インフォメーション

【Take's PROFILE】

心豊かに、のんびりと・・・。という生活を望んでいます。
あんまり物に執着しないけれど、「形から入る」という矛盾を抱えて生きています。
クリスチャンですけれど、よく礼拝をさぼります。
モーターホーム(キャンピングカー)で遊びに行くことにはまっていますけれど、へたれで暑がり寒がりです。そしてものぐさです。
単細胞で、理不尽と感じると熱くのめり込んでしまいます。
やせすぎを笑われることこそありました(169cm48kg)が、現在は中年太り(同身長70kg)と生活習慣病イエローカード!!
乳がん10年寛解の妻と文字通り連れ合って、・・・ぃゃそんな彼女にずっと寄りかかって生活しています。


趣味の写真用のBlogを作りました。宜しかったらこちらにも行ってみてください。最近はタイトルを「17文字」で書くことにしています。俳句の域でないので俳句とは言いません(笑)
http://blog.goo.ne.jp/take1960_january/
mixiのIDは 775204 です。
Facebookは本名で検索できます。恐れ入りますが、友人申請はリアル友・知人の方のみ限定とさせてもらっています。1度どこかで飲んだらOKです(^^)/



【POLICY】

2つのボール競技を思い起こしてください。
キャッチボールは、相手が取りやすいところにボールを投げて「受けとって貰う」事を目的とします。
ドッジボールは、同じくボールを相手に投げるのですが、「取れずに落とす」事を目的とします。
会話も同じだと思います。意見が違う人と議論をすることは、僕はステキなことだと思いますが、そこには相手に自分の意見を受け取ってもらうように、真摯に丁寧・丁重に書くことが大切だと思います。まさに会話のキャッチボールだと思います。自分の主張ばかりやあげ足取りのドッジボールではいけません。
このBlog「LOGOS」は、Takeが管理人をしているSiteのひとつです。
「喜びを分かち合い、悲しいことを共有する」ために言葉があると思い、その言葉を使用して、そのコンセプトを実現しようと思っています。
分かち合うためにも、共有するためにも、お互い相手のことを思い、祈り、そして会話をすべきだと思います。
ですから、頂いたコメントはすべてありがたいのですが、その中で一方的に言い放った発言、相手のことを理解しようとしないで攻撃する発言、差別や蔑視的な表現、必要以上の個人情報の開示など、このようなものが含まれている場合は、管理人の権限で削除し、その削除に対しての説明を要しません。
ローカルルールをご了承ください。

テーマ : 日記というか、雑記というか…
ジャンル : 日記

グリーフサポート講演会

グリーフ(悲嘆)という感覚は当然知っておりましたが、言葉とかそうした学びの場があることは、昨日垣添先生のウォークを通して、先生の著書に出会わなければ存じ上げないものでした。
2冊の本を購入し読み進める中、自身か連れ合いに起こるその日、またその他によって生じるグリーフはもう目の前にある身近な問題。
いや認知症と呼ばれるものも、受診すると医者から大きなストレスの存在を指摘され、そのストレスこそグリーフであったりするわけですから、もっと早く僕らにも降りかかってくるかもしれないし、大事な友人たちの上に訪れるかもしれません。
そんなことを思い、少し学びたいな、と思っていたところにFBの友人がUPしてくれた講演会。
予約をしました(^^♪

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画像の上でクリックすると大きくなります。

2018年寿地区センター講演会 ~釜ヶ崎こども夜まわり30年の歩みから~

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(画像上クリックで大きくなります)

