不条理を乗り越えて

2018年2月18日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書 創世記22章1-18節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」



この箇所を読むとき、アブラハムの偉大さなのか、はたまた僕の読み取れない何かがあるのか、はわかりませんが、僕には到底考えのつかない信仰心の強い方だとは常々思っていました。
当時のユダヤ教の信者は、神の祝福=財産(家畜)と子孫の繁栄だったようです。だとしたら高齢になるまで子どもに恵まれず、その後神の恵みによって子どもを授かった(つまり今後はもう子どもは授からないことはほぼ決定的=イサクを逃せばは神の祝福のない一族ななるわけで…)
その時に、わが子を差し出せ、と言われたら、その言った神=自分の信仰している神が、自分に与えてくれた祝福を取り上げてしまう訳で、祝福を与えてくれない神なら信仰しないと僕なら「ケツをまくる」だろうと思ってしまいます。
自分たち一族の祝福を奪い取るのならなんで従わなきゃいけないんだ、僕ならそう思っちゃうわけです。

「神を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」その2つを守れば、何も要求しない、そのままのあなたを愛します、と言う神様のメッセージに癒されて信仰生活を続けている者にとって、例えば僕の実力以上の清貧さを求め、何よりも教会の奉仕最優先で、献金は名目収入の十分の一をささげよと言われ、受難の時は断食をし…それをしなければ祝福がないと言われたのなら、遠の昔に教会に行かなかったことでしょう。
こんな自分をも祝福してくださる神、いつも共にいてくれる神、重荷を共に負ってくださる神、だからこそ僕にとって信仰と言うのはある訳です。
「お金持ちになりますように」とか「良い学校に行けますように」と言った俗社会の業を祈るご利益宗教ではないですが、それでも神共に居る要求を神には望んでいます。
しかし、アブラハムは、そんな祝福すら失うのに神を信じた、と言うのは、やはり僕には理解しづらい一面があります。

同時に、神と言う僕らがどう逆立ちしても対等化できない力が理不尽な突然の要求にしたとしたらどうするのでしょうか?
同じく旧約聖書にヨナ書があります。神の命に逆らったヨナはニネベと逆さまの方角のタルシュシュに行きますが、その舟をナンパさせてもヨナを納得させニネベに行かせる力が神にはあります。
アブラハムが神に遜ろうが離れようが、イサクやアブラハムに与えた祝福をどうする力も神にはあるのですから、アブラハムの下した決断のように神に従うほかにはなかったのでしょう。
理不尽だ、と思いながらも断腸の思いでイサクを幕屋より連れ出したのだと思います。

納得のいかない死はたくさんあります。東日本大震災でもごく普通に生活をしていた罪なき人が津波に巻き込まれお亡くなりになった時、残された家族はなぜあの人が…、と思ったことでしょう。
亡くなった人の追悼よりも生き残った自分に罪の意識を持ってしまう人も多かったと聞いています。生き残った人とお亡くなりになった人の間に差異は感じられないのですからもっともなことだと思います。
アブラハムも最後の最後まで「何故わが子?」というその思いを持ったままだったでしょう。
しかし、それは神をも同じだったのではないでしょうか?

京与えられた聖書の中に
あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。

まさに神の御使いがアブラハムに言ったこの言葉は、イエスの十字架でもあります。
神ご自身でさえその独り子を十字架につけられました。
痛みを知らない神が、ではなく、痛みを知った神ゆえに、僕らの周囲の理不尽な出来事を見られているのでしょう。

この正月に日本キリスト教団小田原教会での研修会で、同じ出来事でも、納得できなければそこに不満が生じ、受け入れて納得すればそれは感謝になる、という意見に納得したのですが、まさにアブラハムは避けられない不条理を乗り越えるために神に委ねたのでしょう。
心を落ち着かせ神に祈り神の愛を信じることで理不尽な出来事を乗り越える力が備わるのかもしれません。

御前に行き

2018年2月11日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 1章29-39節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。このBlogは説教の要約ではなく、聞いた説教がヒントになり思考が飛躍したり、説教を私が咀嚼したものです。)

すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。

朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。



上記の聖書の御言葉が与えられる前段、コリントの信徒の手紙Ⅰ9:16-23の箇所を交読しまして、清水牧師はその交読の所からまずメッセージをされました。


もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。
では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。


