早川地区 紀伊神社と正蔵寺

5月19日に、小田原の石造物を調べる会の定例調査会がありました。

前回に引き続き、早川地区の紀伊神社に向かいます。
神社前には、市の指定文化財の道祖神があります。

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紀伊神社は、参道の真ん中をJRが通過しています。

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参道から石段を臨めば貨物列車が通り、鐘突堂に立てば横を列車が走り抜けます(笑)

大きな忠魂碑ほかの石造物を調査し、メンバーの疑問は、大量の玉垣が奉納された時期前後に何があったのか?という事。
丹那トンネル開通で、前述のJR線が境内の中を通過する補償費で玉垣などを奉納できたのか?
しかし、漁協組合のメンバーと言う書きかたもあるので、それは何かしらの漁業権の問題なのか?
もちろんバックボーンになる下調べもしてこない話ですので、推測の域は出ませんが、そんな自分の推理をおしゃべりし合うのもこのグループの魅力。

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調査を終え、隣接の正蔵寺に向かいます。すぐ隣に見えるものの一度道路に戻り、次の小路から丘を越えないとお寺にはたどり着けません。今日はこちらのお寺さんには事前にアポイントメントをとっていませんので、ご挨拶のみ。尼僧のご住職にご挨拶をすれば、君ヶ濱安右衛門と言う関取の顕彰碑があるとのことで、今日はそれだけを拝見させてもらいに行きます。
僕はその関取を存じ上げなかったですが、小田原の端々さまのBlogに載っていました。

古い石造物が豊富にあるお寺ですので、次回はじっくりと見させて頂きたいと思います。
ところで自宅に戻りGoogleMapで場所を調べると

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紀伊神社の南南西の方角に正蔵寺の文字。
しかしズームインしてみると

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正蔵寺の文字が2つ、JRの線路を挟んで左右に。
つまりはこのお寺さんは紀伊神社と同じ参道から左に折れてお寺の参道があり、本堂に向かうのですが、それがJRによって分断され、本堂へは違うルートでしか入れなくなったと推測されます。
次回はぜひともそこら辺の所も聞きたいものです。

石造物調査会のイヴェントへのお誘い

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小田原広報3月号7ページより

文面にも記されていますが、昨年より始まった石造物調査会。
街中には思った以上の石造物(信仰の対象の石仏や行事・防備のための歴史記録の板碑などなど)があることに驚いています。
一緒に見て歩きませんか? とお声をかけられたけれど…、てもすでに出来上がったグループには・・・、と入ってくることに弱腰になっている方いませんか?
みんなスキル高いんだろうな?と弱気になっている人いませんか?
中にはスキルの高い人もいますが、僕のような全くの知識なしに参加している人もいます(^-^; それにみんなフレンドリーです(^^♪

どんなことをしているの?少しでも興味を持たれたらぜひご参加してみてください。
立ち止まって調査する時間も長いので、歩いている時間はさほど長くありません、健脚でなくても大丈夫です(^^♪

道路際での調査もありますので、少人数での募集です。
詳しくは小田原市郷土文化館まで(上記画像の上部に電話番号が載っています)

石造物下調べ(2)

前回は12月30日
午前は別用で松田町寄に行ってきました。この集落も成り立ちが気になるところ。どういう経緯でここに集落が出来てきたのかはそのうち調べてみたいです。
みやま運動広場からろうばい園に行く途中、県道710号線沿い

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男根形の道祖神でしょうか?
これを見て、そうだ!午後は近隣散策をしなければならない、と思いだし帰路に向かいます。
今日は天津神社と宗我神社の間を歩こうと思います。

下曽我交差点を超え、農道を登ります。
距離は大したことないですが、斜度はそれなりにあります。

場所はここ

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入口の説明を見るとインド(バラモン?)十二神を祀っているそうです。

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鳥居から本殿に向けて右に5,6基の石造物がありました。

神社前の変形四差路の対面、キウイ畑の隅に石造物が並んでいます。ちょうど農作業をしていたのでお声をかけさせて頂くと『我が家のお墓』と言います。でも一体は地蔵尊?『どこからか持ってきたものでは?』の問いに『むかっしっからあるねェ』とのこと。
写真撮影の許可を頂き撮らせて頂きます。(カメラの露出センサーが壊れたか露出が合わず白飛びしちゃいます。写真が見難く申し訳ないです)

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何かご事情(お祓いや祈願等)があってお地蔵さんを一緒にお祀りしたのかも知れません。天津神社から北の伸びる農道を登ってみましたが、急坂かつ500mほど行っても何もなさそうでなかったのでUターン。(曽我山を抜けて東国に行く旧道もありますが、この道は最近になってから修復拡張した農道みたい)

宗我神社に向かいます。
入り口の石垣の中に道祖神。

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神社内を9-12-3時と時計回りに見てまいります。
入口には石垣完成の記念塔

