけないし、そうやって惨めに暮らしていたのでしょう。
その女性が、ヤイロとともに出かけようとしたイエスの着ている衣にそっと触れました。すると病が治ったことを感じ、同時にイエスも力が外に出て行ったことを感じました。イエスは誰が触ったか?と聞くと、娘が恐る恐る自分であることを告白しました。イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と語って、さてヤイロの家に行こうとした時から後半に続きます。

今日のポイントは絶望的な状況でも希望を捨てなかった2人の女性(家族)の中の1つの話です。
希望を持つということは神を信じることでもあります。希望は神からの来るものです。

しかしヤイロ(会堂長ですからユダヤ教の信仰者なのでしょう。ただ任命は祭司長だから古い信仰理解の方だったのかもしれません)の仲間は、死んだヤイロの娘に対し『死んでいない。』と言うイエスに嘲笑を浴びせさせます。
宗教者やその仲間でさえ、無理だと思う話。誰がどう見てもそれが当然の理解。
そこにイエスは「神に希望を持て」「愛して下さる神に委ねよ」というのです。

一方ヤイロの父親になったつもりでこの話を再度考えてみると「娘が重篤なんです、急いでください」と迎えに行きながら、出血の娘に出会い時間をとられた挙句、娘は死んでしまいました、となれば、途中の邪魔な娘とそれに手を貸したイエスに憤りすら感じたのではないでしょうか?
もしここで娘が死んでしまったとすれば、葬儀が終わり、少し落ち着きを迎えれば父親を襲うグリーフは、イエス憎し!となったのではないかと思います。

そうした人たちに身を以て希望を教えたイエス。素晴らしい話と思うのと同時に、でもその場面に出ぐわさない僕らにはなかなか感情移入が難しく、信じろと言ってもと言う思いは湧きます。

3・11の津波に家族が襲われた人は、津波が去った後絶望的な気持ちの最中も消え入りそうな希望を持っていたけれどやはり行方不明のままだったという人もいます。ヤイロの父親のように希望が大逆転した例は稀有かもしれません。
そうだとしたら僕らはこの箇所から何を読み取るのか?

実は、家に帰ってからも今日はモヤモヤは晴れませんでした。冷静に自分なりの分析を繰り返しました。
そして1つだけちょっぴりモヤモヤが、最終の希望は何か?ということ。生きることが最終の救いなのか?ということです。
この話は、残された遺族の話です。
よくこの世は仮住まいとかいいます。死後神の御許に行けるのか?否か?が僕らの最大の関心事であるのなら
家族の死後の平安こそが最大の関心事で、それ故に、葬儀でも神の御許に行けるように、天国に行けるように祈り、遺族に慰めを言います。
生きかえったヤイロの場合ではなくても、僕らには別の希望が与えられているような気がします。

今日の説教はそこまで突っ込むことのないまま終わりましたが、別の機会にお話をお聞きしたいですし、それとともにどんな形の希望であれ絶望することなく希望を持ち続けたいものです。信じることをやってもやらなくても同じならば少しでもいいことがありそうな、少しでも大きな希望をもてそうな信じることをしたいものです。

第5回新会堂チャリティコンサート ~歌とお話と”LOVE” をあなたに~

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ビートルズ世代と言う言葉ができるくらい彼らの残した音楽は世にインパクトを与えました。その理由の大きな一つに社会へのメッセージがあると思います。
芸能プロダクションに歌わさせられている、好きでもないけれどマネージャーを通してこの曲を歌え、と言われている、と言うのは如何にも寂しく、そしてそうした歌が記憶から消えるのも早いのかも知れません。
歌は歌を通してのメッセージであったり、たとえばゴスペルは教会で言うところの神への賛美であったり、確たるポリシーがあるのが僕は好きなんです。

サニーさんとお交わりを頂くきっかけは、映画「さとにきたらええやん」の実行委員としてご一緒させて頂いたこと。そのあと、おきなわんナイトでの舞台を拝見したり、大友さん・伊藤弁護士のトークライブの司会と歌を拝見したりと、彼女の持っている「舞台」のメッセージ性を実感させて頂きました。
そして今日こうしてもう一度松田教会の礼拝堂でのコンサートに相成ったわけです。

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司会の清水牧師の挨拶の後、さっそくいつもの元気ないでたちのサニーさん登場。

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普段は幼稚園等での活動が多いこと、そして「参加型」というスタイル。最初は戸惑う大人たち(笑) 普段教会でのコンサートはクラッシックなどを「聞くだけ」が多い中、体を動かすことに抵抗があるのかも知れません。しかし…
しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。ルカによる福音書18:16 です。
子どものように受け入れ楽しむことをイエス様もお奨めになっているのです\(^o^)/

