ゴールデンウィークの夜更かしの仕方

明日が何もない休み!こんな気が楽なことはない!!
という事で、夜を徹して読書三昧。

まずは井手先生のご本。

20170505-01

発刊されていたのは先生や仲間からも既にお聞きしていましたが、「経済書」と言う不得意なジャンル。ちょっと敬遠していました。
が、昨日のシンポジウムでの先生の基調講演で分かりやすい語り口で興味をそそられてポチッ。
なるほどわかりやすい。なぜこの基礎が○○経済研究会の主任研究員の方が話すような訳の分からない話になってしまうのだろう(笑)
そしてヌエのような恐怖。世界一の企業であるトヨタですら明日を恐れて保身のために会社の利益の確保に躍起になることと国民の格差問題。
タイトル通り18歳からの、つまりは18歳の人が経済に関心もてる本。僕でもよくよく理解できた経済学書でした。
一つの解決の方法が書かれています。ただし、世の経済方針がそうであっても、世の中は学問で出来上がってはいないことも書かれています。世の中は人でできているのだから、人の信頼があってこそこの社会が成り立つことを肝に銘じたいですね。

続いては

20170505-02

こちらもFacebookで知り得た本。
今日日大きな地震に対して公共施設をどうするのか? は関わっている人間共通の心配事項。
耐震工事、費用の問題、見た目・利用方法いろいろな思いがある中低層にすることで生徒の被害を軽減させること。自らの手で作ったという自信と「万が一の時」の納得。いい方は悪いですが倒れる時は何をどうやっても倒れます。地震に限らずこの世の事象はやはり神様の思惑です。でもそんな辛い事象を前にした時納得できる諦め方と理不尽と嘆く諦められなさがしょうじます。前者の比率が多ければ前を向いてまた頑張ろうと思えるのではないでしょうか? よしんば倒れることを前提にしなくても、そして自分たちは作るだけで中で学べない学生であっても後輩のためにと隣人愛を芽生えさせる絶好の機会だったと思います。

最後は

20170505-03


「さとにきたらええやん」と言う映画の上映会を前にして、釜ヶ崎子どもの里のことを少し学んでおります。この施設がカトリックの有志の施設であることから、やはり本田神父のご本から学ぶことは得ることが多いと購入。
20余年の小田原交流パトロール、反省と計画そして祈りをもつことなく粛々とルーチンワークのようになってきてしまったことは反省です。
行動は精神の上にあるもの。この精神論を無くしての活動は意味を半減させてしまうものでしょう。
映画と言う一つの事象をきっかけに自らの省みる時間を頂けました。感謝です。

3冊の本を一気読みして、今日明日はアウトドアで解放された気持ちのいい時間を過ごしたいものです。

夫のちんぽがはいらない

衝撃的なタイトルが話題になったことが知るきっかけになりましたが、読者の感想は極めてまじめに考えさせられた、と言うのでポチッ。

20170427-01

このBlog読者がこのタイトルが何を語っているかわからないという事はないと思いますが、そういうことだけじゃないのです。タイトルはたんなる一事象を取り立てて書いただけで、誰もが、どの家庭でも、いろいろな悩みがありそれと闘いながら、でも悩みだけではなく楽しみもあり粛々と「地球の歴史」は流れている、という事でしょう。

隣の芝生が青く見えると言います。そんな隣はきっと(隣の家である)自分の家の芝生が青く見えるんでしょう。
いわゆる「女遊び」をすることの問題性を考慮しながらも、もっと考えなければいけないこともあるでしょうし、何よりも夫婦間のとらえ方は夫婦以外の人があれこれ言うこともないのでしょう。

しかし、赤裸々すぎましたね。
なんていうのかな、見ず知らずの方の秘部だから冷静に読めたけれど、知り合いがここまでの話を相談されたら頭の中が真っ白になっちゃいそう(笑)

星灯(seito)

