午後ののんびり

怒涛の10月を終え、まだまだ片付けは終わらないもののどうにもこうにもやる気が起きず・・・
こんな日はのんびり過ごそうと玄関に飾るジグソーパズルをしたり

20171104-04
(P.E.I.4点セット(笑) ウェルブタは関係ない(笑2))

なかなかお会いできずに年賀状だけのお付き合いになってしまっている方に引っ越しのお知らせを書いたり…。

そして・・・
ちょっとそそられて思わずポチした本が2冊到着。
小学生でもわかるように書かれた物理学書と哲学書(?)

20171104-01

星が落ちてこないのは星が移動しているから・・・。つまりは水を張ったバケツをグルグル振り回しても水が落ちてこないのと同じで地球から落ちない勢いで遠ざかっている、これが宇宙は膨張している所以。
宇宙が誕生した時に粒子10億1個と反粒子10億個がぶつかり、ぶつかった10億個はエネルギーになったがぶつかり損ねた1個が地球や他の星、各星々の土壌や取り巻く窒素、水や生命を生み出した。半端じゃないほどの不運なものがこの宇宙の構成物質なんだ、と言う話など、理科の中でも一番苦手だった物理をわかりやすく解説してくれる本。

ところで昨日、ひょんなことから中学の英語の先生のご家族とお会いしました。英語と言う教科は苦手だったので、先方の先生がもし覚えているとしたら苦虫をつぶすような顔をなされるような生徒でしたが、それでも生徒の僕は不思議と嫌いな先生はいなかったんですよね。どなたもみんないい思い出で笑って話せることばかり。
物理もT澤先生に教わりました。午後一での授業はただただ睡魔との闘いだったことしか覚えていません(笑)

しっかり勉強しなかったから、だから今この本の中で「温度の定義」と問われても、温度って熱いとか寒いとかで定義なんて考えたこともないけれど、「分子の動きやすさ」なんですよね。
おもしろかったです。

2冊続けて一気読みしたのがこちら

20171104-02

よくよく有名な話です。足の速いアキレスの前を足の遅い亀が走っていて、アキレスが亀に追いつこうとした瞬間、亀はまた前に進むのでアキレスは亀に追いつけないという事を、間違いであることを理論で論破すること…。
そしてそこから波及した追われるものは火事場の馬鹿力で思いがけない力を発揮するが、簡単に追えると思っている者は力を抜くという「うさぎと亀」の逸話は、このパラドックスを逆手に取った話で、世の中理論だけではないことをおもしろく書かれていました。
そもそも数学とか物理学とかは、アキレスと亀は等速での移動を前提になっているけれど、世の中では等速での移動なんてありえない。

2冊読んだらあっという間に夕暮れ。

20171104-05

普段は昼間家にいることないからなぁ~。台所からこんな夕日が見れることを知った黄昏時。些細なことでも知ることの幸せをたくさん味わえました。

エルネスト

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば
出来もしないことを考えているといわれるならば
何千回でも答えよう
「その通りだ」と。


チェ・ゲバラの名前こそは知っていましたが、遠い南米での革命家。武器を持っての革命なんかなんだかナンセンスだなぁ~、程度の認識だったのが、二十歳ごろだろうか、上記の名言を何かで読み一気にファンになったと言っても過言ではなかったのです。
革命を武器でするのか、否かは、いまでも考えに違いはあるし、僕は多分生涯否定を続けるし、祖国へのアイデンティティは人を殺すほどのものではない、と今のところは思っていますが、憲法九条による平和な国づくり、爆発的なパワーを持つ原子力を使わずにその分節電していく生活も、お互い持ちつ持たれつで多少の贈与があっても些細なことは気にしない貧困問題、どこの生まれでいてもどんな性格であっても気にしない人間同士のお付き合い・お交わりは、それ空論と否定しても言い続けるのはゲバラほどではなくともベクトルは同じだと思っております。

(ここから先は、映画の内容にも触れています。ご注意ください)

