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【Take's PROFILE】

心豊かに、のんびりと・・・。という生活を望んでいます。
あんまり物に執着しないけれど、「形から入る」という矛盾を抱えて生きています。
クリスチャンですけれど、よく礼拝をさぼります。
モーターホーム(キャンピングカー)で遊びに行くことにはまっていますけれど、へたれで暑がり寒がりです。そしてものぐさです。
単細胞で、理不尽と感じると熱くのめり込んでしまいます。
やせすぎを笑われることこそありました(169cm48kg)が、現在は中年太り(同身長70kg)と生活習慣病イエローカード!!
乳がん10年寛解の妻と文字通り連れ合って、・・・ぃゃそんな彼女にずっと寄りかかって生活しています。


趣味の写真用のBlogを作りました。宜しかったらこちらにも行ってみてください。最近はタイトルを「17文字」で書くことにしています。俳句の域でないので俳句とは言いません(笑)
http://blog.goo.ne.jp/take1960_january/
mixiのIDは 775204 です。
Facebookは本名で検索できます。恐れ入りますが、友人申請はリアル友・知人の方のみ限定とさせてもらっています。1度どこかで飲んだらOKです(^^)/



【POLICY】

2つのボール競技を思い起こしてください。
キャッチボールは、相手が取りやすいところにボールを投げて「受けとって貰う」事を目的とします。
ドッジボールは、同じくボールを相手に投げるのですが、「取れずに落とす」事を目的とします。
会話も同じだと思います。意見が違う人と議論をすることは、僕はステキなことだと思いますが、そこには相手に自分の意見を受け取ってもらうように、真摯に丁寧・丁重に書くことが大切だと思います。まさに会話のキャッチボールだと思います。自分の主張ばかりやあげ足取りのドッジボールではいけません。
このBlog「LOGOS」は、Takeが管理人をしているSiteのひとつです。
「喜びを分かち合い、悲しいことを共有する」ために言葉があると思い、その言葉を使用して、そのコンセプトを実現しようと思っています。
分かち合うためにも、共有するためにも、お互い相手のことを思い、祈り、そして会話をすべきだと思います。
ですから、頂いたコメントはすべてありがたいのですが、その中で一方的に言い放った発言、相手のことを理解しようとしないで攻撃する発言、差別や蔑視的な表現、必要以上の個人情報の開示など、このようなものが含まれている場合は、管理人の権限で削除し、その削除に対しての説明を要しません。
ローカルルールをご了承ください。

テーマ : 日記というか、雑記というか…
ジャンル : 日記

ゴスペルコンサートのご案内

20181113-01

いよいよ次日曜に迫ってまいりました松井真理さん率いる I say a little prayer & 開成 Grace の2クワイアのコンサート。
なじみあるゴスペルの歌をお聞きいただけます。
どうぞお気軽にお越しください。

チケットに限りがありますので、事前に教会までご連絡いただけましたら幸いです。

クリスマスのお誘い

今年の松田教会のクリスマスのお話しはザーカイさんらしい



ザアカイさんのお話をご存じない人もいるでしょうから、新所沢キリスト教会こひつじ幼稚園さんのSiteからお借りしましたお話をおよみください。
元Site はこちらです

