広島の旅(4)

この春より広島南部教会に小田原教会を母教会(洗礼を受けた教会)とした後藤慧師が着任したとFBで聞いており、何かのチャンスに伺いたいと思っておりました。その教会のある宇品二丁目は、広島駅とRFLの会場のちょうど中間地点、願ってもないチャンスでしたが、RFLが始まる12時まで礼拝であるので、アクセスを考えると礼拝に集うことは時間的に厳しいと断念しておりました。
しかし、RFL広島が台風18号の影響で中止になり、まさに礼拝への導きがあったかの如くですので、17日は広島南部教会で礼拝を守ることにいたしました。

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広島市電はノーステップで乗りやすい車両が多いです。

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2017年9月17日、広島南部教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書・詩編 92編2-16節。『老いを祝う 老いに生きると題した説教を後藤慧牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)
広島南部教会では敬老の日の最寄りの主の日は教会の高齢者、特に78歳以上の方を対象に覚えての礼拝をするそうです。

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いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。
主よ、あなたは 御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。
主よ、御業はいかに大きく 御計らいはいかに深いことでしょう。愚かな者はそれを知ることなく 無知な者はそれを悟ろうとしません。神に逆らう者が野の草のように茂り 悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても 永遠に滅ぼされてしまいます。
主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。主よ、あなたに敵対する者は、必ず あなたに敵対する者は、必ず滅び 悪を行う者は皆、散らされて行きます。あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ 豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう わたしを陥れようとする者をこの目で見 悪人がわたしに逆らって立つのを この耳で聞いているときにも。 神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。 主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。 白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。


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後藤牧師は、現在の高齢の方々は大変な艱難な時代を乗り越えられてきたと語りはじめられました。一つは誰もが想像される大きな戦争による食料と希望の不足の時代。そしてもう一つは高度成長の働きすぎや様々な公害問題などによる環境悪化の中の生活。自分のためにではなく、社会の向上のためにが前につき、自分よりもその成果のために生きてきた人生。それによりリタイアして生涯学習で学ぶ楽しさや知識を得る喜びを感じている人も多いのかもしれません。

しかし同時に若い時ほど知識の吸収力が無くなった、と嘆かれるかもしれないし、体力が落ちていきたいけれどあきらめたというご高齢の方も少なくないでしょう。
断舎利がブームになりましたが、どうしても捨てなければいけないものはあきらめなければいけません。
生活学や心理学の中で、10枚のカードを渡し大事なものを書いてくれと書かせ、そのカードの中から2枚捨てなさい、4枚捨てなさい、と削っていくシュミレーションゲームがあると言います。
確かに僕らの人生の中で、「家族」とか「お金」とか「健康」とか「(物質的だけれど)本」とか「(飼っている)犬」とか「(趣味の)カメラ」とか、今では「スマホ」なんかもそうでしょう、大切なものはあっという間に10くらいになります。その中から削って生き残ったものは何になるか? こそが人生の柱になるものではないでしょうか?

仏教の四苦八苦の四苦は、4つの苦しみではなく4つの人智ではどうにもできないことと言う意味で、生、病、老、死です。生と死以外の2つ、病気になった方、年を重ねた方はその止むを得ない出来事にぶつかり人生を悩み、そして『死にたい』と言うところまでたどり着いたりします。しかし、聖書の神はそんな苦しみや悲しみをも知ってそばに寄り添ってくれる訳です。インマヌエル=神と共にいます、僕らはそこに希望をもって生きています。

しかしそれどころか今日の聖書の御言葉は、『白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし 述べ伝えるでしょう』と語られています。あなたはあなたのままでいい、と言う最低ラインの合格ではなく、病や老の中で喜々と生きることを薦めています。
後藤師は、銀には光り輝く銀もあるがいぶし銀と言う輝き方もあると言われます。
詩編の吟遊詩人はきっと一度は老の中絶望をしたのでしょう。自分は何もできない、と捨ててしまったカードだけを見つめため息をついたのではないでしょうか?
しかしある何かのきっかけで残ったカードで勝負をし見事勝利を得たのです。
歩けない人が知恵を語ることで先方から訪ねてくるようになった。
耳が聞こえなくなってきた人の周りに昔話を聞きに子どもたちが集まって真剣な顔で聞き入る。
「悪いねぇ、ありがとうありがとう」そういう寝たきりの患者さんに看護師や介護士は癒され働く意欲を得る。
それこそいぶし銀の喜びでしょう。

礼拝後には、この教会のご高齢の方から一言ずつ挨拶がありました。いろいろな生き方の過去と、そして未来を喜びながら語る言葉がこの詩編の読み手の言葉にオーバーラップいたしました。
そしてその中のお一人はご子息が小田原にお住まいだとか・・・。嬉しい接点がありました。
残念なのは昔小田原にお住まいだったことのあるNさんがここのオルガにストなのですが、この週はお休みだったこと。
礼拝を共にしてくださった皆様、広島の皆様、そして世界中の皆様の上に主の豊かなお恵みがありますように。

