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みことばを実行する人

2018年9月9日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヤコブの手紙 1章17-27節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。


1:17 良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。
1:18 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。

1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
1:20 人の怒りは神の義を実現しないからです。
1:21 だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。
1:22 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
1:23 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。
1:24 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。
1:26 自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。
1:27 みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。



「信仰義認」と言うパウロの教えがあります。ただ神を信じる信仰によって救われるという考え方で、日本のキリスト教会でもその考え方が踏襲されていると言っても過言ではないでしょう。
しかし、今日のヤコブの手紙の著者は、少し異論を書いています。行動する意義が説かれています。
清水牧師は、それは整合を外れた訳ではなく、『行いによって人祝福されるが、それはしかし救いの条件ではない』と語ります。極めて明快だと思います。

19節以降の解りにくいたとえ話。
人は外から意見されるのが嫌いです。聞いているようで「聞く耳を持たず」です。
そして「口は達者」です。自分の事を棚に上げ、他人の些細な欠点でも見つけやすいものです。
また、他人が悪気地を言うのを聞くのも嫌です。「自分が出来もしないのに偉そうに言う」と思うものです。
だから意見されるような聖書の御言葉に聞き従わなうことに躊躇をしちゃあいけないのでしょう。みんな出来ないから自分だけ守っても、と他人のせいにしちゃあいけないのでしょう。人より「早く」聞くことが大事なのでしょう。
人の欠点を話す時はしないように精一杯すべきでしょう。できるだけ我慢して口から出ないように(遅く)すべきでしょう。また、ほかの人が欠点を見つけた時も悪い所は見ないように(遅く)しましょう。そうした実行をしましょう、とヤコブは言われているのだと思います。

日曜日、教会に行っています、と出向き、「平和になりますように」「不正が無くなりますように」「差別が無くなりますように」と祈っても、『本気度』が問われます。平和のために時間をさけたでしょうか?不正をなくすために努力したでしょうか?差別をなくすためにあなたは何をしたでしょう?
そうした行動をもとなった本気の改革をしなさい、と言われても、してこないから平和が実現せず、不正や差別が続くのでしょう。
礼拝の祈りはセレモニーではない、と言われました。礼拝は派遣の祈りをもって閉じられます。僕らは主の恵みを持ってこの世に押し出されていくのです。礼拝に行っているクリスチャンであります、と満足してはいけないのです。

イエス様は聖書の中で
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
これが最も重要な第一の掟である。
第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

マタイによる福音書22:36-40とあります。
主を愛するのは信仰です。そして隣人を愛すのは行いです。信仰と行いは同じように重要だと言っておられます。
信仰心があるからと行いを軽視していないか自分自身に問い続けたいものです。
2章20説に行いの伴わない信仰が役に立たないと書かれています。

大能の力によって強められなさい

2018年9月2日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、エフェソの信徒への手紙 6章10-20節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
6:13 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
6:14 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
6:15 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
6:16 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
6:17 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
6:18 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
6:19 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
6:20 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。


讃美歌21の372番に「幾千万の母たちの」と言う讃美歌があります。その4番の歌詞は
幾千万の母と子の
こころに合わせいまいのる。
自分のなかの敵だけを
おそれるものと なるように


とあるのです。
この詩は阪田寛夫さんによるもの。坂田さんは誰もが知っている童謡の「サッちゃん」や「おなかのへるうた」の作詞家でもあります。
氏は、大正年間に生まれ、戦争にも関わった反省の中から自分が反戦歌を作ってもいいのか悩み、それでも書かねばと奮いできたのがこの讃美歌だと言われています。
与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」と歌います。誰もが家族の死を望む者はおらず、何としてでも(エゴイスティクに言えば)自分の家族だけは生きて帰ってきてほしい、と言うのは敵の家族であろうが味方の家族であろうがそう思っていたはずです。誰もが戦争で嫌な思いをしたくなかった、悲しい涙を流したくなかった。それでも戦争は進んだ。
その反省がこの4番の歌詞だと思います。武器云々ではなく戦争は人の心が起こします。もっと言えば、人の心に忍び込む悪魔の仕業だと言ってもいいでしょう。

そしてそれは戦争だけではなく、様々な不平、差別、陰謀など穏健な人を怒らせるだけのさまざまな悪魔の仕業があるのです。
清水牧師は説教の中で、神を信じると言う人は少なからずいるが、その中でも悪魔の存在は否定的な人もいる。が、対極的な存在の悪魔が理解できなければ、神の本当の存在も見えにくいものだ、と語りますがまさにその通りだと思います。

