心に刺さる魔法の言葉

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心に刺さる魔法の言葉

『生きてる事を実感させてくれます』
* * * * * * * * * * * * * *
弱音を吐いて良いんです。
無理をしなくて良いんです。
諦める時があっても良いんです。
悩む時があっても良いんです。
生きるというのはそういう事なんです。
それら全てが
生きてる事を実感させてくれます。
* * * * * * * * * * * * * *


って載っていました。然りです。
あえて少しだけ変えさせて頂けるのなら

弱音を吐いて良いんです。神様が聞いてくださいます。
無理をしなくて良いんです。神様はそのままでいいよと言っています。
諦める時があっても良いんです。イエス様は諦めたあなたを背負って歩いてくれます。
悩む時があっても良いんです。イエス様は軛(くびき)として悩み悲しみを共有してくださいます。

なていうのは(クリスチャンの)手前味噌でしょうか(笑)
でも聖書にはそう書かれているんです。

私たちの内にあるもの

2017年11月12日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 7章14-23節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」
更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」



今日与えられた御言葉の前には、食事の前に手を洗うことについて書かれています。
誤解があるといけないので記すれば、当時の食前に手を洗う、は衛生面への注意喚起ではなく、いわば神社に行った時に参拝の前に手水(ちょうず)で清める、と言うのと同じ意味での清めについてです。

もう一つ誤解があってはいけないので記すれば、イエスは手を洗ってはいけない、と言っているのではないこと。
神社で手水に行った時、柄杓の柄をもって柄杓全体を洗い、それから右手、左手云々と言う講釈がありますが、これを守らなければ神社に参拝してはいけない訳ではないでしょう。神に祈る事よりも祈る準備の儀式に気を注ぐのでは本末転倒だ、どちらが重要なのか考えなさい、と言うのです。
ましてや、例えばもし目が不自由で手水の場所を見つけられない方が手水を素通りして神社に参拝したとしたらそれは非難されるようなことなのか? と言う論議です。

たぶん元々のレビ記で現代の日本の神社と同じように清めるために手を洗う風習があり、食前はその清めの儀式をしてから食べるというのは、砂漠の地においての未病の生活の知恵を神の言葉として広げたものだと思います。
しかし、事の本質が置き去りにされて、儀式だけが形骸化され残ると、そこには差別や偏見が残るでしょう。
ユダヤの社会で様々な事由で蔑視・偏見による差別が生じ、(日本の神社で言う所の)手水の所にも『行ってはいけない』人たちがいたはずです。それは重い皮膚病の人や生き物の血を触る人、異邦人などなど。
神はすべての人を愛されていないと宗教が語っていた時代があり、そうした人は神の救いから遠い穢れた人としての存在がありました。
そんな人たちともイエスは共にしゃべり食事をしました。
そうしたわけ隔てのない人柄に対して時の宗教的指導者たちは面白くなく、クレームをつけたのが食事の前の清めの手洗いでした。

マルコによる福音書は4福音書の中で一番古く、併せて感情豊かにイエスを描いています、と長井牧師は語ります。
「聞いて悟れ」と言う言葉はイエスの憤りです。
手を洗わない、と言うのは決してめんどくさいという自分の問題ではなく、手を洗うことが(時の宗教指導者から認められていない)弱者との共生の意味を弟子のお前たちはしっかり認識しろ、と言う叱咤であります。

弱者への思いやり、周囲にこれが無くなると、弱者はより孤立し社会から追放されてしまい、時には引きこもったり自死の道を選んだりします。
そうした悲しい話は昨今の日本においてよく聞きます。

○○しなければならない、と言うルール。
○○でなくてはならない、と言うルール。
こうしたマストルールの存在は、規律の中で管理するには楽なことであると同時に、個性を消してしまいます。
少し前にどこかの学校で、髪の毛の色が黒でなかったことに地毛の色であることを証明をするよう指導した学校の話題が載っていました。まさに髪の毛は黒でなくてはならない、と言うマストルール。
それが学校生活の中で何がプラスになり何がマイナスになるかなど説明がつかないけれど、管理しやすさ、いう事を強要する為政者(教育委員会)の上から目線だけで決まっていくこと。
これこそが、食前に清めの手を洗うことである訳です。

イエスは言います。神はすべての人を愛して下さっています。そのままのあなたで良い、そのままで愛される存在だと。それは清めの手を洗うこと云々ではないのです、洗「え」ない人、洗「わ」ない人、洗う人、誰でも平等に愛して下さっていること、それを理解し感謝し、そしてそれ故に蔑視・偏見による差別をしないこと、それこそが大事なんだというのが今日の聖書が教えてくれることだったと思います。

