インフォメーション

【Take's PROFILE】

心豊かに、のんびりと・・・。という生活を望んでいます。
あんまり物に執着しないけれど、「形から入る」という矛盾を抱えて生きています。
クリスチャンですけれど、よく礼拝をさぼります。
モーターホーム(キャンピングカー)で遊びに行くことにはまっていますけれど、へたれで暑がり寒がりです。そしてものぐさです。
単細胞で、理不尽と感じると熱くのめり込んでしまいます。
やせすぎを笑われることこそありました(169cm48kg)が、現在は中年太り(同身長70kg)と生活習慣病イエローカード!!
乳がん10年寛解の妻と文字通り連れ合って、・・・ぃゃそんな彼女にずっと寄りかかって生活しています。


趣味の写真用のBlogを作りました。宜しかったらこちらにも行ってみてください。最近はタイトルを「17文字」で書くことにしています。俳句の域でないので俳句とは言いません(笑)
http://blog.goo.ne.jp/take1960_january/
mixiのIDは 775204 です。
Facebookは本名で検索できます。恐れ入りますが、友人申請はリアル友・知人の方のみ限定とさせてもらっています。1度どこかで飲んだらOKです(^^)/



【POLICY】

2つのボール競技を思い起こしてください。
キャッチボールは、相手が取りやすいところにボールを投げて「受けとって貰う」事を目的とします。
ドッジボールは、同じくボールを相手に投げるのですが、「取れずに落とす」事を目的とします。
会話も同じだと思います。意見が違う人と議論をすることは、僕はステキなことだと思いますが、そこには相手に自分の意見を受け取ってもらうように、真摯に丁寧・丁重に書くことが大切だと思います。まさに会話のキャッチボールだと思います。自分の主張ばかりやあげ足取りのドッジボールではいけません。
このBlog「LOGOS」は、Takeが管理人をしているSiteのひとつです。
「喜びを分かち合い、悲しいことを共有する」ために言葉があると思い、その言葉を使用して、そのコンセプトを実現しようと思っています。
分かち合うためにも、共有するためにも、お互い相手のことを思い、祈り、そして会話をすべきだと思います。
ですから、頂いたコメントはすべてありがたいのですが、その中で一方的に言い放った発言、相手のことを理解しようとしないで攻撃する発言、差別や蔑視的な表現、必要以上の個人情報の開示など、このようなものが含まれている場合は、管理人の権限で削除し、その削除に対しての説明を要しません。
ローカルルールをご了承ください。

テーマ : 日記というか、雑記というか…
ジャンル : 日記

下流老人

1か月前になりましたので告知です!!

初老の子なし夫婦、だからさほど日々の生活にお金がかかるわけじゃあないけれど、それでも時たま生活が厳しいなぁと思う時がある。
やはりこの国は多くの中産階級が一気に下流化しているのだろう。
野宿者の支援をしていて、関連の本を読んだりニュースを聞いたりしてもそうだ。
生活の困窮を訴える人が路上生活(いわゆるホームレス生活)をしていない所から見聞きする機会が増えた。若いご家族が3食食べられない、とか、派遣で働いているけれどアパートに住めないから24時間店で夜を過ごす、とか…。

そんな昨今の現実を知り、自分の生活にどう生かすのか? 退職が間近に迫っている中、僕らも例外ではない。
寿地区センターで下記の学習会が開催される。

20170607-11

場所は紅葉坂教会。地図はこちら

7月30日

子どもの頃近所づきあいは当たり前だった。
雨が降ると隣との垣根の隙間を通って洗濯物を軒下に入れに行くのは大人も納得した子ども通しの暗黙の仕事の約束。
両親が共働きの同級生は良く我が家で帰りを待っていた。
子ども同士遊びに行くというこみにけーション以外にも、多くの周辺の親の目の下で子どもたちは育って行く・・・そんな姿が当たり前だった。何の違和感もなかった。

いつからだろう?隣人がどんな人かもわからないという風土が日本を蔓延させたのは?
いつからだろう?朝すれ違う人が挨拶をしないで行くのが当たり前になっちゃったのは?
いつからだろう?自分より一世代前の大人にしたの名前で呼ばれなくなってきちゃったのは?