21世紀になった頃だろうか?何かのきっかけで、この方のBlogに出会った。
肩ひじ張らないソフトな言い回しで、しかし眼光鋭く世を見つめる内容に引き込まれて読んでいる中で、教師であり小説家であることを知った。
そんなROM(覗き見専門)の関係は、…だからもう10年以上になる。Blogに登場していた御嬢さんは小学、中学、高校を経て巣立ったことが書かれていた。
そんな氏が教会に足を運んでいるという記事をここのところ何度か見た。やはりクリスチャンとしては飛び上るほど嬉しい。厳密に言えば共産党と言う主義主張の根底には「宗教はアヘンである」と言うマルクスの言葉のように、そして一時期の中国のようにキリスト教を禁止した時代もあったので、厳密には共有できないのかもしれないけれど、弱者に寄り添うイエスの歩みと言う意味では共感できる部分は大いにあるのだと思う。
そんな氏のBlogに同人誌にキリスト教会での出来事を記したという事が書かれていて、居てもたってもたまらず送って頂いた。
町屋のイエスと題した短編の小説には、自分の職場での悩みとともに教会に足を運んで日の浅い氏の視線での教会のこととや読書家のことが書かれていた。そしてその読書会は僕の敬愛する遠藤周作氏の深い川だった。

20170301-01

わざわざこの短編の話を書いたのには実は訳があり、その小説の中で憲法九条をイエスとオーヴァーラップ指摘していたからである。
目からうろこ…まぁこれも聖書の言葉だが…、憲法九条の存在は言われて見ればイエスに似ている。
戦後の困窮、民衆は荒れ果てた中、無気力になっているのは、ユダヤ王国が滅び強大なローマの配下で困窮の生活の時代に似ている。
そこに理想が生まれたのが憲法九条であり、新生日本は自由と平等と自立の国家であり、もう二度とこんないやらしい戦争の世の中にしてはいけないと誰もがその誕生を祝った。これも、困窮の中、この方こそメシアではないか!、この苦しみから抜け出すためにはイエスを王にすることだというイスラエルの民の望みに通じる。
しかし、アメリカはアジアでの戦争に介入した。朝鮮動乱、ベトナム戦争。そのためには前線基地が必要だ。自分たちが素案作りに関わった九条の理念を覆すように軍備を日本国に迫った。日本は大企業が製造する軍備の部品などの特需と言う経済に目がくらみ一も二もなく賛同した。利権を守りたいという欲望を持つ人がいるのはいつの時代も同じだ。ファリサイ派の人々も自身の特権階級が無くなることは何としても避けたいと、信仰義認のイエスを敵対視した。九条が時の政府から目の敵にされ、いつしかこの法律をなくそうという勢力が生じたのと同じなのだ。
しかし、両者とも大きな問題が立ちはだかる。民意が伴わない。
政府は力をそぐ作戦に出た。曰く警察予備隊と言う警察組織だと言い、曰く歳入の1%を越えない枠の中での予算をと言い、曰く海外派兵はしないと言い、その都度前言を撤回し徐々に軍備を拡大し、今やどこの国でも戦争ができるようにした。仮想敵国と言う言葉を使い、情報の一部隠蔽により悪い噂だけを流し、隣国との仲違いは先方によるものと報じたために、国民の数割は防衛のためには九条廃止はやむを得ないとまで言わせるようになった。
一方イエスはどうなのか?ご存じの方はご存じようにイースターのちょうど一週間前大勢の民衆に「ホサナ、ホサナ」と迎えられエルサレムに入城したものの、ゲッセマネでイスカリオテのユダの裏切りで捕捉され、歓迎を受けたはずの民衆から「十字架につけろ」の大合唱で人としての最期を迎えた。
二つとも民意のスキルに比べて崇高であったのだ。残念ながら民意が追い付けなかった嫌いを感じざるを得ない。
しかし、イエスの死で終わった…かと言えばそうではない。21世紀宗教離れは言われているが今なお多くの人が聖書を読み、イエスの生き方に共感し、愛のなせる業を自分もと思い祈りながら生きている。
どっこいイエスは一粒の麦となった。(まぁ僕は一粒の麦と言うよりは種芋の方が分かりやすいのだが)
イエスと言う種芋から栄養を得た僕らはイエスの御後を歩きたいと欲している。瀕死のような九条でも、もしくはいつかの国会で改憲と言う憂き目にあうかもしれない九条だけれど、きっとその時は種芋のようにそこから再度平和への祈りが行動として表現されるだろう。
イエスは最後の時にも見捨てた弟子や民衆に対して怒りや恨みを持たなかった。それはいかりや恨みが負のパワーになるからではないか?九条は正のパワーだ。
光は闇に負けない。

