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おとぎ話に出てくるのはおじいさんとおばあさん

RFL広島の帰りに立ち寄ろうとした祖谷峡。

「あなたは山が好きですか?海が好きですか?」と言う思考の問いかけには、僕はガラパゴスや小笠原のような海でもそして宮崎椎葉村、岩手県遠野やこの映画の祖谷峡のような山中の場所でも行き難い場所が好きです、と答えにならない答えを言うと思います。
交流が盛んで異文化の混じりあうようなイスタンブールや敦煌も捨てがたいが、独自の文化を持つ町々の方に触手は伸びます。

20180911-01

この映画は祖谷と言う町の素材をベースに作ったおとぎ話。
だから細かいことを突っついちゃあいけないのです。お爺さんひとりで然程裕福でなく日々の仕事で精一杯なのに赤子をどうして育てられたか、とか、そもそも見ず知らずのお爺さんが引き取れるはずがないことは百も承知です。

落語の演目に『桃太郎』と言うのがあります。眠れないという子どもにおとっつぁんが昔話を聞かせるのだけれど、いちいち理屈でおとっつぁんの方が焦れてしまいます。すると子どもは昔話の解説をするのですが
「昔々」「あるところに」などとして、時代や場所を細かく設定しないのは、いつの時代のどこの子どもにも聞かせられるようにした配慮で、おじいさんが山にいるのは「父親の恩が山よりも高いこと」、おばあさんが川にいるというのは実は海のことであり、「母親の恩が海よりも深いこと」を表現している。本当は父親と母親のことだが、話に愛着を持たせるために老けさせていると語っているうちにおとっつぁんの方が寝てしまう、というもの。
桃太郎だって唐突に鬼ヶ島に行くことを思い立つわけで、故郷の住民が目の前で鬼にやられているシーンはない。しかしそれを設定が悪いとは僕らは言わないのです。

そう思うとこの祖谷と言う日本の原風景の象徴のような山中におじいと美女が住んでいて、その美女が気立てもいいというのは全く持っておとぎ話のそれ。
それが都会との交流で消えていく寂しさと自分たちにも当然の権利として文明を謳歌するという喜びの狭間と言うテーマで、何よりも美しい日本の美を映像化しています。2つの違うものがカオスな状態を経てホモジナイトされるエントロピーの法則に叶おうとする中で、カオスな不安定な時ほど混じりたくもあり反発もするのです。

映画には天空の里のかかしたちも友情出演。物語云々よりもきれいな映像をファンタジックに楽しみたい人向けの映画でした。
いつかは本物のかかしを見に行きます(^_^)/

駆け込み訴え

神は何をさせるべきイエスをこの世に送ったのか? イエスの誕生は何か? と問われれば、僕らの罪を背負って死することで、僕らが赦される、つまり神との和解を仲介するための誕生だった、と言う信仰に基づき僕らはクリスチャンとしての日々を送っていると思います。

イースターの前の金曜日は、聖金曜日と呼ばれ、英語ではGoodFridayと言います。もともとはGodFridayだったそうですが、それでも、自分たちが信じているイエスが十字架にかかって死した日をGoodと呼ぶのは、やはりその後ろにある罪が赦されたことがあるでしょう。信仰無き方にとっては死の日をGoodと言うのはあり得ないことだと思います。

もう一歩話を進めると、ではどうしてイエスは十字架にかかったのか?と言う、木曜夜以降の話が大切になるのかもしれません。
それは、裏切り(イスカリオテ)のユダが、イエスのいる場所を捕まえようとしている人に教えたからでしょう。
暗闇(今日のように街灯もない、しかもオリーブ畑の中)ですので、月の明かりがあったとしても、顔をよく知らない兵士らはイエスを捕まえられない。そこでユダは自分が挨拶をした人がイエスだと伝え、それによってイエスは捕まってしまいます。

イエスは既にエルサレムで捕まり死す、と言う自身の未来を知っていたので、たとえユダがいなくても捕まったかもしれません。
しかし、歴史を作った(創造した)神は、ユダを介してイエスを捕まえさせます。
神は間違いなくユダを使われたわけです。
神にとってユダとはどういう存在か? はクリスチャンにとっていろいろな意見があると思います。
一例でいえば、ユダは死の後天に召されたのか?地獄に落ちたのか? は論議になるところかもしれません。