ザアカイはチビでした。いつもみんなからいじめられていました。
「やあーい、チビのザアカイ」
だからザアカイはいつも背が高くなりたいと思って、木にぶらさがったり、体操をしたり、牛乳をたくさん飲んだり、一生懸命にやってみましたがだめでした。いつもみんなからばかにされていました。
ザアカイは大人になったら、いつもいじめていた人たちをやっつけてやろうと思って、一生懸命に勉強をし、お金をため、それから役人になって税金をとる人たちの中でいちばん偉い人になりましたが、ますますみんなに嫌われるようになってしまいました。
ザアカイはいつも一人ぼっちでさびしくしていました。
どこに行っても木が生えてなくて、岩や石ころばかりのヨルダンの地方で、ザアカイの住んでいたエリコの町だけは、オレンジや無花果や、ぶどうやなつめやしの木がたくさん生えた、美しい緑色のあふれた所でした。
こんなきれいなよい所に住んでいても、ザアカイはいつもさびしくて、つまらない毎日でした。だってお友達が一人もいなかったのです。
それどころかザアカイが町を歩くと人々はザアカイの悪口をこそこそと言ったり、ザアカイを見ただけで顔をそむけて行ってしまうほどでした。
そんなある日のことでした。前からうわさに聞いていたあのイエスさまが、このエリコの町に来られると聞きました。
ザアカイはこのイエスさまがどんな人か見たいと思って、表の道に出てきました。通りには人がいっぱいあふれていました。
みんなイエスさまのお話を聴きたいと思ったり、病気を治して欲しいと考えたり、困っていることをイエスさまに相談したいと思っていたのです。
もちろんイエスさまのお顔を見たいと思っていただけの人たちもいたでしょうが、イエスさまに抱いてもらいたいと考えていた子どもたちもいたはずです。
ザアカイもイエスさまがどんな人か、ちょっと見たかっただけなのですが、あんまり人々がたくさんいるので、まるで壁のようで背の低いザアカイには前がなんにも見えませんでした。
押しわけて前に出ようとしても、それがザアカイだとわかると、人々は意地悪をして、前のほうに通してくれませんでした。
そのとき、ザアカイはあの四辻の近くにあるいちじくの大きな木のことを思い出しました。大急ぎで走って行ったザアカイは、よいこらしょっと、この木に登りました。
そして枝に腰をかけると、向こうのほうからイエスさまがやってこられるのが見えました。
「あっ、先頭を歩いている白い着物を着た人がイエスさまかな。やさしそうな顔をしていらっしゃるな。その横のいかつい肩をした人はだれだろうな、お弟子さんかな」
そんな事をつぶやきながら、いちじくぐの木の上から見物をしているザアカイのちょうど真下までやってこられたイエスさまは、立ち止って上を向き、声をかけられました。
「ザアカイよ、下りていらっしゃい。今晩、わたしたちはあなたの家に泊めてもらうことにしているからね」
ザアカイはびっくりしてしまいました。だってイエスさまにはじめて会ったのに、イエスさまは自分の名前を知っておられたのですもの。
それに、お友達が一人もいなくって、だれも遊びにきてくれたこともないザアカイの家に、イエスさまが来て下さるというのですもの。それに泊ってくださるんですって。
ザアカイはすべり落ちるように、いちじくの木からおりてくると、先頭に立ってうれしそうにイエスさまたちを案内しました。
背の低いザアカイが腰をかがめていましたから、もっと小さく見えましたが、その顔はにこにこと輝いていました。
町の人はみんなあっけにとられてしまいました。
「イエスさまって、あのザアカイが悪いやつで、みんなにきらわれていることがわからないんだろうか」
「不思議だなぁ」
「おかしいなぁ」
町の人たちには、イエスさまのお心がわからなかったのです。
ザアカイはイエスさまたちが家に着かれると、たらいに水をくんできてみんなの足を洗ったり、家の人たちに言ってごちそうをいっぱい作って出したり、一生懸命おもてなしをしました。
だってザアカイには、こんな嬉しい日は今までになかったのですもの。
お食事が終わったときでした。ザアカイはまじめな顔をして言いました。
「イエスさま、わたしがみんなに嫌われていたことがよくわかりました。わたしは自分の事ばかり考えていました。でもイエスさま、私が一生懸命ためたあのたくさんのお金の半分は困っている人たちにみんな分けてあげます。もし、ほかの人からだましてお金をとっていたら、それを倍にして、いいえ、四倍にして返すことにします。もう悪いことは決していたしません」
「イエスさま、これからはチビと言われても、怒ったり、どなったりしません」
イエスさまはとってもうれしそうな顔をしてザアカイに言われました。
「ザアカイ、よかったね。あなたは今日救われたのですよ。わたしは仲間外れにされて、迷っている人たちを救うために来たのですよ。これからはみんなとお友達になって、みんなを助けてあげるようにしなさいね」