もう一つ口から出る禍。これは失言の多い私としては非常に痛いお話。でも故意による暴言や思いは自重の努力をしています。

鏡に映る顔を見ながら思った
もう悪口をいうのはやめよう
私の口から出たことばを
いちばん近くで聞くのは
私の耳なのだから


星野富弘さんのくちなしと言う詩画。

相手を汚し、そして自分の耳を汚す。つまり相手も自分も愛さない言葉。努力なしでも出ないで済むような人間になりたいものです。

死後も責任をもってくださる神

2017年11月5日、小田原教会に与えられたみ言葉は、テサロニケの信徒への手紙 5章1-11節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。
しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。



今日は日本キリスト教団の暦では「聖徒の日・永眠者記念礼拝」と称し、小田原教会の先達たちを偲び祈りを合わせる日です。とは言っても日本の中でのクリスチャンの人口は少なく、この日は小田原教会員だった方のご親族が教会に集まり午後は記念会をなさる方も多いようです。そういう意味ではクリスマスの燭火礼拝と合わせてノンクリスチャンの方が多い礼拝となります。

中田牧師はそうした会衆の顔ぶれを前にまずテサロニケの信徒への手紙の書かれたバックボーンを語られます。
1つはパウロが迫害する側だったのが伝道する側に回った経緯。そしてその伝道の方法が「旅」と「手紙」であったこと。広い地域に積極的に廻ったので、まず旅をしその場で信徒を増やし教会を作り他の地方に旅をする。その後手紙でフォローをする、という伝道の仕方でした。
もう1つは聖書の書かれ方が決して古い時代から順番に書かれたものではなく、新約聖書最初の4つの福音書もパウロや他の方の手紙などを含めて一番古いのはこのテサロニケの信徒への手紙だ、と言われました。

1つめのフォローの話から言えば、問題がない、不安がない、順調だ、と言うところにはフォローの手紙は必要ないはずで、フォローとは問題が発生し、トラブルで諍いが生じ、不安の中で過ごし、信仰を失いかけているところにするものでしょう。

そんな一番古いテサロニケの信徒への手紙、いわば一番最初のフォローする話は何かと言えば、4:13-5:11に書かれた「死に関して」の事なのかもしれません。
2000年経っても人間は生と死に関して不安を持ち続けているのでしょう。そしてその不安に対してパウロは「地上に残されたもの通し互いに励まし合え」と語るのです。

この話のバックボーンには当時のキリスト教の再臨についてを知らないといけないのでしょう。
主の日(再臨・終末)とは、最後の審判の日と言えば解るのかも知れませんが、甦りのイエスがこの世に訪れ信仰者を神の国に、反対者を地の底(地獄)に落とすと考えられた日で、パウロの時代では自分の死の前にこの主の日が訪れると思っていたわけです。
しかしご存じのとおり西暦2000年を超えた今も主の日は訪れなく…それ故に宗教(キリスト教)に対して胡散臭さを感じる人がいるのかもしれません。ノストルダムの大予言と同じで、この世の終わりの翌日が存在した瞬間その予言は愚となる訳です。

では、2000年経った今でも主の日が来ないのになぜおまえはキリスト教を信じているのか?と問われれば、それでもこの宇宙を作られたのは神(と言うとすぐに人間化して白髭の爺さんを思い浮かべるかもしれませんが、パワーです)で、その神が宇宙から人間まですべてを作られたと思っているからで、聖書をすべて額面通り納得しているわけではないからです。
地球も宇宙もいつかは最後の日を迎えます。その日が主の日ではないとなんでいえるのでしょう。

しかし確かなことは神を信じようが信じまいが、人間としての死を迎えることは平等にあります。不意打ちでその時を迎えないようにするためには聖書の言葉はなかなか鋭いものがあるのは、ノンクリスチャンであっても聖書を読んだ人は同意してくれるでしょう。

がん闘病者のグループ「がんでもいいじゃん♪」に属しています。平々凡々と過ごしていた中、がんと言う病に直面し、死を意識して生き方を真剣に考えた中、交通事故や心臓発作や脳梗塞などで亡くなった方には申し訳ないですが、がんでの死は「生」を真摯に考える人生と言う側面においては本当にありがたい病気です。
連れあいの病後治療の後、彼女の大学の友人を行脚しました。「今」会っておかないと。「今」しておかないと。「今」「今」「今」…。悔いのないように生きることができたことは全く大切な時間だったと思います。
死を見据えて生きる。そんな時間真摯に考えると最後は人と人とのつながり、お交わりでした。