教団小田原教会のどの牧師の説教だったかは失念しましたが、ユダとペテロの違いのご説を聞いたことがあります。
ペテロの方が、内容も回数もひどいことをした。しかし、ペテロは許しを請うため謝罪をした(希望を捨てなかった)が、ユダは自ら絶望をした。
このお話はストンと入るお話で、どんなに大きなミスをして人は許せなくても神はお赦しくださることを信じています。

もっと言えば、イエスの死によって神が赦すのなら、イエスを死に追い込むという神の最大の仕事の功労者はユダなんでしょう。
神と人との「関係の絶対性」と言う観点で吉本隆明氏は著書の中でいくつかの本を紹介ましたが、その一冊

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の中の表題の作品をを読んでみました。太宰治氏はこの観点で神と人との関係の絶対性をどう感じてこの作品を書いたのか?いろいろと思うところはあります。
一つ太宰治氏のユダ論に同調するのは、ろばの子に乗ってエルサレム入場をするという旧約の成就をナンセンスのように書かれていた点。もしかしたら氏も旧約の成就よりも福音書のイエスの言動に心ときめいたのかも知れません。稚拙なおしゃべりと同じようなテーマが使われていることは何かくすぐったくも嬉しかったりします。成就と言うのはイエス自身が旧約の言葉を知らずにロバに乗ったのならそう呼んでいいですが、イエスが旧約に書かれたエルサレム入場の仕方がロバに乗ってであることを知っていてでしにロバを探させたならそれは成就ではないのではないでしょうか?
吉本氏のようにしっかりと読み切れていないせいか、僕には可愛さ余って憎さ百倍のユダの、しかしそんな気持ちながらもまだイエスを師として愛してやまないユダの、人間性だけが浮かび上がってなりません。イエスを自分だけのものにしたいと言うエゴイスティクに存在する内容は、文壇にデビューしてまだ日の浅い太宰治氏の大物作家への野望なのかもしれません。
しかし、葛藤があったのかもしれないのは、この次の作品が走れメロスで、ここではこの作品と逆さまの裏切らないすばらしさが書かれている点です。
太宰治氏は取り立てて好きな作家ではなかったので、教科書に載っていた走れメロス以外は読んだことありませんでしたが、せっかくたくさんの短編が載っている本を購入したので読み続けてみたいものです。

戦後55年を読む

書籍の編集をなされているキャンピングカー乗りの先輩友人が、氏のBlogの中で名前を挙げられていた「吉本隆明」氏は名前こそ聞いたことがあっても全く著書を読んだことのない思想家ですが、まぁ僕らにしたら氏のお嬢さんであるよしもとばなな氏の方がよく知っている存在。でも、ばなな氏すら読んだことはない(笑)

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「マチウ書」、それは聖書のマタイ書の批判からつけた名前。つまり氏はキリスト教にも深い造詣があるらしい、と読み始めたが、どうも富士見町教会に行っていたものの、「信仰」と「宗教」の違いによって教会に行くのをやめ独学でキリスト教の教義を理解しようとしたみたいです。
もしそうなら僕も、キリスト教は神と自分の間の「信仰」と協会を組織化するための教義の確立の「宗教」は違うと常々思っているので近しいかと思って読み進めましたが、僕などは足元にも及ばないほどの読書家でそうそうに自分と照らし合わせながら読むのはやめました。

神と人との「関係の絶対性」は、イエスから出たのか? それともその前からあったのをイエスが民衆にわかりやすく焼き直したのか? 逆に313年以降信仰共同体の確立のために強化された物なのか? 
マルクスはどう感じたのか? ルナンはどうなのか?シュバイツァーはどうか? ドレウスはどうか? マイスターエッグハルトはどうか? キルケゴールはヨブ記をどう読んだのか? 
また日本においても、幸徳秋水はどうか? 太宰治の「駆け込み訴へ」は? 「右大臣実朝」は? 

