「生活保護なめんな」ジャンパー問題から1年半、小田原市が進めた生保改革 と言う名のレポ

 「保護なめんな」「生活保護悪撲滅チーム」――。ローマ字と英語で書かれたジャンパーを羽織って、生活保護受給者宅を訪問する。2007年から約10年にわたって神奈川県小田原市の職員が着用していたものだ。
 2017年1月に問題が発覚し、職員の対応は「受給者を威圧する」と批判された。市は改善を宣言する。あれから1年半、小田原市の生活保護行政は大きな変化を遂げていた。

7月14日、東京。生活保護問題に取り組んできた弁護士らが開いたシンポジウムで、小田原市の職員2人がやや緊張した面持ちで報告を始めた。
 「小田原市の取り組みを報告するのはこれが初めてです」と市企画政策課の加藤和永さんは語る。ジャンパー問題が発覚してから、市の対応は早かった。
 対応を振り返っておこう。市の生活保護担当の職員らが「保護なめんな」「SHAT(※生活保護悪撲滅チームの頭文字をとった略称)」と書かれた黒いジャンパーを作り、受給者宅を訪問していた。
 2007年に生活保護の支給が停止された男性が、小田原市役所の職員を切りつけるという事件が起きたことを契機に作ったものだという。
 ジャンパーには「私たちは正義」「不正受給者はクズだ」といった趣旨の英文もプリントされていた。
 市は「職員がモチベーションをあげるために作成した」と弁明したが、すぐに加藤憲一市長が「生活保護受給者の気持ちを傷つけた」と謝罪した。
 加藤市長は一連の問題を「組織的な問題」と位置づけ、「生活保護行政のあり方検討会」を設置する。
 財政学者の井出英策・慶応大教授、社会政策に精通した猪飼周平・一橋大教授ら有識者に加え、市職員、そして実際に生活保護を利用した経験がある和久井みちるさんを加えた。
 検討会は原則として公開で進められ、小田原市の何が問題だったのか、何を変えなければいけないのがオープンに話し合われた。

最初に進めたのは言葉の改革だった。生活保護「受給者」から生活保護「利用者」へ。生活保護は市民の権利と位置づけ、利用することは卑下することでも批判されることでも、バッシングされるものでもないという趣旨だ。
 改革は4点に集約できる。第一に職員数の増加。第二に申請から決定までの時間短縮、第三に生活保護のしおりの見直し、第四に自立支援への動きだ。
 生活保護行政に取り組んでいる市福祉政策課の塚田崇さんは語る。
 「まず社会福祉士の数も拡充し、ケースワーカーの数を増員しました。これまでケースワーカー1人で91・3世帯担当していたのを、81・3世帯まで減らし、女性職員の数も増やしました。
これまで保護申請から決定まで7割が2週間以上かかっていたのを改善しました。今では約90%が申請から2週間以内に決定を出しています。
まず申請を受けて保護をしてから、細かい状況を調べればいう方針になりました」
 まず困っている人を保護し、「市民の不幸を最小化するためにどうしたらいいか」(加藤さん)を一義的に考える方針だ。
 この日、職員と一緒に登壇していた和久井さんはこう語る。
 「私はこれまでメディアの取材を受けてきても、『生活保護の悲惨な実態』は聞かれても、生活保護行政がどうあってほしいと話してほしいと言われることはありませんでした。
『保護のしおり』についてかなりきつい発言もしましたが、聞いてもらえて良かったと思っています」
 しおりは「利用者目線」を最大の目標に、全面的に見直され、イラストを増やし、漢字にもすべてルビをふった。

