初めて物語・第六次産業(1)

20世紀の三大聖人とはシュバイツァー師、ガンジー師と香川豊彦師だそうです。平和を熟考し、差別をなくそうと努力した御仁ですが、しかしそんなガンジー師であってもカーストは当然と肯定的にとらえ、地位や差別の構造からは抜け出せませんでした。
たぶんそこには生まれてから常識のように身につけられた教育があったのではないかと思います。
そして賀川豊彦師もそうした側面があった事は否めません。初めて賀川豊彦師に興味を持って、その資料を探しにいそいそと横浜のキリスト教書店に出向いた時に「(差別発言があるので)うちにはほとんどおいてないのよ」と言われた時の動揺は未だよく覚えています。
宝塚での自民党の大河内茂太議員の偏見・蔑視の発言は、賀川豊彦師が生きた時代から百数十年経った今もなお、やはり社会に蔓延してしまっている差別が「社会の中に」生き残っている事を現わしているのだと思って、その不気味な存在のしぶとさに打ち震えてしまいます。宗教家として、思想家・哲学者としての活動で当時の為政者から何度も投獄をされた師であっても、世の常識として教えられ育てばそうした過ちを犯してしまうものなのかもしれません。
そう思うとやはりイエスキリストの生涯はすごいものを感じます。同意する人が皆無に等しい中、権力と対立して成し遂げてしまった事が、人間は2000年かけても成し遂げられないのですから…。
話はそれました。が、それでも賀川豊彦師の功績は余りあるものがあると思います。

昨日ひょんなことから賀川豊彦師のお名前を見つけました。
それは、郷土のお寺  栖徳山京福寺について、僕が子どもの頃郷土史家の立木望隆氏が、京都に京福山栖徳寺があったと言っていたような気がして、果たしてそれはどこは辺だったかな?と古い資料を引っ張り出したのがきっかけでした。

20150705-01

1977年発行の16ページなるこの小誌は、僕のおぼろげの記憶を大前提からぶち壊す内容でして、栖徳山京福寺と京福山栖徳寺は隣り合っていた、しかも開基も開山日も同じであると相模風土記には記載されている、と書いてありました。対のお寺は京都ではなく、小田原市久野の、それも隣り合って立っていたというのです。
立木先生はその設立には異論を唱えていましたが、それはまた別のお話、チャンスがあればどこかでお伝えしたいと思いますが、他説もあるかとインターネットで「京福寺」を調べてみました。
しかし、ローカルな住職不在の長いお寺のトピックスはインターネットでもたくさんある訳ではなく、この件はそれ以上の進展はなかったのですが、検索に驚くようなURLがヒットしました。
そのタイトルは、『Who is Kagawa? 賀川豊彦って誰?』というもので、それは僕が以前寿地区センターの委員をしていた時にご一緒させて頂いた加山久夫牧師の描かれたWebSiteでした。加山牧師は前「賀川豊彦記念・松沢資料館」館長で、現横浜上倉田教会で牧会をなされている先生です。

いったいこの田舎のお寺のどこが賀川豊彦師と関係あるのか? と夢中になって読めば、このお寺の住職・加藤一秀師が御殿場の青年に内村鑑三師や賀川豊彦師のエピソードを紹介したのだそうです。たぶんこの加藤一秀師は僕の同級生の父親だろうと思っておりますが、中学を卒業するころに転校をしてしまってそのあとはご無沙汰続きです。親しくお交わりをさせてもらった友人で彼との間のトピックスもいくつもありますが、それもまた本筋から外れます。またの機会にしましょう。

そして御殿場の若者たちは箱根堂ヶ島大和屋旅館での賀川豊彦師らの修養会に出向き、教えを乞い親交を深め、今でいう多角農業経営を始めていきます。時代はいよいよ暗く戦争に突入する昭和初期のことです。
そんな様子は加山久夫牧師のWho is Kagawa?賀川豊彦って誰?のみくりやと賀川豊彦をご覧ください。

ここで賀川豊彦師らと共に青年を教えた人には母校東農大の畜産学部の先生がいたり、苦楽を共にしながら教わった人は現在の地方ハム会社を経営して行きます。
今後のんびりとでも、賀川豊彦師の資料館を巡ったり、そうした地方ハムの現状を見ながらこのシリーズを書いていければと思っています。
プロフィール

take1960

Author:take1960
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新記事
検索フォーム
最新コメント
最新トラックバック
FC2カウンター