そんなのはなんか嫌なんだよね。お節介なばあさんに余計な事を言われた方がうざくても無視されるよりよっぽど楽しいし、朝はおはようで始まりたい。「Takeちゃん」と子どもの頃かわいがってもらった名前でいくつになっても呼ばれたい。

コミニティってそんなもんじゃないかな?

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(ポスターは画面上でクリックすると大きくなります)

我が街小田原はかろうじてそんないい風土は残っています。組内(自治会)のおばちゃんたちは相変わらずTakeちゃんと呼んでくれるし、引っ越してきた若夫婦などもどんな方かも知っているし挨拶をかわせる。
でも、おすそ分けの週間なんかは薄れて来たね。車があるし、深夜までやっているスーパーやCVSがあるから、サザエさんに載っているような食材の貸し借りはなくなっちゃった。

さとにきたらええやん 大阪の釜ヶ崎と言う寄せ場(ドヤ街)のど真ん中にある子ども支援施設を取り巻く大人と子どものドキュメント。いろんな大人いろんな子ども、そしていろんな半生。でも底辺にある「ええがな、ええがな。なんくるないさー」というどっしりした理念がホッとさせる。
そんな映画の上映会です。
お時間ありましたらぜひぜひです。

6月29日のパトビラ(№984 - 中学生の大活躍 -)

毎週、野宿を余儀なくされている方(ホームレス)のところを訪問する際に持っていくパトビラ、今日はこんなことを書いてみました。

優勝賞金4320万円、将棋界のタイトル戦の中で一番賞金額の多い竜王戦の決勝トーナメント。日ごろはニュースになれども大きな扱いにはならないこの試合が今年は藤井聡太四段の29連勝と言う日本新記録のかかった大一番をうけてテレビや新聞などのマスコミも詰めかけました。
そして結果はご存知の方も多い達成というもの。
穴熊囲いと言う守りの戦法が30年ほど前は流行だったけれど、最近はコンピュータを相手に研究をするようになり、みな守りより攻めの手筋のようです。落語の演目『浮世床』ここに出てくる素人将棋は王をとられたのに気が付かず続けていたり、また下ネタですが玉をとられるのが嫌だとふんどしの中の金に守ってもらったり、とドタバタばかり。そんなシーンが落語になるのはやはり将棋は庶民の遊びなんでしょうね。
双子のまなかなチャンが主役を演じた朝の連続テレビの『ふたりっ子』は阪田三吉を夢見る棋士が一方の主人公。寄せ場釜ヶ崎を舞台に番組が進みました。暗いニュースの多い中若い棋士の活躍は頬がゆるみます。


ふたりっ子ももう20年も前の朝ドラになっちゃったんですね。
でも、こうしたニュースで日の目あたるかも…。

神の恵みと憐れみよって

2017年6月25日、小田原教会に与えられたみ言葉は、ローマの信徒への手紙 4章1-8節。表記のタイトルの説教を中田正道牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)

では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。
ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、 幸いである。主から罪があると見なされない人は、 幸いである。」


パウロは、旧約のアブラハムとかダビデを例題として信仰義認を説きます。
しかし、ではアブラハムも何もしないで尊敬を受けたのか? ダビデはユダヤ一の王と言われたのは何も行動がなかったからなのか?と言えばそうではないでしょう。
神の戒めと教えによって故郷を離れカナの地に移動をする決意と行動。神の命によって一人息子のイサクをささげようとした実行力。そうした行動を民衆は称賛したのでしょう。ダビデも然りです。

信仰義認。この言葉の対語は、行為義認、つまり何かの行動によって救いの結果が変わるという考え方。言い換えれば、中世の免罪符や厄除け壺など、行為が行為で無くなり金に変わっていくことが救いの道であるという、言い換えれば宗教団体が金もうけの手段になる形式、やはり危険な考え方に導かれる可能性は高いです。

また、その行為のみを民衆は褒め称えたのでしょうか? 民衆の称賛はどんな無茶ぶりに見える神の命令にもひるむことなく従ったアブラハムの行動です。ただの行動ではなく、その行動は神を信じることに裏付けがあったからだと思います。