そんな名言で始まった映画「エルネスト」。
キューバ革命の直後、日本を公務で訪れた最中、予定を変更してまでも見に行った広島原爆ドームを見て、中国新聞の記者に、これだけされてもなぜ怒らないのか?と疑問を言葉にするゲバラ。
そして若き日のフレディ前村が、ゲバラに「その自信はどこから来ているのか?」との問いに、「怒りだ。憎しみでは戦いに勝てないが…」と返す言葉。
僕らは怒りと憎しみの霧別が出来ているか?と問われている気がします。
9月24日の礼拝説教「ゆるされている者」も赦しと許しの差があるように思いましたが、差がある中にも赦さなければならない、許されて当然、というのはおかしいし、きちんと両者の納得が必要なことを学ば差せてもらいましたが、まさに「罪を憎んで人を憎まず」罪へのいかりを捨ててはいけないのでしょう。

そして物語はボリビアの田舎町へと進みます。
少年期近くの村の貧しい友達に薬や食べ物を持っていったフレディ前村。そんな支援を貧しい友人は「上から目線の嫌な奴」と見ていた…。まさに怒りではなく憎しみによる戦いの相手だったわけです。
理解してほしいとは言わない。でも憎まないでほしかった・・・。そんな「友」の凶弾に倒れ死ぬ、と言う悲しい結末の映画でした。まぁ、その部分は史実なのかどうかはわかりませんが…。

日系人かどうかは問いませんが、このボリビアの戦いはもう少し知っておきたいな、と帰りがけに購入。

20171006-01

良い映画です。ぜひ映画館へ足をお運びください。

興味そそられれば・・・

映画「母」を見て来たら途端に小林多喜二氏に、母に、伊藤ふじ子さんや田口タキさん、そして多喜二を売るために近づいた特高のスパイ三船氏、そして義兄佐藤藤吉氏に興味がわきました。

帰りの車の中で連れとの話。
耶蘇と揶揄されていた時代、男尊女卑の時代、そうした中、多喜二の母親は洗礼を受けたのかなぁ?と言う話題。
たぶん佐藤藤吉さんは小樽シオン教会の重鎮なんだよ、と僕の推測。だから結婚したチマ姉さんもクリスチャンになったし、母も映画で見せたように讃美歌を賛美しながら天に召されたので子どもたち夫婦に誘われてきっとクリスチャンになったんだよ、と続ける。
しかしどうも、小林家がクリスチャンの家系で、大きな網元のあるじ佐藤藤吉さんはお寺の檀家総代。嫁いだ嫁が教会に行くことを赦す度量にも感動もの。
そして自身の家族への仕送りのために結婚をあきらめた田口タキさんは、その後結婚する時に自分だけ幸せになることに苦悩をしたさい、小林セキさんのアドバイスで嫁ぐことができた、とか、スピンオフ的な興味がわいています。

そんなことで

20170904-11

20170904-12

20170904-13

3冊購入\(^o^)/

母 小林多喜二の母の物語

キリスト教の中において、カトリックと言うのは少し異例な一面を持っている教派だと思う。それは、「三位一体の神」である神でも、聖霊でも、イエスでもないマリアを崇めている点だ。
なんでマリアを崇めるのか? 僕には少しわかりにくい部分があった。

20170901-01

「母」と言う映画。サブタイトルは「小林多喜二の母の物語」とあるように多喜二氏の母親小林セキさんを描いた三浦綾子さん原作を山田火砂子さん監督で作られた映画だ。
映画に先立って監督と女優の磯村みどりさんが舞台あいさつ。

20170901-02

少しネタバレを含みますが・・・
秋田の寒村から北海道開拓に参加した小林夫婦は、つつましくも幸せに小樽の地で生活していたが、小樽の港湾の日雇い人夫出しの人がケツを割り逃げ出したのを助ける両親を見ながら多喜二少年は成長し、プロレタリア文学の道を突き進みます。
赤線に売られた女性を助けたり、港湾の労働組合を助けたりたりする中、治安維持法を盾にし多喜二を捕まえる特高から隠れるように地下に潜るものの、仲間の裏切りによりつかまり拷問の末殺害されます。