「魔が差した」と言う言葉。なんで魔はさすのか?といえば、まさにそれを悪魔の仕業だと思います。
神にしろ悪魔にしろ有機的な「モノ」だと思うから、神の存在も悪魔の存在もわかりにくいし非科学的なものだと思われがちですが、喜怒哀楽のような感情と同じく心の中に湧き出すものだとすれば、「アル」ことに不可思議はないでしょう。
遠藤周作氏の「白い人黄色い人」などはまさに悪魔に敗れる話ですが、誰もがうなずく話だと思います。悪魔を語るにはぜひこの本をご一読なされてからにして頂きたいと思うほどです。
いずれにしろ「負の力」はどこからか湧いてきます、もしくはやってきます。これは確かなことです。多分論点になるのは存在自身ではなく、それに「悪魔」と言う名をつけるかどうかだけです。

その時にどうしろと言うのか? が今日の聖書の箇所です。パウロが僕らに教えてくれた言葉です。
悪魔に対抗するためには武具を着けよ、と言うのです。真理、正義、福音、信仰で身を包めと言います。これは全て聖書に書かれています。つまりは悪魔に忍び込まれないようにするためには己の力を過信しないこと、人間の力だけでは悲しみや苦しみが怒りと言う悪魔に変わってしまいます。そうならないためにはキリスト教で言えば聖書により頼み、その教えに忠実に従って生きることが大事なのでしょう。

多様性と一神教

「多様性」と言う言葉が身近によく見聞きするようになった。
ウィキペディアの解説によると、性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。だそうだ。
つまり、犬も猫も兎も羊も狼が居るのは、生物(生き物と言う類似性)多様性であっても社会的(社会構造)な多様性ではない。
しかし、LGBTQ+は、人と言う性質に類似性のある群れの中で、性に関してそれぞれの感じ方が違うので社会的な多様性 と言われるのだろう。

以前は言われなかった言葉が社会的に認知された背景には、多様性が増したのか? 多様性が減少したことに憂いてしきりに言われるようになったか? どちらの理由があるのだろう?

人間は多様性があるのか? ないのか?
宗教は多様性があるのか?ないのか?
僕は何か一神教自身に多様性の無さを感じる。それゆえ教義で多様性を植え付けようとしているように見える。
他方、八百万の神と言う日本の原始信仰や神道の中には多様性がある。多様性ゆえに浮気性だ。いっぺんに複数の神を愛し、八方美人的にどの神にもへつらう。だから神が1人2人居なくなっても構わない。
が、一神教の神は、多くの神々のいる中で私一人に従え、と言われ誓ったので浮気はしない。

一神教の強い統一性を良しとして集まる信者。ある意味多様性は備えついたものではなく教育によるものなのかもしれない。
だから多様性を良しとすべきだ、と言う総論は賛成しても、身に降りかかる各論では受け入れられないことが多分にあるのかもしれない。
社会問題としては多様性を拡大する方向で活動をしても、きわめて保守的な教会であり続けることを望んだりもする。色々な牧師、色々な信徒ではない、きわめて敬虔な牧師であり信徒でいなければならないという使命感を持ち続けているのかもしれない。存在意義のベースは排他なのかもしれない。
旧約の神はそうであったが、イエスがそれを打ち壊したが、それを受け入れることは難しいのかもしれない。
しかし物事はエネルギーの法則により拡散していく。社会と言う非科学であってもこのエネルギーの法則は適用すると思う。
夫婦の在り方、教師と呼ばれる人の模範、お金の使い方、路上で生活する権利、人の生き方をどこまで寛容できるのか? は社会の中で絶えず僕らに問い続ける。本音と建て前の両面をしっかり語り合わなければ排他は消えないような気がする。

何かふっとそんなことが頭の中に浮かんだ。

わたしたちも主に仕えます

2018年8月26日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書 ヨシュア記 24章1-2a、並びに同14-18節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。


24:1 ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集め、イスラエルの長老、長、裁判人、役人を呼び寄せた。彼らが神の御前に進み出ると、
24:2 ヨシュアは民全員に告げた。「イスラエルの神、主はこう言われた。