でも、信仰義認も何も問題はないか?と言えば、日々の生活とかけ離れたことでも救われると信仰をする必然性に疑問を持つ人も増えるでしょう。
信仰義認は何もしなくていい、ただ祈ることだけではないような気がします。そこにはやはり行動が伴います。悔い改めて生きよ、と言われた言葉。それは言い換えればイエスのみあとを歩めです。

信仰義認=行動を伴わない救い や カルヴァンの二重予定説=すでに人の生まれる前からその人の救いは決められている、であったとしても神に従いたい。聖書の御言葉に従いたい、と言うのが僕らの真情でしょう。
特にプロテスタントはそうなのかもしれません。ゆえに、カトリックではサクラメントである懺悔も告解もしません。でも聖書はイエスがどう歩んだかを教えてくれます。


信仰義認が信仰義認であるのは、イエスのみあとを歩みたいが、様々な躓きで歩けなくても、大丈夫だよ、歩こうとしたじゃないか、神に従おうとしたじゃないか、と神は言ってくれるという意味だと思います。
神は出来ない僕ら、罪ある僕らを義としてくれるということです。それには向かい合うこと、神を信じてみあとを歩こうとすることが大事だと思うのです。

逝去のニュース

ソウルメイトを神様のみもとにお返しして寂しさ募る中、今日は連れと同じ乳がんのサバイバーさんをお戻ししました。
お二人の共通点は最後までサバイバルを続けたこと、すなわち生きるための最善を尽くしたこと。そして、残された僕らにその行動を持って勇気を示したこと。信じること、前向きに考える事の大切さを教えてくれたこと。

頭の中をこの讃美歌がグルグルと流れています。
御霊の平安と残されたご家族ご親族の上へ主の慰めを祈ります。


(YouTubenタイトル違っています。正式な曲名は「主よみもとに近づかん」です)

ホームレスと呼ぶのはもうやめようよ

中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。という聖書の一節を抜き出したトピックスを書いた。
その御言葉の前段は
数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。
しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。


昨日のパト。ここ10日ほど帰っていない方いて、2週目の昨晩は周辺の仲間からのまず第一声は、その仲間の安否。
自分のことでもない、血もつながっていない方の安否。
もし、行き倒れになっていたらやってられないじゃないか。その心配の仕方は家族を、言い方を変えれば少し年老いてきた自分の父親を気にするそれだ。辛い人生は自分にも置き換えられる、推測できる。その最期の時、せめて孤独死ではなく仲間として手向けたい、だから安否は他人ごとではなく気にかかる、そんなオーラが伝わってくる。

ホームとハウスは違う。
ハウスは単なる物理的な「家」であり、野宿を余儀なくする人の中にも、ハウスレスの人もいればしっかりしたブルーシートやダンボールのハウスを持つ人もいる。そんな為かハウスレスと呼ぶ人はいない。
ホームとは単なる「家」という構築物ではなく、家族という概念までを込みでホームだ。だからホームレスという言葉を言いだした人は家族から離れて、孤独に家を持たない人を指して言った言葉だろう。

でも、この日僕が出会った人は、個々にハウスを持ちながら見事なコミニティを構築していた。そこには血縁は無いがホームがあった。
僕らはこの夏、「さとにきたらええやん」という映画の上映会と、北村年子氏による道親を主とした講演会を企画している。
道親とは、釜ヶ崎こどもの里のような、血縁を度外視して大勢の大人がみなで地縁の子どもたちを育むという意味のようだ。
その趣旨からいえば、野宿のコミニティも道親社会だ。
中風の友を助けるためには、屋根を剥がすことすら厭わないほど激しい愛情だ。

もう僕らはホームレスと呼ぶのはやめよう。しっかりとした道親としての「家族」がそこにある。

聖書と歎異抄

18日の日曜は、主日礼拝に先駆け御濠端幼稚園の子どもたちと一緒に礼拝を守り、午後は前述のブラサイジョーを楽しみ、夕べからイサンタシャワーの時を過ごしました。
イサンタシャワー、祈りと賛美と食べ物とおしゃべりと笑いの時の頭文字。テゼの祈りと賛美の後は夕餉を楽しみながらのおしゃべり。
でも得てして僕が入ると論議になる場合が多いです(^_^;)
この日は、中田牧師は隣町の教会での説教奉仕。聖書の箇所はルカによる福音書16章19~31節「金持ちとラザロ」のお話。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」