多喜二の死後も溺愛する息子の死を受け入れられない母は、日本キリスト教会小樽シオン教会の近藤牧師により、ピエタの写真を見せられ、イエスの死について後悔を受けます。
息子の遺体を手の中に抱き悲しみに暮れる聖母マリア。そして近藤牧師は、ユダという男にイエスは裏切られたこと。何の咎無くしてろくな裁判も受けられないままリンチのように権力者に殺されたことを聞き、多喜二の死とオーバーラップします。
が、近藤牧師は驚くことを言います。イエスはその十字架の上で神に「彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言ったというのです。
私にはそんなこと言えない、と言う母。きっとマリアも同じように悲しみと苦しみと憤りと、息子イエスのその言葉の間で葛藤したのでしょう。
母セキは顔をあげ「私も天国で多喜二に会えるか?」と牧師に問い「会える」との回答を得ます。

もしかしたら「小林多喜二」だったら原作もこの映画もつまらないものになったかもしれない。そこにあるのは、イエスと言う神でもないただ一人の女性マリアの苦悩であり、小林多喜二の母の苦悩であったように思えます。

死の床につき讃美歌の山路越えてを歌いながら、故郷を思い浮かべながら天に召された小林セキさん。この讃美歌が作られた場所は四国愛媛法華津峠。山越えの最中日が沈み、山中で野宿をする牧師が作った讃美歌です。
そう言う意味ではセキさんが故郷を思い浮かべながら賛美した讃美歌と言うのがとてもよくわかり不覚ながら涙があふれました。

多喜二は地下にもぐりプロレタートな活動をしている時にアジトにしたのが厚木七沢温泉福元館さん
多喜二の資料も残っているそうですし、日帰り温泉も楽しめるとのこと。
これは一度行って見なければならないね。

でも、大きな期待を持って見に行った映画。その期待を大きく上回った内容に★3つです\(^o^)/ もしお近くで上映為されたらぜひご覧になることを強くお勧めいたします。
小田原は17日(日)に再度けやきで上映されます。

天人

世の科学というものは夏休みの自由研究と同じで『僕このことを研究します!』とエントリーすることから始まります。だからエントリーする人がいなければそのトピックスについては永遠の謎のままになる訳です。
夏休みの自由研究と少し違うのは、その審査員が傲慢な権力主義者が含まれている点があるのかもしれません。
たとえば『死後の世界はこうなっている』とか『肉体は離れた霊体の存在』などを研究しても、非科学的だと鼻で笑われ学会にも登場させてもらえず、それゆえ大学や高校の学びの場にも現れず、非科学的な空想の世界のままで今日まで来てしまっています。
同時に宇宙人がいるか?と言う問題も一昔前までは想像の産物と言われていましたが、最近は政治公式の場での発言に真摯に回答されることもあり、いよいよ「事実認定」が出るのも時間の問題なのか、はたまたすでにメン・イン・ブラックと言う映画のように僕らと見た目の区別がつかないように既に地球上で共存しているのかもしれません。

科学は正しいか?と言えば、YesでもありNoでもあります。最初に記載したように夏休みの自由研究のように誰かが一つの仮説を立てて立証しようとして研究しその結果の発表の場で誰もが否定出来なければ「正しい」とされてしまいます。「科学的」と言うのは誰も反論できなかったに過ぎず、正しいかどうかは関係ないのです。
そう言った意味では、温度と言うのはマイナス273℃以下にはなりませんが、上限は何兆℃にもなると言うのが現代の科学の知識なのです。マイナス273℃、つまり絶対零度をベースに考えれば僕らの世界は300℃の世界。何千万と言う高温の中では限りなく低温の中で存在している訳です。
お金で考えれば、1兆円持っている人もいる中で300円しか持ち合わせがないのは、低所得ですよね。
僕がビルゲイツ氏やマークザッカーバーグ氏、孫正義氏やアリババのジャック・マー氏の4人の会食の席に招ねたら途方に暮れるような異次元の世界。
だから宇宙人がいたとしても同じ温度帯で生活している可能性は極めて低く、何千度で生活しやすい体が必要であったりしてそれゆえ見た目が同じ可能性も低いのでしょう。

タコ型宇宙人の姿を最初に公言したのはパーシヴァル・ローウェル氏だと言われています。その発表に刺激を受けたH.G.ウェルズ氏が宇宙戦争を描き宇宙人のデザインが僕らの頭に刷り込まれました。でもそれ以上の想像が出来ず結局今は人間型の宇宙人像が主になってしまったのかもしれません。「人」と言う字がつく以上仕方ないのかもしれません。