わずか20行ほどの1トピックスが、九条がまるでマーガレット・F・パワーズ氏の足跡の詩のように
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」
と大切さを忘れている九条が僕らを背負って歩んでいるように思えた。

同人誌ご興味のある方はこちら

サイレンス(Ω)

ちょっと言葉が足りないと思い、1/24に改版。

スコセッシ氏のインタビュー
『遠藤周作が描いた「白でも黒でもない」曖昧なニュアンスを映画の中で忠実に再現すること』

この言葉は、言葉は違うが僕の感想のその部分だ。ただ僕の言わんとする「白黒」はあくまでも人にとっての白黒なので、氏の思いと同じか違うかは分からない。少なくとも遠藤周作氏の中には『因果応報』とか『勧善懲悪』と言った「白黒」は無かったと思う。
これは、僕の個人的な意見だけれど旧約の神が「名を呼んではならない、と言ったところから繋がる。なぜ名を呼んではいけないか?
それはたとえ「名」ではなくても「神」という名詞であったとしても共有すれば、固定観念が生まれる。それは、神に似せて人を作ったはずなのに、人の思考に神を下らせてしまうからではないか?
沈黙も、「愛に不完全な」人であったとしてもここで何か優しい言葉をかけてくれるはずなのに、なぜ「愛が完全な」神は黙っているのか?という人の「思い込み」の話であり、神の意志の話ではない、というところに遠藤氏は焦点を置いているのだと思う。それは晩年、神という言葉で誤解をするのならトマトや玉ねぎでもいい、という「固有名詞に誤魔化されない、ことを語っている所に通じる。
実は神はその時「あしあと(下記に参照)」という詩の如く、苦しんでいる神父を背負い苦しみを共にし、声をかけ続けていたのかもしれない。でも聞き取れない人間は、非常に悩み苦しんだり、または神を非難する。
それは「ああ、俺は神の言葉を聞くことが出来ない」のではなく「神よ何故言葉を発してくれないか」である。その非難は何なのか?
人は自分の想像力で自分勝手な神像を作っているのではないか?遠藤氏は神が自分の思い通りにならなくても非難してはいけない、そんなことを言いたかったのではなかったのか?
そしてその事に対して僕は遠藤周作氏のそれよりもスコセッシ氏のそれの方が商業主義的に見えた。遠藤周作氏がポイントとしたこの部分は薄れているように思えた。

でも、日本で“仕える人”となることで、真のキリスト教徒となる。と言うスコセッシ氏の言葉、そこに遠藤氏の母なる神像を照らしたのだとすれば、僕は監督の主題を見過ごして映画を見終えたのかもしれない。

ヴ~ン、このインタビュー記事を読み終えた今もう一度この映画を見たくてしょうがない。
でもまず「『最後の誘惑』を見ることが優先かな。ヨナよな会開催すっぺかな。

参照
あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ

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サイレンス(α)