さぁこの話が何でクリスマスのお話なんだろう? メグちゃんの言っていた関係なのかな?
クリスマスはぜひ教会にお越しください\(^o^)/

かめの粉は尽きず

2018年11月11日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、列王記上 17章8-16節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

17:8 また主の言葉がエリヤに臨んだ。
17:9 「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」
17:10 彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。
17:11 彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。
17:12 彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」
17:13 エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。
17:14 なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」
17:15 やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。
17:16 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。



神はサレプタと言う町に行け、そこで寡婦にあなたを養わさせるとだけ言うのです。
この町の大きさがわからないですが、その前にいた場所から50-100km離れた町に、果たして寡婦が何人住んでいて、どんなお顔で、おいくつくらいで、どんな特徴があるのか?全く分からないままエリアはその町を目指します。
エリアは神を全く一点も疑う事がなく、その通り町の入り口で寡婦に遭います。しかしこの寡婦かどうかは神からの啓示はありません。
寡婦も神から啓示を受けたのか?もエリアは知らされていないわけです。
そこでアプローチをかけます。
神が養わさせる、と言うくらいだから、水をくれと言ったらためらわずに水をくれるだろうと。
果たしてそうなりました。
そこで更なる追い打ちをかけます。パンもくれ、と。

エリアは神からの声を聞きましたが、世の大半は神の声を聞いたことがないわけです。でも、そんな中でも神は命じます。僕らは全く命令を知らないままにエリアと寡婦のように対面していることがあるのではないでしょうか?
RFLの活動をしていてもやはり必然の出会いだったと感じることはあります。出会う段取りを神がした上だからこそ出会えた関係は、素直に神に感謝をすべきなんでしょう、と思うのは、ベースに信仰があるものの意見なのでしょうか?

名前も素性も知らない女性に出会うと言うという難問は突破したと思ったエリアにとって安堵する間もなく第二の難関が降りかかります。
養ってもらわなければならない人が貧困で食べ物などないと言うのです。
あなたにあげるだけのパンの予備はなく、自分と息子の最後の晩餐としてのパンをこれから焼いて食べたら、もうですべてを尽くし終えたのでこの世と離別するしかないと言うのです。

エリアはこの話を聞いて、2人分のわずかな粉でまず自分のためにパンを作れ、と命じます。
いや、どんだけ上から目線なのか、この気の毒な親子の話を聞いた上でなおかつそんなひどい言葉を投げるのか、と思うのですが、そんなエリアの言葉を寡婦は受け、まずエリアのためにパンを焼き、その後自分たちのパンを焼いたと書いてあります。

この出来事に神が絡んでなければ、ありえない偶然が連続するつまらない話になります。しかし、こうした難問ですら解決ができる神がいればこそ希望がわきます。労苦に立ち向かう勇気がわきます。
そしてどんな出来事もインマヌエル、神共に居たもう、事を感謝したいものです。

****

今日は隣町の町の文化祭に出演されるR兄をはじめ何名かの方がお休み。少しさびしい礼拝になりました。
がいつも通りE子姉がお昼を作ってくださり主の食卓を囲みました。感謝。
そのあとはカフェワークショップをするのですが、カフェ『にこっと』で出すケーキの試食だけさせてもらって所要で帰宅。

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いよいよ見積もりが今週に提出されます。何事もそうですが当初の予算よりも上回るかもしれない中、小規模の教会は戦々恐々としますが、それでも今日の説教のエリアのように、まったく知らないところに「行け」と言う命令だけで怖れや不安を持たずに出向く姿を見て僕らも勇気を持って雄々しく歩みたいと思います。