そして、福音のためなら自分の権利を行使しない、と言うパウロの言葉、福音は務めであり、私がこの世でどうしてもしなければならないことだと語ります。
権利より使命(ミッション)に生きるパウロの心意気を読み取ったうえで、マルコによる福音書に戻ります。

今日与えられた聖書の箇所(その前の21節から)はとあるイエスの一日のようだ、と語られます。
土曜(安息日)イエスは会堂に入り、教え始め、反発する悪霊を追い出した。
そして、シモンペテロの家に行き、しゅうとめを熱病を治した。
日が暮れて(つまり日にちが変わり)安息日が終わると次々と病人がやってきてたぶん深夜になるまで手当をしたことでしょう。
朝早く暗いうちに起き出して一人祈り、病の人の多い別の村に行くと宣言する。

この姿は、僕ら人間の甘えや業、自己愛の塊ではできないほどの使命感で、パウロはこうしたイエスの聞きざまを見て、自分もそして自分から影響を受けているコリントの仲間たちも倣いたいとコリントⅠ9:16-23の手紙を書いたのでしょう。

清水牧師はその原動力は祈りだった、と語ります。疲れていてもまだ日の昇る前に神の前に額ずき1対1で祈る、そこにパワーの源があったというのです。

昔TVのドキュメンタリーで、ボランティアの人たちが取り上げられていました。「何故、あなたがたは無報酬でこんなことをしているのですか?」と言う問いに、その人たちは「無報酬?僕らはきちんと報酬をもらっているよ。笑顔と言う報酬を」と語っていましたが、このやり取りは、問う番組スタッフは報酬=マネーと言う観念があったのでしょう。それに対してボランティアの人は、報酬=生き甲斐(やりがい)があったからのやり取りのように思えます。

人生とは何か?と言う哲学的な質問に、なんて答えるでしょうか?
人生の良し悪しの尺度とは、死に直面した時、「ああいい人生だった」と思える事だと僕は思い、どうすれば「いい」と言えるかは人それぞれで、でもそれはお金だけでも権力だけでもないように思えるのです。
究極から言えば、それは人を作った神が、こうすれば一番満足感が得られると組み込んだ「もの」に一番近い生き方が「良い人生」になるのではないでしょうか?

僕らは生まれる前と死んだ後の事を科学的に証明することもできず、それどころか生まれる日や場所、死ぬ日や場所も自分では決められません。神と言う言葉に抵抗がある人でも、人智では到底考えられない大きな力がすべてを支配していることは否定できないでしょう。
その大きな力が「人間」を作る時に、遺伝子の中に「良い人生のHowTo」を組み込んだなら、僕らは四の五言わずにそのいい人生を素直に受け入れることが満足できる一生を過ごせるのではないでしょうか?

それは福音を自分の権利の上位に置くことです。権利を主張する前に、福音に従うことなのでしょう。

しがらみを捨てると楽になる

昨日読んだ本のタイトルが頭の中に残っているときに名護市長選。
結果は公明党が自主投票ではなく、自民に歩調を合わせかかわったことも大きく響き、基地反対を公約とした現職が敗れた。
それに対して産経新聞が2018.2.8 12:49にインターネットニュースで以下のように報じた。

菅義偉官房長官は8日午前の記者会見で、東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者が、沖縄県名護市長選で米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古への移設を進める安倍晋三政権が支援した新人が当選した結果を疑問視したことに対し「選挙は結果がすべてではないか。相手候補は必死に(辺野古沖の)埋め立て阻止を訴えたのではないか。住民が選ぶのが民主主義の原点だ」と述べた。
 望月記者は「(移設)反対の市民や県民の意向が全く政府には顧みられなかった。どうせ埋め立て工事が進むならどのみちしようがない、結果として消極的ではあるが、目の前の生活を豊かにしてほしいという思いで投票したという声が、報道でも出ていた」と述べた。その上で「これまで県民や市民に寄り添った判断が行われていなかったのでは、というのが選挙結果をみても感じられる」と主張した。