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その奥に石があります。思案のしどころなのは、周囲を石で囲ってある中にあること。

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本殿の裏には祠がありました。

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その右横にも2基の祠

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3時の位置にはお稲荷さん。左右に2基の狐(狛犬)

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4時の位置に折れた石碑。

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本殿正面に戻りました。左右に狛犬(これは向かって左)

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本殿正面から向かって右をしたところに手水鉢。

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尾崎君の碑をはさんで灯篭。

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これで境内の石造物はすべて
境内を出て参道を下ると途中(境内を背にして左に)再度尾崎一雄氏の石碑

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参道の入り口、下曽我駐在所交差点に2つの大きな石造物
 
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と古刹の多いこの界隈は数多くありました。

石造物調査会定例フィールドワーク

石造物調査会の定例フィールドワーク。早川地区の第2回目。
まずは、小田原市早川445 前の変形4叉路にある道祖神。これは先週末久野の道祖神を見に行った際、保坂氏が教えてくれた稲荷型のもの。豊穣の神としての稲荷と道祖神が習合したものらしい。

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専門家が同行してくれなければ稲荷神社として通り過ぎてしまう(笑)

すぐそば(早川450の新幹線ガード下)にあった馬頭観音

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早川491の大きなお宅の横を入る人の出入りがあまりない細道を登ると天神社(?)がある。

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その途中に庚申塚が5つ建っていた。

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延宝の文字が見えるからそのころから何回かの庚申講を行ったことを記念して建てられたもののようだ。
青面金剛像が彫られるものも多いらしいが、この5基はすべて三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が彫られており、それは庚申の申がさるに通じることからとのこと。

続いて早川小学校内にある碑を見に行く。(事前に保坂氏より学校側の許可を頂いてある)

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皇紀2600年を迎えとあるから1940年のことが記されている。日中戦争の最中、物資の逼迫を打破するために開拓をして食糧増産に励むことが銃後の責務であり、その志に従って早川右岸を開墾したことが書かれている。
今はそんな開拓した田畑は皆住宅となり、こうした碑が残っている事すら忘れられているが、そうした時代があったこと。間違った教育で純真な日本人が戦争加担をしてしまったことが分かる。
ちなみに同年12月に小田原町、足柄町、大窪村、早川村、酒匂村の一部が合併し 小田原市が誕生した。

午後からは漁港施設会議室を借用して今日のまとめをするので漁港に向かう。その途中の小田原市早川2丁目1の道祖神。

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漁港は週末と会って混雑。小田原の新名所の一つになった感がある。僕らもその一軒で昼食。

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漬け丼は魚を炊き込んだ物や海藻ご飯食べ放題。空の丼と漬けのお刺身、そしてあら汁とひじきの炊いた物。空腹で食べ放題のお店に入るといやしくも何杯もお代わりをしてしまい後悔をするが、その癖は今日も治っていなかった(爆)
2階なので空いていてここはお勧め。

今日行った箇所(特に庚申供養塔)の薄れた文字を解読するのがメインを2時間ほどして解散。

せっかくなので僕らは居神神社の『勝って甲の緒を締めよ』の碑を見に行く。

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誰もが知っているこの格言が小田原発祥のものと言うのは誇らしい、小田原のうんちくがまた一つ増えました。
14000歩、今日もよく歩きました。

どんど焼きと道祖神

何事もそうですが1つのテーマを掘り下げれば掘り下げるほど面白いことがたくさん見つかります。
小田原市石造物調査会の特別フィールドワークで久野のどんど焼きを見に行くことになりました。
学芸員の保坂氏は、どんど焼きに際して山車を引きお囃子があるのは珍しい事、とあわせて、久野中宿には変わった道祖神があると話されました。
久野に住み約60年、中宿の道祖神が珍しい道祖神と言う話は初めて聞きました。

人型(ひとがた)とか形代(かたしろ)と呼ばれる道祖神。

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向かって右の道祖神は、顔も着衣ものっぺりとしています。真ん中の道祖神の着衣とはあきらかに違います。

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中宿バス停の前の道祖神。こちらは1985年ころのもの。時代を反映しているのか、表情が豊かです。たとえばひな人形なども時代とともに顔が洋風・童顔になっていっているのと同じではないでしょうか?

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たとえば「千と千尋の神隠し」にも形代は出てきます
陰陽師だとかにも出てきますし、ひな人形もルーツは人形に自分の厄をつけて流すことで無病息災を願うところから始まったと言います。
道祖神の初期の時代、様々な疫病や難儀と言った厄を人型(形代)に転嫁することで自身を守る信仰があったのでしょう。

13日を楽しみにしています。ご興味のある方は郷土文化館まで

石造物下調べ(1)

小田原市の郷土資料館主催の市民グループ、石造物調査会に入れてもらっています。
細かい調査まですると、何十年もかかるけれど、細かいところは学芸員の方ではないと何とも言えないところもあります。
という事で、手が空いている時に、どこにどういう石造物があるかだけでも事前にチェックして、いざ学芸員の方と一緒に歩く時のガイドとなればと思い、さっそく今日から開始しました。

旧地元の久野と新地元の曽我のチェックをしたいところですが、今日は車がないので歩いて行ける下曽我から!