初めて文章を見たのはまだ小学生の頃。母親が買ってきたぐうたらシリーズ。
今でも覚えている
「経済学部
 への期待」
と黒板に書かれた小論文のタイトル。緊張のあまり2つのどちらかから選ぶと思った受験生が盲腸のあとガスが出るのを家族一同で期待した論文を書いた、とか
まだウォシュレットをTOTOが開発したばかりでモニターとしてつけてもらったが、温度調節を忘れて客人のお尻を熱湯が直撃した話に笑いながら、読み漁り、そしてクリスチャンであることを知り、芥川賞受賞作品の「白い人・黄色い人」を買うに至りました。
ところが中学生には難解。当時の僕は、今の世の中の多くの人と同じようにクリスチャンのまくら言葉は「敬虔な」であって、神を裏切ることのない人がなるもんだと思っていましたので、何となく許せない話と言う感じで、それからしばらくは遠藤周作さんからは離れてしまいます。
そして続けて読んだのは三浦綾子さん。心地いいですよね、いかにもTheクリスチャン。こうでなくちゃ、と言う感じで読み漁るのですが、なんかげっぷが出る「生」への重さ、襟を正す生真面目さの厳しさを感じ、遠藤文学に戻ります。私が・棄てた・女とかおばかさんとか実直の中に信仰がある生き方を読んでいく中で、信仰が培われていったのかもしれません。そして、沈黙に出会うのです。
もうこの頃は「白い人・黄色い人」を最初に読んだような表面的なクリスチャン像ではなく、物語の中の人たちの信仰における愛を意識できるようになっていたので、この踏み絵を踏む時の神の言葉は涙なくして読めないほどの感動をしたもんです。

そういえば、遠藤周作氏の言葉で「母なる神」と言う言い方がありますが、この言葉も大好きで、キリスト教の神に僕も父親ではなく慈愛満ちた「母なる神」を感じてしまいます。無上の愛の存在を感じるのです。

そして30余年経った数年前。アメリカのなんだか有名な監督がこの作品を気に入り撮影したがっているという話を聞き、遠藤文学を映画に出来るのかい?と言う冷めた目で見ながらも完成を楽しみにしていました。
どうも浮気性(?)なのか、作ることを公言しながらも他作品を先に作ったりとやきもきさせましたが、いよいよ日本での公開が決まりました。
居てもたってもいられず、封切を待っていってきました。

20170121-01

ご覧になっていない方もたくさんいるでしょうから詳しく書くことは憚られますので、ちょっとしたインプレッションのみ。
原作を読んで30余年。忘れている点も多々ありますから、勘違いがあったらごめんなさい。
でも原作に非常に忠実だったと思います。惚れ込んだから忠実だったのかもしれません。
が…。
遠藤作品の「白い人・黄色い人」や「沈黙」は、神の愛だけに特化されて人はおろおろとし、そして悩むだけでしたが、マーティン・スコセッシ監督は、少し情に厚かったのか人の希望が描かれていました。果たして遠藤周作氏はこの『人の愛』が書きたかったのか?疑問ですが、なかなかの秀作でした。
でも、その疑問の分、ノンクリスチャンの方にはわかりやすい作品になったのかもしれません。
そして欧米のクリスチャン向けにはあちこちに聖書の場面がちりばめられています。たとえば主人公ロドリゴ神父が転ぶとき…、おっとその先は…内緒です。

ところでキチジローは棄教しました。棄教後は聖餐に与れるのでしょうか?
聖餐の本質はどんなものか?も気になっています。


PS
1/24 追記 サイレンス(Ω) 記しました

西村久蔵氏

mixiというSNSでマイミクさんからご紹介された本。

20170115-01

三浦綾子さんは好きな作家なので何冊も読んだことはあったけれど、残念ながらこの本はまだ未読。
その理由の一つに、西村久蔵と言うなじみのない方のお話と言う点がありました。が、、三浦さんが題材にしようとしたこととそのご本を読んでよかったことをUPされた友人の感想を見て俄然興味を持ちAmazonでポチッと。
昨日届いた本を出がけにぱらぱらとめくると
泥棒の親分、子分が盗んできたコートがこの西村氏のものと分かると「罰当たりが!」と失跡した話が15ページに書いてある。
信仰の仲間がすごいという聖人君子の話はあまり興味がわかないが、赤の他人のしかも泥棒が特別視する人とはどんな方なんだろう?
今日は残念ながら夜まで一日行事がいっぱい。
明日以降になるかもしれないけれど、今週の愉しみができた