24:14 あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。
24:15 もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
24:16 民は答えた。「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。
24:17 わたしたちの神、主は、わたしたちとわたしたちの先祖を、奴隷にされていたエジプトの国から導き上り、わたしたちの目の前で数々の大きな奇跡を行い、わたしたちの行く先々で、またわたしたちが通って来たすべての民の中で、わたしたちを守ってくださった方です。
24:18 主はまた、この土地に住んでいたアモリ人をはじめ、すべての民をわたしたちのために追い払ってくださいました。わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です。」


モーセ5書と言う神話から歴史書への移行の書物に継いだ先にあるのが、今日のテキストのヨシュア記。
BC2100年頃アブラハムが神からもらったとされる「乳と蜜の溢れる地」カナ。しかし、BC1900年頃ヨセフの時代に紆余曲折の末、この地を離れエジプトに住むようになります。がトラブルや差別に遭い、BC1500年頃モーセの指導の下、神の示された場所に居住することになります。ヨルダン川の東から示された約束の地カナンに居住しようとも、不在だった場所には既に多種多様の民が住んでおり、また海からフェニキュア人も移住を進めているところでした、と言うのがヨシュア記時代のパレスチナの歴史。

アイデンティティがないと民族は風化していくと言うのが、大陸の掟でもあります。ですからそれを維持するために、民族は人口を増やすわけですが当然そうすることで辺境の地では他民族との衝突が起きます。
締め付けるためには「固めの杯」が一番手っ取り早いですが、その固めるものは人智を超えた「神」に委ねることが一番だと思います。
ヨシュアは連戦連勝し、このエリア一帯を統治することに成功するわけですが、その後も「勝って兜の緒を締めよ」ではないですが、自民族を神の元「固める」のが今日の聖書の箇所の歴史的な読み方でしょう。

シケムはアブラハムが祭壇を築いた場所。神から星の数よりも子孫が増えると祝福を受けた場所です。つまりは初心に戻る、祈りと祝福を常に心に刻む、と言うにはふさわしい場所で、皆で心を一つにしよう、と言うのです。
でも、出来ない人はしょうがない。袂を分かつことも致し方ない、と言う寛大な呼びかけをしますが、みな今までの神の祝福ある導きに「従う」ことを約束します。
何事もそうですが、誰かが決めてしまったことに従うのであれば、失敗をした時に他人のせいにすることができます。残念ながら人間はそうした弱さを持っています。
ですからヨシュアも同じように「自己責任」で自分の信仰の対象を決めなさい、と言われたのでしょう。
このことは大なり小なり、社会の中で出会うことです。自分の道はすべて自分で決めること、但し自己勝手ではなく祈りの中でしっかり神の導きの答えを聞くことが大切だと思います。無宗教的な言い方をすれば、一度落ち着きなさい。大きく深呼吸をして、または一晩ぐっすり寝て、それから決めましょう、と言うところでしょうか。

信仰を持ってよかったと思うことは絶えず祈れることです。神の声を聞くことはまずありません。でも、上記に書いたように冷静さを取り戻せます。そして自己の決定で責任をもちます。なによりも神共に居てくれると言う勇気をもって歩めます。
そして神の声が直接聞こえない分、僕は聖書を読み、聖書の御言葉を解き明かしてくれる礼拝に参加します。
何よりそこには同じ御言葉を聞き、ともに神を賛美する仲間がいるのです。仲間と過ごす時間は何よりも楽しいのは、教会以外でもサークルやSNSのオフ会、そしてママ友のような仲間作りが盛んなところからもわかります。
ただいくつかのそうしたグループは「何で私ばかり」と言うようなマイナスの言葉があると聞きます。その言葉は決して自己責任から発展した言葉ではないと思います。楽しむために飛び込んだのなら誰もやってくれないとも自分が楽しもうと先頭立ってすることではないでしょうか?

キノウ ノ ワダイ

昨日は教会の知人宅で夕食をごちそうになった。
色々と話題に上がったが、一番は「旧約は必要か?」

イエス=キリストを神の子と信じるのなら、その信じるベースは何か?
それが旧約の数々の預言の成就なら、旧約教であって、イエスの生涯を聖書の中から垣間見る中で信仰に導かれ、ただ主イエスのみ後を歩きたい故の信仰ならば、旧約の権威付けは全く不要じゃないか!?
って話になったが、こんなことに関する異論反論を含めての書籍って何かないかなぁ?

