気違い部落周遊紀行

人権問題や社会問題にかかわり原理的な対応をなされる方からはお怒りの声が聞こえそうなタイトルの本。

20180712-01

この本を読もうとしたきっかけは、「気違い部落」と言う映画が1957年に製作され、そのロケが郷土で撮影された、と言う話を聞き、興味を持ったことに端を発します。
2つの差別用語がタイトルに入っているので、なかなか世には出て来ないのですが、この文学もそしてこれを基にして作られた映画も高い評価を受けているそうです。が、同時にこれは私小説的な要素も多分にあり、文中に「著者にとっては、この名称は村の英雄たちとの関係から、若干の面倒に値する危険がある」と書かれている通り、ウィキペディアの「きだみのる」を見ると恩方村の地元では「気違い」扱いへの反撥が激しく、きだに鎌を振りかざして寺からの立ち退きを迫ったと書かれています。
タイトルの2つの差別用語とともに、村人を英雄と呼びながら話を進めていくので、何か鼻につくのですが、その「何か」がなかなかわからなくそれがまたイライラを募らせるのですが、ショートショートのような超短編を読み進めていくごとに、うんうんとうなずき先ほどまであったイライラからストレスフリーになっていきます。
「部落」と言う言葉は、一般的に同和問題で代表される意味のない差別を余儀なくした歴史から発生した言葉と、「集落」の意味で里山の人が自らを言う言葉とあります。が、後者だとしても、都会に対応する卑下の意識はあったと思うのです。
士農工商という身分制度でも名目は農民は上位にあってもその生活はとても厳しく、2つの「部落」は過酷さに差異はあれども、中近代では困窮の歴史だと思うのです。そんな困窮の中で、でも人々は粛々と生きていきます。

今、このタイトルの本を目にした時、誰もが頭の中で過去の知識をフルに活用してどんな話だろうか?を推測します。
その時、やはり「気違い」と言うワード、そして「部落」と言うワードから想像すると思います。特に知識がある方、学びが多かった方は、「ムムム」と思うと思うのですが、たとえば文中に小さな桜の木について問うと、その横に芭蕉の句碑があり、だからありがたいと言われ「木の大きさと芭蕉から今までの年数を考えるとおかしい」と反論すると「いやこれは5代目だから」と平然と回答されるシーンがあります。本来はその木が重要ではなく、5代前の木が重要であり、そこで芭蕉が句を読んだことが重要なのが本末転倒になっている。高じて自分は26代目だ、と言うが、人間誰もが父と母から生まれるのでそれが何処の誰兵衛かはわからずとも必ず26代前の先祖はいるはずなのに、それを知っているだけで優位に立とうと思う人間の性を書いています。
つまりは、言葉に問わられて本質を見忘れるな、と言うのがこの本のタイトルなのでしょう。

そう言う意味では遠藤周作氏も同じようなことを何度も書いています。自分の経験値で作り上げてしまう神と言う言葉に惑わされるのなら玉ねぎでもいい、と言います。神は僕らの想像を超えた存在だから、自分の頭の中には作り上げられませんが、それでも映画のワンシーンや絵本の挿絵などで、真っ白な衣服をまとい白髭の爺さんを想像してしまうでしょうし、そこまで行かなくても人間の形を想像してしまいます。
そうした「常識」や「慣例」を破りながら、読む本なのでしょう。

そうは言っても逆はまた真ならずや、です。やはり人が嫌がる言葉、差別を促す言葉、聞いていて気持ちの良くない言葉を使うのはちょっとね、と思ってしまいます。


当初、何か鼻につく内容と記しました。実はそれは結構自分が持っている「常識」だったり住んでいる集落の「常識」だったりする点だったのです。「気違い部落」と言うのはまさに自分のことであり、自分の住む町だったのです。それを上から目線のように冷静に分析されているのが嫌だったのでしょうね。時折フランス語を交え偉大な先達の哲学者らの言葉を引用し、「好きでない自分の部分」が丸裸にされ曝(さら)されるのが嫌だったのかも知れません。
しかし確かなことは日本は「気違い部落」だったのです。いいも悪いも含めて・・・

今、この映画について仲間たちが存在を調べています。見つかったら上映会をしたいね、と言っています。
上映会を楽しみにしています。

別府よいとこもう一度おいで(笑)