2017年猛夏釜ヶ崎の町を歩きました。心地よいのんびり感は行ったことのない東南アジアのそれを髣髴させるもので、こどもの里の子どもたちは愛らしく、街行くオッチャンは見ず知らずの僕にパチンコの出玉の様子をフレンドリーに教えてくれます。
釜の街中の山王こどもセンターのこども夜まわりは、残念ながら僕の行った週の翌週、ご一緒は叶わずその様子を見ることはできませんでした。
子どもの里がこども夜まわりにかかわったのは、ここに来る子が襲撃に関わったことによると聞いています。教えなかったので襲撃に加わってしまったのなら、それは大人に責任の多くがあるでしょう。そこから夜回りを体験し始めて、オッチャンの優しさに触れたと聞きました。

しかし、それは僕が少ない情報から得たすこしのデータ。もう少したくさんの釜のこと、そこに過ごす子どもたちのことを聞きたいものです。
お時間のある方はぜひご参加ください。
ご一緒できそうな方は、ひと声お声掛けくださるとうれしいです。

NOWHERE IN EUROPE

概念の中で一番もろいものはもしかしたら「幸福感」かもしれません。
幸せと信じて止まない人が、些細な他人の幸せを見て嫉妬すると、今までの自分の幸福感は崩れて「あー私は不幸だ」と思い込んでしまったりするのでしょう。

そもそも多くの人の「満足な幸せ」は、平均的な他人よりちょっぴりでも自分は上である、と思うことなのかもしれません。きつい言い方ですが、見下せる喜びが「満足な幸せ」を生み出すのかもしれません。
ですから、生活保護費で慎ましく生活している人はいいのですが、保護費でパチンコに行ったり(自分より)いい車に乗ってニコニコ顔でさっそうとドライブに出かける姿を見ると、見下したはずの彼らより自分が劣っているように思えて、「保護費の適正使用」を声高に訴えるのです。
今日日、保護費でパチンコをすることも、車の所有も全く法的に問題はなく、また人道的にも保護を利用しようが余暇を過ごすことは当然の権利であり、至極あたりまえの時間の使い方です。
腹を立てる方がお門違いなのです。
しかし、残念ながら人は寛容な度量よりももろい幸福感に生きる生き物かもしれません。
江戸時代以前からも、庶民の困窮のガス抜きのために差別階級と言う制度を生み出させ、困窮の農民も「満足な幸せ」を感じさせる政策がとられました。
それは日本だけではなく海外でも、さまざまな事由で差別を余儀なくされる人たちが存在しています。

ロマ(ジプシー)と言う括りでまとめられている偏見・蔑視された人たち。その人たちを撮影に行くと、松田町観光協会写真部の顧問の武智先生はフランスChinonに渡りました。
そしてその個展が、修善寺のドットツリーで本日20日まで開催されたので午後の時間を使っていってまいりました。

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誰もが当然の権利と主張で人間らしい生活をしたいと望んでいますし、住む場所、受ける権利、そして自由は平等にしてほしいと思っています。
しかしどうしても差別と言う概念は無くなりません。それは、誰かが這い上がれない人を哀れんで見ることで「満足感・幸福感」を得ているからでしょう。
その視線は、送る側より受ける側の方が敏感に感じられるものです。

僕も昨夏は大阪釜ヶ崎に行きました。「さとにきたらええやん」上映時のパネル展示にしようと写真を撮りましたが、オッチャン達と関係が構築できていない釜の中では、遠方からの望遠での半隠し撮りでした。
もちろんこのオッチャンなら大丈夫だろうと言う直感は、野宿者支援を四半世紀以上してきた感覚と、釜でも寿でも有名な支援者とも交流があるのでいざという時はその方々のお名前を拝借して誤解を解けれるだろうと言う気持ちもありました。でも、短い期間では会話の中で撮影することは叶いませんでした。