あなたの敵を愛しなさい(2)

昨日の礼拝説教は、オーソドックス故に汎用性がある。つまりは、あちこちで「許せないか」「赦せるか」が起きている。
僕は前々から、許(赦)せるの漢字を使い分けるようにしている。本来の国語の漢字とは違う僕独自の使い分け。つまりは人間は許せない動物だと思っていて、赦せるのはそこに霊的なものが入る、入れようとするからだと思っている。

個人でも国家と言うグループであっても、人間は身びいきで身勝手だから自分の思い通りにしたいという欲望があり、それがならないと相手を威圧する。
イエスを取り巻いた人々も、ローマ兵であってもファリサイ派と言う教義を持った宗教者であっても、勝手にユダヤを救う王の到来と喜んだ民であっても、身の危険からその場しのぎのウソを言う弟子たちも、どう見ても身びいきで身勝手な人々だ。当然のことながら僕もそうした身びいきで身勝手な言動は数えきれないほどしている(威張ってもしょうがないが…)。

そしてトランプ氏もそうであったろうし、虚勢を張った金氏も然りだ。
相手を上から目線で見て威圧して交渉条件をよくするためには
1.ハイボール(High ball)
2.怒り役となだめ役 (Good and Bad COP)
3.最後のひとかじり ( Nibble )
4.お化け (Bogey)
5.選択肢から選ばせる (weigh options)
6.先例にならう (Stare decisis)
と言われるテクニックがあるらしいが、いずれも相手を丸め込むHowToでしかない。
そこに相手の気持ちを察そうなんていう考えは毛頭もないのだ。

両者がそうやっている間は、相手の気持ちを考えず自分の身勝手でやりあうのだからどこかで妥協しても不満は残る。
100%でなければ、もう少し好条件での取引が出来なかったのか?と考えるだろう。

しかし「敵を愛せ」と言ったことを前面に解決に向けたらどうなるか?相手の望んでいることを理解したうえで、もう少しだけ自分が引いてみる。
そこには自分が限界の、ぎりぎりの納得があったところで解決がつく。相手も喜ぶ。

太い道の右端と左端の関係かも知れない。
お互い納得できないけれどしぶしぶ納得できるのか? お互い相手の思いやりに感謝してシェークハンドに終わるのか?
それはすべてのトラブルの内容によっても妥協点は違うが、できるだけ自分が歩み寄りたい。

あなたの敵を愛しなさい

2018年8月5日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 6章27-38節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

6:27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。
6:28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
6:29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。
6:30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
6:31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。
6:32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。
6:33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。
6:34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。
6:35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
6:36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

6:37 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。
6:38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」



「自分が出来ないことを人に求めてはいけない」と言われます。「自分が出来ないからお願いをする」ではなく「自分が出来ないのに人が出来ないことを非難する」と言う意味です。至極当然のことだと思います。
とすると今日の聖書の御言葉は、そのコンセプトから逸脱します。敵を愛することなどできようか!?と誰もが思うはずです。
聖書にそう書いてあるから従おうと言う努力目標として掲げることはあっても、何もない所からこの言葉を生み出す人は皆無でしょう。
自らの意志でこれをポリシーとしている人はいないのではないでしょうか?僕などは聖書にそう書いてあってもなかなか実現できない、と二の足を踏みます。
しかし、それを言えた人がいます。それをできた人がいるのです。それがイエスです。
ユダヤ人を虫けらのように扱ったローマ兵。何とか陥れようとしたファリサイ派や律法学者たち。ホサナと讃えてから数日、イエスを殺せの大合唱をした同胞たち。最後はこんな人知らないと裏切った弟子たち。
「敵」でしかないのです。変わり身の早さで気がついたら梯子を外れた悲しみとショックは想像を絶するに余りあります。可愛さ余って憎さ百倍と言う気持ちだったのでしょう。
そうした「敵」となった弟子の前に、ユダヤの権力者だったサウロの前に、復活の後現れたことはまさにこの言葉を語っても誰も非難できない唯一の人だったと思います。

マフィアの社会は結束が強いとか言います。僕が中学の時にゴットファーザーと言う映画が上映されましたが、彼らの仲間意識と仲間外の残虐さが見事に描かれた映画でした。ファミリーのためには何をも厭わず、敵は徹底的に叩き潰せ、というポリシー。
敵味方を述べたイエスの言葉を全否定した姿だったのでしょう。
そうじゃあない!そこから1歩上を目指せ、とイエスは言うのでしょう。

某国大統領はSNSで仮想敵国を徹底的に非難をします。非難された国は非難をし返して、泥沼、一触即発の危機がありました。
が、仲介者の尽力により面と面をあわせ会話し、平和に向けての歩み寄りがありました。