ヨナと自民

新しい内閣が出来上がったとたんから、答弁が出来ない、口利きや選挙違反があった、など総理大臣が自信をもって「全員野球」と命名したチームはエラーを繰り返す。
エラーとフォアボールは勝ち試合を落とす、と言われているけれど、それでもどっこい安倍内閣はしぶとく戦っている。

最近知った心理学用語で「ヨナコンプレックス」と言う言葉。
このヨナは旧約聖書に出てくる人名だ。
神に(異宗の地)ニネベに行き悔い改めさせよ、と言われるも、違う神の言葉を聞くはずがないから嫌だと、全然違うタルシュシュに向かえども、神は嵐を起こしヨナを大きな魚に飲み込ませ、ニネベに生かせた。
ピノキオのアイディアのもとになる話。

ヨナは神の声を聞くことができた。これは聖書が神の声を聞いた人すべてを記載したものでないとしても1万年近くで100人にも満たないような数字から見れば特記する奇跡を体験した人。自信をもてばいいはず。しかし不安から回避した。
同じように自信がないとモーセも言った。が、モーセは逃げずに神と対話を続けた。
やってみたいことがあっても何か理屈をつけてできないとあきらめる心理をこのヨナの名前からヨナコンプレックスと言うそうだ。

人間は今までできなかったことができるようになることを喜ぶのと同時に不安になる心理を抱えているそうだ。
それは危険を冒すことが死に直面する太古からの受け継がれたデータらしい。
特に狩猟民族からいち早く農耕民族に転化した日本人にとって、その地で農作物を作ることは危険な猛獣と戦わずに済むという不安解消のテクニックを知ったのでその不安意識が特に働くのかもしれない。「石橋をたたいても渡らない」などと自虐的に言う言葉すらある。が、それほど変化や冒険を嫌う。

多くの日本人が最近の政治を良しとはしていない。しかし、それでもじっと耐えるのはまさにヨナコンプレックスのせいなのだろう。
それでも堪忍袋の緒が切れ、民主党(当時)に政権を渡した。
民主党は自民に比べて決して悪い政治ではなかった。東日本大震災と言う悲劇が訪れ、自民時代の負の遺産である原発の事件があった故に支持を失ったように見えたが、もしかしたらこれもヨナコンプレックスだったのかと思う。

民主になって良い世の中に転化する怖さ・不安。それが本当のところの自民化の逆戻りだったのか。
とすれば我が国が非自民になることは受け継がれたDNAがある以上無理なのか?

ぼろぼろとエラーが続出する安倍内閣の支持率がどの程度と出るかはとても気になるところ。

キリストによる完全な救い

2018年11月4日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヘブライ人への手紙 7章23-28節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)
なお、聖書は章節のナンバーも記載いたします。

7:23 また、レビの系統の祭司たちの場合には、死というものがあるので、務めをいつまでも続けることができず、多くの人たちが祭司に任命されました。
7:24 しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。
7:25 それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。
7:26 このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
7:27 この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。
7:28 律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。



旧約の神のポリシーは、アダムとイブそしてその子孫と言う神を裏切った人間との距離ある存在だったと思います。
それ故に私に従えば助けてあげようと繰り返し言われ、逆らうものを滅亡させる恐ろしさをもっていました。
しかし、新約の神は「愛の宗教」と言われるように、その恐ろしさは全くなくなり赦しと慈愛が前面に押し出されています。
同じ神なのに…、なぜ変異したのか? が今日の聖書の箇所だと思います。

清水牧師は2人が相対している時で和解を必要な場合は仲介人がいると物事が解決すると言います。
土地を売りたい人買いたい人がいれば土地鑑定士が必要ですし、法的な話になればお互い代理人を立ててそのジャッジは裁判官がします。喧嘩が始まればまあまあまあと誰かが割って入り仲裁し、結婚をしたい2人の間には仲人が取り持ちます。
この時に大事なのは両者からの信頼だと言うのです。
確かに片一方に立った人であればどんな仲介もうまくいきません。