様々な作家の半分は名前も知らず、そして全作品読んだことのない中、お恥ずかしい次第ですが、氏の思想としての批評が正しいかどうかすらわからないままです。
氏のキリスト教像は読み終わった未だ理解していません。気の長い話ですが上記の作家の本を引き続き読んでいきたいと思います。

返って、宮沢賢治や歎異鈔の件(くだり)の方が理解しやすかったです。
そして第二次世界大戦論や戦後の国家論に話は移っていきます。
第二次世界大戦に開放を求めた。あの時代僕がそこにいたら時間の流れの中に戦争をしてでも行き詰まりを解放しようと思ったか?はまったくわかりません。少なくとも為政者の多くはそう思っていたでしょうし、軍国少年もそうでしょう。しかしそれ以外の人もそう思ったのか?は、これもその時代を生きていない僕にはわかりません。
しかし戦後日本がアメリカを受け入れたのと、中国・韓国が日本を憎んでいる対比の氏の考えを読めばなるほどと思うところはあります。

「マチウ書試論」どんな内容だったのか?残念ながらアマゾンの古本には出てきませんでした。
ま、でもまずは氏が紹介した上記の何冊かの本を読んでからでもいいのかも知れません。
ゆっくりと気長に読んでいきたいと思います。

そんなこんなで夏休みは終了。このあと連れ合いの実家のお盆の墓参りです。

カメラを止めるな

ご覧になった俳優さんやTVスターの人がツィツター等で「面白いから絶対見てほしい」と拡散したところからじわじわと火がついたのだとか。
しかし、見ず知らずの人が、おもしろいという評を下したところで、斜に構える僕はそれだけでは見に行こうとは思わないだろう。しかも、ゾンビ映画だぜ!?血がドバっと出るんだぜぃ!?
本当にお金かける意味あるのかい、と思っていたら、あちこちのリアル友人たちが挙って見てきて面白かったの評。リアル友達の女性たちは、ぼくが思うに首筋に噛み付かれて悶絶をしたり、ゾンビが真っ二つに切られて死んでいくのを楽しむ趣味はない人ばかりのようだし、という訳で見に行ってまいりました

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セリフや表情の旨くない主人公の男女。
サウンドノベルスのゲームで、その選択肢の先は死しかないだろうというのに、その選択肢を選ぶような映画スタッフ。出川さんだったら「ばかか、お前は!」というだろう。
へたくそな動きのゾンビ。もっといい俳優使えなかったのか!?
ゾンビ映画なのに、「趣味は?」「護身術です」ないだろう、そんな会話。
ドラクエで『勇者は切り株を調べた』『鉄の斧を見つけた』ってそんなところに斧あるんかい、って突っ込みを入れたくなるシーン。
そして映画なのにへたくそなカメラワークと間延びしたコマ (最悪)

なぜにみんなこんな変な映画にこう評価つけているのかわからないまま時間が過ぎていきます。

しかし、物語は起承転結もしくは序破急、と言われます。必ず、どこかに転若しくは破があります。
海外タイトル「ONE CUT OF THE DEAD」 この言葉が分かった時、面白くなかった起承若しくは序が輝きます。

20180813-01

詳細を知らずに見に行ってほしい、といわれます。まさにその通り、そして1つ1つのカットをしっかり覚えていてほしい。前述の僕の酷評が納得できるのです。
その瞬間この映画の素晴らしさが理解できると思います。難解なジグソーパズル、難しいピースがパチンとはまった爽快感、そこにどよめきと喝采が起きるのです。笑いさえ起こるのです\(^o^)/
久々に楽しめました。wさすがは4.4点/5点のスコアをたたき出した映画です。

RISEN 復活

日本人が、戦国物や幕末物の歴史を映像で表現したいように、欧米の方は聖書の世界を映像にしたいんでしょうね。

世のインターネット社会は、一度関連の商品を買うと、これもどうですか? と触手をくすぐる商品を紹介する悪しき習慣があり、釣り針に餌がついていれば本能で食らいつく魚の如く、ポチッとしてしまう悲しい性の持ち主でもある訳です。

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聖書、十字架の死に居合わせた百人隊長が「本当にこの人は神の子だった」と死んだ瞬間に言う言葉の真意がわからないのですが、共観福音書にそれぞれに百人隊長が載っているので、たぶん弟子たちにはインパクトある人だったのでしょうし、この映画の監督ケビン・レイノルズさんもそうした思いだったのかも知れません。