何が書きたいかと言えば、昨晩「銀魂」を見てきました。ご存じない方は公式の何かで詳細をお探しいただくとして、物語の舞台は幕末の日本の歌舞伎町。開国を迫ったのはアメリカではなく宇宙人と言う設定。そこで攘夷志士たちや新撰組、そして天人と呼ばれる宇宙人と諍いをドタバタとパロディとセンチメンタルな話で少年ジャンプに長期連載されている人気漫画の実写版。
監督は、低予算で作り高視聴率をとった勇者ヨシヒコシリーズなどでおなじみの福田雄一氏。原作や監督にひかれて豪華メンバーが集まって作られた映画は、俳優陣が体を張っておバカをやっていたのでそこそこ面白かったですが、例えばP.ローウェル氏のような独創的な発想が短期間でできないのを逆手に取ったパロディパロディ連発の漫画原作の空知英秋氏や勇者ヨシヒコの福田氏の良さが薄かったです。普通の迫力あるチャンバラシーンの多いドラマになっちゃったきらいはありました。描かれた宇宙人も動物と頭部が人間と同じように歩いているのとか、昔のキャプテンウルトラのバンデル星人(ホクトのエリンギ)のようなのとか・・・。
もう少し大人が楽しめるパロディ満載にしてくれると…見に来る人は減っちゃうのかな(^_^;)

存在が知られている温度の中間は数万℃。ウェルズ氏の発想のように無茶苦茶な低温の地球を攻め込んでのメリットは何かあるか?と言うと思いつかないです。 でもそれももしかしたら想像の幅が低いから気付かないのかもしれませんが、確かなことは今後宇宙に進出するのにいつまでも地球の中で争っている場合じゃないということなのでしょう。

お登勢さんとキャサリンが出なかったことがショックでした(^_^)/

ゴールデンウィークの夜更かしの仕方

明日が何もない休み!こんな気が楽なことはない!!
という事で、夜を徹して読書三昧。

まずは井手先生のご本。

20170505-01

発刊されていたのは先生や仲間からも既にお聞きしていましたが、「経済書」と言う不得意なジャンル。ちょっと敬遠していました。
が、昨日のシンポジウムでの先生の基調講演で分かりやすい語り口で興味をそそられてポチッ。
なるほどわかりやすい。なぜこの基礎が○○経済研究会の主任研究員の方が話すような訳の分からない話になってしまうのだろう(笑)
そしてヌエのような恐怖。世界一の企業であるトヨタですら明日を恐れて保身のために会社の利益の確保に躍起になることと国民の格差問題。
タイトル通り18歳からの、つまりは18歳の人が経済に関心もてる本。僕でもよくよく理解できた経済学書でした。
一つの解決の方法が書かれています。ただし、世の経済方針がそうであっても、世の中は学問で出来上がってはいないことも書かれています。世の中は人でできているのだから、人の信頼があってこそこの社会が成り立つことを肝に銘じたいですね。

続いては

20170505-02

こちらもFacebookで知り得た本。
今日日大きな地震に対して公共施設をどうするのか? は関わっている人間共通の心配事項。
耐震工事、費用の問題、見た目・利用方法いろいろな思いがある中低層にすることで生徒の被害を軽減させること。自らの手で作ったという自信と「万が一の時」の納得。いい方は悪いですが倒れる時は何をどうやっても倒れます。地震に限らずこの世の事象はやはり神様の思惑です。でもそんな辛い事象を前にした時納得できる諦め方と理不尽と嘆く諦められなさがしょうじます。前者の比率が多ければ前を向いてまた頑張ろうと思えるのではないでしょうか? よしんば倒れることを前提にしなくても、そして自分たちは作るだけで中で学べない学生であっても後輩のためにと隣人愛を芽生えさせる絶好の機会だったと思います。

最後は

20170505-03


「さとにきたらええやん」と言う映画の上映会を前にして、釜ヶ崎子どもの里のことを少し学んでおります。この施設がカトリックの有志の施設であることから、やはり本田神父のご本から学ぶことは得ることが多いと購入。
20余年の小田原交流パトロール、反省と計画そして祈りをもつことなく粛々とルーチンワークのようになってきてしまったことは反省です。
行動は精神の上にあるもの。この精神論を無くしての活動は意味を半減させてしまうものでしょう。
映画と言う一つの事象をきっかけに自らの省みる時間を頂けました。感謝です。