重要だったのは自立支援だ。組織目標としてこれを掲げ、地域と協力して、利用者の状況に応じて農作業などに参加できる仕組みを整えた。自宅以外に社会との接点を作ることも、社会参加に向けた重要な「支援」だ。
シンポジウムで印象に残る発言があった。元世田谷区職員で生活保護ケースワーカーを務めていた田川英信さんの発言だ。彼は言う。
'''
「この社会では福祉行政にあたっている人も含めて、『見えないジャンパー』を着ている人がいる」'''
 事実、小田原市のジャンパーには今でもネット上で「何が問題なのか」「むしろ当たり前のことを言っている」という声があふれている。生活保護バッシングも強まっている。
 小田原市が賢明だったのは、こうした擁護論に乗らなかったことにある。
 参加者からの声にもあったが、生活保護には「誤解・デマ・偏見」がついてまわる。「不正受給」という言葉には特に過剰な反応がある。
 読売新聞で社会保障を中心に取材を続ける原昌平記者も指摘するように不正受給は金額ベースで0・5%に過ぎない。
 さらに「不正受給とされた中には細々した案件が多数あり、必ずしも悪意のない『申告漏れ』レベルのものも、行政運用の厳格化によって不正と扱われている」のが現状だ。
 生活保護の重要な課題は不正受給ではなく、本当に必要な人に生活保護という制度が行き届いていないことにあるのは多くの専門家が指摘するところだ。
 行政が「保護なめんな」などと圧力をかけて利用のハードルを上げるのではなく、「権利」と位置付け、自立支援に取り組むことは、課題解決に向けた一歩になるだろう。
 もちろん課題も残っている。和久井さんは「利用者のアンケートを実現してほしい」と要望していた。行政の改革が表向きのきれいごとに終わっていないか。本当に利用者の便益になっているか。必要なものに届いているかという視点を持ってほしいということだ。
 小田原市はスピード感を持って改革に取り組んだ。他の自治体は続くことができるだろうか。「見えないジャンパー」を着ている自治体ばかりでなければいいのだが……。


記者 / ノンフィクションライターの石戸諭氏のレポートがyahoo!ニュースに上記のごとく載っていた。
14日は既に入っていた予定の為に伺えなかったが、氏のレポートを読んで概要は理解できた。ありがたいこと。

小田原市長肝いりの改善命令で確かに業務内容は大きく変わった。短時間にここまでの変貌を見させた職員の尽力は大いに評価できる。
同時に、和久井氏も仰っているが、例えば市民の意識は変わったか?に関してはいまだわからない。

良くも悪くも小田原は平穏だ。
小田原駅のバスロータリーに夜になると、野宿を余儀なくする方やまた保護を受けているが飲み仲間のいない人が集まって酒を酌み交わす。
多分迷惑だろう。が、強硬的に力づくでの排除はない。これは支援している人間にとってもありがたい話だ。

こんなところで飲むな!と言う声の方が多いと思う。それはひとつの日本の常識(良識)として承っておくが、例えば15年ほど前と言う古い話で恐縮だが、イタリアフィレンツェに行った際、日本と同じような気候ながら多くの市民は家に冷房を持っておらず、夜になると夕涼みがてらドォーモにはいる石段に腰掛け三々五々酒を飲む。大声で笑うのでドォーモのそばのホテルに泊まった僕らは24時くらいまではかなり騒がしかった。
しかしそれが市民スタイルだ。日本と違うと言われるかもしれないが「人間の営み」としては日本人もイタリア人も一緒で、一日の疲れを仲間とともに酒で癒しているだけだ。そして彼らも小田原駅のバスロータリーで飲む方々も「お店で飲むだけ」の費用を持ち合わせていないだけのことだ。

小田原の福祉業務の担当者たちは市役所の中で孤立し、幾何からの市民からも厳しく見張れ、のクレームを受けたのだろう。それゆえにあのようなジャンバーを作ったと思われる。
決して許されることではないが、孤立の辛さは痛いほどわかる。

和久井氏の問いかけに戻ろう。利用者は今回の変化をどう受け止めているのか?併せて小田原市民は、日本国民はどう思っているのか? が問われる問題だ。
「見えないジャンバーを着ている」というご発言。然り。
それは行政職員だけではなく、市民が着ている問題でもある。
蔑視なら、偏見なら、それはジャンバーを着ていることだ。
小田原市はそうした方々に懇切丁寧に、憲法25条や13条で守られるべき人権を説いて欲しいし、時には犯されそうなときは矢面に立ってほしい。
国民意識の変貌こそが小田原ジャンバー問題の解決点だ。

17日から月9ドラマで(^_^)/

先週友人が遊びに来てくれて、漫画コミックスの『健康で文化的な最低限度の生活』の1-4巻を持って帰られた。というのも、拙宅には1~4巻しかなかったからで、思い出したように5,6巻を購入した。
保護を利用したい人や保護の制度を説明してつながればいいな、と思う人と接してきた僕にとって、あまりにもリアルで涙が頬を伝わるシーンが豊富な漫画。