架空の主人公が聖書の世界を歩くのは、ベンハーと同じ手法で、宗教色が強いうと『なんだかなぁ~』と思う方も娯楽映画の一環として見れるし、僕のようないつかはイスラエルという旅行を夢見ている人にとっては、2000年前のイスラエルのシーンふんだんと言うのはそれだけで十分価値を感じます。

とはいえイエスの復活は映画化できるほど、僕らの想像で解明できるほど、単純なものではなく、作った人も困窮したでしょうし、それをこの映画から紐解こうとすればモヤモヤが残ると思います。墓守を厳命された兵士の証言が精いっぱいの表現方法だったのでしょう。
そして最後は、聖書の中の逸話をこれでもかと連続していて理解がしにくいかもしれません。

そしてこの手の映画をするとどうしても気になるのはイエス役は誰?と言う点。
今回はクリフ・カーティスさんと言う役者さんですが、ご覧になった皆さんはどうお感じになったでしょうか?絵画のシャープな感じではなく親しみのある顔で僕的にはGoodでした。

映画では一人もんもんと信じきれない主人公とあっけらかんと人生をエンジョイしている弟子たちの対比が描かれています。
そして主人公はイエスに尋ねます。常識では考えられないことを見聞きして戸惑っているという主人公に、「見ないで信じられるものは幸いだ」と言います。
この聖句も僕の中では納得しにくい御言葉です。主よ、僕はそんなに強くありません。

でも、あっけらかんとフィーリングで信頼を寄せている弟子たちを見て、友人に自分の知っている話をした時、素直に感動をして「へぇーそうなんだ」と目を輝かせてくれたら、それは語る方も嬉しいし、聞く方もきっと喜んでくれているんだと思います。
斜に構えて、「本当なの?」と言うよりいい関係なのは誰の目にも明らかで、喜び合える関係が「見ないで信じられる」ものなのかもしれません。疑心暗鬼になって後ろ向きに生きるよりは、騙されても騙すよりはましくらいに前向きに生きたい。
友人の言葉が嘘か真かは知らない、が、ただ友人のその一言を信じようから始まる「へェ、そうなんだ!」と言う軽い信頼こそに「見ないで信じる者は幸いです」がある。
素直になろう! 今回この映画を見て一番の感想は、何とも陳腐なものですが、まさに心からこの御言葉の意味が分かったような気がして、僕的にはとてもうれしかったりします。

気違い部落周遊紀行

人権問題や社会問題にかかわり原理的な対応をなされる方からはお怒りの声が聞こえそうなタイトルの本。

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この本を読もうとしたきっかけは、「気違い部落」と言う映画が1957年に製作され、そのロケが郷土で撮影された、と言う話を聞き、興味を持ったことに端を発します。
2つの差別用語がタイトルに入っているので、なかなか世には出て来ないのですが、この文学もそしてこれを基にして作られた映画も高い評価を受けているそうです。が、同時にこれは私小説的な要素も多分にあり、文中に「著者にとっては、この名称は村の英雄たちとの関係から、若干の面倒に値する危険がある」と書かれている通り、ウィキペディアの「きだみのる」を見ると恩方村の地元では「気違い」扱いへの反撥が激しく、きだに鎌を振りかざして寺からの立ち退きを迫ったと書かれています。
タイトルの2つの差別用語とともに、村人を英雄と呼びながら話を進めていくので、何か鼻につくのですが、その「何か」がなかなかわからなくそれがまたイライラを募らせるのですが、ショートショートのような超短編を読み進めていくごとに、うんうんとうなずき先ほどまであったイライラからストレスフリーになっていきます。
「部落」と言う言葉は、一般的に同和問題で代表される意味のない差別を余儀なくした歴史から発生した言葉と、「集落」の意味で里山の人が自らを言う言葉とあります。が、後者だとしても、都会に対応する卑下の意識はあったと思うのです。
士農工商という身分制度でも名目は農民は上位にあってもその生活はとても厳しく、2つの「部落」は過酷さに差異はあれども、中近代では困窮の歴史だと思うのです。そんな困窮の中で、でも人々は粛々と生きていきます。