怪獣少年の〈復讐〉

「怪獣使いと少年」を知人から紹介され、ウルトラマンやゴジラの映画の『行間』の読み方を教わりました。また、テレビドラマ『私が愛したウルトラセブン』では、ベトナム戦争時、同戦争に反対していた森次晃嗣さんらが脱走した米兵にパンドンの着ぐるみを着せて逃がそうとするシーンがありました。子ども向けのTVドラマではなくそこにあるのは蔑視・偏見のある世の中へのアンチテーゼ。平和への思い。
ドラマにかかわる全ての人が社会正義に乗っ取り義憤を番組にしていた、と言うのは、「怪獣使いと少年」を見て気が付いたことでした。
そんな切通理作氏の大作の続編が出たというので早速ポチッと。

20161214-01

さて、夕食を食べたらじっくり読みたいものです。

今年もシン・ゴジラなる映画がヒットしたと聞いています(僕は見ていませんが)
少しこのゴジラ映画の分析を評論を皆さんにもしてもらいたいのです。
昭和時代の終わりころからのゴジラ映画、ゴジラが過去に居たことを人間は知っています。そのうちにゴジラの細胞を採取したり、体の構造を熟知したりします。
つまりは、過去の地球上の戦いを知っているはずですが、戦う相手の敵怪獣には目もくれずゴジラ撲滅に全精力をかけるのは何故なのでしょう?
ゴジラが必ず勝つというのなら、ゴジラが敵怪獣との戦いで疲れたところでゴジラを始末するという作戦も間違いではないでしょうけれど、敵怪獣はそのたびに変わる「未知なるもの」
ゴジラを始末するよりゴジラと力をあわせて敵怪獣をやっつけるべきだと思うのですが、脚本がしっかりしているのにその点だけはなんだかなぁ~です。誰か何故毎回毎回そういう脚本なのか、分析してくれませんか(笑)

という訳で読書Timeに入ります(^_^)/

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歳時記の撮影

半日時間が空いたので近場でどこかと探したら藤沢で曼珠沙華がきれいな畔があるというので行ってきました。

20160917-03

ところが昨今のおかしな陽気。まだ全然咲いていませんでした。ヴ~ン残念。

20160917-01

20160917-02

あきらめないことにしたの

20160619-01

もうタイトルだけで十分です。こんなに気持ちがシンクロして、こんなにエールを送れる言葉ありません。
きっと小高のお仲間さんも、そしてRFLに参加しているがんサバイバーさんも、そしてこの僕もそうして生きています。
あきらめなくても「BEST」な人生にはならないかもしれないのは、飯舘村の人も小高の人も、RFLにくるがんサバイバーも僕も皆一緒です。
でも、やらないで後悔するのならやってやってやりきりたい。やりきった達成感は、ぜったいに満足を生み出します。

はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12章24節)
この聖句は、僕にとっては、喩が分かりにくいです。
この聖句は、僕にとっては、一つの種芋、あなたの体の栄養分が、多くのじゃがいもを宿す。です。
ユダヤの砂漠ではない日本の土壌ではその方が理にかなっているように見えます。

そうしたジャガイモの話です。
種芋の栄養を吸い取りながら、新しい小芋は土の中で大きくおいしくなっていきます。
僕らは出来上がったジャガイモをただ美味しいね、と食べていますが、そこには、土の中では、とても大きな世代交代が起こっているのです。
先人が耕した土壌の上で私たちは生きて、生きがいや信仰を得ている話を今日の礼拝で聞きました。