さて、もう一度宗教は正か偽かを考えたいです。
と言っても何をどう考えても答えは出ません。すべては推測とその推測に基づいた些細な立証であって、あまりにも立証出来ている部分が少なく、それだけじゃあ全く分からないじゃん、と言うのが現実でしょう。

だから四の五を言わずに信じるしかないのです。証明が出来れば信じるなんてしなくて済むのです。証明ができないから信じるという人間側の意識が大切になります。
でも、やみくもに信じればいいわけではなく、元より騙そうとしている宗教があったり、宗教の元は素晴らしくてもその信仰を間違った方向に持っていこうとする指導者権力者によってNo!と言わなければならないでしょう。

『死後』に関しては聖書はほとんど書いていません。だから神を信じるかどうかと言う人間系の話です。でも、「死」までの間「生」の間の生き方は聖書はたくさん書いてあります。
今日もその一つです。

イエスは死の前日奴隷のように弟子の足を洗い、そして最悪の死に方十字架刑を受けました。一番下として生きたイエスが天に昇り神の横に居ます。神の救いはそうした形で僕らに希望を与えてくれています。

その日、その時に従って

2017年10月22日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 25章1-13節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」


有名な聖書の箇所。何度も読み、何度も説教を聞いた箇所。
でも今日の長井牧師の説教は視点を変えた斬新なものだった。

ともし火の語源を見るとランプのように油の補充をする部分が備わったものではなく、どちらかと言えば松明、すなわちもともと油に浸した布を棒にまきつけたものだと言われます。
そして、10人が10人とも居眠りをしてしまうほどの待ち時間。想定外の時間だったのでしょう。
そこで起きた10人が松明に灯をともしたところ5人は燃えているが5人は油が乾き始めて消えかかった(消えた、ではない)、と書かれているわけです。残り5人も油をあげれるほど余裕がない所からその差は微妙だったのでしょう。

今風の喩えであれば、携帯電話のバッテリー残が少なくなり、5人は予備のバッテリーをもっていたけれど、5人は持っていなかった、と言う解釈でもいいのかもしれません。

ところで旅行に行く際何をもっていきますか?
「暑いのかなぁ?寒いのかなぁ?」考えて半袖のTシャツからダウンジャケットまで持っていく人は少ないでしょう。多くの人はそこで若干の温度設定の間違いをしても「失敗したな」と笑って済ますでしょう。
写真撮影が好きな人はカメラをもっていくでしょう。でもカメラがもし壊れたらと2台3台持っていく人はまれなのかもしれません。
他人とつながりたい人、SNSが好きな人はスマホは欠かせないグッズでしょう。いろいろな作業ができるスマホは1日1回充電しなければならないから充電ケーブルをもっていくかもしれません。

でも、自分の用意した服が温度と若干違い長袖のトレーナーじゃあ少し肌寒いとセーターを旅先で買う人は少ないでしょうし、カメラも思った構図の写真が撮れないからと旅先で長さの違うレンズを購入する人はいないと思います。
スマホ愛好者の方、例えば雪国で除雪が間に合わず1晩列車の中にいたなどのためにケーブルだけではなく予備バッテリーをもっていく人がどの程度いるでしょうか?

過剰な用意をすることは僕には多分にありますが、過剰な準備品を使用せずに重たい思いだけで帰ってきた時は、安堵と共に自分自身を信用しなかった懺悔に陥ります。
完璧な準備をしないと不安と言うのは道具だけではなく、人前での発表の時にも当てはまります。
僕はあがり症で応用力がないので、準備ができない「司会」は一番の苦手です。そういうと(そんな話をされた相手は)己以上のものを見せようとするからそうなるんだ、出来なくても当たり前だと思えばいい、とよくアドバイスされます。

つまりは愚かな5人の花嫁を推奨されるのです。
出来なくたっていいじゃない、と言われるのです。

運よく油が浸みきった松明をもった花嫁と運の悪かった花嫁の差はないのです。
運がいいのは立派でも正しかったでもなく、愚かなと評される花嫁は運が悪かった、今回はチャンスがなかっただけなのです。

それどころか不安を抱えてこの準備では足りないのではないか?と言う疑心で生きるよりは、あとは神様に任せよう。明日は明日の風が吹く、ケセラセラ、のほうがよろしい部分は多分にあります。

では何が今日の説教の言わんとするところか?
マタイはイエスの死後50-60年と言う時期にこの福音書を書き上げたと言われます。再臨のイエスのによる神の御国到来を望みながらなかなかそれがないという焦り・失望、そして疑念。
そうした時にでも喜びをもち励ましあいながら生きることを福音の書に記しています。

長井牧師は勝手な想像ながらと言いながら、扉の中に入れた5人の花嫁は仲間のために扉を開けるようにとりなされたのではないか?と語ります。
ラッキー、入れた。ではなく、アンラッキーな人のために常にアンテナを張ってとりなせるようにしたいですし、もしアンラッキーなグループに入ってしまったら次のチャンスのために希望を持ち続けたいものです。

今日の一日をどう過ごす?