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生活保護課の職員さんを通して、様々な保護希望者を描く。
漫画のように利用をしたいと願う人、本人は乗る気ではないけれど、年齢や健康状態からつなげたいと思う人とぶつかり話をしている中、どうしても「わがまま言うなよ」と言う気持ちが湧きあがることが多々あった。

困窮の中にいるのはその人の責任であったりなかったりする。が比率を見れば誰もが自分以外のファクターによって困窮している事が多い。「お人よし」の人が多いので騙されたり裏切られた過去を持つ人もたくさんいる。
そして僕らが声をかける。最初はけんもほろろ、生活保護なんてそんなおいしい話があるはずがない、お前も騙しに来たんだろう? そんな人もいた。
なんどもお話しして疑心を払しょくし、じゃあ一つ言うことを聞いてみようか、と言う気になる。
将来設計の希望を語るのを聞く。

とたんその希望の多さやリスキーさに、この漫画のように「この人、自分の置かれている状況分かっているのかな」と、僕も何度も思ったことがあった。今冷静に考えればそんな高度な要求ではなかった。が、面と向かっている時は、保護につなげる結果だけを求めていたかもしれない。
つまりお声がけした人と自分の意見が違った時に、自分の意見を押し付けようとして、それが出来ないと非難したわけだ。寄り添う、なんてかっこいい言葉で行動を美化しようとしても現実はそうでないエゴのボラ活動だったのかもしれない。
そしてその希望を聞きだしたのは僕らの方で、彼らは素直にそれに答えただけだ。

一例を出せば、体調が思わしくない、と言われ、じゃあ路上から抜け出しましょう、とお伝えする。
一時行政が盛んに言っていた「まずは無低に入ってそこでの生活指導の後アパートの転居」 体調の良くない野宿の方を一刻も早く路上から抜け出してもらうためには、本人が好むと好まざるとを問わずに無料低額宿泊所に入ってもらう方が安心ではある訳で、それをお勧めすると「いや、無低は嫌だ」と言う。
体を考えればいやだなんて言っている場合じゃなく、1年間だけの我慢です、と行政の手先のような言葉を投げたこともあったわけだ。

それをわがままだと感じてしまった・・・
この言葉に自分がかぶりショックを受ける。
ああ、上から目線ではなく、だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。(マタイによる福音書7章12節)のように、逆さまの立場だったら、強引に無低に1年間入れと言われることをどう感じるだろうか?を考える。

「そんなことを言うからスムーズに生活保護が受けられないんだ」
いやそれは違う。生活保護法は憲法25条の理念に従う法律だから、無低は嫌だは利用者の権利であり、それでも屋根の下で暮らす権利を有するんだ。

漫画の一言一言をかみしめながら読んだ。
特に6巻は、アルコール依存症の話。実はそうした人または予備軍はたくさんいる。
そうした施設が県下にあることも知っている。
が、依存症の方の症状や苦しみはよく知らなかった。大いに勉強になった。
苦しい時悲しい時、誰かにそばにいてほしい。でも誰も居ないなら、唯一の友人は「酒」になってしまう。医療もそうだけれど、最後のカギはともに闘ってくれる友。

ということでOさん続きを読まれるのでしたらいつでもどうぞ! ほかの人も、生活保護に興味をもったら是非読んでもらいたい漫画です。
序でに、7月17日夜9時~関西テレビフジテレビ系列で、月9ドラマでも始まります。こちらも楽しみ。
少しでも保護のことが多くの方にご理解いただけますように!!

オウム真理教幹部の死刑執行

松本智津夫氏らオウム真理教の幹部たちの死刑が執行された。同時に7人の死刑と言うニュースには少し驚いた。

刑とは何か? は、死刑の度に考える。僕はやはり悔い改めることだと思う。
しかし、死を以て償うのだから悔い改める必要はない。と言う意見もあることを知っている。果たしてそれでいいのか?と思うところがある。
人が人を死を以て償わさせる権利の所在を知りたい。果たして何人の人があいつは死ねばいい、と言ったから死刑にしていいものだろうか?1万人か?1千万人か?10億人か? どんだけの人が言いと言っても本人が死を以て償います、と言わない限りダメだろうし、本人が死を以て償う気なら、もがきながら苦しみながら生きて猛省を続けるべきだと思う。
また人数だけでなくどんな権力者であっても、どんな知的な人であっても、どんな金持ちであっても人殺しはいけない。