飯舘の豊かな土地で生きるという事も、僕らの信仰に生きることと同じような気がします。

ユダヤの人はバビロニアの捕囚を受けイスラエルと言う国は長い間滅びました。
でも(再生の形は悪く、その後の国の在り方も支持はできませんが)イスラエルと言う国は復活しました。

「あきらめないことにしたの」であれば必ずいつに日かです。僕らの時代ではないかもしれない。
でも、あきらめなければいつの日か、です。
「あきらめなきゃあ」飯舘村のかぁちゃんたちと言う種芋からきっと素晴らしい子芋がたくさん取れるはずです。

読む私たちが勇気づけられる本です。そして飯舘に行きたくなる本でもあります。
たぶん多くの人は人生の中であきらめを考える時があるかと思います。でも、あきらめない生き方は、しんどいですが絶対楽しいはずです。

南相馬―フィールドワークキャラバン(土とともに、の巻)

ご縁がある時はご縁が向こうから来てくれるのかもしれません。もう少しクリスチャンぽく言えば奇しき神のみわざがそういうストーリーを組んでくれたのかもしれません。
南相馬―フィールドワークキャラバンから帰ってきたのが5日の夜遅く。自宅のPCを開ければ久米さんが小田原に向かうとのコメント。
えっ!なんで?? お会いした時には何も言っていなかったじゃない、と思いながらも行き先は僕の友人の会社なので友人に電話をするとすでに到着しているとのこと。
1日ぶりに、久米さんと小林ご夫妻にお会いしお礼を言うことができました。

それから数日、鎌倉で飯舘村の映画があるよ、と教えてくれる友人あり。これは何としても行かなくては!といざ鎌倉。
5日に通った県道12号線から数Km北の佐須地区にお住いの榮子さんと芳子さんのドキュメント。

20160611-03

前述のBlogをはじめ、何度も同じことを書いていますが、フクイチ以降の生活の場としての問題は2つに分かれています。
移住して安全な生活の場を求める派と故郷で生きたい派。
それと放射性物質の他地域への飛散(移動)や食の安全、そして偏見問題と絡んで、江戸末期の討幕護幕・攘夷開国の2点が絡んだ大問題のような有様になっています。
「安全な」を求める声は体の健康を重視し、「帰村』を希望する声は心のよりどころを重視しているように感じます。
いずれの言い分も理解できる点が多いので意見を出すのが難しいところです。
今回の映画は、後者。つまり年齢的なことも関与しますが、心のよりどころを求める2人のばぁちゃん。

「穢れ」という言葉は忌まわしく思われる不浄な状態ですが、今日どちらかと言えば差別を助長する言葉として使われます。
でも元の言葉は、「ハレとケ」非日常と日常のケ=日常をすることができない状態をケ枯れから来ていると言われています。
まさに、原発難民として故郷を追われ故郷から10余Km 離れた未知の場で生活をすることは、ケができないケ枯れの状態でしょう。
なんとかケの状態になりたい、と人生の終盤、必死にもがいている姿は、見ている僕らにももどかしいです。
土とともに生きた百姓は土がケ枯れていれば、百姓もケ枯れるのです。作ったものが喜んで食べてもらえるからこそ働く意欲がわきます。ケの楽しい労働の日々が送れるのです。そのやるせなさを笑い吹き飛ばそうと顔晴っています。
でも、久米さんも言っていましたが、このお二人のおばーちゃんも「不幸」を背負っている訳じゃあありません。「かわいそうな人」でもないです。
ただケの毎日を送りたいと一生懸命誠実に生きている人たちです。

孫たちが墓参りに返ってきても放射線量を気にして1時間で帰宅してまた1人ボッチになって入りまう。一人ひっそりと仮設に戻って行く姿。そこでの食事はTVではなくディジタルフォトフレームに入れた孫の写真を自動切り替えにして見ています。
国との折衝では、孫と住めない苛立たちをぶつけます。