引っ越しをした。
初老の夫婦、そしてこんな日本。我が家の径税的未来は決して明るくはない。できることは自分の手でしなければならない、と大型荷物以外は、古い軽バンに積み、運び、そして片づけをする毎日。

引っ越しをした。
それに伴い、会社までは約8km。市内でも地の利の良くないエリアから他の地の利の良くないエリアへへの通勤。帰路は8kmを歩くこともある。

そんな中だから、毎主日教会に行くこともままならなくなった。
疲れと多忙が自分に言い訳をさせる。
「教会に行かないけれど毎日ハッピーに暮らす人と、主日だから教会へ行かなければとか教会の奉仕の当番が当たっているから休めない、と喜び以外の気持ちで教会に行く人はどっちが神様のみ心に近いのだろう?」
「神様は教会以外の場所でも共に居てくれる。そして自分も教会以外の場所で神様を賛美できる。なら教会は何のためにあるのだろう?」

その2つの疑問は良い訳であり正しい疑問だと思う。そんな正しい疑問の回答は、やはり神以外の存在しかないのだろう。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
ともに神の名によって集まるところのベースが教会だと聖書は言う。

では何のためにイエスの名を呼ぶのか?神を呼び求めるのか?
それは悲しみや苦しみを見聞きして、何とか他者の園困窮を観ないで済むように、というのが一番の祈りをあわせられることではないか?

台風が近づいている。朝から激しい雨が降る。

20171022-01

でも、今日は衆議院選の選挙。
沖縄では女性への暴行やヘリ事故が相次ぐ。それに対して為政者は聞く耳を持たない。
フクシマの原発事故を忘れたかのように、日本の経済発展を名目に再稼働が相次ぐ。
破壊行為こそが一番の経済活動と言わんばかりに米国軍事主義のあとを歩むがごとく憲法を改定しようとする。
その陰には困窮が沢山見える。

僕らはやはりそうした困窮を見落としちゃあいけない。
祈ろう。主を真ん中にして祈り合わせよう。

今日は信仰と生活が一致した一日だった。
さぁもう少ししたら池上さんの特番だ\(^o^)/

神に与えられた場

2017年10月8日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 20章 1-16節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)
いつもは聖書をコピーして共有しておりますが、今日の個所は 日本聖書協会・聖書本文検索 をご覧くだされば幸いです。

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大きな組織をまわしていた俺が“焼”が入ったかな、うまくいかなくなって使用人が逃げちゃった。しょうがねぇ、今更いやだけれど誰かのところで働かせてもらおうと思っている。なるべくならいい条件で働けるところを自分で選ぼうと今朝は4時起きさ。借金返さなきゃな。

「ブドウ園、1デナリオン払うぜ」

こりゃいい。最近は何かと棒引きされて日給1デナリオンとか言って100レプタしか払わねェ ちゃっかりした親方がいるからな、気ぃつけねーと。

俺は親方の指定されたブドウ園に行った。自慢じゃねーけど俺はやる時はやるよ、人の倍も三倍も働くのがポリシーさ。
今日も暑いが体力には負けねぇ。

10時か、もうへばって休むやつがいる。それになんだ、新入りが来たな。あんなへなちょこには負けねぇ。

昼も飯かっ食らっただけで俺は働いたよ。何度も言うがやる時ゃあやるんだよ。

15時か、西日がきついぜ。

17時、あと1時間だな。我ながら頑張ったぜ。おいおい今頃着やがったやつがいるぜ、もう仕事はほとんど終わったっていうのに、それに青白くてひょろひょろで何ができるんだ。おとといきやがれ。

「みんな、ご苦労だったな。賃金を払うぞ」

おおっ、これのために頑張ったんだ。

「まず17時に来た者。1デナリオンだ」
「ありがとうございます。」

ちょっぴり働いただけで1デナリオンだって!!、1日分の日当じゃねーか。そりゃぁぺこぺこするわけだよな。この親方は気前がいいのかもしれねぇ、朝から働いた俺は…グフフ、夕飯には少し酒つけちゃうかな。

「よし、最後に朝から働いたもの。ご苦労だったな。約束通り1デナリオンだ」

おいおい、そりゃねーぜ。俺は朝の5時から13時間も働いたんだぜ。1時間しか働かなかった奴が1デナリオンなら俺にはもっと“イロ”つけてくれてもいいんじゃねーか?