しがらみの最たるものは、「生きる」こと「生活する」ことに密着したもので、自治会や会社、そして宗教を信じている者にとっては宗教なのかもしれない。
それでも公明党=平和の党と信じている創価学会信者の方は、そのしがらみを取っ払っても、改憲反対や基地反対を訴えているが、その数は総体とすればごくわずか。
信仰は「生きる」中でとても大切なこと。とくに科学での立証でない心の問題、粛々と継続した宗教においては、教えを乞う上層部の意見やお仲間の顔色には異議をなかなか申しにくいのだろうけれど、そもそも信仰の対象は誰かと言えば、今の指導者ではなくもっと上(神仏)であるのは、創価学会もキリスト教も同じはずだ。
信徒同志がしがらみでの交わりなのか? 自由な論議は出来るのか? 顔色を気にしすぎてはいないか?
実は他人ごとではないのかもしれない。人の振り見て我が振り直せ、(内部が)平穏な時こそしっかり心にとめなければいけないのだろう。
キリスト教会も第二次世界大戦時には同じことをした教派がたくさんあった。そしてそれは今もって懺悔し、反省を込めて礼拝の中で唱和することをする教会もたくさんある。
しかし、「和をもって貴しなす」故の同調圧力的なしがらみも存在し、有事の際には「(存続や教勢拡大のためには)しかたない」という風潮がいまだあるような気がするのは僕の杞憂か? 他人の行為が気になった時こそがわが身を振り返る時。

権威ある新しい教え

2018年2月4日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 1章21-28節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。このBlogは説教の要約ではなく、聞いた説教がヒントになり思考が飛躍したり、説教を私が咀嚼したものです。)


一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。



律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。と言う御言葉が書かれています。
政治家や学者の中には、難しい言葉を並べたり、あえて英語や他国語の単語を使い惑わすようなスピーチをする人がいます。たぶんこの時代の律法学者もトーラやタルムードを諳んじ、聞いている民衆はなんだかわからないが『ありがたい』とわからないことに感謝をする、そんな関係だったのでしょう。そこに現れたイエスは、無学なものでもわかる易しい言葉で物事を伝えたのではないかと思うのです。
聖書の中でイエスは何度も「律法は間違っていない」ことを語っています。つまりこの対比の権威あるもののようなイエスの語りとなんだかわからない律法学者の教えは、同じことを語っているけれど難度の違う相似形のようなものだったのではないでしょうか?
そしてなんだかわからないがありがたいものとして聞くよりも、実際自分が咀嚼できる話の方が、聞いていて楽しい事も確かです。
神の言葉を律法学者も語ったのかもしれないですが、それは残念ながら民衆には伝わっていなかった。そして、イエスの伝える神の話は民衆の心に響いたものだったのでしょう。

今の時代もそうではないでしょうか?
聖書の教えは素晴らしいよ、と言っても、殻がありそのまま受け入れられなくてどこかで宗教をリフレクトしていれば、それはまるで律法学者のようではないかと思うのです。
それよりも、話す相手の望んでいること、例えば悩みとかに対して、聖書はこういう風に言っていると語り、それが心に響く方が的確なアドバイスになると思うのです。その人にあった言葉、最適な表現で伝える事。
人は残念ながら対岸の火事にはなかなか真剣になれないものですが、火の粉がかかれば慌てて消します。
そしてそれは何も宗教だけではないのです。それが今日の「権威ある教え」ではないかと思います。

清水牧師は、今日の説教の重要なポイントの一つに21節『会堂に入って』28節『広がった』をあげました。イエスの行動です。
RFL(リレーフォーライフ)も一緒です。会場に行って、感動したからこそ他人を誘いたくなるものです。行動があります。
「何か」に誘われてRFLの会場に行った。そこで「一緒に頑張ろうね」と励まし合って勇気づけられ、もう少し科学的に言えば免疫力が上がり、闘病に効果が出た。