3冊の本を一気読みして、今日明日はアウトドアで解放された気持ちのいい時間を過ごしたいものです。

夫のちんぽがはいらない

衝撃的なタイトルが話題になったことが知るきっかけになりましたが、読者の感想は極めてまじめに考えさせられた、と言うのでポチッ。

20170427-01

このBlog読者がこのタイトルが何を語っているかわからないという事はないと思いますが、そういうことだけじゃないのです。タイトルはたんなる一事象を取り立てて書いただけで、誰もが、どの家庭でも、いろいろな悩みがありそれと闘いながら、でも悩みだけではなく楽しみもあり粛々と「地球の歴史」は流れている、という事でしょう。

隣の芝生が青く見えると言います。そんな隣はきっと(隣の家である)自分の家の芝生が青く見えるんでしょう。
いわゆる「女遊び」をすることの問題性を考慮しながらも、もっと考えなければいけないこともあるでしょうし、何よりも夫婦間のとらえ方は夫婦以外の人があれこれ言うこともないのでしょう。

しかし、赤裸々すぎましたね。
なんていうのかな、見ず知らずの方の秘部だから冷静に読めたけれど、知り合いがここまでの話を相談されたら頭の中が真っ白になっちゃいそう(笑)

星灯(seito)

21世紀になった頃だろうか?何かのきっかけで、この方のBlogに出会った。
肩ひじ張らないソフトな言い回しで、しかし眼光鋭く世を見つめる内容に引き込まれて読んでいる中で、教師であり小説家であることを知った。
そんなROM(覗き見専門)の関係は、…だからもう10年以上になる。Blogに登場していた御嬢さんは小学、中学、高校を経て巣立ったことが書かれていた。
そんな氏が教会に足を運んでいるという記事をここのところ何度か見た。やはりクリスチャンとしては飛び上るほど嬉しい。厳密に言えば共産党と言う主義主張の根底には「宗教はアヘンである」と言うマルクスの言葉のように、そして一時期の中国のようにキリスト教を禁止した時代もあったので、厳密には共有できないのかもしれないけれど、弱者に寄り添うイエスの歩みと言う意味では共感できる部分は大いにあるのだと思う。
そんな氏のBlogに同人誌にキリスト教会での出来事を記したという事が書かれていて、居てもたってもたまらず送って頂いた。
町屋のイエスと題した短編の小説には、自分の職場での悩みとともに教会に足を運んで日の浅い氏の視線での教会のこととや読書家のことが書かれていた。そしてその読書会は僕の敬愛する遠藤周作氏の深い川だった。