神の前に共に

2017年8月27日、小田原教会に与えられたみ言葉は、マタイによる福音書 12章46-50節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」


家族が待っていた理由は書かれていませんが、ファリサイ派の人々がイエスを殺害止む得なし、とまで言っている噂を聞きたけたからでしょう。家族故のイエスの身を案じた忠告であります。
また、ハリウッド映画「ベン・ハー」の最初のシーン。瓦や植木鉢が落ちたことで一族郎党が処罰の対象となったように「家系」を守るための忠告をしに来たのでしょう。

それに対し、イエスは『母親とはだれか?』と冷酷と言えそうなほどの冷たい態度で回答をします。
僕らも家族の忠告にはなかなか素直に受け入れられないところがありますが、それでも『(面倒くさそうに)分かったよ、うるせーなー』程度のあしらいかたです。『あんた誰?』『何様のつもりで俺に説教しているの?』と言うのはなかなか言わない言葉ではないでしょうか?

長井牧師は、イエスのこの回答を2つの意味を持った回答と話されます。
一つは、ペテロら弟子と始めで出会った時のこと。
「人をとる漁師になれ」と言うイエスの言葉にどこまで理解したかは不明ですが、父親も家族も生業も捨ててついてきたこと。それは貧困の庶民は神の救いから遠いと言われた時代、父親や家族を捨てるという代償の代わりに、神への救いが得られるということ。社会のしがらみからの解放があるという側面。
もう一つは、ファリサイ派の人々から殺されそうなほど確かな預言者であると信じられ、万難を排しイエスの後をついてくる多くの群衆の姿。

キリスト教とはよくクリスチャン仲間の事を兄弟姉妹と言いますが、ここから来た呼び名でしょう。神の救いを信じている仲間はイエスの言葉を借りれば「私の兄弟、姉妹である」訳です。

では、どういう人が兄弟姉妹なのか?と言えば、イエスは「天の父の御心を行う人」だと言っているのです。
洗礼を受けたものではないのです。「天の父の御心」を行うもの、とは、例えば蔑視をしない人、例えば平和を求める人、例えば隣人を愛する人な訳です。
そこに洗礼や毎週礼拝に出席している人ではないのだと僕は思いますし、長井牧師の言葉もそれに近いものだったと思います。
それは宣教と言う自分の信仰の現し方を否定するものではなく、肯定をしながらもキリスト教者以外の人も十分に主の御心に近い方はたくさんいるということです。

7月に大阪釜ヶ崎に行きました。週末でしたので、主日には礼拝をささげることが出来ました。ふるさとの家では本田神父が、種まきの喩えを講解してくれました。
宣教を重んじるばかりに日本のクリスチャンは他の人をクリスチャンにさせようと躍起になり、この聖書の箇所を読んでは、だからこの日本の地に種まきをしようと言うが、既に種はまかれていて、神を知っている人も知らない人も多くの人が、平和を考え、平等を説き、隣人との交わりの中に生きている訳です。

イエスの家族は、神を信じているのにイエスの行動を理解できなかった。
僕らもそうなのかもしれません。神の種まきを信じ、自分にまかれた神の種(神の御心)に従うことに専念をしましょう。それが今日の聖書が僕らに語ってくれることだと思います。

命を導かれた方

2017年8月20日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 5章12-21節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。


この世は3次元世界と言われています。縦・横・高さで出来上がっています。
そしてもう一つの次元が存在する場所を4次元の世界と言い、得てしてその一つを時間軸だと言われています。タイムマシンやタイムトラベラーが描かれたSF作品を好んで読んでいた僕としては、4次元を操れるようになるのを夢見ていました。

敬愛する三浦綾子姉の作品「塩狩峠」で主人公の信夫は伊木師に『十字架につけたのはあなた自身だということを、わかっていますか?』と問われ『先生、ぼくは明治の御代の人間です。キリストがはりつけにされたのは、千何百年も前のことではありませんか。どうして明治生まれのぼくが、キリストを十字架にかけたなどと思えるでしょうか』と返しています。
時を超える業はやはり人が必要なものではなく、でも神の御業では必要な業です。
僕らは時を川の流れのように逆流もなくただ川上から川下に流れるものとしてしか想像できません。ですからアダムの罪によって僕らも「死」と言う責務が生じたことは理解できても、イエスの救済によって紀元前の人の魂が救われるか?とか現代を生きる僕らの罪がイエスを十字架に導いたのか?という疑問には異論があるかもしれません。