マフィアにしろ、国家為政者にしろ、手をこまねくとつけ込まれるというリスクを感じ、相手よりもっとガードをしようとします。

「北風と太陽」の話ではありませんが、ガードをすればもっと強い風を送り、強い風が吹けばガードはますます固くなる。そんな国際社会がありました。

が、仲介者の労により目と目をあわせ、互いに言葉を交わしたら、そう、「敵」を許そうと努力をした結果、軍事演習は終わり、軍事基地の解体が始まった訳です。

未来が予知できない僕らは行動を起こす時に気をつけなければいけないことがあると思います。
それは自らが未熟なものであることの自覚と同時に「愛」と言う大事なものを世界に広げようと言うミッションがうまくいくようにと言う願いです。
それは「祈り」です。自分の力だけでは成し遂げられないものを、唯一「隣人を愛し切った」イエスに祈ることでパワーをもらうことだと思うのです。
もしそうした祈りのない行動は、ただただ己の欲望と軽率な考えに基づく本能のような、つまり「強いもの」や「権力のあるもの」が勝つと言う北風を呼び込む結果になるような気がします。

正解がない分悩ましい

宗教って
ロジカルで、サイエンティフックなもので、運営ってテクニカルなものなのか?
それとも
フィジカルでセンチメンタルなもので、運営って祈りなのか?

「世の光であれ」のみ言葉に従った教会を継続させるためなのか?
み言葉を聞いて涙し祈る場所なのか?

隣人のためなのか?己のためなのか?
周囲から影響を受ける場所なのか?周囲に影響を与える場所なのか?
隣人に与える場所なのか?神から祝福を頂く場所なのか?
重荷を下ろす場所なのか?重荷を背負う場所なのか?

束縛された場所なのか?自由なのか?

ある教会に集まる信徒も隣人、別の教会に集まる信徒も隣人。
そしてどちらも礼拝の民として見あげる先には同じ神がいる。

あまり偏り過ぎるのは危険だけれど、両者の意見ってともに納得できたりする。
つまりは、静かに寄り添ってくれている聖霊、言い換えれば心を無にしたときの己の意思に従えばいいのだろうな。

契約の血

2018年7月29日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書 出エジプト記 24章3-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、今日から聖書は章節のナンバーも記載いたします。

24:3 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。
24:4 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。
24:5 彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。
24:6 モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、
24:7 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、
24:8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」
24:9 モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。
24:10 彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。
24:11 神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。



「契約」は英語でカベナント、松田教会が属している聖契キリスト教団の英名はカベナント。まさにその名前の由来に関するお話だと言っても過言ではないのかもしれません。

神様との契約は3つの条件がある、と清水牧師は語られます。
1つは主の言葉への従順
2つめは神への献身
そして、3つ目は血による贖い。

1,2は日本の風土文化に浸(ひた)っていても、宗教はそういうものであり、仏教や神道であっても大差はないと思います。が、3つ目は、日本の文化と馴染まず、24:8のように血を振りかけられるのはあまり気持ちがいいものではないかもしれません。
しかし、今日の出エジプト記の後ろのレビ記17:11 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。 
とあるように、当時のシナイ半島の周辺の民族の中ではきわめて普通の発想だったのでしょう。

そして、この3つの条件を読んで、僕らクリスチャンはイエス=キリストの十字架の贖いを思い出します。
まさに神との契約をイエスは完成したのです。

さて、長い間クリスチャンをやっていますと、お話の内容が推測できることは少なからずあります(笑) ここまでは、まさに推測の域を、しかしながら深めてくれるお話でした。
しかし、話は24:10-11に入ります。

意味が全く分からない箇所で、どうしても大したことないだろうと読み過ごしそうな2節。
清水牧師は、これは契約が交わされた後の話だと語られます。

旧約聖書(モーセの時代以前)、神様は「私はある」というものだ、と語り、姿を見てはいけない、と警告をします。ですからモーセ以外は神に近づくことすらできずに今日与えられた御言葉の直前にも

24:1 主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。
24:2 しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」


と書かれています。
しかし10節には 彼らがイスラエルの神を見ると、 と書かれているのです。
遠い遠い存在の神は、契約の後、アッバ父よ、と呼べる身近な存在になった、ということでしょう。救いの完成でもあります。僕らは神に愛され、救いが約束されたのです。
そして、それを契機に民は、神の前に共に集まり飲食を共にしたのです。契約共同体として、松田教会でも毎週お昼を共にします。
イエスは言われました、一番大切な教えは何ですか?と言う問いに、あなたの神を愛せよ、と。しかしその言葉はそこで終わることなく、あなたの隣人を自分のように愛せ、と続くのです。
教会にとって大事なことは、神と隣人の両者への愛です。
紀元前16世紀(他説もある)から、脈々と続いている神の教え。見過ごしそうな2つの中から大事な、そして暖かい愛を頂きました。