二人の客はロトに言った。「ほかに、あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。 実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」 創世記19章12-13節

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友人がFacebookに
JR別府駅にそびえ立つこの銅像。
「子どもたちをあいしたピカピカのおじさん」
後ろには小さな鬼がぶら下がっています。

と、写真とともにUPしていました。両手を万歳して、軽やかなステップを踏むように片足を上げ、まるで「グリコのお兄さん」
笑顔で「鬼」を連れている銅像を見るのは初めてで・・・、しかめ面の多い銅像でこんな銅像立てるのは誰なん?
存じ上げなかった油屋熊八氏と言う方に興味を持ちAmazonで検索したらヒットしたのがこの本。
史実をたぶんに取り入れたフィクションのようです。

若き頃聞いた話では、旧約聖書創世記のソドムとゴモラは男色(同性愛)の不道徳な町のために滅ぼされた、でしたが、最近の解釈は全く違い、「旅人を大事にしなかった」からだというのが定説です。
主人公がホテル業を行おうとしたきっかけの「旅人を温かくもてなせ」(聖書の言葉はその通りではありませんが)、砂漠の地に住む民にとっては最低限のマナーであり、最高の喜びでもあったはずです。
町の人たちは町の広場にいる旅人を招くことなく、見つけたロトが自宅に招き入れれば差し出せと力づくで得ようとする、そんな姿に神は怒りの鉄槌を下すシーンがソドムとゴモラの物語です。
しかし旅人をもてなす文化、それは穏やかな日本人ももっているもので、お遍路さんの四国では顕著にその姿が見られます。

油屋氏は、日本人『も』もっているその当たり前の優しさを引き出し、そして商売に取り入れようとしたのでしょう。

しかし、史実に近くても分身のような架空の華乃さんの奮闘記であります。そしてこのホテルの最初のお客様が、与謝野鉄幹・晶子夫妻であったり、一昔前の「花子とアン」でもおなじみの白蓮さんがお忍びで来られたり、史実かどうかの確認はできませんが、ワクワク感は広がる楽しい内容でした。

ただ、油屋さんを教えてくれた友人の「こどもをあいした・・・」に関わるエピソードが全くなかったのは残念です。
別府は、高校の修学旅行と、あの民主党の目玉公約「高速道路1000円」の時と2回行きましたが、正直通り過ぎた感が否めません。
温泉マーク発祥の地、観光バス発祥の地、ずば抜けたアイディアマンの足取りを歩く旅してみたくなりました。

ドコモ・プラスハーティ と言う会社

先輩友人のBloger笹鶏さんこと笹村さんが氏のBlogで紹介されていた本。

20180622-01

特例子会社という全く存じ上げないジャンルの会社にお勤めなのが郷土の田んぼ仲間という事、そして難しいタイトルのわりにわかりやすいというし、なによりも関心のあるジャンルのお話なのでさっそく通販をポチリ。
障がいをお持ちの方を積極的に雇われているドコモの子会社、とは何か?

松田教会の第2回 cafe workshop(~(仮称)畑の食卓~) でスピーカーとしてお呼びしたのは、小田原駅西口にあるえりむの創設者のお一人のTさん。
牧師の清水師も精神障がい者就労継続支援(B型) えりむには関わりのある方だし、Tさんも清水師も野宿を余儀なくする方々の支援をしている小田原交流パトロールの仲間。

将来的には松田教会内の喫茶もそうした障がいを持った方を雇う方向になるかもしれないとも思い、購入してみました。

本は、雇用法規などの難解な部分や障がいについての説明、それと交互にドコモ・プラスハーティーに入社した若者の成長と言う内容のコミック(漫画)で構成されています。
コミックはまず多い自閉症についての症状や対応の仕方が書かれていて、言葉は知っていながらも症状や対応方法を存じていない自閉症について学べました。
たとえば「片づけてください。」と言う言葉に、僕は指示した人間と自分の共通した「出しっぱなしのもの」を探せますが、それが難しい人には、「何を」「どこに」を言わなければいけないでしょう。
でもそれは障がいを持っている人だけではなく、『今日からアルバイトできました○○です。』と言う人に、書類を片づけて、と言ったら面食らうと思います。どの書類をどこに整理するのか?の指示だしをするのが正しい指示でしょうから、まぁ五十歩百歩なんでしょう。
そしてそのいい加減な指示出しは会社の中でトラブルを引き起こすことは多いです。