さて、今日の話は、悪霊の話でした。様々な外部からの情報が僕らに飛び込んでくるので、どうしても悪霊と言うと、意志のある固体化はしていないが姿あるものを映画などから受け取り、物体(個体)として考えますが、泥棒が頬被りして唐草の風呂敷を背負って(喩えが古いか)、エー泥棒でござい、と歩いている訳もなく、悪霊だって憑りつく隙を狙っているわけですから、心の隙が出来るような相手として登場するのでしょう。
信頼していた人に裏切られた。まさかあの人がこんな人だとは思わなかった。そうした隙間に飛び込める行為を「悪」と呼び、悪霊の仕事は「神から遠ざける」ことでしょう。
そんな悪霊だから、神の権威と一番遠くに居て敏感に感じる訳で、Powerがショートして逃げ出すわけです。そうして逃げ出した悪霊を神の権威を広げることで追い払っていくことがイエスの仕事となる訳です。
何かわからないがありがたい、とのほほんとしていた民衆には、その大きなPowerのショートはわからなかったのかもしれません。

もう一度、RFLの話に戻しましょう。がん患者の周囲に「悪霊」はいるか?と問われて僕が「Yes」と答えるとRFLの友人たちは、エクソシストなどの映画を思い浮かべて引いてしまうかもしれません。
でも、そんなわかりやすいものではないことは上記で話した通りで、「悪霊」とはふっと心の隙間に入ってくる形のないもので、弱気になったり、治らないんじゃないかとあきらめたり、もう病と闘うのは辛いという疲れなどがそうだと思うのです。

21世紀に生きる僕らは、イエスの時代とは科学の知識は違いますから、同じような悪霊退治は無用かもしれません。ですからイエスは、律法学者と違い神の権威で話されるのです。
神の名によってよくなりますように、とクリスチャンでない人に語る事よりも、「来年も一緒に歩こうね」と言った方が励みになることは、僕の中での相似です。でも聞く側にしてみれば、まさに律法学者の教えと権威あるものの教えのように明らかな差がある訳です。「一緒に頑張って闘病して来年も歩こうね」と言う勇気付の言葉によって退散するのです。
RFLだけではありません。
野宿を余儀なくしている方にも、「一人じゃないよ」「何かあったら駆けつけるから」という安心感が、心の隙に入り込もうとした悪霊を吹き飛ばしますし、いじめの問題も然りです。沖縄の基地問題を遠くこの地から連帯するというのも同じ気持ちです。
悪霊は僕らの思いとは違った形かも知れませんし、悪霊という言い方はちょっとなぁ、と思われるかもしれませんが、弱気に付け込まれる(魔がさす)ことは誰の上にもあることですから、それとの闘いは権威ある教えをもって隣人とつながったイエスのみあとを歩むこと言うことを今日の説教からそんなことを考えました。

イエスに従う

2018年1月28日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、マルコによる福音書 1章14-20節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。このBlogは説教の要約ではなく、聞いた説教がヒントになり思考が飛躍したり、説教を私が咀嚼したものです。)


ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。



松田教会の礼拝は下記の式次第に則り進みます。

20180128-01

清水牧師は説教に先立ち交読した聖書のコリントの一節から話し始められました。ここには使徒パウロが切迫した状況だと伝えています。待ったなしに「時」が来るから準備をしておけと言います。「時」が来たとき、こんなつもりじゃなかったという後悔の思いにならないように、この世の楽しみなんか所詮朽ちるもの、朽ちない神を信じることを覚えておくことを薦めているわけです。

そんなお話から入り、説教は今日与えられた御言葉へと続きます。
イエスは時は満ち、神の国は近づいた、と語る訳です。時は満ちと言うのはヨハネの逮捕(のちの斬首)であり、神の側から言えば次のステップに行ったことを示し、イエスが宣教の担い手になったことをいう訳でしょう。
そして、ともに宣教する仲間を集めるために、悔い改めよ=今までの生き方を変革せよ、と言い、福音=イエスの言葉を信じよというのです。