20170301-01

わざわざこの短編の話を書いたのには実は訳があり、その小説の中で憲法九条をイエスとオーヴァーラップ指摘していたからである。
目からうろこ…まぁこれも聖書の言葉だが…、憲法九条の存在は言われて見ればイエスに似ている。
戦後の困窮、民衆は荒れ果てた中、無気力になっているのは、ユダヤ王国が滅び強大なローマの配下で困窮の生活の時代に似ている。
そこに理想が生まれたのが憲法九条であり、新生日本は自由と平等と自立の国家であり、もう二度とこんないやらしい戦争の世の中にしてはいけないと誰もがその誕生を祝った。これも、困窮の中、この方こそメシアではないか!、この苦しみから抜け出すためにはイエスを王にすることだというイスラエルの民の望みに通じる。
しかし、アメリカはアジアでの戦争に介入した。朝鮮動乱、ベトナム戦争。そのためには前線基地が必要だ。自分たちが素案作りに関わった九条の理念を覆すように軍備を日本国に迫った。日本は大企業が製造する軍備の部品などの特需と言う経済に目がくらみ一も二もなく賛同した。利権を守りたいという欲望を持つ人がいるのはいつの時代も同じだ。ファリサイ派の人々も自身の特権階級が無くなることは何としても避けたいと、信仰義認のイエスを敵対視した。九条が時の政府から目の敵にされ、いつしかこの法律をなくそうという勢力が生じたのと同じなのだ。
しかし、両者とも大きな問題が立ちはだかる。民意が伴わない。
政府は力をそぐ作戦に出た。曰く警察予備隊と言う警察組織だと言い、曰く歳入の1%を越えない枠の中での予算をと言い、曰く海外派兵はしないと言い、その都度前言を撤回し徐々に軍備を拡大し、今やどこの国でも戦争ができるようにした。仮想敵国と言う言葉を使い、情報の一部隠蔽により悪い噂だけを流し、隣国との仲違いは先方によるものと報じたために、国民の数割は防衛のためには九条廃止はやむを得ないとまで言わせるようになった。
一方イエスはどうなのか?ご存じの方はご存じようにイースターのちょうど一週間前大勢の民衆に「ホサナ、ホサナ」と迎えられエルサレムに入城したものの、ゲッセマネでイスカリオテのユダの裏切りで捕捉され、歓迎を受けたはずの民衆から「十字架につけろ」の大合唱で人としての最期を迎えた。
二つとも民意のスキルに比べて崇高であったのだ。残念ながら民意が追い付けなかった嫌いを感じざるを得ない。
しかし、イエスの死で終わった…かと言えばそうではない。21世紀宗教離れは言われているが今なお多くの人が聖書を読み、イエスの生き方に共感し、愛のなせる業を自分もと思い祈りながら生きている。
どっこいイエスは一粒の麦となった。(まぁ僕は一粒の麦と言うよりは種芋の方が分かりやすいのだが)
イエスと言う種芋から栄養を得た僕らはイエスの御後を歩きたいと欲している。瀕死のような九条でも、もしくはいつかの国会で改憲と言う憂き目にあうかもしれない九条だけれど、きっとその時は種芋のようにそこから再度平和への祈りが行動として表現されるだろう。
イエスは最後の時にも見捨てた弟子や民衆に対して怒りや恨みを持たなかった。それはいかりや恨みが負のパワーになるからではないか?九条は正のパワーだ。
光は闇に負けない。

わずか20行ほどの1トピックスが、九条がまるでマーガレット・F・パワーズ氏の足跡の詩のように
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」
と大切さを忘れている九条が僕らを背負って歩んでいるように思えた。

同人誌ご興味のある方はこちら

サイレンス(Ω)

ちょっと言葉が足りないと思い、1/24に改版。

スコセッシ氏のインタビュー
『遠藤周作が描いた「白でも黒でもない」曖昧なニュアンスを映画の中で忠実に再現すること』

この言葉は、言葉は違うが僕の感想のその部分だ。ただ僕の言わんとする「白黒」はあくまでも人にとっての白黒なので、氏の思いと同じか違うかは分からない。少なくとも遠藤周作氏の中には『因果応報』とか『勧善懲悪』と言った「白黒」は無かったと思う。
これは、僕の個人的な意見だけれど旧約の神が「名を呼んではならない、と言ったところから繋がる。なぜ名を呼んではいけないか?
それはたとえ「名」ではなくても「神」という名詞であったとしても共有すれば、固定観念が生まれる。それは、神に似せて人を作ったはずなのに、人の思考に神を下らせてしまうからではないか?
沈黙も、「愛に不完全な」人であったとしてもここで何か優しい言葉をかけてくれるはずなのに、なぜ「愛が完全な」神は黙っているのか?という人の「思い込み」の話であり、神の意志の話ではない、というところに遠藤氏は焦点を置いているのだと思う。それは晩年、神という言葉で誤解をするのならトマトや玉ねぎでもいい、という「固有名詞に誤魔化されない、ことを語っている所に通じる。
実は神はその時「あしあと(下記に参照)」という詩の如く、苦しんでいる神父を背負い苦しみを共にし、声をかけ続けていたのかもしれない。でも聞き取れない人間は、非常に悩み苦しんだり、または神を非難する。
それは「ああ、俺は神の言葉を聞くことが出来ない」のではなく「神よ何故言葉を発してくれないか」である。その非難は何なのか?
人は自分の想像力で自分勝手な神像を作っているのではないか?遠藤氏は神が自分の思い通りにならなくても非難してはいけない、そんなことを言いたかったのではなかったのか?
そしてその事に対して僕は遠藤周作氏のそれよりもスコセッシ氏のそれの方が商業主義的に見えた。遠藤周作氏がポイントとしたこの部分は薄れているように思えた。