それが文化の違う、そして会話する原語の違うフランスでの撮影。どうだったのかな?と興味津々でしたが、お忙しくじっくりと撮影秘話をお聞きすることは叶いませんでした。

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でも帰り際車を走らせて思いました。たとえ、HowToを聞いたとしても、それを真似できるかい?
たぶん僕には無理でしょうね。
それができるのなら大阪でもオッチャン達と話しながらシャッター切れたはずです。
昔、郷里での産廃反対運動の最中、激化した折にF社と言う写真週刊誌の記者が現地を案内してくれと言われ、助手席に乗って現地を案内しました。相手敷地内には行って写真を撮っている最中に見つかり車で追いかけてきた際に、「大丈夫です。無視していれば諦めます」と平然と言ったのを聞いて、少なくとも僕には出来ない職種と思ったことも思い出しました。

分相応、と言う言葉も大切な言葉。でも、勇気を出して半歩でも前進できることも大切なことでしょう。
素敵な写真をどうもありがとうございました。写真家の先生に言うのは失礼ですが、でもやはりできればどこかで報告会で撮影秘話聞きたいです(笑)

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もう一つ「満足感・幸福感」は、己の社会の大きさです。
季節によって移動をする前提のモーターホーム。しかし泊まっていいのは有刺鉄線に囲まれたエリア。
北朝鮮による拉致被害者、もう自らは高齢になりきっと家族を持ち幸せに過ごしているでしょう。日本に住む僕らが、北朝鮮は貧しいから不幸だ、と言う定規で語るのは決して正しい事ではないと思います。
経済ではない、家族との語らいの時間に幸せを感じているのなら北朝鮮拉致被害者の方も今は幸せを見つけた「良い時間」かもしれません。
周りに住む人と同じくらいの生活レベル、苦しみも悲しみも共にして楽しみを笑顔で共にできる仲間がいれば、それは(他国を知らなければ)幸せだし、たとえ他国を知っても一時は経済的に裕福な国に羨望し憧れても、心の豊かさを感じられなければ幸せはしぼんでしまうかもしれません。
だから「大変だったね。お疲れさま、日本に来れば幸せになれるよ」は正しいとは限らないと思います。
ただ、国家として交渉として、『知る権利』『移動する自由』は確保しなければいけないと思います。大切なことは、日本に住む家族・親族や友人と会いたいと思っても会えないという国交がないゆえの移動の難しさです。
それは全く今日写真の中の有刺鉄線と言う『知る権利』『移動する自由』のない彼らにも同じものを見ました。

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僕らは短絡的に間違った解釈をしてしまうことが多分にあります。
「幸福感」が思い込みで崩れることもありますし、時の権力者が作為的に壊して差別・偏見を助長させることもあります。

カメラマンの方はもとより、僕のようなずぶの素人でも今のカメラはよく映ってくれます。映像と言葉、もし作為的に誰かを貶めようとするのなら十分に対抗できるギアで、その使い方を知ったものとして有効に活用をしたいものです。

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教会の設立

2018年5月20日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、使徒言行録 2章1-21節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。
人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。
しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。
『神は言われる。終わりの時に、 わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、 若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、 そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、 下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、 太陽は暗くなり、 月は血のように赤くなる。主の名を呼び求める者は皆、救われる。』



クリスマスやイースターと比べてマイナーな聖日のペンテコステ。これは、クリスマスとイースターがイエス=キリストの生涯に関わる聖日に比べて、ペンテコステはイエス―キリストと直接結びつきのない日だからなのかもしれません。
しかし考えてみると、宗教が宗教である所以は、神の存在、神の教え だけではなしえないでしょう。どんなに正しくとも、正しさが受け継がれなければ、消滅してしまいます。
生きるベースである信仰ほど重たくない物であっても、例えば着物の文化が薄れ、ちょん髷を結うのは関取ぐらいになった現在。継承者の大切は、傍から見るより大きな問題のような気がします。
日本工芸の技能者に入門するものが居なく、多くの日本文化があと数十年で消え去ります。優れたものでもなくなったら復活させるのは至難の業でしょう。