しかし、もし4次元なら、時間軸を超越しているのなら、神の恵みはどの時代にも影響します。つまり、信夫の罪は2000年経った明治の御代の時代にも働かれる神の御業、神の愛ゆえに払しょくされるのでしょう。

そんな勝手なことを頭に浮かべながら説教を聞いていた訳ですが、中田牧師は「予型論的解釈」という神学(キリスト教を学問的に分析したこと)の話をされます。
つまり新約聖書でイエスがすることを既に数千年も前の旧約の時代に将来そういう救世が来ることを「何か」の形で預言されているという考えです。
今日の箇所もアダムの不従順による罪とイエスの従順による救いの対比です。
でも神が不従順なアダムの子孫を何故赦すのか?が気がかりですが、それはやはり不従順でだめな僕らを神はイエスを送ってでも赦そうとした愛なのでしょうね。

命を生かす共同体

交換講壇というクリスチャン以外の方はあまり聞きなれない言葉かと思いますが、他教会と牧師同士がその週交換して説教をすることを言います。この日、小田原教会は藤沢大庭教会と交換講壇が成立し、当教会の中田牧師が藤沢大庭へ、そして小田原教会へは藤沢大庭教会の山田啓人牧師がお越しくださりました。
2017年8月13日、小田原教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書サムエル記上 8章1-22節。表記のタイトルの説教を山田啓人牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

サムエルは年老い、イスラエルのために裁きを行う者として息子たちを任命した。長男の名はヨエル、次男の名はアビヤといい、この二人はベエル・シェバで裁きを行った。しかし、この息子たちは父の道を歩まず、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた。イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」
裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」
サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、 千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」サムエルは民の言葉をことごとく聞き、主の耳に入れた。
主はサムエルに言われた。「彼らの声に従い、彼らに王を立てなさい。」サムエルはイスラエルの人々に言った。「それぞれ、自分の町に帰りなさい。」



山田牧師は、イエス幼少期の様子を資料を基に推察します。
イエス家は中流以上の家庭だが、そのころナザレ地方では紛争があり戦火に包まれ、イエスの父ヨセフはもしかしたらその戦いの中で命を落としたのかもしれない、と語ります。
聖書の中にも母マリアが長男イエスに大きな期待と信頼を寄せているシーンがありますが、自分の連れ合いではなく子に期待と信頼を寄せるのはその推察を裏付けるものかもしれません。
町が破壊され、大工のイエスは仕事に追われたことでしょう。そして完成した商品をもって依頼主の家庭を訪問し、そこでの会話の中で、弱者である民衆の生きざまとこの世の理不尽な社会を知って行く訳です。

何によってこの理不尽が起こったのか?イエスの疑問はそこに向かい、それは例えばエルサレム神殿に入れない人とは入れる人の差別などがあることを感じ、「わが神」は本当にその差別をする神なのだろうか? というのが、宗教に関する始まりだったように思えます。
既存ユダヤ教へのイエスのプロテスト(抗議)は、民衆に支持されますが、その支持はイエスの思惑と民衆の期待とは若干違っていました。
イエスは心の解放、神から大切な人と言われていることの喜びをつたえること、そこに救いを見出したのですが、民衆は「政治的メシア」であったり「暴力的メシア」を望んでいたわけです。目先の権力こそ「救い」だと願っていたのでしょう。
そのメシア観は、勝手な民衆の失望を生み、十字架につながります。

2000年経って冷静に見ると浅はかにすら見える民衆の望みですが、紀元前11世紀のサムエルの時代でも同じだったように読めます。
「王がほしい」「いや、王は民衆から搾取するぞ、お前たちは戦場に送られるぞ」と言うやり取りがあっても、民衆は「王がほしい」と言い続け、神すらも「自身で納得するまでは理解できないよ」と言う訳です。それが今日テキストとして与えられた御言葉です。

現在の社会も同じなのか、と思います。「強いアメリカ」を語るトランプ氏。国粋主義者が増えている欧州各国。自国の反論は監禁される中国や粛清の北朝鮮。ニュースでは各国の負の部分が報じられますが、日本でも法治国家ではないような事件が起こっています。曰く、沖縄高江の不当な逮捕。曰く、福島原発の処理不足の中のアリンピック安全宣言、等々等。
それでも何割かの人は安倍政権を支持し、法を改定してでも『サムエルの危惧する国づくり』をしようとしています。

聖書を読む僕らは、神から心が離れ、人間が王として人を支配することのその後を何度も見せつけ警鐘を与えています。何度も書かれているということは間違いを犯しやすい事です。心して神の警鐘を受けたいものです.。

平和の神が共に

2017年8月6日、平和聖日の今日 小田原教会に与えられたみ言葉は、フィリピの信徒への手紙 4章2-9節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。