分かったつもり、は間違いのもとです。
逆に主語のない日本語も魅力でもあるのでしょうね。
『姉は男だ』と言う言葉は、性同一の問題ではなく、日本語の問題としてその前の会話が、『お前のところ兄弟の子どもはみんな女の子だったな』という会話があれば『いや、姉(の所は)男だ』と言う回答もあり得ます。
たぶん自閉症の人にしてみればこうした推測をしながらの会話は難しいのだろうという事が分かってきました。僕だってこの例題くらい”ひねられ”たら、その言葉の真意を想像できません。何を言っているんだ?と思ってしまうでしょう。

通りすがりの程度なら深く学ばなくてもいいのかも知れませんが、せっかくのスーパー講師が小田原にいるのですから、何かの折に岡本さんにもお話しして頂けたら嬉しいですね。

まずは素敵な本をご紹介くださった笹鶏さんに感謝。

グリーフケア

過日、垣添先生の3500kmウォークのほんの一瞬をお供させて頂きました。毎日歩いてお疲れの中、時には道に迷っても笑顔を絶やさず、僕らのたわいもないお話を聞きながら、そう、雑談までをも真摯にお聞きいただいたのは、後日先生の旅日記であるBlogにご感想をお書きくださったことでもわかるのですが、楽しい時間を過ごさせて頂きました。

どのような方だろう? と言う興味で、出発前に「巡礼日記」と言う1冊を読ませて頂きましたが、お人柄に惚れて帰ってから2冊購入。読まさせて頂きました。

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クリスチャンと言うのは死後神のみ元に戻ることを信じているので、死自身は怖くないのです。あっ、でもいざ死の床につくとやっぱり怖いのかも知れませんが(笑) 今は大丈夫です。
また、死以外のこの世での困窮に対しても、聖書は導いてくれ、けっこう穏やかに生きれていますし、神様の恵みを感じ、笑顔で入れる時間が長いです。
礼拝でも、幸い牧師に恵まれているからなのか、1週間充分な元気をもらえる説教と大きな声で歌える讃美歌によって充実をしております。

しかし、不安が無い訳ではないです。
一番の不安は、たぶん連れが先に召されることでしょう。これは恐怖です。何もできないという実労的なものも、そして何よりも一人ぼっちになってしまったという恐怖。想像しただけで怖いです。
ふと、思い返すと、キリスト教の、聖書の、説教の、中で、残された一人ぼっちの恐怖を癒すものはあるのか? というとなかなか思い出せません。
神による永遠の命、故に再会はあるという希望はあれども、それまでの間この世で悲しみを抱え一人で生きていかなければならないという寂しさを癒す箇所が浮かんでこないのです。

グリーフケアと言うそうです。特に二冊目の「悲しみの中にいる、あなたへの処方箋」はそんな不安と恐怖を漠然と持っている僕にはとても有益な本でした。連れが一応寛解した今でも、そんなチキンな考えを持っているのは僕くらいかと思いきや、多くのご家族を召された方が、消失感に悩んでいることを知り、そこから立ち直るべくさまざまな方策があることを知り、何よりも垣添先生ご自身がその苦しみの体験者であり、そこから立ち直って昨日ご一緒に歩いたことは、本当に勇気づけられるものでした。

グリーフケア、これは大事な言葉です。
人によってはこのWordが琴線に触れる、けれど別の人は同じ言葉に反応しないで大丈夫であったり、精神科のお医者さんを必要とした方が軽くて済んだりするというパーソナルやそれまでの半生に影響したりと難しかったりするようですが、事なき時に専門家を探しておくのは有益かもしれません。

ご本の中には知ったお名前もちらほら。大西秀樹先生は二宮教会でお話を伺うことができました。川越厚先生は、僕らに洗礼を授けた牧師さんの居た教会で青春時代を過ごしたと聞いています。
そして垣添先生ともご縁を頂きました。

良本です。ご興味湧きましたら是非ご覧ください。
心の中に「ふっ」と安心感が広がりました。仲間がいる、一人ぼっちじゃない、助けてがいる、そんな希望を感じられました。