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”Love”をあなたに! と言う式次第のタイトルのように、まさにゴスペル(福音書)のように、
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 マタイによる福音書11:28,30
を歌い上げていきます。

体と心を解放した後はハイドレインジアさん達。

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木村カエラさんのButterfly と、ジブリ映画いつも何度でも の2曲のカヴァー。
楽しそうな歌声、お子さんも一緒に舞台で歌う姿にほっこり

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その間にお色直しのサニーさん。

歌の間に絵本朗読。昨日が6月23日という事でチョイスしてくれたのは「へいわって すてきだね」でした。
小学生が思う素敵な平和の世界を固辞しているのは為政者たち。そんなことどんな大人も分かっているのに…。辺野古がいいんだって…安倍さんがそう言っています。いや、トランプさんが自分と一緒に歩んでくれると思っていたら最近金正恩さんと仲良くなったから気を引こうとして大変なんですよ。「命より重い日本の経済と威を借る狐のプライド」堅持の為に・・・。
やっと各国がシェークハンドして「平和って素敵だ」と言えそうなのに・・・

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そして僕も大好きな曲。ルイアームストロング氏の名曲。what a wonderful world
ベトナム戦争を嘆き、平和な世界を夢見て書いた曲。まさにその前の絵本とシンクロします。

愛にあふれたコンサート本当にありがとうございました。
こうした地域に根ざした個人やグループが気軽にコンサートをしたり、またお茶を飲みながら練習したりする場に会堂改修は進んでいきます。
またいつか素敵な歌声聞かせてください。
今日はありがとうございました。

神に信頼する

2018年6月24日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 4章35-41節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。


今日与えられた箇所の前後、マタイによる福音書の4―8章はイエスの起こした奇跡がつらつらと書かれています。それだけ奇跡を起こしたわけですが、実際目の当たりにしない僕らは、奇跡と言われても“いわゆる自分の理解の範疇外”の非科学的な出来事を『眉唾』とオミットするきらいはあります。
と同時に、火の粉がかかれば人間だれでも慌てて、奇跡でもなんでもいいから助かりたいと思うのだと思うのです。
奇跡をすべて非科学的な出来もしないこととするのなら、医者の「余命3カ月です。奇跡でも起こらなければ治りません。」などと言う言葉は噴飯ものでしょう。医者ですら奇跡に掛けたい、と言う気持ちを持っているのです。
「ばかばかしい、奇跡なんて存在しないからあなたの命は3カ月以上ありません。」と言う医者よりどんなに頼りになるか! と思うのです。
もし自分の主治医が上記の2人だったらどちらがいいでしょう。『自分は科学者の端くれでもあるけれど世には未知なるものもたくさんあります。奇跡もあるかもしれませんから奇跡に掛けましょう。』 と 『オカルト興味本位だと変な宗教や薬つかまれます。科学で理解できないものはやらない方がいいのです。』
溺れる者は藁をもつかむのです、僕は理屈では正しいかもしれませんが後者の医者は信じられないです。前者の医者が居ればそちらに主治医になってほしいです。

さて、この湖を根城としていた漁師たち。その漁師たちが慌てているほどの波です。
しかしイエスは寝ています。イエスにしてみれば神にすべてを委ねているのです。一人では何もできない程度の赤子が自分の人生すべてを親に委ねているが如く、イエスも神にすべてを委ねているからのんきに寝ていれた訳です。
しかし弟子たちは違いました。
パニックになれば、人はそのパニックを正当化するために「怒り」の感情に変化させることがあります。グリーフサポートの専門家のお話を聞いた時も同様なことを言われました。

人は不完全です。ですから、前述の医者の話ではありませんが、完全に治せるという100%は口にできませんし、自分のスキルではできない可能性が高いと感じる時もあるでしょう。
それでも、僕らは主治医に全幅の信頼を置き、治療をしてもらいます。

ならばなぜ「全能の神」には信頼を置かないのでしょう? 人間以上の能力全能の存在者です。そしてその人は僕らを「親が生まれたてのわが子を愛おしむように」愛してくれています。
全てを自分が決め、責任を負いながら生きる事は時にして辛くなります、全能の神に委ねて生きることで荷は軽くなります。楽をしましょう\(^o^)/

松田教会ライブ

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聖契キリスト教団松田教会では、新たなコンセプトを視野に入れた教会堂の全面改修をいたします。
それは「クリスチャン」の集まる場所ではなく、「人」の集まる教会を目指す改修です。
ですから隣接の町民文化センターでのイベントの前後お茶を飲みに立ち寄ったり、友達同士おしゃべりしにきたりできる場所を作りたいと思っています。
そんな改修工事のために上記チャリティコンサートを開催いたします。

小さな教会ですが、ホッとできる場所を目指している教会。そんな教会に入ってみるチャンスでもあります。
ぜひご参加ください。
詳細、チケット購入は教会まで!!