コリントの言葉、そしてマルコ福音書ともに、テレビCMではないですが、「いつやるの?今でしょ!」を伝える訳です。CMの受験勉強も教会の教える人生も、「時」がある訳です。
清水牧師は、駅について電車に乗ろうとする時、電車がそろそろ来るかな?と時計を気にし、そして滑り込んでくる電車が泊まる時幾何かの緊張があると言います。乗り損なうことはないと分かっても、やはり電車の中に入ってからの安堵感とは違う緊張があるというのです。
教会に足を運ぶこと、聖書の生き方に従うこと、「今」だと言われても、なかなか一歩が踏み出せないのは、まさに電車に乗る緊張感と似ているのかもしれません。
毎週の礼拝に慣れるとそれは電車に乗って座席に座ったほっとした安堵感と一緒でなんで緊張したのだろうと思うかもしれませんが、それは事後だからの感想。
がんの闘病も同じで、連れが発症した時は僕はパニックに近いものになり、とにかく手あたり次第有益な状況になりましたが、寛解した今、どなたから相談をされれば自分の事を棚に上げて「大丈夫、落ち着いて」と言うでしょう。
受験も大学入学した人が後輩に心構えを伝えれば、ベストを尽くしてあとは冷静に体調を整えて、と言うのかもしれません。

でも電車に乗る瞬間、教会に行こうと思った瞬間、がんであることを知った瞬間は、いずれも緊張の中に居ます。それは聖書の中にそうであることを良しとすると書かれているので僕もパニックになったことは間違いでない事を悟っているわけです。
受験生も1か月前あたりでは「どうしよう、どうしよう。間に合わない」と思うのではないでしょうか?

瞬時に決断を迫られています。僕らも、そして漁師のシモンらも・・・。「今」なんです。それが分かっているから緊張してしまうのです。
そしてシモンらは、家族を捨ててイエスに従います。捨てたと言っても縁を切った訳ではないのは、この後29-31節を読むとシモンの家に行く訳です。そこで病を癒し家族からもてなしを受けます。
離別しなければならないことがあったとしても、致し方ない離別であることをシモン側も家族側も重々理解していれば関係は切れない訳で、明治期移行の海外の移住を想像すればいいのかもしれません。
シモンらが家を捨ててまでついて行ったことには詳しく書かれてはいません。ただイエスが言葉を発しその言葉に従った人がいたという事実のみが書かれています。

何故、ガリラヤ湖だったのでしょう? なぜシモンだったのでしょう? 清水牧師は僕らにそう問われました。
エルサレムのような大都市ではなく、片田舎のガリラヤ湖畔で、ごく普通の生活をしていたシモンら。それは、日本の中で神奈川県の片すみの松田町でごく普通な生活をしている僕らと何の変りもないわけだと語ります。
悔い改めは「今でしょう!?」と言われた言葉を信じ(福音)に従った先人に従うことは同じ片田舎のごく普通の僕らもできることでしょう。

主よ、お話しください

2018年1月21日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、旧約聖書第1サムエル記 3章1-10節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、説教の要約ではありません)

少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。
ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。
主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」


初めて伺った他教団の礼拝の讃美歌(聖歌)に戸惑いながらも、10余人ほどの小さな一群れでの礼拝を守ってきました。
清水牧師の語りは、今まで出会った日本キリスト教団の牧師各位のように「説教の原稿」を使って語るのではなく、フランクにおしゃべりを楽しむかのような語り口でした。それがパーソナルによるものなのか?教団の違いなのかは分かりませんが・・・。

年老いたエリが人柄と年の功での行き届いた配慮、そしてそこに仕える少年サムエルの純朴さ。そしてクリスチャンにはあまりにも有名な「しもべは聞いております。」と言う言葉に、信仰者の心温まるハッピーな話のように見えますが、そうではないと語ります。
今日与えられた御言葉のすぐ後の11節 主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。」 と言う言葉、つまり耳を覆いたくなるような神の行動の預言である訳です。
神の裁きの最終通告をサムエルに告げるというのです。

そもそもの時代背景は、モーセのエジプト脱出に遡り、神の啓示された密の流れると言われたカナの地にユダヤの民が落ち着くところから始まります。
しかしそこには既に他民族が生活しており、そこに侵入するわけですから諍いが生じます。ヨシュア記以降他民族との習合と反発のなかで士師と呼ばれる宗教的指導者は民をまとめきれずにいる中、ペリシテ人の侵入を許し、民衆は政治の貧困に反発して堕落している最中、神は裁きの鉄槌を下すというのです。

神の導きは、強い力を示しての直接リーダーシップではないのです。預言者に伝言し、その声から悔い改めることを求めます。
しかし新約の中で「偽の預言者に気をつけろ」とも書かれています。
私たちは何が正しい啓示なのかを判断しなければならないことも確かです。