今、このタイトルの本を目にした時、誰もが頭の中で過去の知識をフルに活用してどんな話だろうか?を推測します。
その時、やはり「気違い」と言うワード、そして「部落」と言うワードから想像すると思います。特に知識がある方、学びが多かった方は、「ムムム」と思うと思うのですが、たとえば文中に小さな桜の木について問うと、その横に芭蕉の句碑があり、だからありがたいと言われ「木の大きさと芭蕉から今までの年数を考えるとおかしい」と反論すると「いやこれは5代目だから」と平然と回答されるシーンがあります。本来はその木が重要ではなく、5代前の木が重要であり、そこで芭蕉が句を読んだことが重要なのが本末転倒になっている。高じて自分は26代目だ、と言うが、人間誰もが父と母から生まれるのでそれが何処の誰兵衛かはわからずとも必ず26代前の先祖はいるはずなのに、それを知っているだけで優位に立とうと思う人間の性を書いています。
つまりは、言葉に問わられて本質を見忘れるな、と言うのがこの本のタイトルなのでしょう。

そう言う意味では遠藤周作氏も同じようなことを何度も書いています。自分の経験値で作り上げてしまう神と言う言葉に惑わされるのなら玉ねぎでもいい、と言います。神は僕らの想像を超えた存在だから、自分の頭の中には作り上げられませんが、それでも映画のワンシーンや絵本の挿絵などで、真っ白な衣服をまとい白髭の爺さんを想像してしまうでしょうし、そこまで行かなくても人間の形を想像してしまいます。
そうした「常識」や「慣例」を破りながら、読む本なのでしょう。

そうは言っても逆はまた真ならずや、です。やはり人が嫌がる言葉、差別を促す言葉、聞いていて気持ちの良くない言葉を使うのはちょっとね、と思ってしまいます。


当初、何か鼻につく内容と記しました。実はそれは結構自分が持っている「常識」だったり住んでいる集落の「常識」だったりする点だったのです。「気違い部落」と言うのはまさに自分のことであり、自分の住む町だったのです。それを上から目線のように冷静に分析されているのが嫌だったのでしょうね。時折フランス語を交え偉大な先達の哲学者らの言葉を引用し、「好きでない自分の部分」が丸裸にされ曝(さら)されるのが嫌だったのかも知れません。
しかし確かなことは日本は「気違い部落」だったのです。いいも悪いも含めて・・・

今、この映画について仲間たちが存在を調べています。見つかったら上映会をしたいね、と言っています。
上映会を楽しみにしています。

別府よいとこもう一度おいで(笑)

二人の客はロトに言った。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」 創世記19章12-13節

20180703-01

友人がFacebookに
JR別府駅にそびえ立つこの銅像。
「子どもたちをあいしたピカピカのおじさん」
後ろには小さな鬼がぶら下がっています。

と、写真とともにUPしていました。両手を万歳して、軽やかなステップを踏むように片足を上げ、まるで「グリコのお兄さん」
笑顔で「鬼」を連れている銅像を見るのは初めてで・・・、しかめ面の多い銅像でこんな銅像立てるのは誰なん?
存じ上げなかった油屋熊八氏と言う方に興味を持ちAmazonで検索したらヒットしたのがこの本。
史実をたぶんに取り入れたフィクションのようです。

若き頃聞いた話では、旧約聖書創世記のソドムとゴモラは男色(同性愛)の不道徳な町のために滅ぼされた、でしたが、最近の解釈は全く違い、「旅人を大事にしなかった」からだというのが定説です。
主人公がホテル業を行おうとしたきっかけの「旅人を温かくもてなせ」(聖書の言葉はその通りではありませんが)、砂漠の地に住む民にとっては最低限のマナーであり、最高の喜びでもあったはずです。
町の人たちは町の広場にいる旅人を招くことなく、見つけたロトが自宅に招き入れれば差し出せと力づくで得ようとする、そんな姿に神は怒りの鉄槌を下すシーンがソドムとゴモラの物語です。
しかし旅人をもてなす文化、それは穏やかな日本人ももっているもので、お遍路さんの四国では顕著にその姿が見られます。

油屋氏は、日本人『も』もっているその当たり前の優しさを引き出し、そして商売に取り入れようとしたのでしょう。

しかし、史実に近くても分身のような架空の華乃さんの奮闘記であります。そしてこのホテルの最初のお客様が、与謝野鉄幹・晶子夫妻であったり、一昔前の「花子とアン」でもおなじみの白蓮さんがお忍びで来られたり、史実かどうかの確認はできませんが、ワクワク感は広がる楽しい内容でした。