ある意味死刑制度は楽だ。そこですべてにピリオウドが打てる。
遺族もこれで一区切りだ、仏前で報告が出いるというだろうし、ジャッジングする法律関係者もノーサイドになる。
モヤモヤは晴れないかもしれないけれど、切り替えができる、というものかもしれない。
特に遺族にしてみれば苦しみの毎日からの解放がそこにあるのかもしれない。その重要性は僕も知っているつもりだ。
遺族は言うかもしれない「私たちは被害者だ。あいつが生きているだけで苦しみは続く。痛みを負わない全く赤の他人のお前がなんで私たちの苦しみを否定するのだ」そう言われたら返す言葉はないし、同じ立場に立ったら僕も死刑にしろ、と言うかもしれない。

しかし、自身の反省があるかないか分からないまま、悔い改めのないまま、死んだところでなぁ、と言う気持ちが残る。それが償いなんだろうか?と言う気持ちが残るのだ。
悪いことをした、この気持ちを呼び起こすこと。残りの人生を使ってどう償おうか?と言う苦しみを呼び起こすことこそが大事じゃないかと思う。
罪を罰するとは償いの心を生ませることではないか? それがないままの罰とは何のためにあるのか?

何かの判決時、裁判長がさだまさしさんの「償い」の歌を引用したと聞いた。
「償いきれるはずもないがせめてもと」
と出来る限りのことをして、十二分に尽くして、被害者やそのご家族から
(私たちに償うだけの人生から)「あなたご自身の人生を元に戻してあげてほしい」
と伝わること。
(その連絡を受けて)「償いきれるはずもないあの人から返事が来たのがありがたくてありがたくてありがたくてありがたくてありがたくて」

この関係は死刑では得られない関係のような気がしてならない。
もちろんそんな関係ばかりではない。
しかし死刑囚が何かのきっかけに悔い改めようとするかもしれない。
生きるという事はそういうことだし、神はそれをよしとして生み出したはずだ。

もちろん人が法と言う名において人を殺すというジャッジングが人権的にどうかと言う問題もあるが、「死にたいがゆえに大きな殺戮事件を起こす」と言う事件の続出の中、罪を罰する刑とは何か? 人が人を殺めたことと法の名によってとか戦争だからと言う大義名分によって殺すことの差異は何か?もう一度考えてみたい。

考えがまとまらないままの投稿で申し訳ない。でも何か書かずにはおれなかったことも事実。

2年前の強姦殺人の賠償金が支払われます

小野寺防衛大臣は、2年前、沖縄県でアメリカ軍の軍属だった男が女性を殺害した事件をめぐり、アメリカ政府が遺族に対する賠償金の支払いに合意したと明らかにしました。

「補償の問題についてもマティス長官と話し、日米両政府から支払うことにした。本件のような事案が二度と起こらないよう、引き続き日米間で協力して取り組む」(小野寺五典防衛相)

沖縄県うるま市でアメリカ軍の軍属だった男が女性会社員を殺害した事件をめぐり、アメリカ政府は、日米地位協定に基づく「補償金」ではないものの、「自発的かつ人道的な支払い」と位置づけた「賠償金」を支払うことに合意したということです。

防衛省によりますと、このような形での賠償金の支払いは極めて異例だということで、社会的な影響や遺族感情を踏まえて対応したものとみられます。
(29日18:27 グノシー)

猛烈に腹が立つ話だ。いや、相手が支払い能力がなく、被害者がかわいそうなので見舞金を出す、のなら何にも文句を言う気はない。
しかしそうじゃない。なぜ米軍に全額を出させない、何故米軍が頭を下げない。

だから米軍基地は沖縄から無くならなきゃあいけないんだ!!