それでも、佐須味噌や染み餅といった郷土料理を他地域に教えに行き、この技術を持っている人が飯舘村からいなくなってしまっていても、教えた先で技術が踏襲され、そしていつの日か飯舘村に戻れるときに無くなった技術を逆輸入させてほしい、といいます。
監督の古居さんは長くパレスチナ地方の弱者を追いかけてきたドキュメント映画の監督です。
だからではないでしょうけれど、このフレーズを聞いてユダヤを思い出しました。

20160611-02
(映画会のあと、鎌倉に震災銭湯を作る会の会長(左)と古居みずえ監督(右))

子ども讃美歌のクリスマスの歌に
昔、ユダヤの人々は
神様からのお約束
尊い方のお生まれを
何百年も待ちました
というのがあります。
神がモーセにイスラエルの地をユダヤの民族に与えるといったのが紀元前13世紀頃。つまり1300年いつ生まれて自分たちを救ってくれるのかを、そしてそれはどんな形なのかも分からずずっと待っていたわけです。
救い主に会えず多くの人が次の代にその使命と希望を託し死んでいく、という壮大なドラマは、幼き頃の僕の中では希望よりも出会えなかった悲しみ・絶望感として映っていました。
しかし年を重ね、今になると、ユダヤの民の気持ちが分かります。自分が全てできないのは摂理で、できないものは次に委ねるべきなのでしょう。
ですから榮子さんのこの活動はすとんと胸の中に落ち、映画を見ながらエールを送りました。

もう一つおもしろかったのは榮子さんと芳子さんの関係。親戚筋に当たる年もほど近いお二人ですが、主導権を握る榮子さんと少し後ろを安心しながら歩く芳子さんの関係。
なんだか世の多くのご夫婦を見ているようでした。そして圧巻なのは、その芳子さんがいがんで入院する場面。
RFL(リレーフォーライフ)の会場に行ってもよく言われるのは男性は弱虫だということ。
自分の健診にもがんが発見されることが怖いから行かず、また連れががんを告知されようものならただおろおろして何をしていいかわからない毎日を過ごします。
結果を聞くのが怖いです。最悪を想定しながら勝手に落ち込みます。
そんな自分の姿がオーバーラップした榮子さん\(^o^)/
怖い気持ちもよくよくわかります。蔭ながら応援。病院でのお見舞いシーンで二人して号泣したのもよくよくわかるシーンでした

お二人のベースは「ケ」です。世の中がケ枯れをさせようとしたとき必死にケに戻すことは、本当に豊かな毎日を感謝の気持ちを持って生きるためには大切なことだと思います。
映画を通してお二人から大きな勇気を頂けた映画でした。

飯舘村は0.5μ㏜/h程度はあります。それを年間2m㏜にして帰村しようと村長は動いていると言います。
仮設ではなくふるさとで死にたいという村民の声もあることは確かながら、急いで選択をさせ、仮設や支援を終了させる必然性はどれだけあるのか、と思います。帰村してもリフォームから何から全部一からやり直しです。そうした部分や、病院・スーパーなどのインフラ整備が完全に復活し、町としての機能をするまでは仮設の解体はしてはいけないような気がします。
非のない飯舘村民は、妥協をすることなく、東電と原発を許可した国に対して、日本の各地に示したのと同等の1m㏜に1年にないに戻せ、を言い続けそれができないうちは責任を自覚し政策と補償(年数が経てば経つほど精神的苦痛が増すので補償額の増額も)で対応しろと言い続けていいのではないでしょうか?
原爆被爆者から始まり各公害病も、国は責任を取ると言いながらも引き伸ばしで関係者が亡くなっていくのを待っているような気がします。その引き伸ばし作戦にピリオウドを打つためにも「攻めた」要求を突き付けていいと思いますよ。
自ら自由の巾(選択肢)を狭める必要は全くないのです。
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