神様の御心は勧善懲悪ではない。そもそもすべての人は罪を犯している中、「人の目」であいつの罪は許されるレベルだけれど、こっちの彼は許されない、が有効ならば、神の裁きはいらない。その「人の目」は神を越えたものになるだろうけれど、でもその「人の目」の持ち主も罪を犯している。目くそ鼻くそを笑う、の喩の如しでそれは決して真理ではない。偏ったジャッジメントだ。
神の目で言えば、すべての人は罪を犯している、義人なし!だから、全員天にあげるか陰府に落とすかなのでしょう。そしてイエスを遣わし、天にあげることを明言してくれた、と言うのがキリスト教信仰。神はすべての人の救済のためにいる、というキリスト教の解釈であれば、どんな悪道非道な人でも神は救い給うわけだ。

中田牧師はイサンタシャワーの中の雑談の中で、説教に少しだけ触れ、ラザロは間違いを犯さない善人だったとも書いていないし、金持ちもお金をもっていただけで悪行で金を貯めたかどうかも分からずもしかしたら善意の人だったかもしれない(まぁ施しをしなさいというイエスのお勧めには反していますけれど^_^;)、と言われ、確かにその通りで、この聖書の箇所が言わんとすることがわからなくなったのが論議の始まりでした。

今まで歴代の牧師の言われることからも、僕らが神のなさることにどうこう言える立場ではない事であることは知りながらも、どうしてもこのたとえ話をはじめとするルカのたとえ話は、今僕らが牧師から聞く話、つまり神共にいます、帰依すれば救われることとニュアンスが違うように思えます。
明らかに信徒を増やすために、社会の道徳倫理観を生むように、神はこう望んでいます、的な書き方をしているように思えてなりません。善人であれば天国に行ける、時代を経て免罪符で罪をゆるしてくれる思想を作り出しているような感がしてなりません。
なぜ、ラザロも金持ちも天に行かせなかったのか?は甚だ疑問があります(いや、神にではないです。だってルカだってたとえ話で金持ちが陰府に落とされるのを見ているわけじゃあなく)彼の信仰解釈がこの喩を生み出したのですから。
マルコ等の福音書が魂の叫びを一気に描いたのだとしたらルカの福音書は目的を持って練って書かれたものでしょう。
だから教会に行き始めたころはルカによる福音書が大好きでした。訳の分からない系図から書き始められても何の感動もない中、理路整然とイエスを語るルカは感動をくれました。
でも最近になっては変に鼻につくというか、素朴でも喜怒哀楽が文章から滲み出すほかの福音書に目が行ってしまいます。計算した上で書かれた作品のように思ってしまうのです。
でもそれを悪いとは思っていません、好き嫌いを別として彼なりの宣教の言葉なんです。たとえばこのBlogだって好き嫌いはあるでしょうし、中には楽しみにしてくれる人がいるとすれば書く意味、伝える意義は存在します。そしてもしルカによる福音書が無かったら青年期の僕はクリスチャンになったか?は疑問です。あの時は、正しく生きることを喜びとしたくて聖書を読んでいましたから。


さて、善人往生をとぐいわんや悪人をや 宗教は違えども大好きな言葉。
十字軍と言うおかしな方向に進んでしまったヨーロッパキリスト教。でもシルクロードを経てその崇高な教えは東にも届いていたのでしょう、13世紀後半ヨーロッパで不毛な戦いを繰り広げている中、人の生まれつきの能力や努力ではなくただ神にのみ祈ること、帰依することで救われるというイエスの本当に言いたかったことが、仏教を学ぶ僧によって咀嚼され凝縮されたのではないでしょうか。それが先の歎異抄の一節なのではないかと勝手に思っています。
僕にすればルカの福音書よりも『そのままのあなたを愛している』イエスを通じて語る神の言葉が明確な感がしてます。