神に模して造られた人故に、だれにも神の啓示はあるのではないでしょうか? これどう考えてもおかしいよね?と言うことは、得てして神の目(真理)においてもおかしい事が多いと清水牧師は語られましたが、『自分と同じように隣人を愛しなさい』と言う御言葉に従って祈り、冷静に考えておかしいと言うことは神の目においてもおかしい事ではなのか、と僕も思うのです。で、そうでないとき後日冷静に考えると、『相手のことを思って』と言いながらも自己中心に押し付けたり、決して自身のように隣人を愛していないことが多い訳で、神の平等の愛をよくよく祈りながら自分の意見をまとめることの大切さも感じております。
そして神はサムエルのごく日常の一瞬に語りかけました。特別な日、前に予告があった時ではない、ごく普通の生活の中にサムエルに語りかけます。
そしてサムエルは語られたことを正直にすべてエリに語り、エリはそのすべてを神の御心と受け止めます。

人生において善きことも悪しきことも自身の上におこります。しかし、そこで信仰の有る無しは大きく差が生じると言うのは、正月に教団小田原教会で行われた研修会の中で、僕の属した分科会で語られたことです。
神の啓示を感謝して受け入れられる人とその理不尽かも知れない出来事が受け入れられない人はそれが不平不満になります。
ノンクリスチャンの人がクリスチャンになる事は僕はお仲間が増えることでもあり嬉しい事ですが、神の目で一番うれしいのはすべてが神の恵みであり喜んで受け入れ神に委ねて感謝して生きれる人だと思います。それが死の床についた時 良い人生だったと思えることで、実は人としてもいい一生を送れた、ということではないでしょうか?
ごく普通の日々の中で神の御言葉が与えられていることを注意しながら思慮深くいきたいものです。そしてその預言がたとえ自分にとって厳しい言葉でも委ねて感謝の中笑顔で生きたいものです。

決断(独り言)

例えばパイプオルガンの奏楽をもって神を賛美したいと望んでいる人はパイプオルガンのある教会に行くと思います。
もしその人をよく知っている方が「なぜうちの教会に来ないの?」と言っても、その方の教会にパイプオルガンがなければ致し方なく、そこには物理的な不可能があるわけです。
別の視点で言えば、いいか悪いかは論争の余地がありますが、好きか嫌いかは論争の余地はありません。

賛美の仕方は神に委ねただ礼拝に行けば良いという考えもあるでしょうし、こだわりを持って礼拝をしたい人もいるでしょう。
すべてを空にしてただ神への賛美も一つ。でも、神のみ言葉を広げる宣教も賛美。
相手の思いが理にかなっていると理解したうえで、相いれないときもあるものです。
相手をリスペクトしていればこそ、聖書の『隣人を自分のように愛せ』の言葉通り(裏読み)、自分の信念を曲げる妥協はいけないでしょう。相手が遠慮して意を曲げることを望んでもいけないでしょう。
それでも解決策は探せばあるはずです。

いや、探したから見つかったのか?すでに僕が探す前から実は答えがあったのかもしれません。
預言者ヨナはなぜタルシュシュ行きの船に乗ったのか? は、ここ1、2週間よく考えたこと。
もっと言えば、神はタルシュシュに行くことを想定してヨナにニネベに行け、と命じたのではないか? いや、神こそがタルシュシュ行きの船に乗る計画をなされた方ではないか!? もしそうならばなぜなのか?
順風満帆にニネベに行って預言を伝えることよりも神の力を知ること、神の計画こそがすべてであることをまずさせたのかもしれない。

そういう意味では、賛美と宣教の方法を考え、他教会に行こうと思ったのも、神が新しい世界を僕に見せようとした故かもしれません。
もう一つは人間の目線で…。人生は一度と言います、迷ったら祈りの中に神の導きがあることを信じ、決断をしたらあとは悔いのないように(^^♪
後ろ髪をひかれながらも新しい出会いに喜びも感じます。すべては神様のみ心の通りになりますように。
もし僕の行動がタルシュシュ行きの船への乗船ならば、道を正してくださいますように。

従順になる

2018年1月14日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 1章46-56節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。