空海 KU-KAI 美しき王妃の謎

2日続けて映画を見る。僕にとっては初体験。
でも映画の内容は全く違い、今日は原作の秀と大金をかけた娯楽作品。

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しかし500ページの文庫本4冊分の原作を2時間にまとめるのはさすがに無理がありました。ので、原作への忠実性を必死に考慮しながら、まとまったストーリーにするために大きく変えて残念な部分も多分にありました。

日本語のタイトルは、空海でしたが、中国語のタイトルは妖猫傳です。黒猫に主眼点をおくかどうかも原作と映画は違っていたし、空海のホームズ張りの推理も重要視されていませんでした。
原作は沙門空海唐の国にて鬼と宴すはまさにその通りの話でしたが、映画の方は内容を明確に表現しているのは空海ではなく妖猫傳でしたね。

しかしなぜ黒猫だったのか? はKU-KAI(3)に書いた通りですが、なんでなんでしょうね? 災い転じて福となす、という言葉がありますが、まったくその逆さまで、福転じて災いと為すではありませんが、鶴(名前は龍だけれど)が猫になったと言うのと合わせてなんだか不思議な気がします。

チャン・ロンロンさん(楊貴妃役)の追い詰められた馬嵬での自分の運命を受け入れた表情はさすがに実力派と言われるだけあって素晴らしかったですが、僕の中ではシンバイジンさん(李白役)が一番のストライクでした。李白はきっとあんなだったんだな、と一人で映画を見ながらうなずいていました。
玄宗への思いも日中違うのかな?と。原作は李白を追い出したのは高力士が靴を脱がすという屈辱に腹を立ててですが、映画は李白の詩に嫉妬して(脅威を覚えて)玄宗自身がでしたね。

しかしセットとCGを駆使した長安。すばらしい町だったのでしょうねェ~。タイムマシンに乗って行ったことのない西安にたどり着いたような感じで、復元(?)された町並みや酒池肉林の宴会風景を見ただけでも満足です。願わくば映画の内容よりももう少しゆっくり美しい映像を見たかった(笑)

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青春夜話

親しくさせて頂いている方のご親戚という事でお名前はかねがね伺っていた切通理作氏。その方からぜひと勧められたウルトラマンに秘められた社会問題の著書やご母堂様と書かれた15歳の被爆者と言う本。
親しい人のお人柄と僕の読んだ何冊かの本から想像した映画監督初作品、それは僕の予想と全く異にしたものでした。

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しかし、映画を見ていて心地いい。エロい作品、と言ってしまえばそうなのかもしれないけれど、不思議とそのアダルトさはない。それは物語のストーリーにそのエロさが負けているからなのかもしれない。
「分かった、学校に復讐してやるんでしょ?」 僕もどちらかと言えば、青春を謳歌した方ではなく、屈折した青春時代だった。今思い返せば、あれもすればよかった、これもすればよかった、と青春ならでは可能なさまざまなことを、若さゆえの爆発を何もしないで通り過ぎてきた感がある。
頭の中では、もてたい、とか、かっこよくなりたい、とか考えはすれども、もてる努力もかっこよくなる努力もしないで、斜に構えて俺とは違う世界とうそぶいていたのかもしれない。
頭の中の妄想を実現する勇気がなかったのかもしれない。


切通理作氏は僕より4つ年下だとか。54歳の誕生日を打変えたばかりだとFB(FeceBook)で拝見した。
青春にやりたかったことをたとえば30の若い頃に公表するのは照れくささがあるかもしれない。でも齢50を過ぎた時に、あーしたかったな、とその夢を映画に託すことができたのがこの青春夜話なのかもしれないと思う。

北野武さんが、映画を作り続けているが、やくざ映画物ばかりだ。もしかしたら根底は同じなのかもしれない。
リアルではできない欲望をバーチャルで描く、それが映画なのかもしれない。
だとしたら僕も映画監督になったら間違いなく、北野武氏にはならずに切通理作氏になるだろう(笑)

ただ、頭の中でモンモンと性への思いを膨らませていても、現実その姿を見るのは僕は忍びない。それはよく言われる秘め事と言うように僕の中ではあからさまに秘めないのが好きではない。一人でこっそりとならいざ知らず、大勢の観客と一緒に人のsexシーンを見るのはどうも憚れる。
気恥ずかしい。秘めらせてほしい(笑)