因果

フェイスブックでお交わりを頂いている田崎牧師が
「クリスチャンはタバコを吸っても良いのですか?」
いやいや、タバコの問題は、別にクリスチャンだから、クリスチャンではないからという問題ではないでしょう。
なんでもその人の宗教で判別しようとすると、とんでもない世界に入り込むよ。気をつけようね。

というコメントをUPされたので、然りとシェアーさせてもらいました。

因果関係という言葉があります。人はどうしても、因果を気にするものなのかもしれません。
僕も例えば語源とか由来と言ったものが大好きで、そこに「何か」があったからこそ「今」があると思うことは多いです。

でも、すべてが因果ではないです。こじつけもあります。
「タバコを吸う」という事象と「クリスチャン」という事象には関連性はありません。
この質問をされた方は、教義・戒律でキリスト教はタバコという中毒性のあるし好品を禁じていますか? という意味かもしれませんが、聖書の書かれた時代にはイスラエル周辺にはタバコを吸うという文化がなかったので、聖書の中にはありません。
のちのちの宗教指導者が、自分の宗派の中でお勧めをすることがあったかもしれませんが…。

敬虔な、という枕詞がよくつくクリスチャン、故に因果のないタバコというし好品との関連性があるのではないか? と言うバイアスがかかりやすいのかもしれません。それを田崎師は諫めていると思います。教会に足しげく通い、質実剛健な清貧さを持った生活態度をする人を敬虔な、と言うのでしたら聖書はそんな敬虔なクリスチャンを目指せとは言っていないのですが、いくつかの時代のエピソードなどを通して、クリスチャンはそんな人たちの集団と勝手な解釈をしている人は多いかもしれません。


新幹線内での殺傷というショッキングな事件がありました。襲われた人ではなく助けようとした人がお亡くなりました。神に御霊の平安と残された家族の上へのねんごろな慰めを祈ります。

そしてこのニュースも、加害者家族も、マスコミも、声をそろえて加害者の障碍を口にします。
聞いている視聴者は、「ほほぅ、障碍を持った人なのか」とこの事件を色眼鏡で見てしまうことはないでしょうか?
常軌を逸した事件は、「何か」誰もを納得させるものがなければならない。それを「障碍」にしようとはしていないか?が気になります。単純な殺戮事件ではない方がニュースバリューとして、そして雑談の中で話題性が上がるという意識はないでしょうか?

そしてその先の相模原の事件を思い起こしてしまいます。

報道を見聞きする時は、一度心を落ち着かせ、ニュートラルな気持ちで見ないと、不要な因果に心を奪われてしまいそうです。

事件を次に生かす

昨日の説教を聞き、家族というものを考えさせられ、そしてインターネットニュースを読み、また考えさせられました。

だって、結愛ちゃんの名前って、どう考えても愛情しかない名前ですよね。この子に幸せになってほしいと願って産んだはずなんです。
我が子を虐待しそうになる気持ちを、私は理解できません。けれども、それは私が保育園に運良く預けることができ、そしてツーオペ(夫婦で)で子育てできているからで、そうじゃなかったら私も虐待しそうな状況になっているかもしれません。

BuzzFeed Japan 6/10(日) 19:48 より抜粋

母親はぜったいこの子の誕生の時、感涙を流し喜び、将来の幸せを願ったと思います。この推測はおおむね間違っていないと思っております。
でも、義父の暴力を傍観していたとの報道もあります。「自分の立場が危うくなると思った」という言葉の真意はつかみきれませんが、多分そこには離婚後の困窮の生活があり、もう戻りたくないという切実が願望があったのかもしれません。
乳幼児を抱えてどんな生活をしていたのかわかりませんし、1年間に22万組が離婚していると言われる中同じように乳幼児を抱えて頑張るお母さんもいますから、ただそれだけで我が子を殺した人に同情するつもりもありません。

でも、もしかしたら、そんな簡単に我が子を殺してしまうくらいなら結婚しなければいいじゃないか、とか無責任だ、という発言があるとするのなら、なにかそれは違うような気がします。
国は、人口減少問題を国難としてとらえ政策を打ち立てています。

その裏でのこうした事件は、やはり政策としてチープだったと思わざるを得ないのです。
幼子を抱えて離婚した時にどういう政策で支えてあげられたのか?
それは再婚という選択肢の前に前提条件が何だったのか? 将来を新しいパートナーとしっかり考える余裕のある生活ができる余裕があったのかどうか?
そしてそれがないのだとしたら、国民の幸福度調査などのレポートなどとあわせて安心して笑顔で過ごせ打街づくり、家庭づくりをきちんとサポートできる政策を作ってほしいですね。

ハラスメント

たとえですが…

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山登りにも種類があって、ハーケンを打ち込みながら垂直のような「壁」を登るのを楽しむものや、なだらかな尾根を歩きながら広がる大空だったり樹林の木々を楽しむものだったり、また山頂でビールを飲むことや下山後の温泉を楽しみに「登る」をつまみにする人もいるでしょう。
逆に言えば、ゆったりと登るハイキングは好きだけれど、ピッケルやハーケンを使う山登りは無理と敬遠する人もいたり、(切り立った壁のように)スリルがない山登りなんてと違う山登り方法に興味を持たない人もいるでしょう。