弟子たちの宣教

2018年7月22日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 6章7-13節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。



先々週の聖書の箇所の続きです。ふるさとの村では、俺たちと同じような生活をしていたやつが何を言っているんだ、と、「イエスのおいたち」知っている故に冷静に話を聞こうとしない姿を目の当たりにした弟子たち。イエスから離れて伝道することに不安を持っていたことでしょうけれど、イエスはそんな弟子たちに自分たちだけで伝道をするように言われた訳です。
しかし、ただ送り出すだけでなく、イエスの配慮する姿が書き残されている訳です。

パンも、金もなく、下着すらも余分に持っていくな、と命ずるイエス。僕らが旅行に行くとですらいろいろなものを持っていきます。
カメラや携帯電話、電気が無くなったら困るから充電気に、メモリー。
雰囲気に合わせて、あの洋服にはこのズボンだな、とか、夏らしいワンピース持っていこうかしら。時には旅行の併せて新しい洋服を買っちゃおう、なんていう方もいるかもしれません。
体調崩した時ように薬も必要だし、寒いといけないから上に羽織るものも、あと雨が降るといけないから傘も入れなくちゃ。
ホテルの歯ブラシが堅くて嫌だからマイ歯ブラシや、自分の髪にあわせたシャンプーを持っていかなきゃ。
タオルついていたかな?ないと困るからタオルも。日差しが強いと肌に悪いから日焼け止め入れとかなきゃあ。サングラスも必要だね。
どんどん荷物が増えます。
何故でしょう?結構心配だからと言う不要な荷物が多いのかもしれません。なかったらとても困るものでない荷物が多いでしょう。旅行から帰ってバックを開けて「これ結局使わなかった」は僕も経験があります。

イエスは必要なものは神が備える、と弟子たちにそう告げたのだと思います。
宣教とは神への絶対的な信頼の上に成り立つものです。
本当にしなければいけないことに集中するようにと言うことなのでしょう。あったら便利かもしれません、でもそちらに気が散り散漫になるきらいはあります。

神に委ね切れるか? 僕には厳しい言葉です。でも、日々の生活は、何とかなるか…、とお気楽です。
そのお気楽を他の人が、「大丈夫ですか?」「もっと老後に備えて貯蓄したほうがいいですよ」と言われるのなら、僕の中ではその貯蓄はまさに『不要な荷物』です。
人生は旅と喩えられます。その旅の最中の居住は仮庵です。それは「立って半畳、寝て一畳」の言葉通り、ささやかな物でもやって行けるのなら、大きな家もたくさんの部屋も『余計な荷物』です。
自分が出来る限り身軽なスタイルで生きれればよいのかもしれません。
なくてもどうにかなる。と言う精神的な余裕。それが神から来てればいいのでしょう。無理をしてストレスになってもいけないと思うのです。
派遣をするにあたって権威も授けられた、と書かれています。がまさに無理のないストレスのない人生は権威だと思います。誰からも拘束をされてはいけないし、人生を楽しまなければならない。

さて、もう一つ大きな提言がありました。それは2人ずつ別けたということ。1人ずつ出かけたのではなく2人ずつ。
そこには当時のルール、証言をする時は1人の証言では信憑がない事や、またトラブルにあった時も2人居れば解消しやすいからでしょう。
しかし何よりも相談する相手、旅すがら雑談をする相手が必要だからだと思います。
人生と言うたび、何も結婚・パートナーと言うだけでなくても、親友や相談に乗ってくれる友でもいい、複数で歩んでいくことが大事ではないでしょうか?
「単独」と相対する言葉の「大勢」と言う言葉。その中の最少人数の2人、これ以上減らせられない人数です。

どこかで人の世話にならなければならない時、相手の提供品の品定めをしてあっちの方がいいとかこっちが豪華だとかいうのが失礼な話でしょう。好意に甘える時はただ感謝してその行為以上のものを求めないのが人としての道義だと僕は思います。

弟子たちの宣教はまさに僕らがこの世の中を、そして人生と言う道を歩むための大切な教えなのでしょう。
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