でも、日本で“仕える人”となることで、真のキリスト教徒となる。と言うスコセッシ氏の言葉、そこに遠藤氏の母なる神像を照らしたのだとすれば、僕は監督の主題を見過ごして映画を見終えたのかもしれない。

ヴ~ン、このインタビュー記事を読み終えた今もう一度この映画を見たくてしょうがない。
でもまず「『最後の誘惑』を見ることが優先かな。ヨナよな会開催すっぺかな。

参照
あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マーガレット・F・パワーズ

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サイレンス(α)

初めて文章を見たのはまだ小学生の頃。母親が買ってきたぐうたらシリーズ。
今でも覚えている
「経済学部
 への期待」
と黒板に書かれた小論文のタイトル。緊張のあまり2つのどちらかから選ぶと思った受験生が盲腸のあとガスが出るのを家族一同で期待した論文を書いた、とか
まだウォシュレットをTOTOが開発したばかりでモニターとしてつけてもらったが、温度調節を忘れて客人のお尻を熱湯が直撃した話に笑いながら、読み漁り、そしてクリスチャンであることを知り、芥川賞受賞作品の「白い人・黄色い人」を買うに至りました。
ところが中学生には難解。当時の僕は、今の世の中の多くの人と同じようにクリスチャンのまくら言葉は「敬虔な」であって、神を裏切ることのない人がなるもんだと思っていましたので、何となく許せない話と言う感じで、それからしばらくは遠藤周作さんからは離れてしまいます。
そして続けて読んだのは三浦綾子さん。心地いいですよね、いかにもTheクリスチャン。こうでなくちゃ、と言う感じで読み漁るのですが、なんかげっぷが出る「生」への重さ、襟を正す生真面目さの厳しさを感じ、遠藤文学に戻ります。私が・棄てた・女とかおばかさんとか実直の中に信仰がある生き方を読んでいく中で、信仰が培われていったのかもしれません。そして、沈黙に出会うのです。
もうこの頃は「白い人・黄色い人」を最初に読んだような表面的なクリスチャン像ではなく、物語の中の人たちの信仰における愛を意識できるようになっていたので、この踏み絵を踏む時の神の言葉は涙なくして読めないほどの感動をしたもんです。

そういえば、遠藤周作氏の言葉で「母なる神」と言う言い方がありますが、この言葉も大好きで、キリスト教の神に僕も父親ではなく慈愛満ちた「母なる神」を感じてしまいます。無上の愛の存在を感じるのです。

そして30余年経った数年前。アメリカのなんだか有名な監督がこの作品を気に入り撮影したがっているという話を聞き、遠藤文学を映画に出来るのかい?と言う冷めた目で見ながらも完成を楽しみにしていました。
どうも浮気性(?)なのか、作ることを公言しながらも他作品を先に作ったりとやきもきさせましたが、いよいよ日本での公開が決まりました。
居てもたってもいられず、封切を待っていってきました。

20170121-01

ご覧になっていない方もたくさんいるでしょうから詳しく書くことは憚られますので、ちょっとしたインプレッションのみ。
原作を読んで30余年。忘れている点も多々ありますから、勘違いがあったらごめんなさい。
でも原作に非常に忠実だったと思います。惚れ込んだから忠実だったのかもしれません。
が…。
遠藤作品の「白い人・黄色い人」や「沈黙」は、神の愛だけに特化されて人はおろおろとし、そして悩むだけでしたが、マーティン・スコセッシ監督は、少し情に厚かったのか人の希望が描かれていました。果たして遠藤周作氏はこの『人の愛』が書きたかったのか?疑問ですが、なかなかの秀作でした。
でも、その疑問の分、ノンクリスチャンの方にはわかりやすい作品になったのかもしれません。
そして欧米のクリスチャン向けにはあちこちに聖書の場面がちりばめられています。たとえば主人公ロドリゴ神父が転ぶとき…、おっとその先は…内緒です。

ところでキチジローは棄教しました。棄教後は聖餐に与れるのでしょうか?
聖餐の本質はどんなものか?も気になっています。


PS
1/24 追記 サイレンス(Ω) 記しました
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