平和と言う言葉の意味を問うと、たぶん多くの方が、戦争ではない状態のように、平和自身ではなく「平和でない事態でない」と言う二重否定で回答されるかと思います。
平和と言う大切な言葉(状態)でありながら、明確に平和を表現できない、言葉に出来ないところに難しさがあるのかもしれません。
平和とは何か? 平和を作り出すとは何か? 今日の大きなポイントです。
中田牧師は、昨日衣笠病院の70周年記念行事に参加なされたと語りはじめました。70年前、戦後の混乱の中、五体満足でも生きるのがしんどい中、病の方や怪我等で体を動かすのがしんどい人はもっとしんどいです。そうした方々の事を覚え病院の建設を計画しますが、予算も何もない中、誰もが無謀と言われたそうです。
あるのはマンパワー関わった人の熱意のみ。
困窮時で絶望に近い中、そして熱意だけはとてもある、そうした条件の重なりが衣笠病院の設立だったのでしょう。

フィリピの信徒への手紙。これは別名「愛と喜びの手紙」と呼ばれています。そんな手紙を書いたのは使徒パウロ。でも書いた場所は牢獄の中、ローマに送られ死刑の日を待つ間の手紙です。
生を絶対良しとするのなら、死刑宣告の時はまさに絶望の毎日。そんな中「喜び」でいられたパウロはどこからその気持ちが湧き上がってきたのでしょうか?

例えばグノーシス主義が入ってきたと聞けば、傲慢な考えと否定しキリストのみを信じ、他の言葉に右往左往しないように諌めます。主によって立てと厳しく注意します。
本当の喜びはキリストによって与えられると言い、どんなことでも思い煩うのはやめなさい、と言うのです。
そして、わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。と締めています。

戦争でない状態が平和だと多くの方は語るかもしれません。でも僕らクリスチャンは、神に従い愛されている喜びを感じ、そして何事も思い煩わない、そんな豊かな時間を平和と呼びましょう。それをすることが戦争でない状態に代表される状態を作り上げます。
きっと70年前衣笠病院を計画したお一人お一人はそうした気持ちを熱い思いに変えて建設運営にあたったのでしょう。
70年経った今もこの世は辛く苦しい事や偏見蔑視に苛まされることがたくさんあります。でも、神に従い愛されている喜びを感じ、そして何事も思い煩わない気持ちでぶつかっていきたいと思います。それが平和を作り上げる力なのでしょう。

このBlogにも何度も出てくるRFL(リレーフォーライフ)の仲間。そんなお一人のMOMOちゃんの言葉を最後に書いておきます。
あまりに申し訳ない結果なのですが、本日主治医と話し合いした結果、近日中にブログの更新は出来なくなるものと思われます。それに…あまり皆さんに期待を持たせる結果にはならないようで…(^^;)
このままブログの更新をしていたら、同病の方に絶望感を与えてしまうのでは?とか、余計に心配や迷惑をかけてしまいそうで…(滝汗)
この辺でキリもいいし、思いきってブログの更新を辞める事にいたしました。

本当のブログの最後の挨拶は、今後落ち着きましたら、相方から葬儀が終わった時点でお知らせして頂く事にしました。
「相方ぁ~頼んだぜっ!」(^^)v

今日は病院で主治医と話し合いをしまして相方は、今も病室に一緒に居てくれています(^^)v
それと…もう胸水が溜まりすぎて話す事さえもう大変で(汗)お見舞いにさえ来て頂けない状態だという事をどうかご理解下さいますよう、お願いいたします。
その他借り物等がある方は相方に返す方法を相談して貰えるように、お願いしておりますので、相方が落ち着いた時点で連絡がくると思います。

私MOMOから最後に挨拶があるとすれば…皆さんに私よりう~んと永く生きて幸福になって頂きたい!前にもここで書きましたが、ここのブログは(最近更新してなかったけど…(笑))私の生きる源でしたし、このブログで知り合った私の大切な人生の宝は皆さんと知り合った事だと心から言えます。
そしてこんな落ち着いた気持ちで最期のブログを更新できてるのは沢山の仲間、友人、相方と逢えなくなるのは寂しいのですが、なんだかあまり恐くないんです。きっと…またいつか?会えると信じているからなぁ?
今本当に幸福で…なんと言っていいか?わからないのですが、こんな気持ちで最期が迎えられて良かったと思っています。皆さん本当にありがとう!そしてできるなら皆さんの不安な気持ちや嫌な事、病気を私が持っていけたらなぁ~?と思っています。このブログ読んだら心で私に念じてみて下さいねっ(^_-)
私は悲しいのも寂しいのも泣くのも好きではないので、笑ってさよならさせて下さいねっ!
今までありがとう~☆