一生懸命この世の中生きている2組4人。でもそのすべてが社会の歯車の重要なポイントではないことでストレスをためている中、破壊をすることで変革しようとする。一昔前の赤軍派が暴力的革命と言って社会転覆をしようとするほど度胸もないし野暮でもない。学生運動が終焉して若者が小利口になった世代の僕らの特徴かもしれない。自分の周囲のみに影響を与えることが復讐なんだ、といわんばかりのささやかな反抗。
弱者が報われない社会においてこの映画をどう評価するのだろう?
監督自身が演じた野宿生活者の人が持っていた浦島太郎の絵本。開けた玉手箱の煙の舌はパンドラの箱のような希望と言う者が残っているのかな?
喬さんのように一皮むけて振り切れた新しい人生があるのかな?
深琴さんは変わっていけるのかな?
気になってしょうがない。

映画上映後、監督が司会をしてのトークショー。もう少し色々と思いを聞きたかったな。
パンフにサインしてもらいました。

KU-KAI(4)

拷問の一種に「すりこみ」があります。
「お前はもう必要とされていない」「仲間はすでに口を割った」ことを繰り返し繰り返し伝えることで、「そうなのか!」と偽情報を信じ込ませることです。
現に埼玉県朝霞市の女子中学生誘拐監禁事件の犯人も「親はすでに見捨てて捜査もされていない」ことを繰り返し伝え、逃げる気を削いだといわれています。

江戸川乱歩氏のD坂の殺人事件では、目撃者が犯人の服装を証言しますが、1人は白だと言いもう一人は黒だというのです。本気でそう証言しているので捜査が行き詰まり明智探偵登場となるわけですが…。
人は目で見たものを神経を通して脳に伝え、保管し、必要とあらば思い出し、神経を経て口に伝えます。目と脳と口はそれぞればらばらの器官で神経と言った細い線のみでつながっているのですし、脳内のインプット場所と保管場所とアウトプッチの場所もそれぞれ神経でつながっています。

TVのバラエティで 人間観察バラエティモニタリング と言う番組があります。周囲が一致協力しだました時、どういう反応をするのかを隠しカメラで見るという内容ですが、例えば怪談話をした後でコップが勝手にテーブルから落ちる(という仕掛け)をターゲット以外が全員無視した時、そのラップ現象を信じるのか? 運転手と乗客2人だけのタクシーの中で、女の人の鳴き声が聞こえたのに運転手は何も聞こえないと言ったらどうするか? などをTVモニターで見ているわけです。
すると、だんだん自分が信じられなくなっていくのです。目で見た真実を脳が受け入れなくなったり、脳が見ていないふりをしたりします。自分自身で情報を変えてしまうのです。

僕らは夢を見ます。起きて、ああ夢だったのだ、と安堵(残念)がる時がありますが、夢だったのか現実だったのかは自分自身でそう信じ込んでいるだけなのかもしれませんし、「寝言」は確かに自分の口から出るものですが、自分の意志でしゃべっているわけではありません。

もっと極論から言えば、俳優さんは、自分の意志で演じてセリフをしゃべっていますが、自分の意志ではありません。言わされているだけです。
ですが、「役に染まる」と言います。アイドルも脱却するタイミングは難しい、といいます。見ている人は「やらされている」ことを知りながらも、まるで本人の意思でやっているように錯覚する人も少なからずいます。

僕らの「脳」は結構頼りないものなんだな、と思うのです。勝手に「刷り込み」で正しかった事実を否定できてしまうのです。
オウム真理教や戦時下の日本の教育のように、人を殺すのは正しいという「刷り込み」があれば、他人からそれは違うと言われてもその他人の意見を受け入れられなくなります。

20180202-02

この物語の中で、さまざまな妖術が出てきます。が、その妖術のほとんどがいわゆる催眠術のようなものである時、空海のような冷静な判断と自己への自信は大切なものになるでしょう。
それが仏教の言う修行なのかもしれませんし、教会が大切にする祈りあいなのかもしれません。己の弱さとの闘いはいつの世もあるのでしょう。一番の厳しい闘いの相手なのでしょう。
本のインプレッションにならないまま4冊の本の紹介を終了いたします。ご興味頂けましたら映画「空海」は2月24日から公開ですし、本は書店、インターネットで購入することも図書館で借りることも出来ると思います。
そしてもう一つ、玄宗と楊貴妃の話ももう少し読みたくなりました。