サニーさんライブコンサート、いよいよ来週♪

来週24日は、いよいよサニーさんのライブコンサート
いままでこうしたイヴェントを企画実行した際は、「満席にしなくちゃ」と実行委員さん皆が無理をして疲弊しやすかったりしますが、松田教会のそれは深刻じゃないんです。
「集まるといいねぇ」とニコニコ。「チケット何枚売れた?」なんて言う確認もなく1週間前。
何なのだろう?この余裕。
考えているうちに、ふっと思い出したのがこのトピ。この教会のベースは、この世的な考えではないのでしょう。

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」  マタイによる福音書6:31-34

考えてみれば(お越しくださる方は意識なされないだろうけれど)、新会堂建築のためのコンサート。つまりは礼拝に準ずる奉献の意識があるわけで、例えば毎週の礼拝にも「満席にならないと」、と不安に思い、思い煩う(べきなのだろうけれど(笑))こともなく、そこまで満席にこだわらない。が、ことコンサートに関してはこだわるのは本末転倒なのかもしれません。もちろん出演者の皆さんをお願いした以上、僕らは全力を尽くしPRし多くの方に見聞きしてほしいと思っています。が、無理をすると楽しくなくなります。
誰も(出演者、参加者、そして企画をした裏方)が笑顔でいることこそ、教会のコンサートだと思うのです。

教会員数もそうです。さほど多くなく、僕と同じくらいの年齢層。10年後はこの教会はどうなるのだろう? などと言う不安は…松田教会においては感じられません。それは人間がどうこう考えるものじゃないよ、神様に委ねて祈っていればいい話じゃないか…。そんな雰囲気を醸し出しています。


神様に委ねて個々が祈りと感謝と喜びの中行動する。結果はついてくるもの、未来は人が悩むものではないのです。人はただ今の恵みを感謝するものでしょう。前述のマタイによる福音書の通り生きていく集団なのかもしれません。
24日は、神様の祝福によって集まった人たちと楽しい時を過ごす恵みの時です、お時間のある方は是非どうぞ!
教会はストレスフリーの場所。礼拝以外も楽しいことたっぷりな場所だと実感して頂ければ嬉しいです\(^o^)/

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神の国は成長する

2018年6月17日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 4章26-34節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)


また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。



今日も聖契キリスト教団に与えられた御言葉は3つのセクションに分かれていました。
「神の国」についてイエスの喩え話は易しそうで難しいのは、「『神の国』とは何ぞや?」を僕らが全く理解していないから、そこまでのアクセスと言われてもなぁ…、と言うのが引っかかるからではないでしょうか?
もともとはバッシレイヤと言うギリシア語ですが、イエスはそれを「罪の赦し」とか「福音」と言い換えていると解釈してもいいのかもしれません。『神から与えられた愛』と言う言葉に置き換えると理解しやすくなります。

蝶の幼虫である芋虫は当然のことながら内臓を持ち口からえさを食べ内臓で消化し、栄養物を取り入れ成長し、不要物を排出します。が、さなぎになった時に、その既にある内臓はいったん溶けで体の中は液化するのだそうです。
そしてまた蝶になるために内蔵が形成される、と言う話を最初に聞いた時、何か無駄な作業のような気がしたのを覚えています。
しかし、それが無駄であるかどうかは、他の生命体である僕らが判断する必要性は全くなく、まさに今日の聖書の語っている土中で実がどうなるのか?と大差ない話です。
僕らにはどう見えるか?と神が実際様々な生物をどうお作りになられたのかは違う話なのです。
例えば遠い将来地球の重力が大きくなれば人間は、ゴキブリのように這う生命体になるかもしれませんし、そのゴキブリ人間は遠い昔(今の僕ら)の姿を見ておかしな姿だと言うでしょう。
僕らは、エゴイステックに自分の生活がすべてであり、他の生命体の事を専門家の人以外は深く考えないものだと思います。
昨日生まれたパンダの赤ちゃんも生まれた時は100gで成獣になると1000倍の大きさになります。人間で言えば、3000gで生まれたら3tになる人はいないことからその成長は驚異です。
同じ犬という遺伝子情報を持ちながら、チワワは20cm2kg、セントバーナードは90cm100kgほどで、その比はそれぞれ5倍、50倍です。人種が違っても平均身長が1mの民族と体重が50kgの民族と5m250kgの民族はいないことから遺伝子以外の情報で姿かたちは変わることもあることがわかります。
しかし、蝶も犬もそうしたことを気にかけることはありません。ただ毎日を一生懸命生きています。
そう聞いた人が、当たり前だろ、あいつらには知能がない、と言うのなら、そしてその知能によって不安を感じるのなら進化ではなく退化にすぎません。
ただ、神が作ったくれた肉の体で神の作られた大地を楽しく生きられるのならそれに越したことはなく、気に病むことなくそう生きなさいというのが今日のお奨めでしょう。