20170620-01

で、買っちゃいました(^_^)/

中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

たとえば野宿生活を余儀なくされた高齢者。2,3日何も食べていなく、悪いことを承知でついパンを万引きしちゃった、としたら、当たり前のことである『人の物を盗んではいけない』と正論で諭すことは僕には厳しいな。周囲から弱く間違っていると批判されても上から目線で、生命を維持しようとする本能の行為を批判は出来ない。

創造主に従って

2017年6月18日、小田原教会に与えられたみ言葉は、使徒言行録 17章22-34節。表記のタイトルの説教を長井美歌牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったことを含めて綴ってみます。(説教の要約ではありません)


パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。
道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。
また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。
皆さんのうちのある詩人たちも、 『我らは神の中に生き、動き、存在する』 『我らもその子孫である』と、 言っているとおりです。わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。
さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」
死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それで、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた。



4つの福音書の次に載っていますが、書かれたのはこちらの方が先だと言われています。パウロの息吹がまだしっかり残っている文章なのかもしれません。息吹つまり熱き思いが伝わってきます。
十戒にある「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。」というもともとの自分の信仰でもあり、イエスも律法を否定していないという十戒の大事な教えがおざなりにされていることに憤慨しているのが今日の箇所です。

長井牧師は今日の箇所を4点で考えられました。
1.信仰が厚いとはどういうことか?
2.神はどこに居て、どういう方か?
3.偶像を神とするとはどういう事か?
4.神は私たちに何を求めているか?
です。

それぞれに大事な話ですが、説教を聞きながら、ちょっと違うことを思ったので、そちらを書きたいと思います。ですので、説教の内容を聞かれたい方はいつでもお気軽に教会までお問い合わせください。DVDに録音したものがありますので、お貸しすることができると思います。

説教中に頭に浮かんだのは「唯一神」とは何か?と言うことです。
よく多くの人が勘違いしていると思いますが、自然信仰を多神教のように言われますが、それは正しくないように思います。唯一神でも、神作られた木々や草花、動物などを僕らは慈しみます。それは生きとし生けるものの命を大事にすることをキリスト教も言っているからです。神が作ら得たものと言う意味では一神教も多神教も同じです。尊い命がそこにはあります。違いは気も草も取りも人間も一神教では同じ神が作ったという点。
では何が違うか?と言えば、一神教は人間同士の結婚のようなものだと思うのです。
たくさんの神様はたくさんの異性(同性もあり)だと思ってください。素敵な人だと憧れることやお付き合いをすることもあるでしょうけれど、最後はこの人と生涯寄り添いたい、と言う人との結婚(これもひとつの形式概念ですが)するようなものでしょう。
この人に添い遂げるからこそ、ほかの神が不要なのです。

アテネ、つまりギリシアには、ギリシア神話の神々(多神教)があり、同時におおいに論議をすることを良しとする歴史があります。
でも知らない神にまで手を合わせる、つまりは連れ合いが居ながらほかの女性までにまぁとりあえず声をかける的な本当に大事なものとの区別ができないこと。言い方を変えれば自分の頭で考えることなく、よくわからないからとりあえず手を合わせておけばいいや、と言う意識になってはないでしょうか? そうだとしたら本物の神には失礼なことですし、いま日本の社会に蔓延している政治に関しても流されてしまう意識とあまりに似ている感がぬぐえません。
そして人が作った偶像の中に神を押し込める、というような、神と人との立ち位置の逆転をしないようにパウロは声高に注意したように思えます。

キリスト教と言う一神教は、他の宗教を否定する宗教団体ではありませんが、自分は連れ合いが居ればほかの異性に色目を使わない、そういう団体だと思ってくれればよろしいかと思うのです。神に対しても隣人に対してもそうした頑なな頑固な意識を持ちたいと思います。
日本においても戦国武将は「家系を守る」ために本妻以外側室を置く習慣がありましたが、それでも側室を頑なに阻み本妻だけを愛おしく睦まじく過ごした武将もいます。キリスト教と言うのはそんな信仰だと思うのです。
浮気をしない、そこに初めて信頼が生まれるものだと思います。
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