ただ、油屋さんを教えてくれた友人の「こどもをあいした・・・」に関わるエピソードが全くなかったのは残念です。
別府は、高校の修学旅行と、あの民主党の目玉公約「高速道路1000円」の時と2回行きましたが、正直通り過ぎた感が否めません。
温泉マーク発祥の地、観光バス発祥の地、ずば抜けたアイディアマンの足取りを歩く旅してみたくなりました。

ドコモ・プラスハーティ と言う会社

先輩友人のBloger笹鶏さんこと笹村さんが氏のBlogで紹介されていた本。

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特例子会社という全く存じ上げないジャンルの会社にお勤めなのが郷土の田んぼ仲間という事、そして難しいタイトルのわりにわかりやすいというし、なによりも関心のあるジャンルのお話なのでさっそく通販をポチリ。
障がいをお持ちの方を積極的に雇われているドコモの子会社、とは何か?

松田教会の第2回 cafe workshop(~(仮称)畑の食卓~) でスピーカーとしてお呼びしたのは、小田原駅西口にあるえりむの創設者のお一人のTさん。
牧師の清水師も精神障がい者就労継続支援(B型) えりむには関わりのある方だし、Tさんも清水師も野宿を余儀なくする方々の支援をしている小田原交流パトロールの仲間。

将来的には松田教会内の喫茶もそうした障がいを持った方を雇う方向になるかもしれないとも思い、購入してみました。

本は、雇用法規などの難解な部分や障がいについての説明、それと交互にドコモ・プラスハーティーに入社した若者の成長と言う内容のコミック(漫画)で構成されています。
コミックはまず多い自閉症についての症状や対応の仕方が書かれていて、言葉は知っていながらも症状や対応方法を存じていない自閉症について学べました。
たとえば「片づけてください。」と言う言葉に、僕は指示した人間と自分の共通した「出しっぱなしのもの」を探せますが、それが難しい人には、「何を」「どこに」を言わなければいけないでしょう。
でもそれは障がいを持っている人だけではなく、『今日からアルバイトできました○○です。』と言う人に、書類を片づけて、と言ったら面食らうと思います。どの書類をどこに整理するのか?の指示だしをするのが正しい指示でしょうから、まぁ五十歩百歩なんでしょう。
そしてそのいい加減な指示出しは会社の中でトラブルを引き起こすことは多いです。

分かったつもり、は間違いのもとです。
逆に主語のない日本語も魅力でもあるのでしょうね。
『姉は男だ』と言う言葉は、性同一の問題ではなく、日本語の問題としてその前の会話が、『お前のところ兄弟の子どもはみんな女の子だったな』という会話があれば『いや、姉(の所は)男だ』と言う回答もあり得ます。
たぶん自閉症の人にしてみればこうした推測をしながらの会話は難しいのだろうという事が分かってきました。僕だってこの例題くらい”ひねられ”たら、その言葉の真意を想像できません。何を言っているんだ?と思ってしまうでしょう。

通りすがりの程度なら深く学ばなくてもいいのかも知れませんが、せっかくのスーパー講師が小田原にいるのですから、何かの折に岡本さんにもお話しして頂けたら嬉しいですね。

まずは素敵な本をご紹介くださった笹鶏さんに感謝。

グリーフケア

過日、垣添先生の3500kmウォークのほんの一瞬をお供させて頂きました。毎日歩いてお疲れの中、時には道に迷っても笑顔を絶やさず、僕らのたわいもないお話を聞きながら、そう、雑談までをも真摯にお聞きいただいたのは、後日先生の旅日記であるBlogにご感想をお書きくださったことでもわかるのですが、楽しい時間を過ごさせて頂きました。

どのような方だろう? と言う興味で、出発前に「巡礼日記」と言う1冊を読ませて頂きましたが、お人柄に惚れて帰ってから2冊購入。読まさせて頂きました。

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クリスチャンと言うのは死後神のみ元に戻ることを信じているので、死自身は怖くないのです。あっ、でもいざ死の床につくとやっぱり怖いのかも知れませんが(笑) 今は大丈夫です。
また、死以外のこの世での困窮に対しても、聖書は導いてくれ、けっこう穏やかに生きれていますし、神様の恵みを感じ、笑顔で入れる時間が長いです。
礼拝でも、幸い牧師に恵まれているからなのか、1週間充分な元気をもらえる説教と大きな声で歌える讃美歌によって充実をしております。