ペンテコステの話は、そういう側面で見れば奇跡物語です。
ローマ兵が怖いから、イエスの仲間と知られたから、逃げ隠れた弟子たちが、突然「そうです。私はイエスの弟子でした。」「イエスの言っていたことを守りなさい。」
と言い出し、そしてイエスよりむごい殺され方をしていった弟子たち。
何があったのでしょう?
その突然の勇気、気力、宣教の精神、それはどこから来たのか?と問われて、具体的に性格が180度変わった彼らの変質を説明できる人はいないでしょう。
それゆえ奇跡だと思います。
目に見えない聖霊の力なので、2000年前の彼らは風や炎で表現したのではないでしょうか?
その奇跡が実際どんな形状だったか?については僕はあまり興味はありません。感動を覚えるのは、それによってユダヤ民族でもなくイエスが死んでから1900年も経った今頃生まれた僕も、神は救ってくれる。その方法は、なんでもない漁民や(当時は差別を受けていた)医者らの勇気ある行動があったという事です。

清水牧師は語ります。
ペンテコステの起こった場所は、「皆が一つに集まっていた」のであり、これが起こった理由は「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」ためです。
何人であろうが、肌や目や髪の色が何色であろうが、どんな言葉をしゃべろうが、いつから神の名を呼び求めようが関係ないのです。そしてどういう神の名の呼び求めをしようがも記載がありません。多様なのです。
その多様性が教会です。教会はキリストの体なのです。


20180520-01

しかし、突然 Revenez à Dieu Wende dich zu Gott zurück 转回上帝 Turn back to God (神に立ち返れ)と僕が言ったら酔っぱらっているだろう? なんて言う人はいないでしょうね?
それだけ良いと言う行為に対する科学知識や異言と言う概念が2000年の間で変わったのでしょうね。

早川地区 紀伊神社と正蔵寺

5月19日に、小田原の石造物を調べる会の定例調査会がありました。

前回に引き続き、早川地区の紀伊神社に向かいます。
神社前には、市の指定文化財の道祖神があります。

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紀伊神社は、参道の真ん中をJRが通過しています。

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参道から石段を臨めば貨物列車が通り、鐘突堂に立てば横を列車が走り抜けます(笑)

大きな忠魂碑ほかの石造物を調査し、メンバーの疑問は、大量の玉垣が奉納された時期前後に何があったのか?という事。
丹那トンネル開通で、前述のJR線が境内の中を通過する補償費で玉垣などを奉納できたのか?
しかし、漁協組合のメンバーと言う書きかたもあるので、それは何かしらの漁業権の問題なのか?
もちろんバックボーンになる下調べもしてこない話ですので、推測の域は出ませんが、そんな自分の推理をおしゃべりし合うのもこのグループの魅力。

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調査を終え、隣接の正蔵寺に向かいます。すぐ隣に見えるものの一度道路に戻り、次の小路から丘を越えないとお寺にはたどり着けません。今日はこちらのお寺さんには事前にアポイントメントをとっていませんので、ご挨拶のみ。尼僧のご住職にご挨拶をすれば、君ヶ濱安右衛門と言う関取の顕彰碑があるとのことで、今日はそれだけを拝見させてもらいに行きます。
僕はその関取を存じ上げなかったですが、小田原の端々さまのBlogに載っていました。

古い石造物が豊富にあるお寺ですので、次回はじっくりと見させて頂きたいと思います。
ところで自宅に戻りGoogleMapで場所を調べると

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紀伊神社の南南西の方角に正蔵寺の文字。
しかしズームインしてみると

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正蔵寺の文字が2つ、JRの線路を挟んで左右に。
つまりはこのお寺さんは紀伊神社と同じ参道から左に折れてお寺の参道があり、本堂に向かうのですが、それがJRによって分断され、本堂へは違うルートでしか入れなくなったと推測されます。
次回はぜひともそこら辺の所も聞きたいものです。