この話は、どうも苦手です。この朝からの労働者の立場に立ちやすいのです。いや、どう見ても不公平でしょ!? そう思ってしまいます。

でも本当に不公平だったのでしょうか? 
今までの上記も聖書に基づいた妄想ですが、ここから先は妄想の度がUPします。

17時、街の真ん中に行くと朝居なかった若者が立っています。
親方が声を掛けます。「なんだ?昼間はいなかった顔だな?どうしたんだ。」

親方はそうけれど、私も街角にいました。見つけてくれなかっただけです。…なのかもしれませんし、また

「はい、私はうつがひどく、夜になると不安で眠れなくなってしまうのです。でも、親もだんだん年を取っていつまでも頼れないので、今日は頑張って何とか起きたのがこの時間なんです。」
「夕方のごみ拾いでもあったらお願いします」

なんていう会話があったのかもしれません。
もしかしたら

「親が一昨日馬に蹴られて寝たきりなんです。一昨日、昨日、そして今日と寝ずに看病し、なんとか峠を越えたので、薬代稼ぐためにも、と今家を出てきたんです。」

だったのかもしれませんし、

「実は隣町の牢につながれて昨日釈放されました。無一文で追い出されて飲まず食わず歩いて今この街にたどり着きました。」

かもしれません。
ほかにも読者の方が推理するやり取りがあったかもしれませんし、もしかしたら僕らが推測できないようなやり取りがあったかもしれません。

このたとえ話は、1つ1つの事例のやり取りが書かれていなく、結果だけが書かれています。
やり取りは見えません。

生活保護の利用に関しては、「自己責任論」のような多くの反論があります。
それはまさに、1つ1つの事例を無視し、生活保護を利用したという結果だけで判断していることでしょう。

この話が苦手だ、というのは、実は僕も結果だけを見て物事を判断していたのかもしれません。
生活保護に関しては、何十件以上のやりとりをした結果、推測だけでなく経緯を経た結果なので、僕はこの朝から労働者のように後から来た人を非難しません。
それは誰もがそうではないでしょうか?
自分が困窮していること、一生懸命練習をやりあった仲間の失敗、これは案外許せたりはしないでしょうか?

でも、TVの夕方の特集「マナーの守れない人たち」みたいので、入ってはいけませんと書かれた柵を乗り越えて堤防に行く釣り人とか、花火を楽しんだ後ごみを散らかしたまま帰る若者などと合わせて、協調性のない1軒の家とかが取り上げられ、「何?あの人!?」と思ったりすることはないか?と問われれば、僕はあります。
でも、それは目の前の事例のみで、そこに至る経緯などを聞くと泥棒にも三分の理とか言いますが三分どころか四分も五分もあったりします。

「外野のお前らに俺の苦しみのどこまでわかるっているんだよ!」と思うことはないでしょうか?
それこそ今日の17時の人の心の叫びです。
その苦しさを少しでも共有できる心の広さ、想像力、やさしさ…持てるようになりたいです。

そしてこれが朝4時から並んで仕事をした人への非難になるのも違うと思います。長時間の労働は確かなものだし、「そこまでしても(石にかじりついても)」お金が必要だったかもしれない、という彼の方のバックボーンの推察も必要だと思います。
それでも人は己が可愛く、自分以外の人が自分より「うまいこと」できたことに嫉妬をします。苦手なのは僕もなかなか克服できないかもしれませんが、これを克服できれば「天の国」になるのでしょうね。


PS
もう一つ妄想を…

17時に来た人は1デナリオンと言う大金をもらえたことに驚き、喜び、そして敬服しながらおぞおずと言いました。「本当にご恩を頂きありがとうございます。しかし私のそばの家に『ひきこもり』の人がいます。何年も家から出ようとすると、体が硬直し、ひどい頭痛になるといいます。今年親がなくなり、食べるものに困窮し、周りの私どもがみんなで面倒を見ているのですが、私たちも貧しいのでなかなか…。」

「そうか、ではその人にも1デナリオン渡してこよう。働けなくても生きていかなければならないのだからな。」
神の愛の平等を信じます。

ゆるされている者

2017年9月24日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 18章21-35節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」