山登りの楽しみを教えてくれたパーティーやその先輩方に一度剃り立った「壁」に連れて行ってもらった人が、ビビッてもう自分はこの登り方はしないと思ったとします。
その時に先輩から、たまには一緒に登ろうよ、と言われ、「自分はもう『壁』は無理です」と言ったところ、そんな事言わないでさぁ、みんなも一緒に行きたがっているよ、と言われたら、やはりそれはハラスメントなんですよね。
自分に登山の楽しみを教えてくれた先輩であるのなら、後輩はむげにできない、としたら、ここで「No!」と思っても言いにくいはずです。先輩にしてみれば気づかなくても、そこには先輩後輩のパワーがあります。
ハラスメントを日本語にすれば人を困らせること。ですから、まさに回答に困るこの質問をするのはハラスメントと言っていいのかもしれません。
また、みんな(仲間)という言葉を利用し、1対1の関係ではなく、1対多数で有利に持ち込むことも、問題でしょうね。

ハラスメントには
セクシャルハラスメント(スクールセクシャルハラスメントを含む)
セカンドハラスメント
パワーハラスメント
モラルハラスメント
アルコールハラスメント
ジェンダーハラスメント
アカデミックハラスメント
リストラハラスメント
テクスチャーハラスメント
ドクターハラスメント
カラオケハラスメント
スモークハラスメント
ブラッドハラスメント
テクノロジーハラスメント
エレクトロニックハラスメント
エイジハラスメント(シルバーハラスメント、マリッジハラスメントを含む)
ペットハラスメント
スメルハラスメント
エアーハラスメント
ソーシャルハラスメント
レイシャルハラスメント
レジシャスハラスメント
フォトハラスメント
カスタマーハラスメント
などが今の世の中問題視されているそうです。出展:社会人の教科書 さま
お前もカラオケ歌えよ、もしつこくて嫌だと思われたらハラスメントです。
パソコンのやり方を聞いた時に、そんなことも分からないのかよと言って嫌な思いをされたらそれもハラスメントです。

10年ほど前にKY(K:空気Y:読めよ)という言葉がはやりました。昨年に流行った忖度に匹敵する言葉ですが、このK;空気は、大勢のというものが含まれていて少数派の意見が入っていませんでした。忖度も上位下達でパワーのないものがあるものの心内を考えろ、的に使われています。
その点、ハラスメントは、たとえ一人であっても「嫌だ」と思う人がいたら、それは「わがまま」ではなくやってはいけないことと自粛する心構えなのでしょう。

しかし読んでいるうちに、例えばブラッドハラスメントなんて言うのは日常茶飯事的に「A型だから」なんて言われますし、機嫌が悪ければモラハラ的にもなりますし、前述の山登りパーティの話ではありませんが、自分は意識しないで後輩を誘っても後輩は断りずらいとするのなら、それは日々の生活態度から生じるものでしょうからそこから修正をしなければパワハラを生み出すわけで、ハラスメントしないようにするのはなかなか難しいですね。
ついこのくらいは…、という甘えから脱却することを意識したいものです。

不祥事の後始末

末は博士か大臣か、という言葉があるけれど、安倍さんを見たり、日大の内田さん見たりしていると、明治の初めと平成の終わりでは意味が全く変わったのだなぁとしみじみ思う。

なんてツィートめいたものをFBにUPしたが、考えてみると

国会議員も不祥事を起こすと「党に迷惑をかけるから」と政党を離脱するけれど、議員はやめない。
今回も「(日大ブランドは)落ちません!」と自校のことが判断基準だった。

国会議員だったら国民の代表なのだろう? 対抗試合の出来事だから相手校への見舞いとリスペクトがあるべきなんだろう?
と、ここにも共通項を見つけてしまったのだ。

2018年寿地区センター講演会 ~こやしん牧師大いに語る~

2018年寿地区センター講演会が紅葉坂教会で開催されたので行ってきました。
講師は小柳伸顕牧師。大阪釜ヶ崎で子どもたちと向かい合って約60年。あいりん小中学校のケースワーカーをしながら、こどもの里と山王子どもセンターにも関わり、そして子ども夜まわりの設立にかかわった方。