彼女はクリスチャンではないですが、愛の中生き、死に対しても思い煩うことが無かったのでしょう。そうした晴れやかな最期の時の素直な言葉に僕らは勇気づけられます。
平和とは万人の平安の日々の集合体なのでしょう。個人の平和が他人の平和を作り出すのでしょう。彼女を慕いまた同志としてリスペクトした仲間は10余年経った今もがん仲間へ平和を伝える働きをしています。

釜訪問あらため大阪訪問記(4)

16日はまずふるさとの家に伺いカトリックの礼拝にお邪魔しました。
実は前夜深夜の街中を見てみたいと思っていたのですが、夜行バスに揺られ、暑い中早朝から歩き続けたので夜回りが終わって宿についたらシャワーだけ浴びてバタンキューと熟睡してしまい叶いませんでして、逆にそんなこともあり6時には目が覚めてしまいました。7時過ぎにはチェックアウトして朝食を食べ終わっても8時。どうしようかと思いましたが、昨日Mさんに街の中を案内してもらっている最中自転車に乗られた本田神父と出会い、Mさんから紹介をしてもらいご挨拶したので早めだけれどふるさとの家に行ってみようと出向いたわけです。
1時間前なのに既に門は開いていて中の通路横にはベンチが並びその一番奥で本田神父は座っておられ、僕を見つけられると挨拶をしてくださいました。そのまま神父のお隣に座ラさせてもらいおしゃべり。
いつもこの時間から皆さん来られているのですか?と問えば、7時に門を開けると来られ1週間の出来事や悩みや様々なことをここで神父に伝えてから皆さん中に入られるとのこと。

多くの教会は、礼拝前は心静かに落ちつけて、と言います。
でも生き死にの狭間と言う言葉が大げさでない毎日を過ごしている人にとっては、礼拝前に神父に一週間を話すことが心を落ち着けられるルーチンなのかもしれません。

20170716-01

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、 見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、 耳は遠くなり、 目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、 耳で聞くことなく、 心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」


本田神父はどんなところにも既に「神の種」はまかれているのだと語られます。しかし、世の多くのクリスチャンは宣教こそが種まきだとすでに神の種が撒かれた後の今も種まきに勤しみます。
第二バチカン公会議で「神の種は教会の外にも撒かれている」と語られたと話され、ではなぜこの御言葉が聖書に載っているかに追究されます。目的はなんなのでしょう?
それは種まきではなく刈り入れのための準備だ、と説かれます。

撒かれた神の種とは何でしょう? それは愛です。互いに愛しなさい、という事でしょう。
でもたとえば恋愛対象者に向けて誰彼かまわず「愛しています」などと言う人はいないように、愛と言う言葉ほど重たくない関係の人の方が圧倒的に多いものです。愛ほど重たくない言葉の好き、であっても好きになれない人はいます。
そんな人間関係で、撒かれた神の種の刈り入れをするという事はどういうことか? それは好きにならなくてもいいから相手を大切にしなさい、という事なのだろう、と語られます。

初めて出席したカトリックの礼拝。僕ら小田原教会と大きく違うのは、本田神父の説教以外はすべて式文に乗っ取った交読の祈りであること。
そしてこれはこのふるさとの家のみの主の祈り。
天におられる私たちの父よ
空のかなたではなく
万物を支える見えない世界「天」において
人の世の低みから働かれる
私たちの父である神様。
み名が聖とされますように
世の小さくされているものとはたらくあなたを
みんなが聖なる方と認めますように。
御国が来ますように
御国とは、「解放と平和と喜び」の世界です。
私たちが、不足を分かち合うだけではなく
抑圧された仲間の解放を目指して助け合い、
神と人を大切にする社会を作っていけますように。
以降不明のため省略

お題目のように唱える主の祈りではなく具体的に何をどう求めるのか鮮明に書かれ、祈りを自分自身も納得し隣人と分かち合ってそしてアーメン(そのとおり)と声をあわせられるものでした。

そして聖体拝領。多くのプロテスタント教会はオープン聖餐(洗礼を受けた人は教派を問わず聖餐に与れる)というスタンスが多いですが、カトリックはクローズ(カトリックの信者のみ)が多いという話を聞いたことがあります。
しかしふるさとの家はフリー聖餐(誰でも聖餐を与かることができる)ものでした。日本キリスト教団はこのフリー聖餐の牧師をターゲットにして排他的攻撃を仕掛けていますが、今日のみ言葉と合わせて撒かれた神の種としての僕らに神様の恵みが等しくあることに心から感謝をしてうけることができました。

20170716-02

この日の礼拝には釜ヶ崎以外から、3組の出席者があり促され一言挨拶をさせて頂きました。
次の予定があったのでゆっくりご挨拶する機会がありませんでしたが、昨晩の夜回りから上智福岡の学生さんと時を過ごせました。感謝の出会いです。