赦さざるを得ない相手…例えば巨大な権力者で立ち向かっても叶わない相手、体力がありそうで戦っても叶いそうもない相手、そうした相手には長いものには巻かれろと言わんばかりに戦うのをあきらめ、そのストレスは戦って勝てそうな相手にぶつけられます。
生活保護の不正受給問題などはその典型で、加計学園が総理の忖度で億や兆と言ったお金が動いても選挙になっては忖度をした総理を勝たせるのに、1%に満たない不正受給の生活保護者には、無駄遣いだと言わんばかりに声高に叫びます。
国際問題もそうです。北朝鮮のミサイルはまさに「国家安康」「君臣豊楽」のように日本に絡めただけのことで、人工衛星と同じ高さからもし墜落しても大気圏の摩擦熱で流れ星のように消えてなくなるのに、サイレンを鳴らし机の下に隠れろなんていうのは、国民への扇動に過ぎない事でしょう。アメリカには諂(へつら)い、北朝鮮には待ってましたとばかり敵国心をあおる。
そんな為政者の扇動を納得し、生活保護者やアジアの小国を激怒する国民。つくづく弱きものを許すのは大変なことなのだと思います。

王は神を表します。そうでなくても人間でも度量の大きな人はいます。でも1万タラントン…例えば1兆程度でしょうか?借金を棒引きするよ、と言ってくれる人はいないでしょう。
でも、原罪を貨幣価値判断はできませんが、お金に変えられないほどの大きな罪な訳で、それを神は赦したわけです。返せない大きな借金を、一生懸命返す努力をするというだけで、神は赦し、この世ではインマヌエル=神共と居ます、と言ってくれ終わりの日には神の御許に呼び戻してくれます。
1兆のお金を何の恨みつらみの言葉もないまま憐れんで赦してくれたのです。

では、赦された人はどうなのでしょう?
100万程度なのでしょうか? 僕らが生活する上では大事なお金ですが、1兆を許してもらったのです。些細な金額です。でも許せない。返せないくらいなら借りるなよ、と威圧的に取り立てるのです。
棒引きにしてもらったうちの中のほんの些細なものだから俺も棒引きに使用ではないのです。あれはあれ、これはこれなんです。自分の得はラッキーですが他人の得は許しがたいのです。残念ですが人間ってそんなものです。

当初書いた現代に話を戻しましょう。僕らは神から返せないほどのたまものをもらい恵みの中生きています。が、その中でも社会のルールとして不正を撲滅したり平和を求めたりしています。
神からもらったものを返さなくていいと言われたから、俺もお前からもらったものは返さないぜ、と言うことを今日の聖書は言っているのではないと思います。

赦しとは、なかったことにするのではなく、真摯に向かい合いどうすれば解決に迎えるかを考えることでしょう。
生活保護の問題なら、不正をなくすることと必要な方に保護を利用してもらうことは相反したことではなく、その両立を求める努力ことこそが赦しではないかと思います。
借金を棒引きしてもらったのだからあなたも棒引きしなさい、という話ではないのです。7の70倍でもとことん議論をして着地点をみつけることが大事なのでしょう。

さて、この日僕らの教会には、台湾のSさんと言う方がお見えになりました。地元の大手ホテルにお勤めのSさん。台湾においても台湾長老教会の教会に通われた方。
前任の東先生に教えてもらった挨拶、帰りがけに「平安(ピンアン)」と言ったら喜んでピンアンと返してくれました。普段の礼拝にプラス1つ嬉しい事があった主日でした。

広島の旅(4)

この春より広島南部教会に小田原教会を母教会(洗礼を受けた教会)とした後藤慧師が着任したとFBで聞いており、何かのチャンスに伺いたいと思っておりました。その教会のある宇品二丁目は、広島駅とRFLの会場のちょうど中間地点、願ってもないチャンスでしたが、RFLが始まる12時まで礼拝であるので、アクセスを考えると礼拝に集うことは時間的に厳しいと断念しておりました。
しかし、RFL広島が台風18号の影響で中止になり、まさに礼拝への導きがあったかの如くですので、17日は広島南部教会で礼拝を守ることにいたしました。

20170917-05

広島市電はノーステップで乗りやすい車両が多いです。

20170917-01

20170917-02

2017年9月17日、広島南部教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書・詩編 92編2-16節。『老いを祝う 老いに生きると題した説教を後藤慧牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)
広島南部教会では敬老の日の最寄りの主の日は教会の高齢者、特に78歳以上の方を対象に覚えての礼拝をするそうです。