聖書は種がどうなって実がなるかなんて誰も知らないだろ?それでも神様はきちんと種から実にしてくれると言います。からし種もパンダもみんな僕ら人間より小さく生れ大きくなるのです。
神の国、すなわち『神から与えられた愛』も心配することないんだよ。わからなくても種が実になるように、いつも神様は目を注いでくれている。と書かれているのが今日の箇所でしょう。

本当に知らない生命の神秘が多いです。知る大切さも重要ですが、知らなくても生かされる愛への感謝はもっと重要だと思います。

神の御心を行う人

2018年6月3日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 2章23-28節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)


このユダがイエスを裏切ったのである。

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」



日本キリスト教団小田原教会もそうでしたが、聖契キリスト教団松田教会も、違う教団資料によりますが、いずれも教団から与えられた聖書の箇所に従って礼拝をしております。
この日は、聖書を聞いている僕もそうでしたが、牧師も複数の箇所でまとまりのない風に聞こえるのではないか?と推察の言葉から始まりました、
何故、19節後半部分のみからなのか?20-21から始めてはいけないのは何故だったのか?
いわゆるベルゼベル戦争と言う22-30節の長い箇所に目が行って本質が見えにくくなっていないのではないか?
そうした中、この19b-35節という箇所に固執した教団の意味を考えながら何度も読んでの説教だ、と言われます。

この箇所の登場人物を見てみましょう、と清水牧師は語りかけます。
ユダ
イエスに癒してもらおうと集まった大衆
イエスの家族
律法学者
です。
清水牧師は、このメンバーの共通点として、イエスをよく知っている者、イエスの元に意として集まったものだと語ります。

しかし、よく知っているのと心の内を理解しているのとは違います。そして、理解しているのと賛同している、また協力するものも違います。
さまざまな事象への温度差。

イエスの家族もそうではないでしょうか? 聖書の中でイエスの父親のヨセフはイエスの幼児時代以外でてきません。推測の域を出ませんが、イエスが成人になるかどうかの時に死亡した可能性があります。するとイエスは弟妹の面倒を見ながら一家の主(あるじ)として切り盛りをしていたのだと思います。
そんなイエスがある日突然、家を捨ててバブテスマのヨハネのもとで洗礼を受け、公生涯となります。
家族としたら、「なぜに!」と言う思いがあるでしょう。
家族と言う時間も濃さも一番強い関係であっても、突然のイエスの公生涯化は驚きだったのでしょう。家族は、イエスがおかしくなっているからと言う周囲の言葉に、否定もせず同意し、イエスを呼び戻しにきたのでしょう。

5歳の女の子が虐待の末殺される事件がありました。
清水牧師は、この事件は「家族」故に起こった事件かも知れない、と言われました。
なるほど、と思いました。
トランプ大統領や安倍総理がおかしなことをしても、批判はしますが、そこには近しい人へへの「感情的な」怒りではないのです。
近しい人の犯した自分との意見違い、だからこそ、「可愛さ余って憎さ百倍」になることは、感覚的もよくわかるし、自身の経験上あります。

もしかしたら、5歳の女の子を殺めてしまったこの2人も、公園で遊んでいる同じ年恰好の子どもにはとても優しく接することができる人なのかもしれません。殺人鬼として無差別に殺すような人には見えませんですが、そんな人があのような悲しい陰湿な虐待をしてしまう、そこに人間の弱さ、悲しさを感じます。
痴呆や寝たきりの親に対して無碍な対応をする場合があります。対象者が家族だからと言う『甘え』があるのかもしれません。
他人には優しく言葉をかけられても、家族にはめんどくさいなと対応をすることはないでしょうか?

そしてイエスはこう言います、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」。そしてこう続けます、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
5歳の子どもを殺してしまった夫婦が極悪にとらえられる観がありますが、一つ間違えば僕らもそうなる危険ははらんでいるのかもしれません。隣人を自分のように愛しなさい、一番の隣人は家族でもあります。家族を愛せなければもう少し離れた隣人を愛せないです。
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