神と人との間もどちらからも信頼されている人こそ祭司だったわけですが、死により神の御許に戻る時が来たり、また生きている間にも信頼を失墜する行為を起こすこともあります。
「正しい者はいない。一人もいない。」(ローマの信徒への手紙3:10B)
と言う御言葉通り、どんなに神の前に従順であって人から信頼を受けていても、それは人間ですから罪を犯します。
相性のいい人悪い人で対応が変わったり、怒ったり陰口をたたいたり、馬鹿にしたりめんどくさがったりします。
大きな事件を起こす事だけが罪ではなく、心の中であっても罪は罪です。

が、イエス=キリストのみは、自らそうした罪をもなく、そして屠る生贄を牛や羊ではなく自らと定めて神との和解をしてくださったわけです。
そして神の右の座についたことで時間の概念も超越したことをもって最後の祭司と言われるようになりました。
最後ですから、そして永遠ですから、この先判断が変わることはありません。二度と否定のない永遠の救いです。
これが旧約と新約の神の差ではないでしょうか?イエスキリストの仲介の大きさに感謝しかありません。


****

さて、今日は9名のメンバーと昼食を頂きました。
生きるに一番大切なのは「食」です。それを笑顔で楽しく食べられる幸せ。毎週のご用意のE子姉妹に感謝。
今日はおでんと雑穀枚の御飯とサンマの醤油煮でした。

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お世話になったあの人に

るるこさんとは2006年のRFL以来のお仲間だったのだが、申し訳ないことに違うチームのメンバーだったので面識がなかった。
違うチームとはRFLメンバーの中で一番親しくしている兄弟チームのチームピノコだが、それでも違うチームなので話す事もなかった。

2009年のお盆休み、僕らは予てから行きたかった鳥取島根の旅をしようと、京都を経由して鳥取に入ったところで整備不良で走行不能になる緊急事態
「せっかく鳥取に来られるのならお会いしましょう」と仰ってくれたのに申し訳ないと電話をすれば大変な思いをして心細いでしょうとわざわざトヨタまでお迎えに来てくださり一日観光に連れて行って下ました。

一番弱っている時、心細い時に助けてくれた、大袈裟でもなんでもなく恩人であるのです。
そんなるるこさんよりメール。玉川学園に住む何軒かのお自宅やギャラリーを開放して我が家も参加しているのでよかったら!とのこと。
同日は農大収穫祭なのでそちらにと思っていましたがうまく段取りすれば1,2時間は時間が取れそうとお邪魔することに。
ご住所をお聞きしGoogleMapをみれば玉川学園の裏手の丘陵の高級住宅街。道すがらも楽しいだろうなとワクワク。

そんな予想通り

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すごい家!かっこいい!!
この家だけでなく

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この玉川学園にお住まいの方は、なるべく緑に囲まれて過ごしたい派と機能美重視派の2つに分かれ、でもお互いがお互いを尊重して共有できている感があります。が、色々な緑地(樹木)を持ているのはやはりお大尽なんだな、と思ってしまうのは生業がそうだから(笑)?

(このあと家についてからのお話ですが) るるこさん宅も緑陰派。斜面を生かして建ててあるので庭がかっこいい。逆に庭から見上げる家もかっこいい。家を空間に浮かせて大きな石段が廊下から見えるのもいい。うちは一人の大工さんが作ってくれたのよ、とはるるこさん談。
途中大きな木の家見なかった? えっ、それってもしかして…と写真を見せればまさに僕が気に入った最初の2枚のお宅。
その家を作られた大工さんの作だそうで、それはかっこいいはずだ。

話は戻して
そんな写真を撮りながら歩いていたらどうも道を外したらしいです。

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あれ?カンバーランド教会? 確か地図見た時には教会は出て来なかったぞ、しかしこの教派は国立の唐沢先生の教団の教会だな。
るるこさん宅に到着して一本道を間違えた旨をお話ししたところ、あらたまに私あの教会の礼拝に行くのよ、と。交換講壇が盛んなようですが、果たしてここにも唐沢先生行かれるのでしょうか?
また、うちのチームのさと様ママも同じくお子さんを亡くされたご遺族で、やはりカンバーランド渋沢教会の信徒さんなんです。いつかお引き合わせしたいところです。