16日はM蓮さんが寿地区センターに来られたことでスケジュールがたちました。10時30分からはM蓮さんに釜ヶ崎伝道所に連れて行ってもらいます。
米加田牧師の教会です。
聖書は旧約の歴代誌下14:1-6、新約は使徒言行録19:28-40でした。説教のあとは御言葉のわかちあいがあり、礼拝のあとは軽食のわかちあいもありました。なか伝道所の礼拝に似ているかな?
この教会は礼拝時以外はいこいの家と呼ばれています。そう「さとにきたらええやん」のパンフレットの中で赤井 英和さんが、子どもの時 時を過ごしたというのはこの施設だと思われます。教会が空き時間有効に活用される、頭が下がると同時に、そうでありたいと思うものでもあります。

1日2回の礼拝、そしてそれぞれの教会でのお交わりに感謝の一週間の始まりです。

心も思いも一つに

2017年7月9日、小田原教会に与えられたみ言葉は、使徒言行録 4章32-37節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。


長井牧師は今日の箇所に至るまでの間に起きた出来事をペンテコステの後から時系列に話をし、そして使徒言行録2章42節に彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。 と書かれていると紹介されました。
(同じ志をもった集まったすべての人が)心を一つとし、使徒の教え(説教を聞き)、相互の交わり(仲間との交流)、パンを裂くこと(聖餐を受けること)、祈ることを熱心にした、と言うのです。つまり教会として、クリスチャンとして共に大切だと思っていることを皆でしたと言うことでしょう。

そして今日の箇所は、信じた人々の群れは心も思いも一つにし、とあります。心だけではなく思いも一つにしたというのを僕らはどう読むのでしょうか?
今日の使徒言行録はパウロの行動が中心の記事です。そのパウロはイエス(キリスト教)伝道の熱心さのあまり牢につながれます。
イエスの最後もそうでしたが、指導者が捕捉されることは、集団を分裂させます。パウロが捕まったことは、心を一つにしていた人が、一つでなくなることでもあるのではないでしょうか?
それゆえ教会を守ろうと言う思いの一致も大事だったと思います。

2000年の間教会が心と思いを一つにしたからこそ今なお残っているのでしょう。
一つのことで集まったグループ。それが粛々と継続していくというのは、まさにその部分が大事でしょう。
僕も教会以外でいくつかのグループの仲間と一緒に人生を楽しんでいます。
イヴェントが終わってうやむやの間に消滅してしまったグループと長期間活動をともにしているグループ。一番の差異はそこなのでしょう。
逆に言えば長々続いているグループも心と思いを一致できなければ消えてしまいます。

今日の箇所の直前、使徒言行録4章4節には 二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。 とあります。
一度のパウロの話を聞いて、なるほど、それは信じるに値する、といった所で5千人の理解度や咀嚼内容は違いがあるでしょう。しかし、自分の咀嚼故に信仰の道に入った訳です。お前の咀嚼は違っているとかおかしい、と言われることには不服です。
誰もがその咀嚼が正しくその大切な思い故に信仰の道に入ったのですから、それを主張し合え、そして理解しあえる教会でなければならないと思います。
自分の解釈とは違うけれど受け入れるよ、という関係性こそが、心と思いの一致の根底にあると思います。そしてそれは教会だけではなくどんなグループにも通じることだと思うのです。

アブラハムの信仰

2017年7月2日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 4章13-25節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります。実に、律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違犯もありません。従って、信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。



今日は2つの大学から5人もの十代の学生が礼拝に集われ、いつもに比べてぐっと若いメンバでの礼拝でした。新しい方が教会に足を運んでくれることはとてもうれしい事でした。
しかし、聖餐式の厳粛な雰囲気、牧師の『まだ洗礼を受けられていないもの…』の言葉に居心地が悪くなったのか、聖餐の時を共にすることなく退席をさせて帰られてしまったことはとても残念な事でした。
オープン聖餐(他教派での聖餐は認める)やクローズド聖餐(同一教派しか認めない)は本当に正しい解釈なのでしょうか? 誰をも救われる神を信じている僕にはどうしても礼拝出席者にさえ居心地の悪さを与えてしまう礼拝スタイルが納得のいかない出来事の一つです。