ローカル路線バス乗り継ぎの旅 もやもや晴れました(^^♪

拙宅は、Jcomのケーブルテレビで、TVとインターネットをしていますが、3つ契約すると割引があり、以前はこれに固定電話(au)を追加していましたが、アパートに転居をきっかけに固定電話を持たなくなりました。
そこでもう1つを何にするか悩み、結局はオンデマンドギガパックにしました。
だいたいは連れが韓流ドラマを見ているのですが、昨晩は「ローカル路線バス乗り継ぎ人情ふれあい旅」の項目がトップ画面にあり、暑くて寝苦しいこともあって、深夜25時過ぎから見てしまいました。
ご存知の方も多い、太川陽介さんと蛭子能収さんがマドンナゲストと共に路線バスだけで目的地を目指すバラエティ番組です。
ゲストは、ぶりっ子と女性にはあまり人気のないさとう珠緒さん、僕は己の魅力の表現方法を知っている方なので大好きですけれどね(笑) 

2003年の8月、皆さん、若いです(笑)15回目のチャレンジとのこと。

いきなりの5kmのウォークや山形ー秋田県境越えの15kmのウォークなどかなり厳しくも、かつローカルゆえの本数の少なさに難儀をし、結局はたどり着けなかった…。
しかし、田沢湖から玉川温泉を経由して鹿角に出るコースは、湯治療養で何十回も車を走らせたので、光景が頭の中にインプットされています。懐かしいなぁ~、と、楽しませてもらいました。

失敗に終わったこのコース。でも、番組作成の企画段階で「成功」できるからこそ、3人にチャレンジさせたのでしょう、と思いながらも、本当に成功できるのか? は今日になっても、もやもやしています。
そこで、インターネットでくぐると、やっぱり同じもやもやさんがいたのですね。

テレビ東京「ローカル路線バス乗り継ぎの旅 第15弾 米沢~大間岬」の「正解」を探してみた。やっぱりありました。
鎌倉淳さまと言う方のBlogを見ると、矢立を経由する方法がありました。

前述の玉川湯治の際にも、往復路中を含めて1,2回はどこか観光に行っていたので、十和田湖も行きましたが確かに十和田湖は、ここと奥入瀬渓谷が終点。
幹線道は、鎌倉さまの言われるように、小坂町ー矢立ー黒石だったように思い出しました。
でも、なんで鹿角BTの方は教えてあげなかったのだろう? 鹿角から小坂方面は本数ありそうなのに…?

チャレンジャーと企画スタッフの知恵の絞りあいがこの番組を盛り上げていますが、無理なルート設定が多くなりましたよね。歩くのが番組の目的じゃないので、たとえ9分9厘成功し、今回は簡単だったね、でも道中のバス車中の触れ合いがあれば御の字だと思います。
とはいえ、懐かしい風景も堪能でき、そしてもやもやが晴れました。

アンニュイな午後

圃場にカルミアの花が咲いていました。よく見ると花の陰にはこれから咲かんとするつぼみも\(^o^)/
なんだか柄にもなくかわいらしい姿にシャッターを切りました。そんな風な気にさせたのは急に気温が上がり湿っぽい空気がながれて少しけだるい昼下がりだからでしょうか?

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こちらにも写真UPしました。

国府津は こ ̄うづ or こ\うづ

最初に誤っておきます。イントネーションに弱く、記号は間違っているかもしれません。もし違いがありましたらお教えください。

小田原駅から17時50分ころ上りの電車を待つと
快速アクティの男性のアナウンスは「次はこ\うづに止まります。」といい
そのほかのアナウンスは「こ ̄うづ」と言います。昨日も同じ列で待っていたOLさん2人連れが、「どっちが正しいの?」と話し合っていましたが、さてどっちが正しいのでしょかねぇ?
聞きなれているのは「こ ̄うづ」ですが・・・。

昔、国府津の語源は、千代廃寺が国府つまり国分寺跡だからと言われて、その港故に国府津と言われていました。
国(こく)は、こ ̄くですから、国府の港だったら「こ ̄うづ」で良いのでしょうけれど、最近は国府は民間人の郡家で、郡(こおり)の港から国府津になったという説が主流のようです。
郡と言う字で有名なのは、福島の郡山。「こ\おり」から来たのなら、国府津の発音は聞きなれない「こ\うづ」なのでしょうか?