さて話が脱線しました。
るるこさんの所は、お嬢さんの八頭こほりさんとご友人母娘の長峰緑、歩さん。それから地元鳥取の陶芸芦沢さんの因久山焼。それからるるこさんのお教室で作られた石鹸。

新築の木の香りがするようなモダンな廊下の手すりの上に

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色鮮やかな石鹸たち。一つ一つの香料を変えているそうです。

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こちらがお嬢さんの八頭こほりさんの作品。
なお、速報です(^_^)/

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八頭こほりさんとご友人の2人展が上記要領で開催されます。
ぜひお誘いあわせの上ご覧になってみてください。

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こちらはご友人のお母様の長峰緑さんのキルト。

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お友達の長峰歩さんの作品。
3人それぞれ、違った個性がまた楽しい(^_^)/

それと

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因久山焼。存じ上げなかった焼き窯ですが、1700年代からの窯元らしいです。
いまも9代目京屋さんが製造販売しているそうです。

こうした小さなギャラリーが玉川学園駅を中心に20軒ほどギャラリーとして無料開放していて、それをハイキングしながら回るという素敵な企画。
今回はこのあと大学に行かなければならないので、また次回に、とお話すれば、どうもこの企画は20回目の今回を以て終了になってしまうらしいです。
残念ですぅ

素敵な美術の楽しみは味わえないかもしれませんが、るるこさんのお宅をインプットいたしました。
またお仲間集めて遊びに伺わせて頂きますね。

名残惜しいですが、来た道を戻り玉川学園から農大へ。
実はこちらも「お世話になりました」 事業をエスケープばかりしてろくに勉強しなかった僕をみんなの力で卒業させて頂いた研究室に今年もごあいさつ。

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今や部屋のボス(主任教授)は僕よりはるかに若い先生。
ふと専門をきけば「がん」細胞だとか。
ヲイヲイなんだかまた繋がって来たな。

東京や神奈川のRFL会場で「食とがん」のお話してよ、と軽くお願いしをしてまいりました\(^o^)/

お世話になったみなさま、引き続きお世話になり続けそうですがよろしくお願いいたします

7年半の年月

2011年秋に「大人の社会見学」に行った仲間から宅配便が届きました。

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7年半の間何度となくかの地を訪れている友人からです。
東日本大震災が起きてから半年後、わずかでもお金を落としに行こうと伺ったあの日、僕らは気仙沼から南三陸を通り石巻、東松島を通って帰りました。
同時に教会では、あごら(バザー)で下記キーホルダーの販売をしたので購入しました。石巻まで行きながら時間の都合で行けなかった女川を覚えてカレーと一緒に買いました。

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キリスト教会は、さかなをモチーフにしたデザインのグッズが多いのです。それは、ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ(ギリシア語で、イエス・キリスト、神の子、救い主)と書き頭文字を並べるとΙΧΘΥΣ(イクスス)となりこれは魚と言う意味であるとか、ガタコンペに行く道筋は魚の頭に向かって歩んで行けという道案内に使ったからなのです。
はい、我が愛車のキャンピングカーもイクスス号とみなから呼ばれております。

そんなデザインに惚れた部分もあり、女川は一度は行かなければいけない街なのです。

友は今年もそんな女川に行き、コースターとスプーン
何と名前入り\(^o^)/

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わーい\(^o^)/すごい!!嬉しいな!!ありがとね!!