20170917-03

いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。
主よ、あなたは 御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。
主よ、御業はいかに大きく 御計らいはいかに深いことでしょう。愚かな者はそれを知ることなく 無知な者はそれを悟ろうとしません。神に逆らう者が野の草のように茂り 悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても 永遠に滅ぼされてしまいます。
主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。主よ、あなたに敵対する者は、必ず あなたに敵対する者は、必ず滅び 悪を行う者は皆、散らされて行きます。あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ 豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう わたしを陥れようとする者をこの目で見 悪人がわたしに逆らって立つのを この耳で聞いているときにも。 神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。 主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。 白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。


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後藤牧師は、現在の高齢の方々は大変な艱難な時代を乗り越えられてきたと語りはじめられました。一つは誰もが想像される大きな戦争による食料と希望の不足の時代。そしてもう一つは高度成長の働きすぎや様々な公害問題などによる環境悪化の中の生活。自分のためにではなく、社会の向上のためにが前につき、自分よりもその成果のために生きてきた人生。それによりリタイアして生涯学習で学ぶ楽しさや知識を得る喜びを感じている人も多いのかもしれません。

しかし同時に若い時ほど知識の吸収力が無くなった、と嘆かれるかもしれないし、体力が落ちていきたいけれどあきらめたというご高齢の方も少なくないでしょう。
断舎利がブームになりましたが、どうしても捨てなければいけないものはあきらめなければいけません。
生活学や心理学の中で、10枚のカードを渡し大事なものを書いてくれと書かせ、そのカードの中から2枚捨てなさい、4枚捨てなさい、と削っていくシュミレーションゲームがあると言います。
確かに僕らの人生の中で、「家族」とか「お金」とか「健康」とか「(物質的だけれど)本」とか「(飼っている)犬」とか「(趣味の)カメラ」とか、今では「スマホ」なんかもそうでしょう、大切なものはあっという間に10くらいになります。その中から削って生き残ったものは何になるか? こそが人生の柱になるものではないでしょうか?

仏教の四苦八苦の四苦は、4つの苦しみではなく4つの人智ではどうにもできないことと言う意味で、生、病、老、死です。生と死以外の2つ、病気になった方、年を重ねた方はその止むを得ない出来事にぶつかり人生を悩み、そして『死にたい』と言うところまでたどり着いたりします。しかし、聖書の神はそんな苦しみや悲しみをも知ってそばに寄り添ってくれる訳です。インマヌエル=神と共にいます、僕らはそこに希望をもって生きています。

しかしそれどころか今日の聖書の御言葉は、『白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう』と語られています。あなたはあなたのままでいい、と言う最低ラインの合格ではなく、病や老の中で喜々と生きることを薦めています。
後藤師は、銀には光り輝く銀もあるがいぶし銀と言う輝き方もあると言われます。
詩編の吟遊詩人はきっと一度は老の中絶望をしたのでしょう。自分は何もできない、と捨ててしまったカードだけを見つめため息をついたのではないでしょうか?
しかしある何かのきっかけで残ったカードで勝負をし見事勝利を得たのです。
歩けない人が知恵を語ることで先方から訪ねてくるようになった。
耳が聞こえなくなってきた人の周りに昔話を聞きに子どもたちが集まって真剣な顔で聞き入る。
「悪いねぇ、ありがとうありがとう」そういう寝たきりの患者さんに看護師や介護士は癒され働く意欲を得る。
それこそいぶし銀の喜びでしょう。

礼拝後には、この教会のご高齢の方から一言ずつ挨拶がありました。いろいろな生き方の過去と、そして未来を喜びながら語る言葉がこの詩編の読み手の言葉にオーバーラップいたしました。
そしてその中のお一人はご子息が小田原にお住まいだとか・・・。嬉しい接点がありました。
残念なのは昔小田原にお住まいだったことのあるNさんがここのオルガにストなのですが、この週はお休みだったこと。
礼拝を共にしてくださった皆様、広島の皆様、そして世界中の皆様の上に主の豊かなお恵みがありますように。

神の前に共に

2017年8月27日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 12章46-50節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」


家族が待っていた理由は書かれていませんが、ファリサイ派の人々がイエスを殺害止む得なし、とまで言っている噂を聞きたけたからでしょう。家族故のイエスの身を案じた忠告であります。
また、ハリウッド映画「ベン・ハー」の最初のシーン。瓦や植木鉢が落ちたことで一族郎党が処罰の対象となったように「家系」を守るための忠告をしに来たのでしょう。

それに対し、イエスは『母親とはだれか?』と冷酷と言えそうなほどの冷たい態度で回答をします。
僕らも家族の忠告にはなかなか素直に受け入れられないところがありますが、それでも『(面倒くさそうに)分かったよ、うるせーなー』程度のあしらいかたです。『あんた誰?』『何様のつもりで俺に説教しているの?』と言うのはなかなか言わない言葉ではないでしょうか?