下曽我駅前のロータリーをスタート。
長谷川豊吉氏の胸像。

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裏面には人となりとこの碑を作った関係者の名前が刻まれていました。

横浜銀行先の木村肉店さん前の路地を入ったところに道祖神。

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裏面は無彫刻。

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こちらは殿沢踏切の所の石仏

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森戸川にかかる光明橋右岸にある水神。

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住宅地の真ん中にポツリとある塚。個人のお墓ではないようですので囲いの中に入らせてもらいます。
山武士塚と書いてあるのだろうか? どういう塚なのかはわかりません。

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第2回まとめの会

石造物調査会の第2回のまとめの会が行われました。10月11月に調査した石造物の記録清書をいたしました。
4回の計画のうち1回が雨で中止、3回×2寺院を廻りましたが、やはり2か月前だと記憶も薄れ(笑)
まとめも時間を空けずにした方がいいのかもしれません^_^;

それでも永久寺では、三十三観音、三界萬霊塔、日蓮名号等
養林寺では、江戸期三界萬霊塔、六地蔵の真ん中に子育て地蔵のある七地蔵
養託寺ではペット供養の墓石
法授寺には如意輪観音のほかにも詳細の不明の石仏(下写真)があったと、保坂氏より報告が出され少し思い出された次第です。
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次回からは早川地区に場所を移動し、寺中心から路傍の石造物がメインになっての調査が始まりますが、その前に臨時の調査会が開催されます。

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わが故郷久野のどんど焼きを見ようというご提案。
生まれ育った物には何も疑問が無かったどんど焼き。山車が繰り出され、お囃子が流れるのは珍しく、神奈川西部から静岡のみだとか…。
そして中宿の人型道祖神も珍しいとのことで、楽しみにしたいと思います。

なお、3月24日に僕らがどんな活動をしているのか? 部員とともに10,11月に歩いた城山(?)を一緒に歩こうという企画も検討開始。ご興味持たれた方は、キャンパス並びに市広報誌で募集をいたしますので、チェックしてください。

第2回石造物調査会(小田原の石仏を調べる会)

郷土文化館からのお知らせチラシを教えてもらいエントリーしたものの、第1回は大阪釜ヶ崎に行っている最中だったもので参加できず。連れ合いの楽しかったの言葉に羨望の中この日を待って参加。
ラッキーなことに前日の雨は止み、なおかつそのせいで気温も低め。屋外のフィールドワークにはもってこいの陽気。
この日は、

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城山の本誓寺さんと鳳巣院さん。
本誓寺は當知山重願院と言う山号。1505(4)年に開山創建と言います。ご住職の話では今川家の藤枝某が開祖だとか。
その言葉を証するがごとく、土中から

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こんな石が出てきたとか。文亀元年?なのだろうか? だとしたら1501年のことになる。新しい意志に見えるのは土中に埋まっていて掘り起こした時に洗ったからなのか? はたまた後世の人がこの寺の縁起を記すために書いた新しいものなのか?
このころの日本はと言えば、東山文化の終焉、11代足利義澄の時代。ここから応仁の乱・乱世の時代へ突き進むころ。
この小田原で言えば伊勢新九郎(北條早雲)が小田原に入ったのが1495年なのでほぼそのころになる。
もとは今川家の客分家臣だったので、小田原の街づくりに名家今川の名前を欲して作らせたものなのかもしれない。

寺内を石造物を探しながら歩けば五輪塔。

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昔何かの本で読んだのは火輪の先が沿っていないものは鎌倉記前と書かれていたようなのでこれは古いものだと興味津々。
しかも空輪部分は風化している。
サイズを測り、裏に回り文字の解析。水輪部分に名前が彫られている。闡譽上人の名前。存ぜぬ名前と家に帰ってクグル。
と、増上寺の67代管主に渡辺教善(闡譽教音)の名前。どうも幕末頃の方のよう。思ったほど古くない五輪塔でした。

1時間ほどお寺を探索させて頂きお礼を言って道路向かいの鳳巣院さんへ。

山号を實平山と言い14世紀頃に久野総世寺五世天祐宗根が開山したと言われています。
小田原七福神の福禄寿がいますが、手には桃を持っているとのこと。ご住職がその由来をお教えくださり、なお秘仏までお見せ下さいました。

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お庭自身には大きな阿弥陀如来像1体と無縁仏の墓のみでした。
2時間ほどの探索で10余の石造物を調査できました。

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