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昔買った本を引っ張り出します。宝島社の発行した「東北思い出写真館」 すべてを失った人の1本のツイッターが発刊のもとになったとか。誰か自分の故郷の写真を持っていませんか?
目の前の景色は大きく変わり、そして思い出さえも失った失望感。その時に集まった膨大な写真の中の1ページ女川の風景。

わが町も変貌は続いている。好みの町かと言えば僕はあまり肯定的ではない。がそれはじわりじわりとなので諦めがつくものかもしれない。
が、被災地は違う。
この町がどうなったか?この景色はどう変わったか? は前を知らない僕にはたとえ行ったとしても分からないだろう。
しかし、このキーホルダーやコースタースプーンを作ってくれた人にはあってみたい。この小さなグッズにかける思い、この小さなグッズを通してお交わりするまだ見ぬ人との交流。
待ってくれている気がする、そんな優しさがある。

海は今日も青いだろうか? 山は緑の木々を生い茂らせているだろうか? それを見て笑顔になれているだろうか?
10月31日はケルト民族の大みそか。ハロウィンデーだ。
1年の最後の日にとても素敵な贈り物が届いた、さぁ心機一転11月も顔晴ろう!!
いつか女川に遊びに行くためにも

危険地帯に行くのは「愛」ある故

安田純平氏の釈放・帰国に際して、賛否両論インターネット上で意見が交わされている。
それは国内の一般人だけではなく

オランド大統領「フランスにリスクを取る記者がいるのは良いことだ」
フランス世論「危険な国に行くことはバカじゃない。むしろ彼らのおかげで、シリアで起きていることの情報が届く」


と海外でも大きく取り上げられている。
『愛の反対は憎しみではなく無関心です』と言う有名な言葉がある通り、僕らは自己中心主義にならず少しでも周囲に関心を持ち困窮には手を差し伸べたいものです。
逆さまな立場になり、困窮のど真ん中にいればその困窮を知ってそこから解放してもらう協力をぜひしてもらいたいと思うのは至極当然なことです。

何度も書いている事件ですが、1995年、僕らの住んでいる久野に産廃焼却施設の計画が持ち上がり、僕らは反対運動をおこしました。
その時に、多くの取材が来てくれました。新聞が、TVが、週刊誌が箱根山のふもとで起こっている事件を公表してくれました。
視聴者・読者は世の中のたくさんあるニュースの一つですが、闘っている僕らにとってはまさに生活をかけた困窮の毎日でした。その困窮を伝えてくれるマスコミには大変感謝したものです。挫けそうになる心は世論の味方を以て奮い立たせるのです。

ですから、中東の武力衝突地にすむ普通の人たちにとって取材してくれる喜びの深さはよくわかります。僕らは殺されるようなことはなかったけれど、彼らは毎日が死との向かい合わせ、それゆえに僕ら以上にマスコミが全世界に報じてこの厳しい毎日からの解放の協力を待ち望んでいたでしょう。
そしてマスコミに属するジャーナリストはその使命感を命に変えてもと思っていたでしょう。

このことは安田氏一人云々の話ではなく、ジャーナリストが危険な場所に赴く理由と平和に暮らしている僕らがその活動を通して何をしなければならないか?と言う哲学だと思います。
無関心でありたくない、隣人愛を実践したい。それが「愛」と言う感情を持つ生命体として生まれたものの存在意義ではないでしょうか?

試練からの脱出

2018年10月28日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章1-13節。表記のタイトルの説教を東洋福音教団沼津教会新村隆牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。聖書は章節のナンバーも記載いたします。

10:1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、
10:2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、
10:3 皆、同じ霊的な食物を食べ、
10:4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
10:5 しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。
10:6 これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
10:7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。
10:8 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。
10:9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。
10:10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。
10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
10:13 あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。



今日は東洋福音教団沼津教会との交換講壇で同教会の新村隆牧師にお越し頂き礼拝を守りました。
教団小田原教会でも交換講壇は行われており、他教会の牧師がお越しになり礼拝説教をお聞きする機会はありましたが、他教派との交換講壇は初めての事でとても興味も持ちながらでした。が、当然のことながらどの牧師先生がお話なされても見上げる主はただ一人、です、何らいつもと変わることはありません(笑)