しかし、不安が無い訳ではないです。
一番の不安は、たぶん連れが先に召されることでしょう。これは恐怖です。何もできないという実労的なものも、そして何よりも一人ぼっちになってしまったという恐怖。想像しただけで怖いです。
ふと、思い返すと、キリスト教の、聖書の、説教の、中で、残された一人ぼっちの恐怖を癒すものはあるのか? というとなかなか思い出せません。
神による永遠の命、故に再会はあるという希望はあれども、それまでの間この世で悲しみを抱え一人で生きていかなければならないという寂しさを癒す箇所が浮かんでこないのです。

グリーフケアと言うそうです。特に二冊目の「悲しみの中にいる、あなたへの処方箋」はそんな不安と恐怖を漠然と持っている僕にはとても有益な本でした。連れが一応寛解した今でも、そんなチキンな考えを持っているのは僕くらいかと思いきや、多くのご家族を召された方が、消失感に悩んでいることを知り、そこから立ち直るべくさまざまな方策があることを知り、何よりも垣添先生ご自身がその苦しみの体験者であり、そこから立ち直って昨日ご一緒に歩いたことは、本当に勇気づけられるものでした。

グリーフケア、これは大事な言葉です。
人によってはこのWordが琴線に触れる、けれど別の人は同じ言葉に反応しないで大丈夫であったり、精神科のお医者さんを必要とした方が軽くて済んだりするというパーソナルやそれまでの半生に影響したりと難しかったりするようですが、事なき時に専門家を探しておくのは有益かもしれません。

ご本の中には知ったお名前もちらほら。大西秀樹先生は二宮教会でお話を伺うことができました。川越厚先生は、僕らに洗礼を授けた牧師さんの居た教会で青春時代を過ごしたと聞いています。
そして垣添先生ともご縁を頂きました。

良本です。ご興味湧きましたら是非ご覧ください。
心の中に「ふっ」と安心感が広がりました。仲間がいる、一人ぼっちじゃない、助けてがいる、そんな希望を感じられました。

空海 KU-KAI 美しき王妃の謎

2日続けて映画を見る。僕にとっては初体験。
でも映画の内容は全く違い、今日は原作の秀と大金をかけた娯楽作品。

20180225-01

しかし500ページの文庫本4冊分の原作を2時間にまとめるのはさすがに無理がありました。ので、原作への忠実性を必死に考慮しながら、まとまったストーリーにするために大きく変えて残念な部分も多分にありました。

日本語のタイトルは、空海でしたが、中国語のタイトルは妖猫傳です。黒猫に主眼点をおくかどうかも原作と映画は違っていたし、空海のホームズ張りの推理も重要視されていませんでした。
原作は沙門空海唐の国にて鬼と宴すはまさにその通りの話でしたが、映画の方は内容を明確に表現しているのは空海ではなく妖猫傳でしたね。

しかしなぜ黒猫だったのか? はKU-KAI(3)に書いた通りですが、なんでなんでしょうね? 災い転じて福となす、という言葉がありますが、まったくその逆さまで、福転じて災いと為すではありませんが、鶴(名前は龍だけれど)が猫になったと言うのと合わせてなんだか不思議な気がします。

チャン・ロンロンさん(楊貴妃役)の追い詰められた馬嵬での自分の運命を受け入れた表情はさすがに実力派と言われるだけあって素晴らしかったですが、僕の中ではシンバイジンさん(李白役)が一番のストライクでした。李白はきっとあんなだったんだな、と一人で映画を見ながらうなずいていました。
玄宗への思いも日中違うのかな?と。原作は李白を追い出したのは高力士が靴を脱がすという屈辱に腹を立ててですが、映画は李白の詩に嫉妬して(脅威を覚えて)玄宗自身がでしたね。

しかしセットとCGを駆使した長安。すばらしい町だったのでしょうねェ~。タイムマシンに乗って行ったことのない西安にたどり着いたような感じで、復元(?)された町並みや酒池肉林の宴会風景を見ただけでも満足です。願わくば映画の内容よりももう少しゆっくり美しい映像を見たかった(笑)

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