礼拝の説教を聞いた話を書く時、書き易い説教と書き難い説教の2つに分かれる。それはBlogに書くこと自身が大げさに言えば宣教であり、かみ砕いて言えばクリスチャンでない人も神様に愛されていることを伝えようとしているからで、言い方を変えれば説教は「そのままのあなたを愛している」と言う内容に締めくくれるのとそうでない締めくくり方に終わるのと2種類あり、前者は書き易く後者は書き難い。説教の内容とは全く関係なく、読まれたノンクリスチャンの方へどう伝えようか? の僕の伝えたい事を書き易いかどうかなのです。

今日の説教は全く短い御言葉で、聖書を読んだことのない人には何の事かもわからない文章でしょう。クリスチャンとしての生き方を得ることは易くても、いわば書き難い部類のお話でした。
そこから少し語らせてもらえば、イエスは誰にも洗礼を授けるシーンは聖書にないですが、ご自身はバブテスマのヨハネから洗礼を受けられました。
この聖書の直前には

荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。』」そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」


他の福音書には、イエスとバブテスマのヨハネの問答のシーンが載っていますが、このマルコによる福音書はそうしたことが省略されています。
たんたんと大勢の青年に混じって自分の順番を待ち、ヨルダン川に浸かり洗礼を受けた青年の一人としてのイエスが描かれています。

教会においての洗礼は、水をくぐるという地上哺乳類の人間として呼吸ができない場所を通過する、つまりは呼吸=命がない状態への移行を通じて新しい命への生まれ変わりを意味している洗礼。

イエスはその直後、天からの祝福があった、と書かれているわけです。
これからは神の命に従って歩め、という意思表示の洗礼と「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声。
心に適う者と言う言葉は、神の御言葉に真摯に従う者と言うことでしょう。
同時に「天が裂けた」と言う表現を使っています。マルコはもう一度同じような表現を使っていますが、それは十字架の死の瞬間です。
つまりは、神に従って生きようと洗礼を受け神に御心に適った者と言われた瞬間からイエスの生涯は決定したのでしょう。

そして神の御心とは、『神を愛し隣人に仕え、神に仕え隣人を愛す』、生き方でありイエスは実直にその生き方を実践しました。あまりの実直さに社会の差別や他人からのむさぼりをしていたものから疎まれる結果となったのですが、神はそうした行き方を薦めたのでしょう。
今日の説教のタイトル「従順になる」生き方の出発点です。

キリスト教信徒になる、ことは、決してバラ色の人生を送れる担保ではありません。人の目にとってのバラ色は、ある人は大金持ちであったり、ある人は長生きであったり、ある人は権力の誇示であったりします。
残念ながらクリスチャンになったとしてもこうしたものは手に入りませんし、どの教会に行っても『キリスト教はご利益宗教ではない』と言われるでしょう。お金も寿命も権力も教会では増やしてくれません。
それは神がイエスに、そして洗礼者に求めたもの。逆さまに言えば、僕らが受洗するということは、神の御心に従って生きることの意思表示だからです。
再度書けば、その御心は『神を愛し隣人に仕え、神に仕え隣人を愛す』です。

先週小田原教会では研修会がありました。「祈り」について研修しました。
その中で、クリスチャンになってもならなくても神の定めた道は同じだ、と言う発言がありました。そしてただ違うのは、クリスチャンとして神の定めた道を歩むとき、つまりは「絶対的」な神に委ねた人生ならばそこに「感謝」が生まれ、そうでないとなぜ私がこんな目にあうの?と言う「不平」がある、と言う話がでました。

受洗をする、自分と同じように隣人を愛す、と言う枷(かせ)を負う訳です。些細な事でも見て見ぬふりをした時心にとげが引っかかります。
それがイエスのみあとを歩くということで、ある意味身勝手が蔓延する現代社会の中では「負」の生き方です。「重荷」を負う生き方です。
でも、神はイエスを通じてそうした生き方を示され、そのイエスに私の心に適った者と言わしめました。
そして何よりも自らの意に適った者にいつも伴ってくださることにただ希望と感謝を以て生きられる喜びが読まれた方にもあれば幸いです。

救い主なる神を讃えよ

2017年12月24日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ルカによる福音書 1章46-56節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、 わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、 主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、 思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、 身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、 富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、 憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、 アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。