2017年7月、小田原での映画「さとにきたらええやん」上映に当たって、釜ヶ崎に出向いた。そのためまずインターネット等を駆使して情報を集め、そしてそれを確かめるように釜に行った。
こどもの里では、僕のような外部の人間に理解をしてもらおうとプロモーションビデオを見せてもらった。
その中には僕が知らない情報がたくさん詰まっていた。
一つは里の子どもたちが、海外の視察に出かけていること。
もちろんカトリック系の篤志家の人からの多額の献金はあったろうけれど、それにもまして子どもたちの「見たい」と言う強い意志はバザーなどで旅費費用をため、そして出先での教会の協力もあり何度か海外にまでフィールドワークをされたことが映っていた。
失礼な言い方だが、汲々とした財政だと思っていた僕は、見当違いであることを知らされた。もちろん運営自身は極めて厳しい財政であり、拍車をかけて府からの圧力に苦しんでいたが、子どもたちは自分の人生の中の探究心を謳歌していたことは確かなようだった。

20180526-01

小柳先生のお話は、子ども夜まわりがなぜ始まったか?から発題された。
1983年山下公園事件。子どもたちが横浜山下公園で生活をしていた野宿者を「ゴミ」と称して、暴行しごみ箱に押し込んで放置し死に至らしめた事件はご存知の方も多いだろう。
その事件後、里の子どもたち、山王の子どもたちに、野宿者とのかかわりのアンケートをとったところ、子どもたちからは『いじめ』『襲撃』をしたという回答が出てショックを受けた。
そこで打開させるためにも、野宿者の方がどういう存在なのかを子どもたちと学ぶところから始めたのが夜回り。

子どもたちがなぜ襲撃をするのか問えば、『知らないオッチャン』が、みんなが働いている『昼間から昼寝』して怠けているから『嫌いだ』という図式。
それは、自分たちの家でもおとーちゃんが昼間から酒を飲んでクダをまいている嫌な面とオーバーラップしたり、警察も寝ている路上での生活を余儀なくする人に水をかけるなど暴力的な行為をし、そうした大人たちを見ているところから生まれたものなのかもしれない。
小柳師は、釜周辺の同和地区でも「襲撃」があったと報告された。僕らの住む関東よりも同和問題の取り組みは厳しい関西。その場所であって被差別の発言をすれば大人たちは注意をしても、事野宿者への襲撃は見過ごしていた、と言う教育不足の側面があったことを教えてくれた。

1987年にこどもの里においての学習会が始まった。
怠けて寝ていると思った野宿生活を余儀なくしている人たちは、実は怠けていなかったことを子どもたちは知る。
この町を作ったのも、隣接の町の高層建築も、駅もスーパーも自分たちの学校も作っている最中は、『○○建設』『△△組』といった誰もが知っている大手ゼネコンの名前が張ってあるが、実際作っているのは孫請け、曾孫請けのオッチャン達であることを知る。
自分たちの学校のトイレが壊れた時、直してくれたのはその場に同席していた野宿のオッチャンであることに意識が変わった。
子どもたちはみなオッチャンに興味を持つ。その人となり、半生を知れば、今野宿生活を余儀なくしていることは理不尽であることが道理であると思う。

そして夜回りに出かける。子どもたちの訪問は、野宿生活をしている人にはとてもうれしい事だ。わずかな日銭を自分のためにではなく、夜まわりに来る子どものためにお菓子などを買って待っている。
もらったお菓子は夜回りを終えた後の報告会のおやつだ。
誰もがその日夜まわりをした思い出を原稿用紙に書く。オッチャン達は子どもたちの質問にはいつも以上に懇切丁寧に回答をするらしい(笑)

怪我をしている野宿者を見たよう学校の低学年の子は、その晩明け方まで寝られなかった、と書いた。
文字が欠けない園児は「あのオッチャンもお母ちゃんのお中から生まれてきたんやろ?」と自分たちと何ら際のない人が理不尽な生活をしていることに疑問を呈した。

犬を飼っている野宿の仲間が入院をしなければいけない事態になったが、自分が居なければ飼い犬は保健所に連れていかれ殺処分されるだろうと、入院をためらっていた。が、子どもたちが自主的に面倒を見るように段取りをつけて入院にこぎつけさせた。