いずれにしても放送によってイントネーションが違うのはいかがかな、と。
統一してくれるのを望みます。

イエスその御名は

2018年5月6日、松田聖契キリスト教会に与えられたみ言葉は、ヨハネの手紙Ⅰ 4章1-11節。表記のタイトルの説教を清水靖牧師より受けました。今回も礼拝で説教を聞いた内容を一信徒が思ったこと、話を咀嚼し想像したことを含めて綴ってみます。(なお、新改訳聖書を持ち合わせておりませんので、下記聖書箇所は新共同訳聖書に基づきます。また、公式のメッセージについてはこちらをご覧頂きたいと思います。)

神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。
愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。
「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。


不遜ながら『神』と言う言葉は手垢がついた言葉かもしれません。
(*手垢がついた:すでに多く使用され陳腐化しているさまなどを意味する表現。)
先週も記しましたが、どうしても擬人化した白髭で杖を持ったおじいさんのように、人間に神を似せて考えてしまう故に、矛盾する側面が生じてしまうと思うのです。
怪しく眉唾ものとして感じてしまい、宗教は胡散臭いと言われてしまうのだと思います。
人の延長では神をとらえることはできないと思うのです。だからあまり擬人化をしすぎる解釈は僕は好きじゃあないです(笑)

例えば今日の箇所も、神の霊を『考え』に置き換えると、僕らが日々すべての事をしていることにつながります。
何をするにも考えて判断をする、これはクリスチャンであろうがブッディストであろうが宗教を信じない人たちであろうがそうやって生きています。
命令形ロボットのようにすべての事を「ゴシュジンサマ、ナニヲシマスカ?」と尋ね、言われたことだけのみをする人はまずいないと思います。

考えて行動を起こす。
今日の箇所の最初は、神を知るために神(聖霊)と私たちは一体になると書かれています。自分で考えて行動を起こしているようですが、そうではなく、聖霊の働きが導いてくれていることは否めない、と言う考え方。これをクリスチャンは信じているわけです。
自分でしているようだけれど、神の導きがある。つまりは、行動のベースは自分ではない、謙虚になりなさい。
そして一つ一つの行動が、神の導きであるかどうか吟味しなさい=つまりは祈りなさい、というものです。

何か成功した、やったぁ!と喜ぶ時、何かしくじった、アーアと凹む時、すべてそこに神の意志が働いているのなら、その成功も失敗もすべて理由がある訳です。

連れ合いが15年ほど前にがんになりました。ご存知の通りがんと言う病は異形化して淘汰されなければいけない細胞が、間違って増え続ける病気です。ですからどんながんも最初は1個の細胞からなります。細胞分裂によって1個が2個に、2個が4個に、4個が8個になり、機械の分析や触手で解るようになるのは数年から5年経ってからです。
様々なきっかけがありますが、大きなストレスがあった、と言うのはがんになるファクターの中でも大きなものです。
がんになった時5年前を思い出すと、その時大きな生活の変化があったりしますが、それは前述の喜怒哀楽の時神の意志が働いていることを思い出す時、というのとリンクします。
その時理由は明確じゃないのかもしれません。
でもアクションがあった訳で、それを分析するのは、明日かも知れないし、数年先かも知れないし、死の床に臥せてからかもしれません。


神は最後に目に見えない自分を理解し愛するためには隣人を愛せよ、と言います。全ての行動は神の導きで行われていること。一つ一つに感謝の心をもって、そしてしくじった時でも、そのしくじりの悲しさ辛さを神が共に担ってくれることをも喜んで隣人と共に生きることができればと思います。
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