新村牧師も困窮の青年期を過ごされたと語ります。試練はどこから来るのか?はそうした時からとても大きな関心ごとだった、と。
たとえばお金がない時に車で制限時速を上回り捕まった、とか、おいしいからと無節操に食べてお腹を壊した、と言うような自己責任による試練の時はありますが、そうではない(自分の責任下ではない)試練の時もあります。
新村牧師は2つの例を出されました。一つはモーセ。カナンの地へは徒歩でも約10日で行ける距離だそうです、しかし神は40年かけさせた訳です。今日与えられた御言葉の7-8節のように、モーセがシナイ山に登っている間異教の神を拝み踊り、その結果多くの人が無くなると言うようにこの40年の間青年は皆死んでいき(10歳で出発した人が50歳ですから当然かもしれませんが)、カナに着けたのはたった2人でした。

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。(マルコによる福音書1:12)も、イエスを試練にあわせたのは悪ではなく霊だと書いてあります。
神が試練を与えることはあるのは確かです。では何で与えられ、どう対処するのか?Goalはどうなのか?が試練と向き合う方法だと思います。
しかし何で与えられるかは、全能の神ではない僕らには理解できないことでしょう。

さて、創世記を見ると延々と家系が描かれています。生まれて○○歳まで生きて死んだ、を繰り返しています。人間は生まれて死ぬように定められています。
その間様々な人が人生の中で困窮をしています。息子を殺せと命じられた人、弟に騙された人…しかし、誰もが困窮の中、神と和解できずに死んでいくものはないのです。神は最後の最後に試練からの解放をしてくれています。

もし何の試練もない一生だったら、悲しみや苦しみがなかったらどんなにいい人生なんだろう? と一度や二度思うことは誰しもあるのではないでしょうか? そしてよくよく考えて、そんな不毛の人生はいやだと思うのではないでしょうか?
僕のがん闘病ソウルメイトの方で「がんになってよかったこと」を書き綴った人がいます。
富豪の家に生まれた釈迦は、人生を見つめて出家します。
試練があっても笑顔で入れる人、試練がないので自ら試練を求める人。
そこには試練を乗り越えた喜びがあり、そして喜びを友と分かち合える楽しみがあります。悲しみは聞いてもらえることで一人ではないことを実感できるのです。
試練があればこその人生なのです。

話は全く違いますが、重いものにロープをつけ引っ張って動かすとき、一人で引っ張る時と、誰かを背負って引っ張る時、後者の方が重いものを動かせるのです。自重があれば靴と地面の間の摩擦が大きくなりしっかりと歩けるのです。背負ったら一層大変じゃないか?でも、背負うとできることもあるのです。
軽いと摩擦がないので摩擦の大きな荷物は動かないのです。
家康は
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。
と言いました。
重荷を背負って荷重をかけてしっかりと地面に足をつけていないとちょっとした風でも体が持って行かれます。しっかりと人生を歩むためには重荷は必要なのかもしれません。

重荷を負うことで摩擦が働きしっかり地に足がつき歩けます。僕らクリスチャンは自ら定めた十字架を背負っています。重ければ重いほど、試練があればあるほど人生をしっかり歩けるのかもしれません。

そして最後に証しの大切さをお話し下さいました。
証は先ほども記したように話すことで喜び悲しみを分かち合えます。他人に話した言葉は自らにも返ってきます。再度よかった時悲しかった時、苦しみの時笑顔の時をリプレイできます。
弟子たちもパウロもきっと福音書や手紙を書きながらイエスに出会えた嬉しさをかみしめたのでしょう。それはブログを書く僕も全く一緒です。再度午前のイエスの言葉をかみしめられる喜びにあずかれるのです。

****

礼拝が終わればみなでの食事。いつもながらE姉の手作りお料理に舌鼓。

20181028-01

今日はお初にお会いした新村先生とも旧知の中のようにたくさんおしゃべりをさせて頂きました。ありがとうございます、感謝。
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