KU-KAI(3)

生前にひどい目にあって怨念を持つ動物といえば、ヘビやキツネとともに猫が代表格のように思います。
恐怖が物語的に構築されていく過程には何があったのだろう?と言うのは興味の湧くところです。ヘビやキツネは農業神の神使(つまりはネズミを取り、米を守る)から大切にせよ、と言う教えから、殺すなかれ、つまりは殺すと祟るという発想になったのだと思いますが、猫も同類の経緯からなのでしょうか?

ヘビやキツネはペットとして飼うことは多くないかと思いますが、猫は犬とともに愛玩動物としてなじみが深いです。
そんな動物が怨念を持つと恐れられる動物となる経緯はどこなのか? 犬になく猫のみが怨念を持つのは、桃太郎の家来の話ではないですが忠誠心がなく、自己中的な行動にあるのでしょうか?

そもそも日本の化け猫伝説は中国から来たようで、猫鬼神という老山猫の精を蠱毒にし、憑き物とする話は広く伝わっています。日本の猫又然り、老猫は化けやすいようです。
しかしアジアだけでなく欧米にも猫の妖怪は存在するようで、オヴィンニク(ロシアやスラブ)、ケット・シー(スコットランド)、ワンパス・キャット(テネシー州)やバステト(古代エジプト)、バール(旧約ソロモン王時代)とありますが、僕が知らないだけかもしれませんが、やはり欧米においては猫が化かしたり怨念を持ったりすることは少ないようです。
そうそう、でも黒猫は縁起が悪いんでしょ? というご意見もあるかもしれませんが、これはもともとは、黒猫は元々「餡子(あんこ)猫」と呼ばれて福の象徴だったので、その「福」に素通りされるなんて縁が無いね、という意味で「黒猫に横切られると縁起が悪い」という言葉が生まれた、だけで全くの後世のこじつけです。

20180202-01

さて、二ノ巻まででも1つの大きな物語として完成したと言ってもいいわけで、そんな妖猫と楊貴妃の物語、続いてはその解決に向かっていくわけです。
さて、仏式の葬儀などに列席した時に聞く経文。色即是空。夢枕獏氏はこの本を使って「仏法は無力だ」と語らせていますが、僕もクリスチャンとしてキリスト教は無力だと思っています。それは多くのクリスチャンや牧会者も同じ気持ちで、故に「み心のままに」と祈るのです。自分の願いを神に託して神が代行するなんておこがましいのです。神(この本で言う宇宙)の方が、人間の作りし宗教よりはるかに・・・比較できないものであることをわかりやすく書いています。葬儀などで聞く言葉の意味を知れて嬉しい知識となりました。
そうでありながら『空』を理解できない『色』・・・仏教はそれを煩悩と呼ぶのでしょうし、キリスト教も中世の修道院などはそうした邪念を捨てることに懸命になった時代もありましたが、そこからの脱出は人が罪の中に生まれた以上は無理なんでしょう。でも願わくば、死した以降怨念を残すこの物語のようにはなりたくありませんね。

世界三大美女 クレオパトラ7世、楊貴妃、ヘレネー(小野小町)。こちらも明治になって、料理じゃないが和洋中がバランスが取れるだろう、と日本人が勝手に小野小町に変えたと言われていますが、その一人の楊貴妃、そして取り巻く阿倍仲麻呂や関係者。歴史の荒波に翻弄された2人とその出来事を50年後に紐解く空海と白楽天。2巻かけて書かれた流れ、実はここからがいよいよ佳境のようです。

KU-KAI(2)

李白舟に乗りてまさに行かんと欲っす・・・。
それと
天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝となりましょう。

古文漢文は嫌いじゃあなかったですが、40余年離れているとすっかり記憶から無くなりましたが、上記2つはインパクト強かったのでしょうか、今でも諳んじれるのです。
中国の山中の村、といえばたけのこのような墨絵の山の中、そこを流れる急流。しかも川の深さは深さ千尺。今でいう300mの深さ、まさに深淵の崖の上の小道に数十人が並び、谷底の小舟を見送る姿を想像していました。『ありがとう』「さよなら」そんな李白の声は山中腹の道の住民には届かず、大きく手を振り別れを惜しんだ…なんて風景を想像しながら漢文の時間を過ごしたものです。
しかし、齢六十弱、世の中の利便性も大きく変わり、GoogleMapやインターネット記事なども手軽に読めるようになったので、桃花潭を検索し、こんなBlogを見つけました
李白を招いた汪倫の巧みさ、しかしそのもてなしに感服した李白は詩に謳うほど感激をしたんでしょう。300mもあるこの川の深さより厚いもてなしを受けた、と。
しかし、Blogの写真で分かるようにこの桃花潭は竹棹でこぐ小舟。たぶん深さは2mもないのでは(笑)
漢文の授業ではすっかり李白の大袈裟に騙されたことを40年経った今悟りました。

白楽天の長恨歌。生まれ変わるなら離れられない比翼の鳥や連理の枝になりましょう、と契りあうものの、結局我が身かわいさで楊貴妃は見捨てられてしまうのです。
こういう悲劇、日本人好きですよね。はいやはりありました、楊貴妃の墓、熱田神宮にです(笑)
信じる信じないに関わらずこういうミステリースポット大好きなんです(爆) そのうち名古屋に行った時は、是非熱田神宮行ってみよう(^_^)/
PS 山口県の油谷町の二尊院も楊貴妃の墓があるそうです。

20180201-01

しかし学校の勉強って縦割りだったので、世界史は世界史、漢文は漢文で過ごしてしまい、安倍仲麻呂や李白と空海・白楽天と言うのが同時期に活躍した方で、その間が50年ほどと言うのを再確認したわけです。
三ノ巻に続く

KU-KAI(1)

誑(たら)しの意味を見ると「巧みな言葉で騙す」ことであるから、決して褒められた言葉ではない。が、時代とともに言葉の使い方は変化し、「人たらし」と言う言葉が使われるようになりました。
人たらし を検索すると、「受けるよりも与える人」、「話し上手」、「自尊心が高い」、「自分にひき込む」 と言う特徴だと書かれており、その結果多くの仲間がその周囲に集まりアクティブに行動できる、対人関係でいえば「まことに素晴らしい」を意味する言葉だと思えます。そして世の人に問えば代表格は豊臣秀吉だ、などとも言われています。
短絡的(30―50年スパン)で見れば、秀吉はターゲットを絞った相手の懐に飛び込むのがうまく、また人使いが上手であるので「人たらし」かもしれませんが、なかにはいけすかん奴とする人の数も同時にものすごく多かったでしょうし、その傾向は数百年たった今もあります。
人類歴史からみれば秀吉の「人たらし」度はさほど高くなく、本当に高いのは例えばイエス=キリストであったろうし、僕は空海が日本の歴史上では最たる人かと思うのです。
1000年たった今、「御大師様」と慕われる人柄、スキル高いと思います。

なんて詳しくもない空海のことを書くのは、2月に「空海」が上映されることになり楽しみにしているから。
原作は、郷土の作家かつ母校の先輩の夢枕獏氏。密教と言う宗教と人を織り込んだ作品は、ハリーポッターやロードオブリングのような冒険活劇ではない深層心理をえぐるような煩悩(己)との戦いの魅力があふれています。

まずは、原作から、と言うことで今更ながら文庫本をぽちっと。

20180131-01

読んでなおさら楽しみになった映画。「沙門空海唐の国にて鬼と宴す一ノ巻」を読み終えて、描かれる空海は、気まずいことでも隠し事をしない(どうどうと自分の行為に責任を持ち恥じることないという自信がある)、とにかくよく動く。聖書の描く人間イエスとオーバーラップする点も多分にあります。読んでいて福音書を空想してしまうのです。洋の東西の「人たらし」の最たる御仁2人故なる業でしょうか。
そこにホームズばりの理論に基づいた推理がちりばめられ、ワトソン君のような橘逸勢とのコンビで、このあと奇々怪々の事件を解明していくようです。
第2巻に続く。
 
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