さて、今日の説教。
アブラハムはなぜ神の言葉を疑いもせずに信じたか? は、興味深い問題です。でも、僕はそれは高齢にもかかわらず子どもが出来たことに由来するのだと思います。(創世記17章)
しかしベースは、信仰心のある人だから、神がイサクの命を宿させたのかもしれません。安住の地に居ながら神の転居の命に従い、放浪の旅に出ます(創世記12章であるようにこちらの方が先に書かれているトピックスです。)
鶏が先か?卵が先か?的な議論になりますが、視線を変えて考えてみたいと思います。
逆さまならどうなのだろう?
神が高齢になってからの子を授けるという一つの奇跡を示されたら、その神を僕らは無条件で信じられるでしょうか? 特に創世記22章のイサクの燔祭と呼ばれるシーンは、その神の奇跡で生まれ、もう同じ奇跡はないと思われる一人息子を神にささげるという出来事。生半可な信心では、神を疑うか神に失望するのが当たり前の出来事です。

アブラハムは信じやすい人なのか?と言う僕の心を読んだかのように牧師は、創世記12章10節以降を示されました。飢饉を逃れエジプトの地に行った際、連れ合いのサラに自分の妹だと名乗れと言います。
妹なら求婚をする際にその兄に多大な貢物をするだろうけれど、妻なら主人を殺して寡婦とし自分の妻とするだろうという疑心によるものです。妻サラの墓の件もその人への不信心ぶりを示しています。アブラハムは決して信じやすい人ではなく、人に対しては徹底的に疑心の目をもち騙されないことを信条としたのかもしれません。
そんなアブラハムは神にはちっぽけな疑心もなかった・・・。

牧師はテモテの信徒への手紙1章15節を語ります。
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

この言葉はパウロの信仰です。信仰は証明するためにあるのではなく、自身が信じるために存在します。
アブラハムも神の言葉の審議を立証できたからではなくそう信じたからこそ神の命に従ったのでしょう。
それゆえ義、つまりは神の目に正しいと認められたのだと思います。
人の目から見て正しい事ばかりしたのではなく、神を信じたということで神の目のベースでOKされたのです。

過日、小林麻央さんが逝去されました。子どもが小さいのに、とか、まだお若いのに、と言う哀悼の意の言葉も聞きます。
Histry(歴史)はHis+Story=彼の物語だといいます。二重予定説、既に神は歴史と言う大舞台の台本をすべて書かれているという意味です。
神の脚本で言う小林麻央さんの役柄は、その若くしての冒されたがんとの闘いを通して僕らに勇気を与えるという役だったのかもしれません。
それは、彼女やその祖先の業とかなにかではなく、与えられた神の役です。
僕らは歴史と言う大舞台をその役を演じるにすぎません。神の与えてくれた役を十分に演じること。それは「あるのまま」つまりは自分らしく、無理のない人生を過ごすことです。
ありのままで歴史の舞台の主人公を演じて神の義を得たいものです。

神の恵みと憐れみよって

2017年6月25日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 4章1-8節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、 幸いである。主から罪があると見なされない人は、 幸いである。」


パウロは、旧約のアブラハムとかダビデを例題として信仰義認を説きます。
しかし、ではアブラハムも何もしないで尊敬を受けたのか? ダビデはユダヤ一の王と言われたのは何も行動がなかったからなのか?と言えばそうではないでしょう。
神の戒めと教えによって故郷を離れカナの地に移動をする決意と行動。神の命によって一人息子のイサクをささげようとした実行力。そうした行動を民衆は称賛したのでしょう。ダビデも然りです。

信仰義認。この言葉の対語は、行為義認、つまり何かの行動によって救いの結果が変わるという考え方。言い換えれば、中世の免罪符や厄除け壺など、行為が行為で無くなり金に変わっていくことが救いの道であるという、言い換えれば宗教団体が金もうけの手段になる形式、やはり危険な考え方に導かれる可能性は高いです。

また、その行為のみを民衆は褒め称えたのでしょうか? 民衆の称賛はどんな無茶ぶりに見える神の命令にもひるむことなく従ったアブラハムの行動です。ただの行動ではなく、その行動は神を信じることに裏付けがあったからだと思います。

でも、信仰義認も何も問題はないか?と言えば、日々の生活とかけ離れたことでも救われると信仰をする必然性に疑問を持つ人も増えるでしょう。
信仰義認は何もしなくていい、ただ祈ることだけではないような気がします。そこにはやはり行動が伴います。悔い改めて生きよ、と言われた言葉。それは言い換えればイエスのみあとを歩めです。

信仰義認=行動を伴わない救い や カルヴァンの二重予定説=すでに人の生まれる前からその人の救いは決められている、であったとしても神に従いたい。聖書の御言葉に従いたい、と言うのが僕らの真情でしょう。
特にプロテスタントはそうなのかもしれません。ゆえに、カトリックではサクラメントである懺悔も告解もしません。でも聖書はイエスがどう歩んだかを教えてくれます。


信仰義認が信仰義認であるのは、イエスのみあとを歩みたいが、様々な躓きで歩けなくても、大丈夫だよ、歩こうとしたじゃないか、神に従おうとしたじゃないか、私のみを信じてより頼んで生きてくれたね、と神は言ってくれるという意味だと思います。
神は出来ない僕ら、罪ある僕らを義としてくれるということです。それには向かい合うこと、神を信じてみあとを歩こうとすることが大事だと思うのです。