クリスマスおめでとうございます。

唐突な書き始めですが、礼拝が終わり、炊き出しをした帰り炊き出しの仲間とおしゃべりをしました。社会問題に関心のある仲間ですので、どうしても内容はそっちになりますが、僕が野宿の問題にかかわっているのは、自分が野宿を余儀なくする姿も想像できる、一歩間違えればそうなってもおかしくないという彼らの困窮がシンクロできるからで、この問題が唯一無二も社会問題ではなく、もっと大きないじめや自死の原因というものもある訳です。
でも幸いな事に自ら命を絶とうと思うほど大きな苦しみにぶつかったこともなく、それ故に本当に苦しんでいる人と対面してもどこまで理解して心がシンクロできるかはまったく自信のないところです。そうなったことが想像できないので、励ましの言葉が相手に伝わる自身が持てないからです。
つまり、自分がシンクロできることが大事だと思います。この日、長井牧師が語られた言葉も、万人向けにお話しされたはずですが、僕の中にはがんに苦しんだ経験のある仲間に語りかけているように聞こえたのです。
それは一時でも家族とその不安の時を過ごし、それがきっかけで多くの不安を持ったことのある仲間とお交わりをしたからの事だと思います。
イエスキリストの誕生と言うのは、僕はそういう意味では手前勝手な聞こえ方でもいいのかな、と思います。「(ピンポイントの)あなたのため」「あなたの苦しみを担うがために」に主イエスは生まれたのです。

さて、そんなことを礼拝中に思った訳ですが、長井牧師はマリアの心情を解釈されます。
「未知との遭遇」は戸惑いと恐れがある訳です。がんと言う病気がまさにそうでした。
マリアだって神の存在を信じ、旧約の話を聞き、アブラハムとサラのこの話も聞いたことがあったでしょう。もう子どもの生める年齢ではないサラが神の力で子どもを生む話を知っていたとしても、それが自らの身に降りかかってくれば全く違う話になります。
連れ合いががんになる、というのは、見ず知らずの人ががんになるのとはやはり全然違ったことでした。がんと言う病気を知っているという他人事ではなくなったのです。降りかかったことで、「未知と遭遇」したのです。
戸惑いましたし恐れました。
そんな時にどうしたか?と言えば、僕はインターネットに救いを求めたのです。医者ではなかったのです。(本人の連れ合いは医者が一番の相談相手でした) インターネット上にいる同じような境遇の先輩たちの闘病に励まされ、また逝去の知らせに友に落ち込みました。
マリアだって、僕が医者ではなく素人の「仲間」のBlogを読み漁ったように、天使の言葉だけで不安はなくなったのでしょうか?恐れが消えたのでしょうか?

長井牧師はエリザベトの存在について語られました。
今日の御言葉の直前です。

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」


ちなみにエリザベトの胎の子はのちのバブテスマのヨハネ、イエスに洗礼を授けた人です。そしてサロメによって首をはねられてしまう人です。
医者の大丈夫と言う言葉もさながら、仲間の一緒に頑張ろうと言う励ましの言葉は、僕にとって大きな癒しの言葉でした。
マリアもそうではなかったのではないでしょうか?同じ聖霊に満たされたという同性の先輩の存在は大きかったのでしょう。
そしてマリアは一歩踏み出せます。

宗教とは、ただ神と自分の間だけのものではない。そこには他者もいるのです。その他者もあなたを愛して励まして勇気づけてくれています。
クリスマスの出来事は、「わたし」を愛してくれる神の存在をほめたたえるだけではなく、実は隣人の愛を知る時でもあるのだ、と、今日また新たに聖書から教えられました。

冒頭に「クリスマスおめでとう」と書きました。何がおめでたいのでしょう? それは神様の愛、隣人のそっと支えてくれるぬくもり、それを感じれた僕が、喜びを分かち合えるからなのかもしれません。

クリスマスは教会で!!

20171126-11

今年のクリスマスは、
AM10:30- クリスマス礼拝
PM 0;00- 愛餐会
PM 6:00- 聖夜賛美礼拝(燭火礼拝)です。

この日、教会は一日中門戸を開いております。お気軽にお越しください。
ご不明な点は教会(0465-22-2076) 牧師まで
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