さて、夜回りに行く前にはみんなで歌を歌う。みなみらんぼう氏のくまのぬいぐるみの替え歌。「なんでよまわりするの」
少し淋しくてちょっと悲しくてとても肝(ちむ)苦しい と言う歌詞の歌。

夜回りの事を学校でしゃべる。先生も行こうよ、と誘う。すると学校の中でも変化が生じ、学級通信にこの話題が載ったりするが、残念ながらそういう担任はいつしか転任の憂き目にあう。
それ故、地域全体の、学校全体の取り組みにはならない。

この話は釜ヶ崎の話だが、小田原のパトロールでも同じである、と言いたい部分はいくつもある。

20180526-02

さて、こどもの里での学びの時、日本以外の生活困窮や差別蔑視で苦しんでいる人たちの話になり、「アジアの労働者とバナナ」を見てフィリピンのバナナプラントを見たいという声が上がった。
なんとか工面し出向き、子どもたちはそこで現地の人たちと一緒にバナナを洗ったり、トラックの洗車をしたりしたそうだ。現地の人も、多くの日本人が来るが、ここまで手伝いをするのは非常に稀だと言う働きぶりだったそうだ。

自分たちで実際野宿のオッチャンの所に出向き、語り、理解する等作業をする中、「本当の学び」が身について行ったのだろう。
フィリピンの学びは沖縄につながり、そしてアウシュビッツと駆け巡り、その映像を僕がこどもの里のプロモで見た訳だ。
何も考えずただ襲撃をしていた子どもたちが、命を考えるようになり、沖縄やアウシュビッツと連帯する。壮大な教育がこどもの里では行われている。
子ども夜まわりは30余年経った。最初夜まわりをしていた子どもは成人し子どもが授かりその子が夜回りに携わっているなどと言う事例もあるそうだ。

1年間の間路上で亡くなった人の場所へ献花をする儀式をしている。釜の場合は、その場所が病院の真正面であったり警察署の真正面であったりすることもある。
警察の真正面に献花をすると、警官がそんなところに花を供えてはいけないと追い返すそうだ。すると子どもたちは警官に抗議するらしい。
正しい事をするのに気おくれをすることのない子どもたち、僕らが少し見失ったものをこどもの里では実践している。

さて、小田原も1990年代後半は100人以上の野宿を余儀なくする人がいた。が今は20人を割っている。
それは、寿もそして釜ヶ崎もそうで、2000人ほどいた炊き出し利用者も今は100人を割る程度だそうだ。
釜も高齢者と外国人が目立つ街になり、府は一気に再開発を進めようともくろんでいるようだ。
しかし、ほかに行けない生活弱者がいる。この町でずっと過ごしてきた人が高齢化して、もう他の町に移る気力のない人も多い。そうした弱者の最後の砦として釜ヶ崎はまだ使命が終わってはいない。
そうした中、「さとにきたらええやん」に感化された里の女の子が映画作りをしているという話も聞いた。
あと数年かかるかもしれない、と言うが、その上映を楽しみにしたい。

この日の参加者は100余名、献金は9万弱が集まり、釜の支援へと小柳先生に託した。

2018年寿地区センター講演会 ~釜ヶ崎こども夜まわり30年の歩みから~

20180526-01
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2017年猛夏釜ヶ崎の町を歩きました。心地よいのんびり感は行ったことのない東南アジアのそれを髣髴させるもので、こどもの里の子どもたちは愛らしく、街行くオッチャンは見ず知らずの僕にパチンコの出玉の様子をフレンドリーに教えてくれます。
釜の街中の山王こどもセンターのこども夜まわりは、残念ながら僕の行った週の翌週、ご一緒は叶わずその様子を見ることはできませんでした。
子どもの里がこども夜まわりにかかわったのは、ここに来る子が襲撃に関わったことによると聞いています。教えなかったので襲撃に加わってしまったのなら、それは大人に責任の多くがあるでしょう。そこから夜回りを体験し始めて、オッチャンの優しさに触れたと聞きました。

しかし、それは僕が少ない情報から得たすこしのデータ。もう少したくさんの釜のこと、そこに過ごす子どもたちのことを聞きたいものです。
お時間のある方はぜひご参加ください。
ご一緒できそうな方は、ひと声お声掛けくださるとうれしいです。
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