長井牧師は、イエスのこの回答を2つの意味を持った回答と話されます。
一つは、ペテロら弟子と始めで出会った時のこと。
「人をとる漁師になれ」と言うイエスの言葉にどこまで理解したかは不明ですが、父親も家族も生業も捨ててついてきたこと。それは貧困の庶民は神の救いから遠いと言われた時代、父親や家族を捨てるという代償の代わりに、神への救いが得られるということ。社会のしがらみからの解放があるという側面。
もう一つは、ファリサイ派の人々から殺されそうなほど確かな預言者であると信じられ、万難を排しイエスの後をついてくる多くの群衆の姿。

キリスト教とはよくクリスチャン仲間の事を兄弟姉妹と言いますが、ここから来た呼び名でしょう。神の救いを信じている仲間はイエスの言葉を借りれば「私の兄弟、姉妹である」訳です。

では、どういう人が兄弟姉妹なのか?と言えば、イエスは「天の父の御心を行う人」だと言っているのです。
洗礼を受けたものではないのです。「天の父の御心」を行うもの、とは、例えば蔑視をしない人、例えば平和を求める人、例えば隣人を愛する人な訳です。
そこに洗礼や毎週礼拝に出席している人ではないのだと僕は思いますし、長井牧師の言葉もそれに近いものだったと思います。
それは宣教と言う自分の信仰の現し方を否定するものではなく、肯定をしながらもキリスト教者以外の人も十分に主の御心に近い方はたくさんいるということです。

7月に大阪釜ヶ崎に行きました。週末でしたので、主日には礼拝をささげることが出来ました。ふるさとの家では本田神父が、種まきの喩えを講解してくれました。
宣教を重んじるばかりに日本のクリスチャンは他の人をクリスチャンにさせようと躍起になり、この聖書の箇所を読んでは、だからこの日本の地に種まきをしようと言うが、既に種はまかれていて、神を知っている人も知らない人も多くの人が、平和を考え、平等を説き、隣人との交わりの中に生きている訳です。

イエスの家族は、神を信じているのにイエスの行動を理解できなかった。
僕らもそうなのかもしれません。神の種まきを信じ、自分にまかれた神の種(神の御心)に従うことに専念をしましょう。それが今日の聖書が僕らに語ってくれることだと思います。

命を導かれた方

2017年8月20日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 5章12-21節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。


この世は3次元世界と言われています。縦・横・高さで出来上がっています。
そしてもう一つの次元が存在する場所を4次元の世界と言い、得てしてその一つを時間軸だと言われています。タイムマシンやタイムトラベラーが描かれたSF作品を好んで読んでいた僕としては、4次元を操れるようになるのを夢見ていました。

敬愛する三浦綾子姉の作品「塩狩峠」で主人公の信夫は伊木師に『十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか?』と問われ『先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか』と返しています。
時を超える業はやはり人が必要なものではなく、でも神の御業では必要な業です。
僕らは時を川の流れのように逆流もなくただ川上から川下に流れるものとしてしか想像できません。ですからアダムの罪によって僕らも「死」と言う責務が生じたことは理解できても、イエスの救済によって紀元前の人の魂が救われるか?とか現代を生きる僕らの罪がイエスを十字架に導いたのか?という疑問には異論があるかもしれません。

しかし、もし4次元なら、時間軸を超越しているのなら、神の恵みはどの時代にも影響します。つまり、信夫の罪は2000年経った明治の御代の時代にも働かれる神の御業、神の愛ゆえに払しょくされるのでしょう。

そんな勝手なことを頭に浮かべながら説教を聞いていた訳ですが、中田牧師は「予型論的解釈」という神学(キリスト教を学問的に分析したこと)の話をされます。
つまり新約聖書でイエスがすることを既に数千年も前の旧約の時代に将来そういう救世が来ることを「何か」の形で預言されているという考えです。
今日の箇所もアダムの不従順による罪とイエスの従順による救いの対比です。
でも神が不従順なアダムの子孫を何故赦すのか?が気がかりですが、それはやはり不従順でだめな僕らを神はイエスを送ってでも赦そうとした愛なのでしょうね。
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