聖書と歎異抄

18日の日曜は、主日礼拝に先駆け御濠端幼稚園の子どもたちと一緒に礼拝を守り、午後は前述のブラサイジョーを楽しみ、夕べからイサンタシャワーの時を過ごしました。
イサンタシャワー、祈りと賛美と食べ物とおしゃべりと笑いの時の頭文字。テゼの祈りと賛美の後は夕餉を楽しみながらのおしゃべり。
でも得てして僕が入ると論議になる場合が多いです(^_^;)
この日は、中田牧師は隣町の教会での説教奉仕。聖書の箇所はルカによる福音書16章19~31節「金持ちとラザロ」のお話。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


神様の御心は勧善懲悪ではない。そもそもすべての人は罪を犯している中、「人の目」であいつの罪は許されるレベルだけれど、こっちの彼は許されない、が有効ならば、神の裁きはいらない。その「人の目」は神を越えたものになるだろうけれど、でもその「人の目」の持ち主も罪を犯している。目くそ鼻くそを笑う、の喩の如しでそれは決して真理ではない。偏ったジャッジメントだ。
神の目で言えば、すべての人は罪を犯している、義人なし!だから、全員天にあげるか陰府に落とすかなのでしょう。そしてイエスを遣わし、天にあげることを明言してくれた、と言うのがキリスト教信仰。神はすべての人の救済のためにいる、というキリスト教の解釈であれば、どんな悪道非道な人でも神は救い給うわけだ。

中田牧師はイサンタシャワーの中の雑談の中で、説教に少しだけ触れ、ラザロは間違いを犯さない善人だったとも書いていないし、金持ちもお金をもっていただけで悪行で金を貯めたかどうかも分からずもしかしたら善意の人だったかもしれない(まぁ施しをしなさいというイエスのお勧めには反していますけれど^_^;)、と言われ、確かにその通りで、この聖書の箇所が言わんとすることがわからなくなったのが論議の始まりでした。

今まで歴代の牧師の言われることからも、僕らが神のなさることにどうこう言える立場ではない事であることは知りながらも、どうしてもこのたとえ話をはじめとするルカのたとえ話は、今僕らが牧師から聞く話、つまり神共にいます、帰依すれば救われることとニュアンスが違うように思えます。
明らかに信徒を増やすために、社会の道徳倫理観を生むように、神はこう望んでいます、的な書き方をしているように思えてなりません。善人であれば天国に行ける、時代を経て免罪符で罪をゆるしてくれる思想を作り出しているような感がしてなりません。
なぜ、ラザロも金持ちも天に行かせなかったのか?は甚だ疑問があります(いや、神にではないです。だってルカだってたとえ話で金持ちが陰府に落とされるのを見ているわけじゃあなく)彼の信仰解釈がこの喩を生み出したのですから。
マルコ等の福音書が魂の叫びを一気に描いたのだとしたらルカの福音書は目的を持って練って書かれたものでしょう。
だから教会に行き始めたころはルカによる福音書が大好きでした。訳の分からない系図から書き始められても何の感動もない中、理路整然とイエスを語るルカは感動をくれました。
でも最近になっては変に鼻につくというか、素朴でも喜怒哀楽が文章から滲み出すほかの福音書に目が行ってしまいます。計算した上で書かれた作品のように思ってしまうのです。
でもそれを悪いとは思っていません、好き嫌いを別として彼なりの宣教の言葉なんです。たとえばこのBlogだって好き嫌いはあるでしょうし、中には楽しみにしてくれる人がいるとすれば書く意味、伝える意義は存在します。そしてもしルカによる福音書が無かったら青年期の僕はクリスチャンになったか?は疑問です。あの時は、正しく生きることを喜びとしたくて聖書を読んでいましたから。


さて、善人往生をとぐいわんや悪人をや 宗教は違えども大好きな言葉。
十字軍と言うおかしな方向に進んでしまったヨーロッパキリスト教。でもシルクロードを経てその崇高な教えは東にも届いていたのでしょう、13世紀後半ヨーロッパで不毛な戦いを繰り広げている中、人の生まれつきの能力や努力ではなくただ神にのみ祈ること、帰依することで救われるというイエスの本当に言いたかったことが、仏教を学ぶ僧によって咀嚼され凝縮されたのではないでしょうか。それが先の歎異抄の一節なのではないかと勝手に思っています。
僕にすればルカの福音書よりも『そのままのあなたを愛している』イエスを通じて語る神の言葉が明確な感がしてます。

20170620-01

で、買っちゃいました(^_^)/
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